恋する乙女・3
いつもと変わらない朝を迎え、いつもと変わらない授業を受ける。
窓の外を見上げれば、雲一つない快晴の青空が何処までも澄み渡り、広がっていた。
教壇に立つ教師の淡々とした低音の声が教室内に響き渡り、黒板には今日の授業内容である複雑な数式や英文が、白いチョークの粉を舞わせながら滑らかな音を立てて書き連ねられていく。
机に肘をつく男子生徒、欠伸を噛み殺す女子生徒、窓の外の鳥をぼんやりと追う目線。
何一つ変わったことなどない、何処にでもある平凡な日常の一コマ。
――少なくとも、表面上は。
(……あの噂、本当に何なんだろう)
ノートの罫線の上に機械的に黒板の文字を書き写しながら、夢月は誰にも気づかれないよう小さく、深い溜息を吐き出した。
あの日、放課後の昏い路地裏にひっそりと佇む「夢幻喫茶」で後輩の涼風美咲と再会して以来、どうしてもあの古びた本館の踊り場の光景が脳裏に張り付いて離れてくれないのだ。
放課後の十七時ちょうど。二階へと続く踊り場に鎮座する縁結びの姿見に向かって祈りを口にすると、想いを寄せる人と結ばれるという、あまりにも都合が良すぎる甘く無邪気な都市伝説。
そして、その眉唾もののお呪いを本気で信じ込み、縋るような哀切な目をしていた美咲。
さらに――夢月の胸の奥に一番鋭い刺となって深く突き刺さり、鈍い痛みを放ち続けているのは。
(美咲ちゃん、今日も行くって言ってたよね……)
あの日、夢幻喫茶の重厚な扉を開けて立ち去る際、美咲は確かに夢月の目を見つめてそう口にしたのだ。
『私、またあの踊り場に行こうと思っているんです。だから⋯⋯夢月先輩も、来てくださいね』
と。
あれから当たり前に無情な朝が繰り返し訪れ、どうしても断ることができないまま、約束の放課後を迎える「その日」がやってきてしまった。
朝のホームルームから四限目が終わるまで、夢月は授業の合間をぬって廊下や渡り廊下を密かに見渡していたが、今のところ校内で美咲の姿を見かけることは一度もなかった。
一年生と二年生。学年が違うのだから、教室があるフロアも日中の生活圏も完全に分かれているのは当然と言えば当然だ。
けれど、長休みや昼休みの廊下ですれ違うことすら一度もないというのは、それはそれで妙に不自然であり、不吉な予感を孕んで胸に引っかかった。
(……あの子、本当に大丈夫なのかな。一人で抱え込んで、変なことになっていないよね……)
美咲があの薄暗い踊り場で、一体何をしようとしているのか。
あの不気味に歪んだ古びた姿見に向かって、どんな言葉で、どれほど切実な願いを捧げようとしているのか。
そして――あの踊り場に長年放置されている姿見は、本当にただの古びた学校の備品に過ぎないのか。
考えれば考えるほど、胸の奥の不気味な霧は深まり、何ひとつ答えの出ない暗闇の中を彷徨っているようだった。
「――おい、如月」
「えっ!?」
不意に鋭い声で自分の名前を呼ばれ、夢月は弾かれたように背筋を伸ばして顔を上げた。
前方の教壇から、担当の教師が黒縁眼鏡の奥の冷ややかな視線をまっすぐこちらへ向けている。
「ここ、教科書百二十ページの次の問題、答えられるか?」
「あ……えっと、は、はいっ!」
慌てて教科書へ視線を落とし、小刻みに震える指先でシャープペンシルを走らせる。
教室のそこかしこから「またあいつ自分の世界に入り込んでたよ」「如月さんってたまにボーッとしてるよね」と言いたげなクスクスという忍び笑いや小声の囁きが漏れ聞こえ、夢月は耳の先端まで真っ赤に染め上げた。
(授業中にまで考え込むようなことじゃないのに……! しっかりしなきゃ、私……!)
心の中で己の軽率は態度を激しく反省しながら、夢月はどうにか思考を掻き集めて絞り出した問題の解答を口にした。
その後は何とか教師の言葉に耳を傾け、ノートを取るフリをして授業に集中しようと努めたものの、頭の片隅にこびりついた不穏な噂と美咲の影が完全に消え去ることはなかった。
❁
そうして不穏な思考を抱えたまま昼休みが終わり、五限目の開始を告げる重々しいチャイムが校内に鳴り響く。
選択授業へ向かうため、夢月は自分の席を立ち、移動に必要な文系科目の教科書とノートを胸元に抱えて教室を出た。
歩きながら、抱えた教材の束を念のために確認する。
筆箱、教科書、ノート、参考書。忘れ物はない。
今日も変わらず選択授業を受けるための移動教室があるのは、あの「本館」の中だ。
夢月達が普段賑やかな学校生活を送っている鉄筋コンクリート造りの新しい新校舎を離れ、薄暗くギシギシと軋む木造の渡り廊下へと向かう。進むにつれて窓からの陽光が建物の影に遮られ、どこかひんやりとした冷たい空気が肌を撫でた。
その途中――背後から勢いよく近づいてくる靴音が聞こえた。
「如月さんっ」
「あ、八雲君」
聞き慣れた明朗で屈託のない声に振り返ると、同じクラスの八雲が少し崩した制服の襟元を揺らし、髪をかき上げながらこちらへ駆け寄ってくるところだった。
「一緒に教室まで行ってもいいっすか?」
「え? い、いいけど……。八雲君の友達は?」
「皆、選択授業がバラバラに分かれちゃったんすよー。何故か俺の周りの連中って理系ばっかでさ。文系を選択したの俺しかいなくて」
けらけらと無邪気に笑いながら、八雲は当然のような自然体で夢月のすぐ隣へと並んだ。
不意に縮まった男女の距離感の近さに、夢月はほんの数センチだけ、相手に気づかれないようさりげなく体を横へと横滑りさせる。
「今日の授業、何やるんでしたっけ?」
「この前の続きじゃないかな。確か、近代文学の作品解釈と音読からだったと思うけど」
「マジかぁ。あれ、先生の声が絶妙な周波数で子守歌みたいだから超眠くなるんだよなぁ」
「ちゃんと先生の話を聞いてないから眠くなるんじゃないの?」
「うわ、今日の如月さん、なんか珍しく辛辣じゃないすか?」
「……八雲君がいつも適当なことばかり言うからでしょ」
何気ない会話であるはずなのに、自分から何かを言う度に胸の奥が締め付けられる。
そんな夢月のことなど知りもしない八雲は、窓の外を眺めたり、かと言って夢月を見ながらくだらないことを言い続けていた。
「でも如月さんって、いつも完璧にノート取ってて本当に偉いっすよね。俺なんてこの前、如月さんのノート見せてもらおうと身体乗り出したら先生にバッチリ見つかって死ぬほど怒られたし」
「それはどう見ても八雲君の自業自得じゃない……?」
「やっぱ今日の如月さん、ツッコミのキレが鋭いわぁ」
そんな他愛もない軽口や呆れ交じりの会話を交わしながら、二人は並んで静まり返った渡り廊下を歩いていく。
決して何か特別なイベントというわけではない。日常の延長線上にあるいつものことだった。
選択授業の文系科目が奇妙にも一致しているため、こうして移動移動の時間に一緒になって歩くことも決して珍しくはない。
八雲はクラスの誰に対しても気さくで、明るい冗談を振ってその場のピリついた雰囲気を和ませてくれる存在だ。人付き合いがあまり得意ではない夢月にとっても、そんな彼との遠慮のない会話は、いつしか「学校生活の日常」における心地よいオアシスの一部になりつつあった。
けれど、今日この時に限っては、その「いつもと変わらないはずの日常」が、胸の深いところで何処か歪んで異質なものに見えてしまっていた。
ふと、あの日夢幻喫茶の静寂の中で美咲が愛おしそうに、けれど切なさを含んで語っていた言葉が、脳裏に鮮やかに蘇る。
『落ち着いて、大丈夫だよ』
入学直後、クラスの前で自己紹介をする際に緊張のあまり上手く話せずに固まってしまった美咲に対し、一番に優しく声をかけて救い出してくれた八雲の言葉。
そのたった一言にどれほど救われ、どれほど深い救いと恋心を見出したか。美咲は頬をほのかに染めながら、まるで世界で一番大切な宝物でも語るかのような眼差しで話していたのだ。
夢月はふいに歩く速度を緩め、隣を並んで歩く八雲の横顔をじっと、喰い入るように見つめた。
「……ん? 何すか?」
「え?」
「さっきから俺の顔、穴が開くくらい凝視してどうしたんすか?」
「み、見てない!」
「いやいや、バッチリ見てたでしょ。俺の顔に何か付いてます?」
「付いてないし、見てないってば……!」
前にもこんな遣り取りをしたなとデジャヴを感じながらも慌てて視線を正面へと戻し、逃げるように早足になる。
八雲は不思議そうに首を小さく傾げ、すぐにいつもの屈託のない笑みを浮かべた。
「まあ、いいけどさ」
そう言って、彼も再び脚を伸ばして前を向いて歩き出す。
その無防備で、世界に対する警戒心など何ひとつ持っていない伸びやかな横顔を視界の端に収めながら、夢月は胸の奥で重く冷たい息を吐き出した。
(……この人、本当に何も知らないんだ)
学年の違う一年の後輩の女の子が、自分に対してどれほど切なく、胸を焦がすような恋心を抱いているかも。
誰も見ていないところで、新品の消しゴムの側面に祈るような心地で自分の名前を深く刻み込んでいることも。
そして――これから二人で向かおうとしている古い本館の薄暗い踊り場で、彼女が自分との縁を狂気的に願って、怪死や消失の危険すら孕んだ異様な都市伝説に手を伸ばそうとしていることも。
八雲は何も知らない。何の罪もなく、ただこの穏やかで無知な日常の只中に立っている。
その当たり前すぎる残酷な事実が、何故だか夢月の胸を強く締め付けるほど妙に気にかかり、本館へ向かう一歩一歩の足取りを鉛のように重くさせるのだった。
❁
昼休みを告げる予鈴の甲高い音が校内に鳴り響き、各々の時間を終えた生徒達が喧騒を連ねてそれぞれの教室へと散っていく中、美咲はただ一人、人波の熱気から離れて中庭の木漏れ日の中を静かに歩いていた。
食堂からの帰り道、右手に佇む重厚でどこか威圧感のある木造の「本館」を渡り廊下越しに仰ぎ見ながら、自分の教室棟を目指していると――。
「……あ」
本館一階の長い渡り廊下。その古いガラス窓の向こう側に、見覚えのある顔が二つ並んで歩いているのが視界の隅に飛び込んできた。
ただの生徒同士の通りすがりであれば、美咲が特別に足を止めることもなかっただろう。
けれど、その二人を目にした瞬間、昼下がりの光が射し込む中庭で歩を進めていた美咲の足が、強烈な磁石で地面に縫い付けられたかのようにぴたりと固まった。
「…………」
如月夢月。
そして――八雲先輩。
二人は少し肩が触れ合いそうなほど距離を縮め、楽しげに何かを話し合いながら並んで歩いていた。
何か特別なことをしているわけではない。移動教室へ向かっているだけだ。
八雲は、美咲が密かに憧れ、夜も眠れなくなるほど恋い焦がれていた通り、誰にでも見せる屈託のない眩しい笑顔で夢月に話しかけ、それを受けた夢月も、少し呆れたような、けれど何処か心を許して安心したような表情で言葉を返している。
それだけの、何処の学校にでもある至極ありふれた日常の光景だった。
なのに、美咲の胸の奥が、鋭利な刃物で一気に抉り抜かれたように、ずきりと激しく痛んだ。
(……なんで……っ)
自分でも理由が分からない。どうしてこれほどまでに息が詰まるほど胸が苦しく、ドロドロとした黒い感情が胸底で渦巻くのか。
夢月先輩は何も悪くない。気弱な自分を優しく助けてくれ、あの不思議な「夢幻喫茶」で親身になって見ず知らずの自分の恋の相談に乗ってくれた、優しい先輩だ。
八雲先輩だって、ただ同じ選択授業の同級生として気さくに友達と話しているだけ。
誰一人として、責めるべき点など何処にも存在しない。
それなのに――世界全体から自分だけが冷たく弾き飛ばされ、暗く湿った底なしの闇の中に一人だけで突っ立っているような、猛烈な孤立感と絶望感が押し寄せてくる。
「…………」
美咲は無意識の内に、お弁当箱が入った巾着袋の紐を、指先が白く変色して血が通わなくなるほど力任せに握り締めていた。
昨日、あの浮世離れした幻想的な喫茶店のカウンターで、夢月先輩に自分の心の全てを打ち明けたばかりだったのだ。
自分が八雲先輩を本気で、胸が張り裂けそうなくらい好きだということ。
自分なんかが近づくなんておこがましいと分かっているのに、どうしても話しかけたいということ。
『消しゴムに名前を彫る』だなんて恋占い、子供騙しのくだらない戯言だと冷めた自分もいながら、それでも何かに狋らなければ不安で押し潰されそうになるということ。
恥ずかしさもプライドも捨てて、自分の情けない感情を全部さらけ出したのだ。
それなのに――。
(どうして……っ)
あの人は。
私に親身になって優しく笑いかけてくれた、あの憧れの夢月先輩は。
どうして私よりも先に、当たり前のような顔をして八雲先輩の隣を歩いているの。
そんな恐ろしい毒のような疑念が脳裏を過った瞬間、美咲ははっとして青ざめ、慌てて頭を左右に振った。
(違う、違う……! そんな酷いことを考えるなんて、最低……!)
夢月先輩が知るはずもない。
先輩が八雲先輩と同じクラスで、同じ選択授業を受けていることすら、昨日初めて知ったばかりなのだ。
夢月先輩を逆恨みする理由なんて、何処を探したってあるはずがないのだから。
分かっている。頭では、ちゃんと完璧に理解しているのに。
一度胸の中で芽生えてしまった醜くドロドロとした嫉妬の渦は、どうしても美咲の意志通りには鎮まってはくれなかった。
「…………先輩……」
震える唇から、掠れた声が漏れ出す。
けれど、分厚いガラス窓で隔てられた二人にその切実な声が届くはずもない。
八雲が何かおどけたように身振り手振りを交えて話し、それを見た夢月が、ほんの少しだけ可憐に口元を緩めて笑った。
その笑顔を見た瞬間、美咲の心臓に、冷たい氷の針が深く深層まで突き刺さった。
(……嫌だ……)
理屈なんて、もうどうでもよかった。ただ、猛烈に心が拒絶していたのだ。
自分の知らない場所で。
自分の届かない時間の中で。
自分が世界で一番恋い焦がれている人が、別の魅力的な女の子と親しげに笑い合っているという事実が。
その光景そのものが、どうしようもなく悔しく、惨めで、苦しかった。けれど――それ以上に美咲の精神を酷く苛んだのは、もっと根本的で絶望的な恐怖だった。
『八雲先輩の隣に笑顔で立っている自分の未来』など、この世界には最初から一分一秒たりとも存在しないのではないか、という底知れない予感。
(……私じゃ、やっぱり駄目なのかな……何をやっても……)
膝から崩れ落ちそうになりながら俯いた美咲の視界に、強く握り締めた自分の手元が映り込む。
本館の踊り場で夢月と出会った日の朝方、不思議な夢を見て目覚めた。
右も左も分からない深い闇の中にぽつんと佇む、静かな喫茶店。アンティークな扉を開けると、まるで誰かが自分を待っていたかのようなあの温かなレトロ空間。
それが現実となって目の前に現れ、昨日、あの「夢幻喫茶」で夢月と奇跡的な再会を果たした。
その際に制服のポケットから大切に取り出した、小さな白い消しゴム。
新品の消しゴムのカッターの切れ込みに、美咲は二つの名前を深く刻み込んでいた。
八雲先輩の名前。
そして、自分の名前。
二つの名前の間に「ハートマーク」を描くような図々しい勇気は、どうしても持てなかった。だからせめて、名前を綺麗に並べるだけで精一杯だったのだ。
それでも――その消しゴムを制服のポケットに入れ、肌身離さずお守りのように大切に持っているだけで、ほんの少しだけ自分が世界に立ち向かえるような気がした。
いつか。いつの日か本当に、この名前が結ばれる奇跡の日が来るのだと、愚かにも信じたかった。
「…………」
遠ざかっていく二人の背中を、美咲はただ金縛りに遭ったように固まって見つめ続けることしかできない。
やがて八雲の姿が渡り廊下の角へと消え、そのあとを追うように夢月の姿も見えなくなった。
二人の気配が完全に視界から消え去ったところで、美咲は深海に沈むような重く冷たい溜息とともにゆっくりと視線を落とした。
「……私も……行かなきゃ……」
自らの怯える心を強引に奮い立たせるように小さく呟き、重い足を前に一歩踏み出す。
その、瞬間だった。
『――本当に?』
「……え?」
自身のすぐ後ろから、ぬるりと湿った艶っぽい声が響いた。
美咲の身体が、一瞬で氷漬けにされたように凍りつく。
聞き間違いだろうか。
昼休みの終わったこの中庭には、自分以外誰も生徒がいないはずだった。
恐る恐る、機械的な硬い動作で首だけを振り返る。
「…………」
けれど――誰もいない。
午後の無情な日差しが疎らに降り注ぎ、風にそよぐ樹木が長い影を地面に落としているだけだ。
「……だ、誰……ですか……?」
喉が引き攣り、まともな声が出ない。返事も、もちろん返ってくるはずがない。
美咲はしばらく、静まり返った中庭の真ん中で立ち尽くした。
やがて、自分の気のせいだと言い聞かせようとする。夢月先輩達の仲睦まじい姿を見て激しく動揺し、精神的に疲れているだけだ。きっと、そうだ。
そう自分を必死に誤魔化し、前を向こうとした――まさにその時。
『――あの人の隣に、いたいのでしょう?』
「……っ!?」
今度は、はっきりと、鼓膜を揺らすレベルで聞こえた。
まるで耳の穴に直接冷たい吐息を吹きかけられたかのような、神経を逆なでする声。
美咲は弾かれたように全身を翻して振り返った。
やはり、誰もいない。人の影すら存在しない。それでも――その邪悪で甘く不気味な声だけは、確かにそこに「存在」していたのだ。
「誰……誰なんですか……! 姿を見せてください……!」
震える声を振り絞り、誰もいない中庭の空間へ向けて問いかける。
返事の代わりに、本館の方向から静かな音が響いた。
――カタン。
何かが硬い床に重く落ちたような、くぐもった音。
美咲は息を呑み、音が聞こえた方向に目を向ける。
「…………」
そして、目に見えない「何か」が、立ちすくむ美咲の首筋にすっと氷のような手を添えるかのように、再び甘く囁いた。
『だったら――』
優しく。まるで慈しむかのように。
美咲の胸の奥底に秘められた、醜くも切実な執着と嫉妬の全てを見透かしているかのように。
『もっと簡単な方法を、教えてあげる』
その言葉を最後に、気味の悪い声はふっと煙のように途絶えた。
再び死のような静寂が中庭を支配する。
美咲はその場から一歩も動くことができなかった。
怖い。恐ろしい。今すぐここから走って逃げ出さなければならない。本能の警鐘はそう激しく叫んでいるはずなのに。
胸の奥で黒く燃え上がった「ある一つの情念」が、恐怖という人間的な感情を容赦なく押し潰し、塗りつぶしていく。
(……簡単……な、方法……?)
八雲先輩の隣に、自分がいられる方法。
まどろっこしい恋占いよりも、もっと確実で、もっと手っ取り早い方法。
そんな夢のような術が、本当にあるのだとしたら。
「…………教えて」
誰もいない、陰惨な気配の残る本館の渡り廊下に向けて。
美咲は絞り出すような掠れた声で、小さく呟いていた。
「私に……それを、教えてください……っ!」
その瞬間、誰もいないはずの美咲のすぐ背後の空間で――目に見えない『何か』が、喉を鳴らして嬉しそうにくくく、と笑った。
❁
終業を告げる甲高いチャイムの音が校内に響き渡ると同時に、教室内は帰り支度を始める生徒達の解放感に満ちた声で一気に騒がしくなった。
夢月も机の横のフックに掛けられていた通学鞄を手にとり、机の上に広げていた教科書や筆箱を沈黙のまま無造作に放り込んでいく。
けれど、今日はいつもより少しだけ手元が狂い、準備に時間が掛かっていた。
これから己の足で向かおうとしている「あの場所」のことを考えると、指先が凍りついたように動かなくなってしまうのだ。
(……本当に行くの? 私……何のために……)
昨日、美咲に切実な涙目で頼まれた言葉が耳の奥で何度も反芻する。
放課後の十七時、またあの踊り場へ行く。
だから、夢月先輩にも来てほしい――と。
路地裏の「夢幻喫茶」で店主の神楽や怪異の珠吉に姿見の噂について話したことで、あの本館にある姿見に対する警戒心は、以前とは比べものにならないほど跳ね上がっていた。
人外の妖である珠吉のあの切迫した真剣な目つき。そして、神楽の冷徹なまでの忠告。
あそこには間違いなく、現代の女子高生の甘い恋占いなどという言葉では片付けられない、禍々しい「何か」が存在しているのだ。
分かっている。関わらないのが一番賢明で安全なのだと。
それでも――一度芽生えてしまった胸の胸騒ぎと、あの気弱で切ない目をしていた美咲のことを放っておけるほど、夢月は割り切った冷徹で器用な性格をしてはいなかった。
何より、あの子がたった一人であの陰惨な踊り場へ向かい、取り返しのつかない事態に陥るのではないかと思うと、心配で居ても立ってもいられなかったのだ。
「夢ちゃんっ」
「わっ!?」
突然、目の前から明るい声を掛けられ、夢月は跳ね起きるように肩を跳ねさせて激しく揺らした。
視線を上げれば、そこには通学鞄を肩に掛けた親友の華夏が立っていた。
「華夏……っ、びっくりしたぁ……」
「ごめんごめん。……っていうかさ、夢ちゃん」
華夏は夢月の机の真横まで歩み寄ると、身構えるような姿勢で鞄を固く握りしめる夢月の顔を、覗き込むようにじっと見つめた。
「最近、学校が終わったら速攻で一緒に帰ってたじゃん。なのに今日は随分と手元がゆっくりだね? 何か用事でもあるの?」
「うっ……」
思わず返答に詰まった。
これから向かおうとしている危険な場所を見抜かれたような心地がして、夢月は咄嗟に親友の目から視線を逸らしてしまう。
「……ううん、ちょっと……寄るところがあるだけ、だよ」
「寄るところ?」
「うん。……本当、大したことじゃないから」
華夏は怪しむように眉を顰め、不思議そうに夢月を見つめていたが、夢月の強張った表情からそれ以上の追及は無用と判断したのか、やがて小さく息を吐いた。
「そっか。じゃあ私、先に帰るね。寄り道も気をつけなよ?」
「うん。また明日ね」
手を振って教室を出ていく華夏の背中を見送る。
彼女の姿が廊下の向こうへと完全に消えていくのを確認してから、夢月は胸を押さえて深々と溜息を漏らした。
危なかった。
もし本館の踊り場へ行こうとしていることがバレれば、大切な親友を巻き込むわけにはいかない以上、昨日の異界の喫茶店のことや怪異の噂まで全て説明しなければならなくなる。
それだけは、絶対に避けたかった。
夢月は誰も自分を注視していないことを慎重に確認し、鞄を肩に掛け直す。
向かう先は、ただひとつ。
――古びた木造校舎、本館。
美咲と初めて出会い、怪異の噂が渦巻く、あの暗い踊り場。
今日もまた、あの姿見の周りで何か異常が起きているのか。
書籍やネットで言われているような怪死や行方不明といった惨劇の予兆はあるのか。
そして何より――美咲が、本当にあの場所へ向かってしまったのか。
自分の目と耳で、それだけを確かめたかった。
❁
夕刻の影が薄暗く伸び始める本館へと向かう道中、夢月は「見るだけ」「確認したらすぐ帰る」と自分自身に何度も何度も言い聞かせていた。
別に、自分から怪異の渦中に足を深く踏み入れるつもりはない。
もし噂通りに立ち入り禁止になっているなら、その事実だけを確認して踵を返せばいい。
美咲の姿が何処にも見当たらなければ、それで終わりにすればいい。
自分にそう強く誓いながら、ギシギシと鳴る渡り廊下を渡り切った。
――けれど。
本館一階の薄暗い木造廊下に足を踏み入れた瞬間、夢月は強烈な悪寒とともにピタリと足を止めた。
「…………ぁ」
階段の吹き抜けの直前。そこには、黄色と黒の痛々しい警戒色で塗られたパイロンコーンが並べられていた。
さらにその間を厳重に塞ぐように、「立入禁止」と太字で印刷された非情な黄色いテープが幾重にも張り巡らされている。
「本当に……立入禁止になってる……」
華夏が言っていた通りだった。
昨日までは特に制約もなく生徒が行き来していたはずの階段が、今日になって突然、明確な理由もなく封鎖されているのだ。
張り紙には「危険・立ち入りを禁ず」とだけ示され、改修工事なのか老朽化なのかの理由すら記載されていない。
夢月は生唾をゴクリと飲み込みながら、その黄色いテープを凝視した。
そして――首筋を這い上がる冷たい肌触りに促されるように、ゆっくりと顔を上げた。
「…………え?」
立ち入り禁止のテープが張り巡らされた、そのさらに奥。
一階から二階へと続く木造階段の途中――薄暮の光が途切れる、あの暗い踊り場に。
独りの少女が、ぽつんと突っ立っていた。
整えられていない長い前髪。
顔の半分を覆う大きな眼鏡。
一年生を示す、鮮やかな緑色の制服リボン。
「……美咲ちゃん……!?」
今すぐ引き返させようと、声を張り上げようとした。
けれど――その名前が夢月の喉から飛び出すよりも早く、美咲は夢遊病者のような歪で緩慢な足取りで、踊り場の中央に置かれた巨大な姿見の前へと歩み寄っていった。
鏡にへばりつくように顔を近づけ、無機質な動作で唇を動かし、何かを呪文のように呟いている。
「―――」
距離が離れていて、周囲の風の音に掻き消されて声は聞こえない。
夢月は目を凝らし、必死で美咲の口元を追った。美咲の唇が、ゆっくりと、明確に形を作る。
そして――。
『好きな人と……結ばれますように』
「……っ!?」
静まり返った木造校舎の空気を振るわせ、耳元に直接届いたかのような錯覚を覚える声。
昨日、美咲から聞いた噂と全く同じ願掛けの言葉だ。
夢月の心臓が、嫌な音を立てて早警を打ち鳴らす。
「美咲ちゃん! ダメ! 美咲ちゃん!」
黄色いテープを押し切り、階段を駆け上がろうと叫んだ、その瞬間。
美咲がゆっくりと右手を持ち上げ、姿見のヒビ割れた黒ずんだ鏡面へと細い指先を伸ばした。
指先が、冷たいガラスの表面にすっと触れる。
――次の瞬間。
「…………え?」
消えた。
一切の音が失われた。
まるで、最初からそこに「涼風美咲」という人間など存在していなかったかのように。
夢月の目の前から、美咲の身体が、一瞬の輪郭の揺らぎすら残さずに忽然と消失したのだ。
「美咲……ちゃん……? 美咲ちゃん……っ!?」
叫び声を上げるが、返事は当然返ってこない。
夕闇の差し込む静まり返った踊り場には、もう誰もいない。
美咲の足音も、息遣いも、服の擦れる音すらも跡形もなく消え去っている。
ただ――時代錯誤なまでに禍々しい雰囲気を纏った古びた姿見だけが、変わらずそこに沈黙して鎮座していた。
夢月は呼吸することすら忘れて胸を押さえ、硬直したままその鏡を見上げていた。
冷や汗が頬を伝い落つ。
そして、誰もいなくなったはずの踊り場の、あの無気味な鏡の中には――。
一人取り残され、恐怖に顔を歪めて立ち尽くす、夢月自身の姿だけが鮮明に映し出されていた。




