恋する乙女・5
深い暗闇の先、底知れぬ沈黙の淵に、一枚の鏡が佇んでいる。
どれほど目を凝らしても、その向こう側に広がる光景をはっきりとは視認できない。
水底から水面を見上げるかのように、ぼんやりと歪んで浮かび上がるのは、見慣れた古い木の香りが漂う校舎。
一階から二階へと続く、黒ずんだ木造の階段。
放課後の陽光すら届かない、しんと冷え切った薄暗い踊り場。
そこにぽつんと、取り残されたように置かれた大きな姿見。
――ただ、手を伸ばした。
暗闇の中から、輪郭の曖昧な手が、鏡の表面へ向かって縋るように伸ばされた。
あと少し。
あと僅か数センチで、向こう側の世界に指先が届くはずなのに。
どれだけ必死に歩を進めても、どれだけ指を限界まで伸ばしても、鏡との境界線までの距離は絶対に縮まらない。
まるで、こちら側の世界とあちら側の世界の間には、決して越えることの許されない巨大な断絶と、冷ややかな透明の壁が存在しているかのようだった。
それでも、伸ばした腕を下ろすことはできない。
どうして。
どうして、私の手はあちら側へ届かないの。
どうして私は――こんな暗闇の中で立ち尽くしているの。
その時だった。
鏡の硝子格子の向こう側に、一人の少女が現れた。
紺色の制服に身を包んだ、ごく普通の女子高生。
彼女は誰もいない踊り場の中央にすっと立ち、不安と期待に震える細い両手を、胸の前で固く組み合わせた。
そして、祈るように静かに目を閉じる。
何かを切実に願っている。
今まで何度も、何度も目にしてきた光景。
幾千、幾万の月夜を経て、幾度となく繰り返されてきた退屈で無情な光景。
少女の薄桃色の唇が、小さくゆっくりと動く。
「――好きな人と、結ばれますように」
その瞬間、鏡の深淵に潜む“誰か”の白い指先が、ぴくりと痙攣するように震えた。
まただ。
また、反吐が出るほど聞いた言葉。聞いた願い。
好きな人。
結ばれたい。
その甘く、何処までも無責任な言葉を、私はもう何度聴かされてきただろう。
あまりにも膨大な数に、もう数えることすら途中でやめてしまった。
いつから、私は他人のくだらない恋心を見つめ続けるだけの存在になったのだろう。
いつから、私はこの冷たく昏い場所で息を潜めているのだろう。
分からない。
思い出せない。
ワカラナイ。
ただ、気がつけば私はここにいた。
冷ややかな鏡の中。
光すら届かない、誰もいないはずの虚無の領域。
外の世界で誰かが無垢に願えば、その声に引かれて姿を現す。
誰かが恋心を抱いてここへ来れば、鏡の裏側からその滑稽な姿を見つめる。
誰かが願いの成就に胸を躍らせて喜べば、その眩しすぎる輝きが痛くて、目を逸らしたくなる。
誰かが失恋に涙を流せば、胸の奥底が狂おしいほどに激しく締めつけられる。
それでも、私はあちら側へ何も干渉できない。
声すら掛けることができない。
何一つ――掬い上げることなんて、できないのに。
鏡の向こうで、少女がそっと目を開く。
鏡面に映る自分自身の姿を見つめながら、恋する乙女特有の、恥ずかしげで幸福そうな笑みを浮かべた。
――その微笑みが、ひどく憎らしかった。
どうして。
どうして、あなた達はそんな幸せそうな顔ができるの。
どうして、そんなに簡単に他人に心を開いて、未来を願えるの。
どうして――。
私は、何一つ叶わなかったのに。
何もかもを失ったというのに。
胸の奥深く、澱んだ底から、どろりとした黒い塊が蠢き始める。
これは、あの人達への激しい恨みなのだろうか。
二度と戻らない過去への、哀しい絶望なのだろうか。
それとも、永遠の孤独に対する狂おしい寂しさなのだろうか。
もう、自分自身の感情すら正しく判別できない。
ただ。
ただ、狂おしいほどに羨ましかった。
誰かを純粋に好きになれるということが。
好きだと、自分の声で相手に伝えられるということが。
その大好きな人と肩を並べ、一緒に生きていく未来を夢見ることができるということが。
――私だって。
ただ、あの人を純粋に好きだっただけなのに。
それだけだったのに。それ以上の欲望なんて、何も持っていなかったのに。
どうして。
どうして、あんな酷い言葉を投げつけられなければならなかったの。
どうして、あんな蔑むような冷たい目で見られなければならなかったの。
どうして――あんな死に方をしなければならなかったの。
ふと気づけば、鏡の向こうにいた少女の姿は消え去っていた。
あとに残されたのは、耳が痛くなるほどの静寂だけ。
鏡の中に虚しく映り込んでいるのは、誰もいない夕暮れ時の静まり返った踊り場。
けれど、鏡の奥深く、光の届かない闇の中には、今もまだ“誰か”が確かに蠢いている。
伸ばした指先は、永遠に境界線を越えられない。
それでも、この呪われた場所から離れ去ることすら許されない。
何度も。
何度も。
無知な誰かの、身勝手な愛の願いを聴く。
何度も。
何度も。
奪い去るための恋を見届ける。
そして、その痛みが走るたびに、鮮明に思い出してしまうのだ。
――あの最悪の日の出来事を。
あの日、この階段の踊り場で私が最後に目にした、地獄のような光景を。
冷たい床に広がる、血に濡れた自分自身の醜い姿。
事切れ、倒れ伏した私の身体。
そのすぐ傍らで、頭を抱えて激しく蹲っていた、愛しいあの人。
そして――血の海に倒れる私を映し出していた、この姿見に刻まれた、自分の絶望に歪んだ顔。
あの最期の瞬間に、私が思ったこと。
胸を切り裂かれるような思いで遺した言葉は、たった一つだけ。
たった、それだけだった。
――ただ、好きだっただけなのに。
胸の奥で、魂の輪郭がギチギチと音を立てて軋む。
息ができないほど苦しい。
凍えるほど寂しい。
痛いほど悲しい。
なのに――どうしてこんなにも、生きている彼女達が憎いのだろう。
どうして、誰かの当たり前の幸せを、素直に祝福してあげられないのだろう。
どうして――私は、永遠にここから出られないのだろう。
分からない。
わからない。
ワカラナイ。
ただ、ただワタシは――。
『―――しい、う⋯ら⋯し』
誰かを好きになれる、貴方達が。
好きな人と結ばれたいと笑って願える、光の中にいる貴方達が。
だから。
だから私は、今日もこの闇の底で待っている。
愚かな誰かが、階段を上ってくるのを。
愛に飢えた誰かが、私に向かって願いを捧げるのを。
そして――その身勝手な情念が、私をこの虚無から引き摺り出してくれるのを。
嗚呼、羨ましい。うらやましい。
嗚呼、恨めしい。うらめしい。
暗闇の中で、古い姿見だけが冷たく静かに佇んでいた。
その滑らかな表面に、誰もいないはずの踊り場が、血のように赤い夕露を浴びて映し出されている。
午後十七時。
校舎の何処かで、古びた時計の長針と短針が、重重しい音を立てて重なった。
❁
目覚まし時計が鳴らす金属質の電子音が、容赦なく夢月の意識を現実へと引き戻した。
夢月はしばらくの間、天井の木目を凝視したまま、金縛りにでも遭ったかのように身動き一つ取れずにいた。
レースカーテンの隙間から細く差し込む、白みがかった朝の光。
遠くの幹線道路から途切れ途切れに聞こえてくる、日常的な車の走行音。
何も変わっていない。
昨日と寸分違わぬ、いつもの穏やかな朝だった。
なのに、胸の奥底だけが、鉛でも流し込まれたかのように冷たく、ひどく重苦しかった。
「……」
夢月はゆっくりと上半身を起こす。掛け布団を滑り落ちる感覚すら気味が悪い。
瞼を閉じれば、昨日のあの恐ろしい光景が、驚くほどの鮮明さで脳裏へ蘇ってきた。
静まり返った古い木造校舎。
一階から二階へ続く、黒ずんだ階段。
その薄暗い踊り場に、ポツンと取り残されたように置かれた一枚の大きな姿見。
そして、その鏡の前で祈るように立っていた美咲。彼女が何かを囁き、震える指先で鏡面に触れた瞬間――。
――消えた。
水滴が乾くように、影が霧散するように。まるで、最初からそこには誰も存在していなかったかのように。
「……夢じゃ、ない」
小さく擦れた声で呟く。
昨日、自分は確かに見てしまったのだ。自分の目の前で、生きた一人の少女が現実から消失する不可解な瞬間を。
あまりにも現実離れした出来事だったからこそ、一晩眠って目を覚ませば、何もかもがタチの悪い悪夢だったと思えるのではないかと、心の何処かで縋るように期待していた。
けれど、目を覚ましても、胸を締め付ける恐怖は消えてはくれなかった。むしろ、何気ない日常の動作の一つ一つに、昨日の異様な恐怖がねっとりと纏わり付いてくる。
それらを誤魔化すように制服のブラウスに袖を通す。
使い古した通学鞄を持つ。
重い玄関のドアを開けて外に出る。
見慣れた通学路を歩く。
いつもの交差点を渡り、いつものコンビニの前を通り過ぎる。
何ひとつ変わらない。世界はいつも通りに回っている。
だからこそ、狂おしいほどに怖かった。
学校へ到着すると、昇降口や廊下には、いつものように生徒達が行き交っていた。
「おはよー! 今日のテスト勉強やった?」
「無理無理、昨日遅くまで動画見てて爆睡した」
「ねえ、今日の体育ってグラウンドだっけ?」
甲高い笑い声。無邪気な話し声。廊下を走る荒い足音。遠くで教師を呼ぶ声。
何処にでもある、ごくありふれた高校の朝の風景。
夢月もまた、自分の動悸を必死に押し殺し、何食わぬ顔を装って教室の扉を開けた。
「おはよ、夢ちゃん」
「……おはよう、華夏」
「ん? なんか顔色悪いよ。眠そうだね」
「あ……うん、ちょっと寝不足なだけ」
「珍しいね。昨日遅くまで何してたの?」
「……ちょっと、考え事してて」
「ふーん?」
華夏が不思議そうに首を傾げる。
夢月は顔の引き攣りを隠すように、ぎこちなく笑ってみせた。
言えるわけがない。
昨日、後輩が自分の目の前で姿見の中に消えたことなど。しかも、その原因が学校の古い姿見に憑依した「怪異」の仕業かもしれない。
そんな頭の狂った都市伝説のような話を、至って健全な女子高生である華夏に打ち明けられるはずがなかった。
オカルト話が好きな華夏であっても、流石にここまで現実離れした話であれば疑ってくるかもしれない。
少しでもそんな恐れがある状態で、彼女に話す気になど到底湧き上がらなかった。
夢月は自分の席へ座り、鞄を机の横のフックへ掛ける。
周囲では、いつものようにクラスメイト達がくだらない話に花を咲かせていた。
誰かが昨日見たテレビ番組のコントについて熱弁し、誰かが提出物の宿題を忘れたと大騒ぎし、誰かが昼休みに購買の限定パンを買おうと誘い合っている。
昨日と何も変わらない。――自分以外の全てが。
「……」
夢月は机の上にぼんやりと視線を落とした。すると、不意に木目の上に置いたスマートフォンへ目が向く。
何となく画面を点灯させる。
メッセージアプリ。SNSのタイムライン。
変わった通知は何一つ入っていない。
そのまま画面を閉じようとして――夢月の指先がぴたりと止まった。
脳裏に浮かんだのは、美咲のあの切ない顔だった。
夢幻喫茶で初めて言葉を交わした後輩。
恋占いについて、頬を染めながら嬉しそうに話していた少女。
想いを寄せる相手と結ばれたい。そんな純粋な願いを、何の疑いもなく信じ切っていた彼女。
そして――あの静まり返った姿見の前で、その願いを口にした。
(何処に行っちゃったのかな⋯⋯)
夢月は逃げるようにスマートフォンを伏せた。
考えたくない。今は余計なことを考えたくない。そう強く思えば思うほど、意識は昨日の暗い踊り場へと引き戻されていく。
それを遮るように教室にはチャイムが鳴り響き、ホームルームの開始を告げた。
担任の教師がガラガラと扉を開けて教室へ入ってくる。
「はい、全員席に着けー」
生徒達が慌ただしく自分の席へ戻っていく。
夢月も前を向いた。
機械的な出席確認。連絡事項の伝達。提出物の回収。
いつもの退屈な流れが今日も繰り返される。
そんな流れに身を任せながらも、夢月は、昨日の出来事を学校の誰一人として知らされていないという不気味な現実を、改めて思い知らされていた。
美咲が今、どうなってしまったのか。
誰も知らない。誰も気づいていない。少なくとも、この教室で笑っている誰一人として。
もしかしたら、周囲は彼女が今頃自分の教室で普通に授業を受けていると思い込んでいるのかもしれない。あるいは、怪異の力によって「美咲」という存在そのものの記憶が書き換えられ始めてでもいるのだろうか。
そう考えた瞬間、胸の奥が冷たくざわついた。
(……違う)
美咲は、いない。
夢月だけは知っている。昨日、確かにあの子は消失したのだ。
けれど、それを証明できる客観的な証拠は何一つとして存在しない。
先生に打ち明けたところで、「寝言は寝て言え」と取り合ってもらえないだろう。
警察に駆け込んだところで、狂人扱いされるのが目に見えている。
そもそも、どう説明するというのだ。
『本館の踊り場で、後輩が姿見に願掛けをしたら鏡の中に消えました』
そんな異界の物語を。
「……はぁ」
夢月は小さく、深く呼吸を吐き出した。
やがて一時間目の授業が始まる。
黒板に白チョークが滑るカツカツという乾いた音。
教科書を繰るかさ張った音。
窓の外からは、グラウンドで体育をしている運動部の威勢の良い掛け声が聞こえてくる。
何処までも平和だった。
気味が悪いほどに平和すぎる。
その無神経な平穏さが、かえって夢月の神経を苛立たせ、気味悪く思えた。
夢月はノートに文字を走らせながら、ふと窓の外へ視線を向ける。
校舎の向こう。少し離れた敷地の奥に、老朽化した本館の赤黒い屋根が見えている。
あの古い木造校舎。
昨日、自分が恐怖に震えながら立っていた場所。
そして――美咲が姿見の奥へと引き摺り込まれた場所。
夢月は弾かれたように視線をノートに戻した。
考えるな。今は授業中だ。そう自分に言い聞かせる。けれど、一度背筋にこびり付いた恐怖の冷気は、どうしても拭い去ることができなかった。
❁
「夢ちゃん、お昼どうする?」
「あ……まだ決めてない」
「じゃあ一緒に購買行こ! 今日の限定焼きそばパン勝ち取ろうよ」
「うん、そうだね」
華夏と他愛もない会話を交わしながら、混雑する廊下を歩く。
途中、一年代の後輩らしい生徒達と幾度かすれ違った。
「失礼します」
「こんにちはー!」
一年生特有の新しい制服のリボン。見慣れた校章。明るい笑い声。何処にでもいる、普通の後輩達。
その群れの中に、美咲の姿はない。
分かっている。分かっているのに。
美咲と似たボブヘアの女子生徒が視界の端を掠めるだけで、夢月の心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。
「……っ」
夢月は思わず足を止め、振り返る。けれど、そこにいたのは見知らぬ別の一年生だった。
「夢ちゃん?」
「……ごめん。何でもない」
「ねえ、さっきから本当に変だよ?」
「そうかな」
「うん。なんか心ここにあらずって感じ。ぼーっとしてる」
華夏に真顔で覗き込まれ、夢月は情けない苦笑を浮かべた。
「ちょっと寝不足が響いてるみたいで」
「またそれ? ちゃんと夜寝なよー」
「うん、本当にそれだけだから」
嘘。自分でも呆れるほどの見苦しい嘘。けれど、これ以上の本当の理由を口にすることなんてできるはずがなかった。
購買でパンを買い、教室で華夏と机を突き合わせて弁当を食べる。
昨日見たバラエティ番組の話。
来週の小テストの範囲の話。
理科の先生の独特な癖の愚痴。
今週末の買い物の予定。
そんな他愛もない会話をしている内に、夢月も自然と口元を緩めていた。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、昨日の恐ろしい出来事を忘れかけることができた。
「そういえばさ」
けれど、教室の中にいる誰かが、紙パックのジュースを飲みながら何気なく口を開いた。
「最近、本館の二階に続く階段って立入禁止になったじゃん?」
「……っ」
夢月のパンを口に運ぶ手が、ピタリと空間で止まった。
「あ、昨日からだっけ?」
「そうそう。なんか床が腐ってて壊れてるとか何とか」
「へー、古い校舎だからね。ついにガタが来たか」
「でもあそこ、先週まで普通に通れてたよね?」
「確かに。急に塞がれたよね」
なんてことのない、日常の会話。
誰も深追いしない、ただの学校の設備不良についての雑談。
それなのに、夢月の背中を一筋の冷や汗がすっと伝い落ちた。
「別のクラスの友達が見に行ったみたいなんだけどさ⋯⋯」
その時、また別の生徒の声が夢月の耳に飛び込んでくる。
向かいの席で自身の持ち前のオカルト話に花を咲かせている華夏を放って、夢月は話が聞こえる教室の中央へと視線を向ける。
机をそれぞれ向かい合わせて騒がしく話している四人組がいた。
「あそこって一階から二階に登るまでの踊り場に姿見があるじゃん」
「あのいつからあるか分からない薄汚れた鏡?」
「そうそう! その友達が放課後に見に行くとさ、元々あったヒビがもっと広がってたんだって」
「何それ。誰かが悪戯で割ったってこと? それとも老朽化?」
「立入禁止になったのって、その鏡が割れたからだったりしてー」
こわーい。
なんて一言でその会話を切り上げた彼女達は、すぐに別の芸能ニュースの話題へと移っていった。
けれど、夢月はもう、食事どころではなくなっていた。
昨日、美咲があの場所で姿見の中に消えた。
そして、本館の二階へ続く階段は、公式に「立入禁止」として封鎖された。
単なる偶然だろうか。
学校側が老朽化に気づいて封鎖しただけなのだろうか。
そう思いたい。ただの事故だと思いたい。けれど――夢幻喫茶で聞いた珠吉の鋭い声が、脳裏に強くリフレインする。
『お前達現代の人間は、確証のないものを安易に信じ込むことの危険さを知らなさすぎる』
神楽の、透き通るような冷徹な言葉も。
『人の『想い』というものはね、良くも悪くも強烈な力を持つんだよ』
夢月は手にしていた箸を静かに置いた。
そして、スカートの上の膝の上で、爪が食い込むほど強く両手を握り締めた。
(行くって決めたんだから⋯⋯ここで逃げるわけにはいかない)
放課後。十七時。
あの不気味な姿見の前へ行く。そして――自分からあの鏡に向かって願うのだ。
――好きな人と、結ばれたい。
と。
それが、あの姿見の奥に潜む怪異を誘き出すための、唯一の鍵なのだから。
❁
午後の授業も、無情なほど平穏に過ぎ去っていった。
五限目。選択科目の授業のために、別棟の美術室へ移動する。廊下へ出ると、人込みの後ろから聞き覚えのある声が掛かった。
「如月さーん」
「八雲、君⋯⋯」
選択授業が同じだった――ただそれだけの理由で関わるようになった八雲。
そもそもこの授業で重ならなければ、言葉を交わすことすらなかったはずだ。仮に同じ空間にいたとしても、周りに他の友人がいれば、彼がわざわざ自分の隣に来ることもなかっただろう。
自分が大して望んでもいない関係を当たり前に手にしている一方で、あの子はいくら望んでも話しかけることすらできない。
その不条理に勝手な罪悪感を抱き、あの子を哀れむ自分自身が何よりも最悪で、却って彼女を傷つけているのだと、夢月は彼の笑顔を見るたびに痛いほど思い知らされた。
「なーんで先に行っちゃうんすかぁ」
「あ、ああ⋯ごめんね」
二人で並んで静かな廊下を歩く。
課題の進捗の話。頑固な担当教師の話。昨日の宿題の難しさ。何の変哲もない、高校生同士の穏やかな会話。夢月は時折引き攣りそうにるな表情を隠しながら、必死に相槌を打っていた。
――普通だった。
何処からどう見ても、目の前の八雲は何処にでもいる優しいクラスメイトだった。
だからこそ、その眩しい普通さの中に、美咲が彼に抱いていた「狂おしいほどの恋心」と、昨日の「異様な消失」が混ざり込んでいることが、堪らなく恐ろしかった。
教室へ向かう途中、本館の接続廊下の近くを通る。
古い木の匂い。足元で微かに軋む床の音。新校舎のコンクリートとは違う、どこか湿り気を帯びた薄暗い空気。
夢月の視線が、吸い寄せられるように本館の階段へと向けられた。
黄色と黒の警戒テープ。立入禁止のコーン。
その奥に広がる、薄暗い二階への階段。そして、その先に待っている――あの姿見。
夢月は咄嗟に視線を逸らした。
八雲は何も気づいていない様子で、歩みを進めている。
「どうかしました? 如月さん」
「……え? あ、ううん。何でもないよ」
「そうっすか? なんか顔色悪いけど」
「本当になんでもないから、行こ」
再び歩き出したその瞬間、自分の背中に、ゾクリとするような嫌な粘つきを帯びた「視線」を感じた。
けれど、絶対に振り返ってはならない。
振り返ったところで、そこには誰もいないはずだ。そう分かっている。
なのに――ほんの一瞬だけ、自分の背後の空気だけが、氷を押し当てられたように冷たく凝固した気がした。
❁
六限目の授業が終わり、終業を告げる長いチャイムが校内に響き渡った。
「よっしゃー! 終わったー!」
「今日部活ある?」
「購買でジュース買って帰ろうぜ!」
教室が一気に騒がしい活気に包まれる。
いつもの放課後。いつもの下校風景。
誰も知らない。これから自分が、何をしようとしているのか。どんな恐ろしい怪異の前に立ち行こうとしているのか。
夢月は静かに鞄を持ち上げた時、華夏が先に教室の扉を開けていた。
「夢ちゃん、私先に帰るね! また明日!」
「……うん。また明日ね」
笑って手を振ると、彼女もまた手を振って廊下の先に消えていく。
その「また明日」という何気ない一言が、妙に胸の奥深くに重く引っ掛かった。
明日も、自分はこうして笑って学校へ来られるのだろうか。
そんな馬鹿げた、けれど切実な不安が頭を過った。
「はぁ⋯⋯」
夢月は強く首を振り、余計な思考を振り払う。
何を弱気になっているんだ。
自分はただの「囮」だ。
怪異を誘き出して、美咲を救い出す手がかりを掴む。それだけだ。
鏡の影には、神楽も、珠吉も、マスターもついていてくれる。何かあっても、絶対に助けてくれる。
だから大丈夫。
きっと――大丈夫。
そう自分自身に何度も言い聞かせながら、夢月は教室を後にした。
昇降口へと向かって賑やかに流れていく生徒達の波とは逆方向、静まり返った古い本館へと足を進める。
窓の外は、刻一刻と茜色から濃い紫色の夕暮れへと染まり始めていた。
スマホのロック画面に視線を落とす。
十六時五十二分。
約束の十七時まで、あと八分。
夢月は本館の入り口で足を止めた。
胸に手を当てると、衣類越しにも分かるほど心臓が脈打ち、嫌になるほど大きな音を立てていた。
「ふぅ⋯⋯すぅ⋯⋯」
怖い。逃げ出したい。今すぐ鞄を投げ出して家へ帰りたい。
今ならまだ間に合う。何も知らない普通の女子高生のフリをして、温かい我が家へ帰ることだってできるのだ。
けれど、脳裏に美咲の顔が鮮明に浮かび上がった。
ただ切実に惹かれた相手に想いを寄せる純粋な笑顔。
恋占いについて楽しそうに語っていた可愛らしい声。
そして――あの鏡の前で姿を消した、最後の絶望的な瞬間。
「……待っててね、美咲ちゃん」
誰に聞こえるでもなく、夢月は静かに呟いた。
それが異界に囚われた美咲に届くはずもない。
それでも、震える己の足を一歩前へ進ませるには、そう口にするしかなかったのだ。
デジタル時計の数字のカウントが、無情に進む。
十六時五十九分。
夢月は、立入禁止の黄色いテープとコーンの前に立った。そして、その先にある薄暗い階段を見上げる。
二階。
そして、踊り場。
そこに佇む、あの姿見。
夢月は一度だけ固く目を閉じた。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
そして――。
十七時ちょうど。
夢月は周囲に誰もいないことを鋭い視線で確認すると、意を決して、立入禁止の警戒テープの下を潜り抜け、二階へと続く古い木造階段へ足を踏み入れた。




