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おいでませ夢幻喫茶へ  作者: 榊原蓮華草
不思議な店と、奇妙な噂
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恋する乙女・2





「恋占い、ねぇ」


 そう呟いた神楽は、手にしていたカップをカタリとソーサーの上に置くと、頬杖をついてぼんやりと視線を前方に泳がせた。

 何処か気怠げで、夢月の持ち込んできた話を真面目に信じているのか茶化しているのか分からない、掴みどころのない反応だ。

 夢月達とは生きている時代があまりにもかけ離れている彼にとって、現代の女子高生が興じる恋バナなど興味の埒外なのだろう。言葉にこそ「退屈だ」とは出さないものの、その優雅な立ち振る舞いの端々からあからさまな欠伸が伝わってくるようだった。

 しかし、夢月にとっては単なる世間話で済ませられる問題ではない。

 つい先刻まで店にいたあの一年生――涼風美咲。彼女が放っていた気配は、ただの「恋に恋する乙女」のそれとは到底思えなかったのだ。浮世離れした、何処か歪で得も言われぬ冷たい空気を全身に纏っていた。

 その重苦しい空気の正体が、夢月にはどうしても分からない。だからこそ、怪異や理外の事象に詳しそうな彼らに助言を求めたのだった。


『フン、ただの遊びだな』


 カウンターの上に鎮座し、夢月を見上げていた珠吉が、ふいっと顔を背けて切り捨てた。

 現世を生きる人間である夢月ですら俄かには信じがたい噂なのだ。人ならざる妖である珠吉からしてみれば、恋占いなど愚かな人間の自己満足であり、くだらない戯言に過ぎないのだろう。


「でも、学校では本当に流行っているんだよ。私だって今まで知らなかったけど……」

『流行っているからといって、本物かどうかの証明にはならん。根拠もない呪(まじな)いに縋り付いて、その先に何があるというのだ』

「……それは……」


 やけに厳格な物言いをする珠吉は、琥珀色の大きな瞳をきゅっと細め、夢月を射貫くように見つめた。

 蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことか。夢月は背筋にツッと微かな寒気を覚える。可愛らしい猫の姿をしてはいようと、目の前にいるのは永い時を生きた化け猫なのだ。威圧感が違う。


『占い一つで願いが叶うというなら、この夢幻喫茶など端から無用だろう』

「まあ、それはそうなんだけどね……。でもあの子、冗談なんかじゃなく本気で恋占いを信じているみたいだった。明日もあの場所へ行くって言っていたし、先輩として少し心配で」

『……ん?  待て、行くとは何処へだ?』


 それまで「頭を撫でろ」と言わんばかりに額を突き出していた珠吉が、ふいにぴたりと動きを止めた。

 伏せていた顔をゆっくりと上げ、琥珀色の瞳を大きく見開く。

 妖であろうと本質は猫であるため、細かい表情変化までは読み取れない。それでも、今の珠吉が明確な動揺と焦りを覗かせていることくらいは夢月にも見て取れた。


 珠吉が何故そこまで急に反応を示したのか、夢月に分かるはずもない。頭の上に浮かんだ疑問符をそのままに、夢月なりに理由を推測してみる。

 心当たりがあるとすれば――やはり、美咲が店を去り際に口にしたあの言葉だろう。

 美咲が店に滞在していた時間、夢月とともにそのやり取りを見ていたのは店主であるマスターくらいだ。この店に住み着いている珠吉は、その頃店の奥で丸くなって熟睡していたはずである。時折、規則正しい寝息を立てる小さな背中をカウンター越しに眺めていたのを覚えている。


 つまり珠吉は、美咲の口から直接「あの場所」についての話を聞いていないのだ。夢月がうっかり妙な言葉を口滑らせ、なおかつ追及を濁そうとしているように見えたからこそ、鋭く反応したのだろう。


(こんなに尋問みたいに詰め寄られるなら、口を滑らせなきゃよかった……)


 内心で後悔の念を深める夢月だったが、言っちまった言葉を取り消すことなどできない。渋々、当時の美咲との会話を脳内で反芻した。


『今度また、あの踊り場に行こうと思うんです。なので、良ければ夢月先輩も来てください』


 美咲は確かにそう言ったのだ。

 その時の夢月は、単に「流行りの噂を信じつつも、何処か一人では不安だから付き添ってほしい」という意味なのだと解釈していた。だからこそ珠吉にもそのまま伝えたのだが、彼がここまで表情を変えて警戒する理由がどうしても理解できない。

 首を傾げ、頭を撫でる手つきを緩めずに「どうして?」と無言の問いを投げる。

 そんな夢月の、警戒心も危機感もない無防備な仕草を目の当たりにした珠吉は、人間さながらの深い溜息を一つ吐き出した。


『……お前、何か隠しているだろう』


 珠吉の低く抑えられた一言で、店内の空気が一瞬にしてピンと張り詰めた。

 黒い毛並みを撫でていた手を止め、夢月は真っ直ぐに珠吉と視線を交わす。

 一人と一匹の緊迫したやり取りを、神楽とマスターは静かに見守っていた。マスターだけでなく、神楽の鋭い眼差しもまた、珠吉と同じ疑惑を夢月に向けている。現在の夢月は、彼らの目から見れば「肝心な何かを秘匿している」ようにしか映らないのだ。


「別に、隠しているわけじゃないよ。ただ……」

「ただ、何だい?」


 隣の席で頬杖をついたままの神楽が、柔らかく促すように問いかけてきた。

 声色こそ夢月を怯えさせまいと穏やかだが、軍服の隙間から覗くその瞳には明らかな警戒の色が宿っている。見透かされるようなその視線が体に刺さり、夢月は正面から隣を向くことができなくなった。


「……一つだけ、どうしても気になる噂があるんです」

『言ってみろ』


 真剣な眼差しを向けてくる珠吉の頭からそっと手を離し、夢月はカウンターの木目に落としていた視線を上げた。

 その視線の先には、事の経緯を全て把握しているはずのマスターが静かに立っている。姿勢を正し、意を決した様子の夢月を見て、マスターは優しく頷いた。


「最近になって、私が通っている学校で妙な噂が流れ始めたんです」

『噂……?』

「私の学校には、新しく建て替えられた校舎とは別に、本館と呼ばれる古い木造校舎があるんです。三階建てで、かなり年月の経った建物で……。普段の授業は新しい校舎で受けるので、私も選択授業の時くらいしか足を踏み入れないんですけど」


 改めて思い返してみても、自分の通う学校は何処にでもある至極平凡な高校だ。

 名門でもなければ進学校でもなく、夢月が受検した年などは定員割れを起こしていたほど知名度も低い。

 そんな平々凡々な学校で、怪異めいた摩訶不思議な噂が囁かれているなど誰が想像できただろう。彼らに説明している最中でも、夢月の頭のどこかには「ただの学校の都市伝説だろう」と高を括っている自分がいた。


「その本館の、一階から二階へ上がる階段の踊り場に……何故か姿見が一つ、ぽつんと置いてあるんです。新しい校舎にも階段はたくさんありますけど、姿見が設置されているのは後にも先にもそこだけで」

「ふむ……一箇所だけかい。それも、人の出入りが少ない古い校舎にあるというのは、少々不自然だね」


 神楽が口にした疑問は、まさに夢月自身が抱いていた違和感そのものだった。

 ちらりと隣を伺うと、神楽もまたこちらを見つめている。視線が重なり、店内を短い沈黙が支配した。


「なるほど。その『噂』とやらは、その奇妙な姿見が関係しているわけだね?」

「……はい。聞いた話では、放課後の十七時ちょうどにその姿見の前に立ち、ある願いを唱えるんだそうです」

『願い、か』


 人々の寄る辺となるべく営まれているこの「夢幻喫茶」に身を置くせいか、珠吉は“願い”という単語に過敏なほど反応を示した。

 怪異に精通した彼らの興味を引けたのは狙い通りだったが、同時に「単なる女子高生の戯言では済まされない」という現実が真実味を帯びてくる。


「『好きな人と結ばれますように』って……」


 あまりにも都合が良く、あまりにも出来過ぎた噂。

 思春期の甘い感情に浮き立つ男女を、何処かから誘い込むための「餌」や「罠」のようにも思えてくる。

 もしもこの噂が、人間ではない『何か』の手によって仕組まれたものだとしたら。

 出会ったばかりとは言え、同じ願いを持つ者として言葉を交わした美咲が、その罠に自ら飛び込もうとしているのだ。先輩として――いや、一人の人間として、黙って見過ごすわけにはいかなくなってきた。美咲に念を押された通り、明日の放課後、自分もあの踊り場へ向かうしかないのだろう。


「随分と直接的で、甘い噂だね。まるで誰かを意図的に誘い込んでいるようだ」

「ちょ、ちょっと神楽さん!  そんな怖いこと言わないでください……!」

「本当に『怖い』だけで済めばいいけれどね」

「……それ、どういう意味ですか……?」


 初めて出会った頃は「品のある穏やかな軍人さん」という印象だった神楽だが、こうして何度か顔を合わせるうちに、彼が存外に意地悪で腹黒い一面を持っていることが分かってきた。どこまでも喰えない男である。

 頬杖をついたまま夢月の顔を覗き込む神楽は、面白がるように唇の端を吊り上げていた。自分の発言に夢月が怯え、うろたえる様子を楽しんでいるのだ。

 夢月としては生きた心地がしないというのに、彼のその余裕ぶった態度が無性に腹立たしい。


『お前達現代の人間は、確証のないものを安易に信じ込むことの危険さを知らなさすぎる』

「だから、どういう意味なの?」


 神楽も珠吉も、揃いも揃って遠回しで回りくどい言い方ばかりする。

 すでに神楽の言葉で背筋に冷や汗をかいていた夢月は、珠吉の追い打ちのような指摘に頭が追いつかなくなっていた。

 生きてきた時代も、存在している種族すらも違うのだ。大正の世を生きた神楽の方が遥かに達観した思考を持っているし、人外である珠吉と夢月の価値観が一致するはずもない。

 噂について彼らに話したことは正解だったのかもしれないが、安易に救いや答えを求めたのは間違いだったのかもしれないと、夢月は眩暈を覚えた。


「人の『想い』というものはね、良くも悪くも強烈な力を持つんだよ」


 神楽は何処か遠くを見るような目で、独り言のように静かに語り出した。


「一度でも何かに強く囚われ、思い込んでしまえば、人はそれ以外のものが見えなくなる。病は気からと言うだろう?  人の執着や念というものは、自身だけでなく、周囲の空間や存在にまで劇的な影響を及ぼしてしまうものなんだ」


 まるで自らの実体験を噛み締めるような説得力のある口調だった。その言葉は、夢月が心の奥底で感じていた恐怖の核心を正確に突いていた。

 いつの間にか夢月の前から神楽の前へと移動していた珠吉も、珍しくクリンと首を傾げている。流石の化け猫も、神楽の含みのある言葉を完全には噛み砕けなかったようだ。


『ふん、まるで身をもって体験したような言い草だな。貴様、過去に何かあったのか?』

「……まさか。夢月の大先輩として、人生の教訓を教えてあげているだけさ」


 一瞬だけ笑みを崩し、影を落とした神楽だったが、すぐに表情を作り直して見慣れた優雅な微笑を浮かべた。

 改めて思う。神楽という男は実に不透明だ。

 異なる時代からこの喫茶店に辿り着いたという生い立ちもそうだが、何より何を考えているのか本心が読めない。

 敵なのか味方なのかすら怪しい。こうして親しげに会話を交わしていても、ある日突然、笑顔のまま背後から刺してきそうな恐ろしさを秘めている。


「まあ……確かに私からしたら、神楽さんは大先輩ですけど」


 直接尋ねたわけではないが、その洗練された軍服の仕立てや物腰からして、彼は恐らく大正から昭和初期頃の人間だろう。夢月が生きる現代ではまず見かけない本物の軍服を着ているのだから、戦前の生まれであることは確実だ。

 あらゆる時代や世界の縁を結ぶという「夢幻喫茶」だからこそ、こうして過去の人間と向かい合って紅茶を飲んでいる。

 よく考えれば、夢で見たはずの喫茶店に放課後毎日のように通っているのだ。童話や絵本の中に入り込んだような現実感のなさだが、これが紛れもない事実なのだから不思議なものだ。

 緊張で強張っていた肩の力がふっと抜け、夢月が口元を緩めてそう呟くと、なぜか神楽は不機嫌そうに端正な眉をひそめた。


「神楽さん、ねぇ……」


 囁くような小さな声だった。すでに珠吉の方へ意識を向けていた夢月の耳には届かなかったが、唯一その呟きを聞き逃さなかったマスターが、困ったように苦笑を漏らした。


「神楽さん、か」

『何だ、さっきから何度も。気味が悪いぞ』

「辛辣だなあ。ただ、少しばかり気になっただけだよ」


 二度目の言葉は、夢月の耳にもはっきりと届いた。大方、わざと聞こえるように声量を上げたのだろう。

 珠吉は神楽がわざとらしく芝居を打っていることを察し、心底嫌そうに鼻を鳴らした。

 化け猫に一蹴されても神楽は微塵も動じず、細めていた目をゆっくりと開いて夢月をじっと見つめた。

 その深みのある瞳に見つめられると、まるで魂ごと吸い込まれそうな錯覚に陥る。表面上の言葉だけでなく、胸の奥底にある感情まで暴こうとしているかのような視線だ。


「私ね、苗字で呼ばれるのはあまり好きじゃないんだ」

「え……?」

『おい神楽、急に何を言い出す』

「珠吉、少し静かにしていておくれ」


 今にも飛びかからんとする珠吉の頭を、神楽は視線すら向けずに手でガシッと鷲掴みにして動きを封じた。

 端から見れば動物虐待になりかねない光景だが、妖怪の化け猫に愛護法が適用されるのだろうか。特段動物好きというわけでもない夢月だが、動物愛護団体が見たら血相を変えて飛んできそうだなどと現実逃避する。

 珠吉を片手で抑え込んだまま、神楽は視線を夢月へと戻し、薄く不敵な笑みを浮かべた。


「こうして同じ店に通い、茶をしばく仲なのだから、いつまでも他人行儀なのは寂しいじゃないか」

『子供か貴様は』

「黙っていなさいと言ったろう。……君さえ良ければ、お互いに名前で呼び合いたいのだが。どうだろう?」

「な、名前……ですか!?」


 どんな恐ろしい追及や説教が始まるのかと身構えていただけに、神楽が口にしたのは拍子抜けするほど個人的な提案だった。

 ぽかんと口を開けたままフリーズした夢月の脳内で、神楽の言葉が文字起こしとなってぐるぐると駆け巡る。


(名前で呼ぶ……?  年上の、しかも軍服を着た男の人を……?  私が名前で呼んで、向こうも私を名前で呼ぶ……!?)


 ――ぼんっ! 


  と、頭の中で何かが爆発する音が聞こえた気がした。

 親友である華夏以外の人間を名前で呼ぶことすら稀なのに、ましてや異性とまともに喋った経験すら片手で数えるほどしかないのだ。

 ただでさえ男子と話すだけで緊張するのに、こんな綺麗な顔をした年上の男性を名前で呼ぶなど、ハードルが高すぎる。

 一人でパニックになり悶々と頭を抱えていると、耳元で衣擦れの音が聞こえた。

 ハッと横を向くと、目の前に神楽の顔があった。

 息がかかりそうなほどの至近距離。逃げ場を塞ぐように、彼はじわじわと身体を寄せてきていたのだ。


(確信犯だ!  絶対に面白がってやってる、この人……!)


 誰に訴えるでもなく心の中で絶叫する。当然、その心の悲鳴に救いの手を差し伸べる者はいない。

 完全に追い詰められた夢月は、助けを求めるようにマスターと珠吉へ視線を送ったが、一人と一匹は「我関せず」と言わんばかりに視線を逸らし、完璧なスルーを決め込んでいた。

 逃げ道は完全に潰された。

 期待を込めた眼差しを向けてくる神楽は、顔こそ爽やかに微笑んでいるものの、「早く呼んでごらん」という無言の圧力が全身から駄駄漏れしている。

 それでいて元の造形が恐ろしいほど整っているため、見つめられているだけで顔が熱くなり、居たたまれなくなってくる。断ろうにも断れない空気が完全に出来上がってしまっていた。


「う、ぐ……」


 こうなったら、腹を括るしかない。普段から人と関わることを避けてきた自分の人付き合いの浅さが、今になって恨ましかった。

 パクパクと金魚のように口を動かすが、喉の奥から掠れた声が漏れるばかりで言葉にならない。

 彼の名前は、以前マスターから聞いたことがある。脳裏にはっきりと浮かんでいるのに、舌が固まって動かないのだ。


(名前を呼ぶだけ……!  たかが名前を呼ぶだけじゃない……!)


 パンッ! と、店内にはじけるような高い音が響いた。

 夢月が両手で自分の両頬を思い切り叩いた音だった。

 何かある度に考えすぎて自滅する癖。すぐに人を疑ってしまう嫌な性格。自分から壁を作ってしまう弱気な自分に喝を入れるための、決死の気合入れだ。

 ジーンと残る頬の痛みに比例するように、頭の中のモヤモヤが吹っ切れ、妙な爽快感が広がっていく。

 一人で勝手に吹っ切れて晴れやかな顔をする夢月の横で、神楽はまるで豆鉄砲を喰らった鳩のように目を丸くしていたが、夢月がそれに気づく余裕はなかった。

 大きく深呼吸をひとつ。夢月は椅子ごと神楽の方へ向き直ると、彼の目を真っ直ぐに見つめて口を開いた。


「う、右京……さん……っ」


 勢いよく見つめたはずだったのに、名前を口にした瞬間、恥ずかしさのあまり視線が滑り落ちてしまった。声もどんどん小さくなり、最後は消え入りそうな蚊の鳴くような声になってしまう。


「…………ふはっ」


 俯いて真っ赤になった顔を両手で覆う夢月の耳に、誰かの押し殺した笑い声が届いた。

 しかしそれは一瞬で、すぐに店内はシンと静まり返る。

 その静寂がかえって不気味に感じられ、夢月が恐る恐る顔を上げると――神楽が軍帽を脱ぎ捨て、口元を両手で覆いながら、肩を激しく揺らしていた。

 彼が込み上げてくる爆笑を必死に耐えているのだと理解するまでに、夢月には数秒の時間を要した。


「ふははっ、あははははっ……!」

「な、ななな何で笑うんですか!?」


 ガタンッ!  と激しい音を立てて夢月は立ち上がった。

 顔を伏せて爆笑している神楽を見下ろし、店全体に響き渡るような金切り声を上げる。

 あろうことか、マスターも珠吉も揃って肩を揺らしてクスクスと笑っているではないか。中でも神楽は「ひー、ひー」と息を詰まらせながら涙目になって笑っており、極めてタチが悪い。

 顔を真っ赤にして額に青筋を立てる夢月は、完全にこの場の嘲笑の的にされていた。


「だ、だって……ふふっ、名前だよ?  ただ名前を呼ぶだけで、どうしてそこまで命がけなんだい……っ」


 神楽は笑いすぎて目元に浮かんだ涙を指先で拭いながら、腹を押さえて夢月を見上げた。普段のクールな軍人像など微塵もない。


「……気にしたら悪いんですか!?  私、こういうの初めてだから分からないんです!」


 もはや弁明する気力も失せ、開き直って八つ当たり気味に叫ぶと、神楽はピタリと笑うのを止めた。

 それまでの意地悪な目つきが消え、何処か驚きと、哀れみと、微かな困惑が入り混じったような複雑な瞳で夢月を見つめ返す。


「……誰かの名前を呼ぶのが、初めてということかい?」

「違います!  名前で呼ぶ友達くらいいます!  ただ……男の人の名前を直に呼ぶなんて機会がなかったから、戸惑っただけで……っ」


 神楽は思わずカウンターの中のマスターと顔を見合わせた。マスターもまた、夢月の口から飛び出した言葉が思いがけないものだったらしく、珍しく目を丸くして驚いていた。

 頭に血が上っていた夢月は、大きく深呼吸をしてどうにか荒い息を整えると、もう席には戻らずカウンターの上の鞄をひったくるように持ち上げた。


「……私、もう帰ります!」


 神楽の方へは一度も視線を向けず、半ば逃げるように背中を向けて出口へと歩き出す。


『フン、次に来た時はもっと詳しくその踊り場の話を聞かせろよ』


 背後から聞こえる珠吉の偉そうな捨て台詞を聞き流しながら、夢月は逃げるように店を飛び出した。

 バタン、と古びた扉が閉まり、店内に再び静寂が戻ってくる。

 先ほどまでの騒がしさが嘘のように消失し、柱時計の振り子が刻むチクタクという規則正しい音だけが空間を満たした。

 カウンターの上に座る珠吉の二股に分かれた尾が、何処か落ち着かない様子でゆらゆらと揺れている。

 夢月が去っていった扉から、その揺れる尾へと視線を移し、神楽はぽつりと呟いた。


「……只事ではないね」

『お前も感じたか』


 直前まで腹を抱えて腹を抱えて笑っていた男とは思えないほど、冷ややかで落ち着いた声だった。

 珠吉は首だけをクリンと振り返り、据わった瞳で神楽に応じる。

 神楽は口元に手を当て、深く思考の海へと沈み込んだ。


「ねぇ、マスター。私がここへ来る前にいたという、夢月の後輩について詳しく聞かせてもらえないかい?」

「申し訳ございません。この場にいらっしゃらないお客様のプライバシーに関わるお話は、出来かねます」


 マスターは困ったように微笑み、静かに首を振った。


「では、珠吉」

『……ふん、我なら話すと思っているな』

「君はマスターのようにここで雇用されているわけじゃないだろう?  客と直接対峙していないのだから、店の規則に背くことにはならないはずだ」


 有無を言わせぬ絶対的な圧を放ちながら、神楽は珠吉の顎下にそっと手を添えた。

 ぱちくりと瞬かれる珠吉の琥珀色の瞳を見つめる神楽の瞳から、光が完全に消えている。そこに残されているのは、冷徹なまでの洞察と、深い暗雲のような懸念だけだった。


『……いいか、あいつには絶対に秘密にしろよ』




 ❁




 夢幻喫茶を飛び出した夢月は、そのまま一度も後ろを振り返ることなく、逃げるように家まで駆け戻った。

 玄関の重い扉を閉めた瞬間、カチャンと錠の落ちる音と共に、ようやく張り詰めていた糸がプツリと切れたように大きく息を吐き出す。


「……疲れたぁ……」


 その場に鞄を投げ出し、靴を脱ぐことすら億劫になりながら廊下を這うように歩く。

 今日一日だけで、随分と色々なことが起こりすぎた。頭の容量がとうにキャパシティを超えている。

 体育の授業では、クラスの輪の中心にいる八雲と他愛もない話をして。

 夢幻喫茶にいけば、本館で遭遇した美咲と再会して。

 そして夢幻喫茶では、恋占いについて真剣に相談していたはずが――何故だか分からないが、神楽と下の名前で呼び合うなどという大惨事に発展してしまった。

 思い返せば思い返すほど、最後の出来事だけは余計であり、人生最大の痛恨の極みだった気がする。


「……右京さん……」


 誰もいない静まり返った廊下で、試しに掠れた声で小さく呟いてみる。

 すると、先程までの喫茶店での光景が嫌になるほど鮮明に脳裏へ蘇ってきた。


『私ね、苗字で呼ばれるのはあまり好きじゃないんだ』


 あの時の神楽の、何処か意地悪く弧を描いた端正な唇。

 名前で呼んでほしいと、逃げ場を塞ぐように接近してきたあの真迫の眼差し。

 そして――それに対する、己のあまりにも情けない狼狽ぶり。


「……うわぁぁぁぁぁ……っ!」


 思い出した瞬間、夢月は灼熱のように熱くなった両手で顔を覆い、その場に蹲まった。

 今更遅すぎる恥ずかしさと羞恥心が怒涛の波となって押し寄せてくる。

 何が悲しくて、ただ他人の名前を一つ呼ぶだけであそこまで大騒ぎし、挙げ句の果てに両頬を張り飛ばしてまで力んでしまったのか。


「……しかも、思いっきり笑われたし……!」


 神楽だけではない。

 静観を決めていたはずのマスターも、上から目線の珠吉も、揃って肩を揺らして腹を抱えていたのだ。

 あの瞬間は恥ずかしさを誤魔化すための怒りが勝っていたが、頭が冷えてきた今になって冷静に思い返してみれば、自分のテンパり具合は客観的に見ても相当おかしかったと思う。


「でもっ、普通に考えて年上の男の人を名前で呼ぶなんて恥ずかしいでしょ!  私は悪くない……!」


 誰もいない廊下で一人虚しく言い訳を呟きながら、夢月はどうにか立ち上がって部屋へと入った。

 制服を脱ぐ気力すら湧かず、そのままベッドへバタリと倒れ込み、天井を見上げる。

 白い天井の模様をボーッと眺めているうちに、今度はまた別の顔が脳裏に浮かんできた。

 厚い眼鏡の奥で、不安げに揺れていたあの少女の瞳。


「……美咲ちゃん……」


 夢月はゆっくりと身体を起こし、ベッドの端に腰掛けた。

 先程まで神楽に弄ばれた恥ずかしさなど、潮が引くようにどうでもよくなっていく。

 本当に向き合わなければならない問題は、あの後輩――涼風美咲のことだ。


「何で、あんなに怯えてたんだろう」


 数日前、本館の踊り場で初めて出会った時。夢月の姿を認識した瞬間の美咲は、まるでこの世の終わりのような恐怖に顔を歪め、脱兎の如く逃げ出した。

 そして今日、夢幻喫茶で再会した時も、最初は明らかに何かを警戒し、震えていた。

 けれど、夢月が根気強く話しかけると、氷が解けるように少しずつ警戒を解いてくれた。

 そして……恋の話をしている時の彼女は、まるで別人のように輝いていた。

 八雲のことを語る美咲は、頬を染め、本当につむじ風のように愛らしかった。

 あの幸福そうな笑顔を思い出すと、夢月の口元にも自然と小さな笑みが浮かぶ。


「……大好きなんだなぁ、八雲君のこと」


 美咲が握り締めていた新品の消しゴム。その白い側面に、マジックで痛々しいほど深く刻まれていた文字。

 そこにあったのは、紛れもなく「八雲」の名前だった。

 今日、体育の授業で話したばかりの少年。

 明るく社交的で、クラスの男子からも女子からも好かれるムードメーカー。人付き合いが苦手な夢月に対しても、分け隔てなく気さくに話しかけてくれるクラスメイトだ。

 人前に立つことが苦手で、周囲から浮いてしまいがちな美咲に、最初に優しく声をかけたのも彼だという。

 美咲が彼に惹かれ、心を奪われていく理由は、夢月にも胸が苦しくなるほど理解できた。


「そりゃ、あんな風に親切にされたら……恋占いなんかにも縋りたくなるよね」


 夢月はベッド脇に置いていたスマートフォンへ手を伸ばした。

 液晶画面を点ければ、今日の授業中に見せた八雲の屈託のない笑顔が脳裏を過る。

 けれど――夢月の指が、画面の上でぴたりと止まった。

 美咲が嬉々として話していた恋占い。


『新品の消しゴムに好きな人の名前を刻み、誰にも使われずに使い切れば恋が実る』

『放課後十七時、古い本館の踊り場にある姿見の前で願掛けをする』


 それらをスマホで検索すれば、色々なサイトやら記事やらがわんさか出てくる。

 ただの子供騙しの都市伝説。夢月自身も、最初はそう思おうとしていた。


「……本当に、ただの占いなのかな」


 胸の奥に、不気味なトゲのような違和感が刺さって離れない。

 夢月がそこまでの胸騒ぎを覚えているのは、間違いなくあの喫茶店での神楽や珠吉の「異様な反応」を目撃したからだ。

 二人とも、甘い恋占いそのものには一瞥もくれず、端から信じていなかった。

 むしろ、彼らが鋭く眼光を光らせ、追及してきたのは別の点――美咲が、あの古い姿見のある踊り場へ『再び行こうとしている』ということだった。


「珠吉、あんなに目つきを変えて焦ってた」


 思い出す。それまで居眠りを貪っていた化け猫が、『行くとは何処へだ?』と問い詰めてきたあの瞬間の琥珀色の瞳。

 あの目は、単なる好奇心などではない。明確に『何か凶兆を知っている者』の目だった。

 神楽もそうだ。『人の想いというものは、良くも悪くも強い力を持つ』と語っていた時の彼の表情。あれは決して机上の空論を語る顔ではなく、過去に惨劇や怪異を目の当たりにしてきた者の、冷徹なまでの底暗さを秘めていた。

 そして極めつきは、夢月が店を去った後の二人の空気だ。

 背中で閉まった扉越しにも感じられた、あの張り詰めた沈黙。二人は間違いなく、夢月の知らない「何か」を察知し、美咲の影に潜む危うさを確信していた。


「……何なんだろう、一体……」


 スマートフォンを強く握り締めたまま、夢月は小さく呟く。

 自分が過剰に考えすぎているだけかもしれない。姿見だって、ただ学校の備品として放置された古い鏡だ。

 恋占いだって、何処かの女子生徒が言い始めた根拠のないお遊びに決まっている。

 仮に八雲と美咲が結ばれたとしても、それは二人の純粋な想いが実っただけの微笑ましい結果だ。

 何もおかしいことなんてない。何も恐れることなんてない。

 必死にそう自分に言い聞かせ、思考を打ち消そうとする。

 それなのに――目を閉じると、脳裏にあの本館の踊り場が鮮明にフラッシュバックした。


 夕闇が差し込む薄暗い踊り場。

 木札の軋む音。

 ぽつんと置かれた、時代錯誤なほど古びた姿見。

 ヒビ割れた鏡面に映し出されていた、陰惨な影。

 そして――その鏡の前で、全身を震わせてこちらを見つめていた美咲の顔。


「…………っ」


 夢月は無意識に自分の肩をきつく抱きしめた。

 あの時、美咲はただ鏡を見ていたのではない。

 鏡の奥、あるいは鏡の向こう側に潜む「何か」を見て、心底怯えていたのではないか。


「……明日、行くんだよね……」


 美咲と交わした約束。

 明日の放課後、十七時。

 本館の、あの踊り場で待ち合わせ。一人ではなく、夢月も一緒に。

 そう思った瞬間、胸の奥が冷たい手で掴まれたようにざわついた。


「行かない方が、いいのかな」

 

 ぽつりと零した声が、誰もいない自室に虚しく響く。

 神楽や珠吉のあの切迫した反応を思い出せば、恐ろしい怪異や災厄に自分まで巻き込まれてしまう危険性が高いのは火を見るより明らかだ。関わらないのが一番賢明なのだろう。

 けれど――夢月はベッドからゆっくりと立ち上がり、机の上に置かれた鞄へと視線を向けた。


「……でも、約束しちゃったから」


 美咲は「待っています」と言ったのだ。

 あんなにも怯え、誰にも言えずに孤独に震えていた少女が、唯一自分を頼って心を開いてくれた。

 気怠いから、怖いからという理由でそれを突っぱねて見捨てることなんて、夢月の性分ができるはずもなかった。


「それに……」


 あの時、八雲の話をしている時に見せた美咲の純粋な笑顔。

 あんな風に誰かを一途に想える少女が、もしも歪んだ「何か」に利用され、取り返しのつかない目に遭おうとしているのだとしたら。


「……私が行かなきゃ。明日、ちゃんと一緒に行こう」


 夢月は固く拳を握り締め、自分自身に誓うように強く頷いた。







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