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おいでませ夢幻喫茶へ  作者: 榊原蓮華草
不思議な店と、奇妙な噂
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恋する乙女・4





 静寂に包まれていた「夢幻喫茶」の重厚なアンティーク調の木製扉が、静寂を切り裂くような激しい音を立てて勢いよく開かれた。


「マスター……っ! 」


 バンッ、と真鍮のドアノブを掴んだまま扉を開け放ち、夢月は肩を激しく上下させ、息を荒らげながら店内へと崩れ込むように駆け込んだ。

 いつもなら扉の上で澄んだ綺麗な音色を奏でるはずの真鍮のドアベルの音すら、今の夢月の耳には何も届いていない。視界が恐怖と焦燥で白く明滅していた。

 カウンターの中にいたマスターが驚いたように目を丸くして手元を止め、注ぎかけていた珈琲のドリップの手を静かに止める。その傍らで丸くなっていた黒猫の珠吉もまた、毛繕いをしていた前足をぴたりと止めた。


『……なんだなんだ、騒々しいぞ小娘。静けさを愛でる喫茶店で何事だ。ここを何処だと思っている』

「美咲ちゃんが……っ!  美咲ちゃんが……!」


 荒い呼吸の合間から夢月の口を通じて飛び出したその名前に、珠吉の三角の耳がぴくりと警戒で揺れた。黄金色の瞳に、瞬時に鋭い光が宿る。

 それまでカウンターの最奥で気怠げに琥珀色の紅茶の湯気を眺めていた神楽も、手にしていた薄手の陶器カップを静かにソーサーへと戻した。カチャリ、と硬く澄んだ音が静まり返った店内に響き渡る。


「夢月、まずは落ち着きなさい。……一体、何があったんだい?  額に酷い汗をかいているよ」

「美咲ちゃんが……っ、消えたんです……!  私の……目と鼻の先で……っ!!」

「消えた……?」


 神楽の何処か世事を達観していた美麗な表情から、一瞬にして余裕の笑みが削ぎ落とされた。細い眉が訝しげに寄る。

 夢月は荒い息を整えようと自分の胸元を強く押さえながら、今日学校の放課後に起きたあまりにも異常な出来事を、言葉を詰まらせ、喉を震わせながら必死に吐き出した。


 放課後、友人の華夏から本館の二階へと続く古い木造階段が突如「立入禁止」の黄調テープで封鎖されたと聞いたこと。

 胸を刺すような強い嫌な予感に苛まれ、引き止める声を振り切って本館へ向かったこと。

 警戒テープのさらに奥、陽の届かない薄暗い踊り場に、後輩の美咲がぽつんと力無く立っていたこと。

 そして――。


「美咲ちゃんが、あの不気味な姿見の前で……何かを呪文みたいに低く呟いていたんです。その後……指先が鏡面に触れた瞬間、本当に……何の前触れもなく、影みたいに……消えちゃったんです……っ!」


 最後の言葉を語り終えた瞬間、夢幻喫茶の店内に鉛のように重苦しい沈黙がドッと降り積もった。

 誰もすぐには言葉を返さない。壁に掛けられた古時計のチクタクというネジの音だけが、無慈悲に響く。

 夢月自身、目の前で起きた恐ろしい超常の事態を改めて自分の言葉として言語化したことで、背筋を凍りつくような冷たい手が這い上がってくる感覚に襲われ、制服の肩を大きく震わせていた。


『……その姿見の前で、後輩の小娘は何と言っていた?  拾えた言葉はひとつもないのか』


 カウンターの上から、珠吉が低い声で問いかける。黒い毛並みを僅かに逆立て、黄金色の瞳を怪しく光らせていた。


「分からない……距離もあったし、声が小さくて……それに、何か怨念みたいなボソボソした響きでよく聞こえなかった……。でも……っ!」


 夢月は制服のスカートの生地を、指先が白く変色するほどぎゅっと強く握り締めた。


「昨日、美咲ちゃんが言ってたんです。『今度また、あの踊り場へ行ってお願いを叶えてもらう』って……!  あの時は単なる噂だと思ってたけど、あの子は本気で……!」

『なるほどな』


 珠吉が長い黒い尻尾をゆったりと不穏に揺らしながら、鋭い目を細める。


『昨日あの小娘から漂っていた、あの生臭く湿り気のある薄気味悪い匂い……嫌な予感はしていたが、どうやら我の嫌な勘があたりを引いてしまったらしい』

「やっぱり……あの姿見には何か、人を喰うような怪異が憑いているの……!?」


 夢月が縋るような瞳で問いかけると、珠吉はすぐには答えず、ただ気まずそうにひげをぴくつかせた。

 代わりに、神楽が細い肘をカウンターにつき、静かに口を開く。


「少なくとも、ただの女子高生が他愛もなく囁き合うような無害な噂話や、都市伝説の類ではないだろうね」

「……どうしてそんなことが言えるんですか?」

「君が実際に『人間が現実の空間から消失する瞬間』を、その目で直接目撃してしまったからさ」


 神楽は美しく整った長指でカップの縁をゆったりとなぞりながら、淡々と、けれど氷のように冷徹に分析を続ける。


「単に『好きな人と結ばれる』という甘い噂を広めて人間を呼び出すだけなら、誰かが鏡の前で祈りを捧げたところで、その人間そのものを空間ごと奪い去る必要はない。だが……もしあの姿見、あるいは鏡の『向こう側』に潜む何らかの意思を持った妖や怪異が、人間の情念を食糧としているのだとしたら――」

「噂を信じてやってきた生徒の……『願い』を叶える代償として、何処かへ連れ去っている……?」

「その可能性は極めて高いね。鏡の向こうは、怪異の領域――いわゆる『隠り世』や『異界』と繋がりやすい」


 神楽の断定的な言葉に、夢月の顔から瞬時に血の気が引き、唇が引き攣った。

 美咲は、一途に八雲への初々しい恋心を抱いていた。八雲と結ばれたい、彼の特別な存在になりたいと、それだけを純粋に願っていたのだ。

 だからこそ、心の隙間を突かれ、藁にも縋る思いであの呪われた踊り場へと足を運んでしまった。


「じゃあ……美咲ちゃんを助けるには、どうしたらいいの……!? 今すぐ助けに行かないと、あの子があの暗いところでどうなっちゃうか分からないよ……!」

『そう焦るな小娘。助けると言っても、まずは相手の正体と、奴が潜んでいる『領域』の法則を見極めねば話にならん。闇雲に突っ込めば、二人まとめて喰われて終わりだ』

「でも、どうやってその正体を突き止めるの!?  時間がないのに!」

『それが容易に分からんから、こうして皆で知恵を絞っておるのだろうが!』

「…………っ」


 珠吉に身も蓋もなく即答され、夢月は悔しさと強烈な焦燥感で言葉を失い、ぎゅっと口を噤んだ。

 カウンターの奥では、マスターも深く考え込むように瞼を閉じている。

 誰も決定的な解決策を持っていない。その残酷な現実が、一刻を争う夢月の胸を狂おしいほどに焦々と焼き尽くしていく。

 美咲が今、何処でどんな恐ろしい恐怖に晒されているのかも分からない。

 あの不気味な姿見の正体が何なのかも分からない。

 ただ無情にも、放課後の刻一刻と陽が落ちていく夕暮れの時間が過ぎ去っていく。


「……待って」


 ふと、夢月が伏せていた顔を上げた。その瞳の奥に、小さく揺らぐ揺るぎない決意の火が宿る。


「あの姿見って……『好きな人と結ばれたい』っていう願掛けの言葉を正しく伝えないと、現れないんだよね?」

「噂の通りなら、そうなるね。怪異とは往々にして、特定の『儀式』や『条件』をきっかけにしてしかその姿を現さないものだ」


 顎に手を当てて真剣な顔つきで神楽は言う。

 そんな彼を見ていた夢月は、頭の中で考えを巡らせた。


「だったら――」


 夢月は一度だけ痛むほど強く下唇を噛み締め、それから覚悟を込めて言葉を吐き出した。


「私があの鏡の前で、美咲ちゃんと同じように願いを捧げればいいんじゃない?」

『……ぬ?』


 その瞬間――それまで不機嫌そうに伏せられていた珠吉の頭上で、黒く柔らかな毛に覆われた二つの三角耳がピンと直立した。


「美咲ちゃんが姿見の前で『好きな人と結ばれますように』って願ったから、鏡の向こうの妖が出てきてあの子を連れ去ったんでしょう? だったら、私が全く同じ手順を踏めば、あの怪異は私という新しい獲物を連れ去るために、もう一度私の前へ現れるはず!」


 それまで悠然と脚を組み、静観を決め込んでいた神楽の目が、愉悦を含んだ光を宿しながら、すっと細く研ぎ澄まされた。


「なるほど。つまり……夢月自身が危険な『囮』になって、奴を引き摺り出すということかい?」

「うん」

「危険すぎます、夢月さん」


 いつになく低く重い、マスターの制止する声がカウンター越しに響いた。マスターの穏やかな表情が、珍しく厳しく強張っている。

 けれど夢月は、力強く首を横に振った。


「分かってます……!  危険なのも、何が起きるか分からないのも痛いほど分かってます!  でも……他にあの異界へ繋がる方法がないなら、やるしかないよ!」


 夢月の脳裏に、あの気弱で愛らしい後輩の姿が鮮明に鮮やかに浮かび上がる。

 緊張で震えていた細い指先。

 八雲の話をする時に、ぽっと真っ赤になっていた可憐な頬。

 使い古された消しゴムの側面に、祈るように小さな文字で刻まれていた二人分の名前。

 そして何より、あの姿見の前で一瞬にして掻き消えた恐怖の瞬間。


「美咲ちゃんは……最後に『夢月先輩も来てください』って言ったんです。私を待ってるって、確かに言ったんです!」


 夢月は胸の前で静かに、けれど絶対に折れない固い拳を握り締めた。


「だったら、私が行かなきゃ駄目なんです。今度は私が……恐怖から逃げずに、あの子を連れ戻しに行く!」


 店内に、重く静かな沈黙が流れた。

 やがて神楽が、ふっと薄い唇を緩めて小さく溜息を吐き出す。


「……うん。突飛で命知らずだが、筋は通っているね」

『おい!  貴様までこの小娘の狂言に乗る気か!? 相手がどんな危険な妖かも分からんのだぞ!』

「反対したところで、この頑固な夢月が大人しく家に帰るとでも思うかい?」

『ぐっ……それは……』


 珠吉がぐうの音も出ず、言葉を詰まらせた。完全に図星だった。


「問題は――どうやって『好きな人と結ばれたい』という嘘の恋の願いを組み立てるかだね」

「そこなんだよね……」


 夢月は胸の前で腕を組み、うーんと眉間にシワを寄せた。

 好きな人。

 そんな甘酸っぱい存在など、今の夢月には逆立ちしても存在しないのだ。

 恋愛感情に疎く、恋人がいたことなどこれまでの人生で一度たりともない。


「……じゃあ、誰かを『好きなフリ』をして、形だけ恋焦がれるような祈りを捧げればいいんじゃない?」


 何気なく思いついた回避策を口にした、次の瞬間。

 店内の空気が一瞬にして凍りつき、完全な静寂が落ちた。


「…………」

『…………』

「…………」


 夢幻喫茶の中にいる全員の視線が、まるで言葉の通じない可哀想な生き物を見るかのように、夢月へと一斉に集まる。


「え、何?  なんでそんな哀れむような目で見んの?」

『お前……本気で言っているのか?  妖という存在を相手に、上辺だけの『演技』で騙し通せると思っているのか?』

「だって、疑似的な片思いの形さえ作れれば、噂の『発動条件』としては成立するんじゃないの?」

「まあ、噂の表面上をなぞるだけなら、手法としてはありかもしれないね」


 神楽は心底可笑しそうに顎に手を添え、優雅に長足を組み替えた。


「ただし問題は……誰をその『好きな人』の相手役にするかだね?」

「それは……」


 夢月は店内をぐるりと見回した。

 落ち着いたモデルみたいなイケメンのマスター。

 妖艶で得体の知れない元軍人の神楽。

 そして――カウンターの上で、黒い毛並みを揺らしながら怪訝そうにこちらを見つめている黒猫の珠吉。


「…………」

「…………」

『…………おい』


 夢月と珠吉の視線が、バチッと正面からかみ合った。


『……まさか、お前』

「珠吉」

『断る』

「まだ何も頼んでないでしょ!?」

『言わんでも分かるわ!  どうせ我を『好きな相手役』にして姿見に祈るつもりだろうが!』


 まさかこうもすぐに考えを読まれてしまうとは。

 半ば不本意ではあるが、ここで一番扱いやすく乗ってくれそうなのはこいつしかいない。


「だって!  一番話が通じるし、怪異のこと知ってるし、一番協力してくれそうなんだもん!」

『何処がだ!  我は誇り高き大妖だぞ!  何故人間の小娘の疑似恋愛の相手など演じねばならん!  気味が悪すぎるわ!』

「いや、助けてくれるよね!? 私と美咲ちゃんの命がかかってるんだよ!?」

『絶対に嫌だ!  くだらん!  断固として拒否する!』


 珠吉の全身の黒い毛がパッと逆立った。

 普段なら路地裏にいる愛くるしい黒猫にしか見えないその姿が、今ばかりは本気で嫌がってシャアシャアと威嚇している。


「そんなこと言って! この店には願いを持っていて縁がある人が来るんでしょう!? その人達の願いを叶える手助けをするんじゃないの!?」

『手助けってのは命を賭けてまでするものじゃない! それに、ここでは願いを聞く程度しかできんと知ってるだろうがっ!?』


 そんな一人と一匹のドタバタとした遣り取りを横目に見ていた神楽が、耐えきれないといった様子で口元を細い手で押さえた。


「くっ……ふふっ……あはは!」

『貴様、笑うな!』

「いや、すまないね。まさか君が女子高生の『恋の相手役』として白羽の矢を立てられるとは思わなくてねぇ」

『誰が恋の相手役だ!  戯け!』

「だが理には叶っている。相手が珠吉なら、夢月も恥ずかしがらずに気兼ねなく接することができるだろう?」

『貴様まで何を面白がっているんだ! 人事だと思って!』


 店内に珠吉の怒鳴り声と神楽の忍び笑いが賑やかに響き渡る。

 しかし、その騒がしさとは裏腹に、カウンターの奥で一人佇むマスターだけは、深く静かに考え込んでいた。


「……ただ、一つ重大な問題があります」

「え……?  何、マスター」


 夢月の問いかけに、マスターの静かな、けれど射抜くような視線が真っ直ぐ夢月へと向けられる。


「もし、あの姿見に潜む存在が……単なる『言葉の表面』ではなく、人間の心の発する『本物の情念や執着』そのものを感知して引き寄せられているのだとしたら」


 マスターの静かな、けれど重みのある声が店内に通る。


「偽物の恋心や、上辺だけの安っぽい演技で、果たして異界の怪異を誘き寄せることができるでしょうか」

「…………」


 夢月の表情から、先ほどまでの巫山戯た笑みが一瞬で消え去った。

 確かに、マスターの言う通りだ。

 ただ口先だけで「好きな人と結ばれますように」と嘘の言葉を唱えるだけなら、誰にでもできる。

 けれど、相手が人間の心の隙間や醜い欲望を喰らう『妖』であるならば。嘘の恋心など一目で見破られ、嘲笑われて終わりかもしれない。


「……じゃあ」


 夢月は絞り出すように小さく呟いた。


「本当に好きな人を想っているみたいに……本気で、やればいい」


 自分自身に激しいプレッシャーをかけるように、固く握った拳に力を込める。


「美咲ちゃんを救い出すためなら……それくらい、やってみせる」


 その決意に満ちた言葉を聞いた珠吉は、何か文句を言おうと口を開かけ――けれど、夢月の真剣な瞳を見て何も言えずに口を閉ざした。

 神楽もまた、いつもの軽薄な笑みを完全に消し去り、静かな眼差しで夢月を見つめている。

 誰も、それ以上は口にしなかった。

 けれど、その場にいた全員が、胸の奥で全く同じ不穏な懸念を抱いていた。


 ――本当に、それだけで済むのだろうか。

 ――人間の欲望を映す鏡に、生半可な覚悟で『嘘の恋』を捧げた時、一体何が引き寄せられてしまうのか、と。


「……じゃあ」


 夢月は胸の前で細い腕を組み、うーんと真剣な顔つきで深く眉間に皺を寄せた。


「まずは、私がどうして珠吉のことを好きなのか……その『恋に落ちた理由』を具体的に作らないとダメだよね。妖が見に来た時に、不自然だったら一瞬で見破られちゃうし」

『だから言っておるだろうが!  我を好きになるなと!』


 カウンターの上で、黒猫の珠吉が前脚を踏み鳴らしながら激しくシャアッと威嚇の声を上げた。

 けれど夢月は気にした風もなく、真面目そのものの瞳で珠吉を見つめ返す。


「でも、姿見の向こうにいる妖を騙し通すなら、それくらい自然に愛おしそうに振る舞わないと」

『騙すという言い方そのものが既に気に食わん!  第一、我は怪異だぞ!?  人間の女子(おなご)から妙な情念を向けられる筋合いなど毛頭ないわ!』

「まあまあ。そういう細かい言葉の綾は一度置いておこうじゃないか」


 二人の遣り取りを面白そうに眺めていた神楽が、美しい身の熟しで楽しげに口を挟んだ。


「重要なのは、夢月がこの珠吉に乙女な好意を抱いていたとしても、客観的に見て不自然ではない理由だ。例えば……そうだね」


 細く白い指先をすっと自分の顎に添え、神楽は品定めするように珠吉の毛並みをじっと見つめる。


「……可愛いから、とか?」

『…………』

「…………」


 瞬間、珠吉の機嫌悪そうに左右へ揺れていた黒い尻尾が、ぴたりと空間で停止した。

 夢月もまた、真ん丸くした目で珠吉の全身を舐めるように視線でなぞり――やがて、大きくポンと手を叩いた。


「いや、それ普通にめちゃくちゃありそう!」

『はあ!?』

「珠吉ってさ、こうして近くで見ると全身フワフワで、ちょっと丸っこいフォルムがすごく愛くるしくて好き……とか!  ほら、恋のきっかけとして十分すぎるよ!」

『フォルムで好き嫌いの感情を決めるな無礼者!  我は愛玩動物ではない!』

「でも、実際に可愛いよ?」

『……っ』


 真っ直ぐな瞳で言い切られ、珠吉は反論の言葉を喉に詰まらせて黙り込んだ。耳の先端が気まずそうにぴくぴくと揺れる。

 夢月はその変化に気づかず、ノリノリで言葉を重ねていった。


「黒くて艶のある毛並みもすごく綺麗だし、ぴんと立った耳も可愛いし。……あと、こうやって優しく頭を撫でてあげると、なんだかんだ大人しくなるところも……」


 言いながら、夢月は自ら身体を乗り出し、カウンターの上の珠吉の頭へとおそるおそる細い手を伸ばした。

 華奢な指先が、黒く柔らかな毛並みにそっと触れる。

 途端に、珠吉の全身からふっと硬さが抜け、気持ちよさそうに目を細めかける――が、ハッと己の失態に気づいたように身体を硬直させた。


『……こ、これは、その……ただの反射だ!  御魂の揺らぎのようなものだ!』

「気持ちいい?」

『違うわ!』

「じゃあ嫌?」

『…………っ、嫌では……ないが……』

「ほらー!」


 夢月が得意げに胸を張り、可憐な笑みを浮かべる。

 その隣で、神楽が堪えきれないといったように肩を大きく震わせていた。


「ふふっ……これは案外、悪くない筋書きじゃないか?」

『何がだ!  貴様、味方のフリをして我を面白がっておるだろう!』

「少なくとも、夢月が珠吉を愛おしんで可愛がっているのは、揺るぎない紛れもない事実だろう?」

「うん。私、珠吉のこと大好きだよ」

『……おい小娘、その『好き』という言い方を今すぐやめろ』

「え?  なんで?」

『妙な言葉の誤解を生むだろうが!  周りに聞かれたらどうする!』

「でも、好きなのは本当じゃない?」

『だから!  人間の言う恋愛の『好き』と、我が受け取る『好き』とでは意味の深さが根本から違うと言っているのだ!』


 珠吉はひげをピンと張って必死に抗議するが、夢月は小首を傾げるばかりだった。

 確かに、夢月にとって珠吉は「大好きな存在」であることに嘘はない。

 ただし、それは甘い恋愛感情などではなく、路地裏で出会った愛くるしくも頼もしい人外の相棒に対する、純粋な親愛と信頼の情だ。


「……でも、それだと妖を引っ張り出すには弱いのかな。もっと『恋愛感情』っぽく見せないといけないんですよね?」

「そうだね。相手が人間のドロドロとした情念や執着を好む怪異なら、ただの『ペットへの愛着』程度では見向きもされない可能性がある」


 神楽の冷静な指摘に、夢月は再びうーんと頭を抱え込んだ。


「じゃあ……もっとそれっぽい、甘酸っぱい理由が必要なのかな……」


 熟考すればするほど、恋愛経験が皆無な夢月には正解が分からなくなってくる。


「……ねえ、そもそも『恋』ってどういうものなの?」

『知らん。我に聞くな』

「珠吉に聞いてないよ」

『なら最初から我の方を見るな』

「右京さんは?  恋とか詳しくないですか?」

「私に聞くのかい?」

「だって右京さん、昔の時代の人なんでしょう?」

「昔の人間なら恋愛の機微に詳しいという安易な偏見は、やめてもらいたいな」

「でも、昔の軍人さんって……文豪みたいにロマンチックな恋愛とか……」

「夢月」


 神楽が一切の感情を消した、完璧すぎる極上の笑みを浮かべた。


「人を生きている時代だけで判断するのは、あまり感心しないよ?」

「す、すみません……出過ぎたことを言いました……」


 その迫力に呑まれ、夢月はしゅんと肩をすぼめて小さくなった。

 すると、カウンターの奥で沈黙を守っていたマスターが、珈琲カップを拭きながら低く心地よい声で小さく笑った。


「ふふ……では、こういう組み立てはいかがでしょう」

「マスター!  何か良いアイデア思いついたんですか?」


 身を乗り出して問う夢月に、マスターは穏やかな微笑みを向ける。


「『いつも自分の身を案じ、気にかけてくれるから惹かれてしまった』……というのは、人間の恋愛感情の発露として非常に自然で、説得力があるのではないでしょうか」

「あ……!  それ、すごく分かるかも!」


 夢月はパッと表情を明るくさせ、深く頷いた。

 カウンターの上で毛を逆立てる珠吉の方を向いて、夢月は期待の眼差しを向ける。


「優しく声をかけてくれたり、自分が落ち込んで困っている時にさりげなく助けてくれたりすると、その人のことが急に気になり出す……っていうのは、少女漫画とかでもよく見る!」

「それなら、珠吉も十分に条件を満たしているだろう」


 神楽が満足そうに珠吉へ視線を滑らせる。

 一同の視線を向けられた珠吉は、それぞれの目を見ながら身体に対して大きい頭をかしげた。

 最早、今の夢月にはその仕草も可愛らしく見えて仕方がない。


『我が……だと?』

「夢月がこの店へやって来る度、文句を言いながらも必ず一番に出迎えているじゃないか」

『それは単に店に来た客を確認しただけだ!』

「時には自分から膝に飛び乗って、頭を撫でろと無言で催促すらしている」

『それも我が撫でられたい気分だったからだ!』

「相談事があれば、文句を垂れつつも最後まで親身になって耳を傾けている」

『……む、それは……』


 どちらの主張もそれらしく言えば綺麗事になる。

 けれど、神楽の一気に捲し立てて告げられる証拠に、珠吉は何も言い返せなくなった。


「つまり、夢月にとって珠吉は――『どんな時も一番近くで寄り添ってくれる、かけがえのない存在』というわけだ」

「……うん。本当に、その通りだよ」


 夢月は改めて、カウンターの上の黒猫を慈しむような眼差しで見つめた。

 思えば、あの昏い通りで「夢幻喫茶」の扉を開けて以来、自分はこの小さな黒猫と随分と濃密な時間を過ごしてきた。

 くだらない放課後の愚痴を言ったり。

 学校であった何気ない出来事を笑い合いながら聞いてもらったり。

 時には言葉すら交わさず、ただ静かなジャズの流れる店内で、隣に並んで座っていたり。

 現実世界の孤独や不安から離れられるこの不思議な店の中でも、珠吉は間違いなく、夢月が最も心を許し、素の自分を出せる特別な存在だったのだ。

 ―――という設定にすれば、かなり良い片思いの理由になるだろう。


「うん。それなら、私にもちゃんと感情を込めてできそう」

『何がだ』

「珠吉のことを好きな理由!」

『待て』


 珠吉の毛並みが引き攣り、冷や汗を流す。

 そんな珠吉を抱き上げた夢月は、キラキラと輝かせた目でその愛らしいフォルムを見つめた。


「いつも私の話を嫌がりながらも聞いてくれるから、好き」

『待てと言っているだろうが!』

「落ち込んで泣きそうな時に、黙って傍にいてくれるから、好き」

『おい小娘!  聞け!』

「それに……フワフワで丸っこくて、文句なしに可愛いから好き!」

『最後の理由だけは絶対に外せと言ったはずだー!!』


 静かな店内に、珠吉の悲痛な絶叫が木霊した。

 そのコミカルな慌てぶりに、夢月は重かった胸のつかえが少しだけ取れ、思わずクスッと笑い声を漏らしてしまった。


「でも、すごくいい感じじゃない?  私の素の気持ちも乗ってるし」

「そうだね。少なくとも、君が珠吉という存在に強い執着と愛着を抱く理由としては、十分な説得力を担保できていると思うよ」

「でしょう?」

『貴様ら……我が妖であることを完全に忘れておらぬか……!?』

「……でも」


 ふと、夢月の可憐な表情から明るさが消え、暗い陰りが落ちた。


「これだけで、本当にあの姿見の妖を騙し通せるのかな」


 まず、あの姿見自体が妖なのか、それとも妖が姿見に取り憑いているのか。

 端から妖など関係ない、別の超常現象の可能性もある。

 先ほどまで軽快に面白がっていた神楽も、今度は冗談を捨て、真摯な眼差しを夢月へと向けた。


「そこばかりは、実際に踊り場へ立ち、怪異を呼び出してみなければ分からない。……相手がどのような理で動く存在なのか、まだ見極めがついていないからね」

「………そう、ですよね」

「ただ――」


 神楽は身を乗り出し、夢月の瞳を真っ直ぐに見つめ抜いた。


「君が命を懸けてでも『後輩を救い出したい』と強く願っている、その核となる『情念』だけは、間違いなく偽りのない本物だろう?」


 夢月は不意を突かれたように、少しだけ目を丸くした。

 自信なさげに動揺していた胸の奥で、熱く燃え上がる揺るぎない温度を感じながら、力強く頷いた。


「……うん。美咲ちゃんを助けたい。あの暗くて冷たい場所から連れ戻したい。それだけは、絶対に嘘じゃない」


 美咲を助ける。そのためなら、どんな危険な囮にだってなってみせる。

 夢月は覚悟を固めるように、ギュッと自分の胸元で拳を握り締めた。


「やってみる。私、やるよ」

『…………』


 珠吉はもう、反論の言葉を口にしなかった。

 ただ、これから巻き起こるであろう恐ろしい事態を予感してか、黄金色の瞳を沈ませ、長い黒い尻尾をゆらゆらと不穏に揺らしている。


「……明日の、放課後十七時」


 夢月は小さく、深く息を吸い込んだ。

 自分自身を奮い立たせるための宣言を口にする。


「あの本館の立ち入り禁止の踊り場で……姿見に向かって、珠吉への『願い』を伝える」

『……本当に、我を恋の相手として使うのだな?』

「うん。頼りにしてるよ、珠吉」

『…………あぁぁ』


 珠吉はしばらくの間、夢月の真っ直ぐな瞳を無言で見つめ返していた。

 やがてはぁと大きな溜息を吐き出すと、諦めたようにそっと目を閉じた。


『……はぁ、仕方あるまい。小娘の無鉄砲に付き合うのも、我が役目か』

「珠吉……!  ありがとう!」

『ただし!』


 珠吉がガバッと目を開け、威嚇するように前脚を立てた。


『我が前で、本気で恋焦がれているような気色の悪い乙女の演技などしてみろ!  容赦なく爪で顔面を引っ描いてやるからな!』

「ぜ、善処します……!」

『絶対にやるなと言ってるんだ!』


 再び店内に響き渡る珠吉の激しい怒声と、夢月の慌てる声。

 マスターが静かに注ぐ珈琲の香ばしい湯気が、二人の間を優しく包み込んでいく。


 けれど――その場にいる誰もが、深く理解していた。

 明日の放課後、十七時。

 あの静まり返った古い木造校舎の踊り場で待ち受けているものは、甘い恋占いなどではないということを。

 そして――夢月の胸に秘められた「歪で純粋な情念」が、果たしてあの姿見の奥に潜む恐ろしい怪異を誘き寄せることができるのか。

 その結末は、まだ誰にも分からなかった。







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