恋する乙女・1
時にたった一瞬の出来事が、何気ない日常に大きな影響を与えることがある。
それは誰も予想打にしなかった、悲劇であった。
「ねぇ、こんな噂、知ってる?」
本館の二階へと続く階段の踊り場には、誰も利用しない姿見が設置されている。
所々ヒビ割れてしまっている古い姿見が、いつからそこにあるのかなど誰も知らない。気がついた頃には、踊り場の壁に設置されていた。
誰が何のためにいつそこへ設置したのか、その理由を知る者がこの学校にはいない。
だからだろうか、その姿見は曰く付きの物として生徒に扱われるようになった。
「十七時、縁結びの姿見って噂」
誰が言い出したのかも分からない噂。そんな何の根拠もない話が、今では学校中の人間を振り回す噂へと成り上がったのである。
何処へ言っても耳にするのはその噂ばかり。皆がその噂を信じ、そして振り回されているのである。
誰一人としてその噂に疑問も抱かない。恋は盲目という言葉があるが、これは愚かな人間の所業であると言えよう。
それでも、たとえどんなに愚かな行いであったとしても。
人々は希ってしまう。ただ、ただただ。
想いを寄せる相手に振り向いてほしいがため。
己の心に従順に動き、我が儘な願いを叶えるために動く人々から都合の良いように扱われる。
物に心は無い。だからそんな扱いを受けても嫌だと声を上げることはできない。
しかし、もしも物に人の想いが宿ったとしたら。
物に人の想いが宿り、そして束縛されてしまったのなら。
そんな人間の都合に振り回される物と、想いに支配された人は誰が救ってくれるのだろうか。
❁
今日も今日とて、学校終わりに夢月は夢幻喫茶へと向かっていた。
授業中ですら、夢月の頭の中を支配していたのは夢幻喫茶のことばかりだ。
普段なら店に向かう足取りは軽やかである。
しかし今日は、たった一歩を踏み出すことすら無駄に体力を削られるように重く疲れていた。
その原因は、深く追及せずとも分かりきっている。
(あの時の違和感……。一体何だったんだろう)
柄にもなく華夏から聞いた噂が頭から離れず、好奇心に負けて例の姿見を見に行ったのはいい。
だが、あの場にいたのは夢月だけではなかったのだ。
眼鏡を掛けた、大人しい印象を受ける一人の少女。
リボンの色から、彼女が一年生であることは分かっている。
そんな少女のことよりも気に掛かるのは、新入生である彼女すら『十七時、縁結びの姿見』という噂を知っていたことだった。
夢月より一年長く学校に通っているはずの自分が知らなかった噂を、数ヶ月前に入学してきたばかりの彼女が知っている。
単に「夢月がオカルト話に疎いから」と片付けるには、些か無理があるように思えてならなかった。
考えれば考えるほど、次から次へと疑問が溢れ出してくる。
一つの懸念が湧き上がれば、それに呼応するように小さな不安が胸の奥で渦を巻く。
その度に、足取りは重くなる一方であった。
「店に着いたら、マスターに相談しよう」
こういった摩訶不思議な話は、一人で抱え込むよりも誰かに話した方がいい。
噂に負けず劣らず、夢幻喫茶にいる面々は摩訶不思議な存在なのだから。
彼らに話せば、何か分かることがあるかもしれない。
特に珠吉や梢といった人ならざる存在ならば、科学では証明できない現象についても何か知っていそうなものだ。
そう自分に言い聞かせることで、夢月はどうにか胸の奥に溜まった胸騒ぎを誤魔化していた。
――カラン。
また今日も、あの鐘の音が耳に届く。
夢幻喫茶が自分を歓迎してくれている証だ。
鞄の肩紐をぎゅっと強く握り締め、落としていた視線を上げる。
そうすれば、いつものように目の前に夢幻喫茶が現れるはずだった。
「あれ……?」
いつもの夢月であれば、鐘の音が聞こえるなり一目散に店内へ駆け出していただろう。
しかしこの時は、駆け出すどころか道の真ん中でぴたりと足を止めた。
ある一点を見つめたまま、夢月は呆然と口を開ける。
視線の先には、真っ直ぐに夢幻喫茶の建物を見つめる一人の少女が立っていた。
――本来、只者であれば認識することすらできないはずの夢幻喫茶。
それを、その少女は確かな瞳で捉えている。
「あの子……何処かで……」
店先で立ち尽くすその少女には、確かに見覚えがあった。
着ているのは、自分と同じ学校の制服。
少し離れていてはっきりとは見えないが、首元のリボンは緑色をしている。
そして横顔越しに、眼鏡を掛けているのが見えた。
まるで――放課後、踊り場の姿見の前で出会ったあの少女と瓜二つだ。
夢幻喫茶を見つめていた少女は、迷いのない足取りで一歩を踏み出した。
まるで、最初からここへ来ることを知っていたかのように。
そのまま吸い込まれるようにして、少女は店の中へと入っていく。
「……待って!」
ハッと我に返った夢月も、慌てて少女の後を追った。
扉を開けて中に入ると、嗅ぎ慣れた芳醇なコーヒーの香りが鼻腔を擽る。
「おいでませ、夢幻喫茶へ」
カウンターの中にいたマスターが、夢月を見て優しく微笑んだ。
対照的に、夢月は息を切らせ、焦りを隠せない表情を浮かべている。
マスターから視線を外しカウンター席へ目をやると、やはりそこには先程の少女が座っていた。
「こちらの席へどうぞ」
「あ、はい……お邪魔します」
夢月の葛藤を察したのか、マスターが隣の空席を指し示した。
促されるまま頷き、席につく。マスターが指し示したのは、眼鏡の少女のすぐ隣だった。
やはり見間違いではない。
隣に座っているのは、放課後に踊り場の姿見の前で出会ったあの少女だ。
ちらりと横目で見ると、眼鏡の奥の瞳が微かに揺れ動いているのが分かった。
何かに怯えているような、あるいはこの場所そのものに恐怖を感じているような――そんな異様な気配を纏っている。
「あ、あの……」
悶々と考えていると、あろうことか少女の方からこちらを振り向いた。
突然交わった視線に、夢月は思わず戸惑う。
凝視していたつもりはなかったが、少女の瞳には強い警戒の色が浮かんでいた。
「人違いかもしれませんが……お会いしましたよね? 今日の放課後、本館で」
夢月だけが抱いていたと思っていた既視感と懸念を、この少女も同じように感じていたらしい。
僅かに向けられていた警戒の圧がふっと緩む。
それでも、少女の瞳の奥にはあの時と同じ恐怖がこびり付いたままだ。
踊り場の姿見の前で見せた、あの今にも泣き出しそうな表情。
夢月はそれが妙に胸に引っ掛かった。
「赤いリボン……二年生、ですか」
「う、うん。一年生、だよね?」
「はい。一年の涼風美咲です」
「二年の如月夢月。ねぇ、聞きたいことがあるんだけど……いいかな?」
「私に答えられることなら」
随分と落ち着いた声音で、美咲は答えた。
姿見の前で見せたあの狼狽ぶりは見る影もない。大人しい印象はそのままに、何処か全てを悟って諦めているかのような佇まいだった。
その様子に、夢月はやけに歪な違和感を覚える。
一瞬、何を聞こうとしていたのか失念しそうになるほどだった。
口を開く。けれど、上手く言葉が出てこない。
――聞かない方がいい。
根拠のない胸騒ぎが、ふと頭を過った。
問いかけたところで答えを得られる保証はない。それどころか、知りたくもなかった事実に触れてしまいそうな予感がしたのだ。
それでも、夢月は言葉を紡いだ。
「……美咲ちゃんも、あの噂を聞いて踊り場に来たの?」
わざわざ聞くまでもないことだと分かっていた。
それでも美咲にそう問うたのは、彼女も自分と同じ理由であの踊り場に来たのではないかという、微かな期待があったからだ。
噂通りに誰かと結ばれるためではなく、皆が口にする噂が本当なのかを確かめるために来たのではないか、と。
だが、ほんの少し期待を込めて尋ねた夢月に対し、美咲はふっと視線を外して押し黙った。
その仕草が、夢月の目にはひどく不自然に映る。
何故、目を逸らすのか。
まるで触れられたくない核心を突かれ、居たたまれずに誤魔化しているようだった。
「……馬鹿なことだって、分かっているんです。でも、こうするしかなくて」
ぽつりと零し、美咲は顔を伏せた。
膝の上で固く握られた拳が、微かに震えている。
その震えに気づいたのは、すぐ隣に座る夢月だけだった。
自分の問いかけが彼女を追い詰めてしまった――そう悟った夢月は、助けを求めるようにマスターへ視線を送った。
カウンターの中から静かに耳を傾けていたマスターは、夢月の意図を汲み取り、美咲の前へと滑らかに移動する。
「お客様、こちらをどうぞ」
そう言ってマスターがカウンターに置いたのは、何処から取り出したのか分からない小さな小皿だった。
そこには、綺麗な正方形をした小さなチョコレートが四つ並んでいる。
差し出された皿を見つめ、美咲は目をぱちくりとさせた。
注文もしていないのに突然出されたのだから、困惑するのも無理はない。
「甘いものはお好きですか?」
「……はい」
「でしたら、遠慮なくどうぞ」
マスターが温かな笑みをたたえる。
美咲はしばらくチョコレートを見つめていたが、やがて小さく頷いた。
小さな一粒を指先で摘み、ゆっくりと口に運ぶ。
「……美味しい」
「それは良かったです。甘いものは、昂ぶった心地を少し和らげてくれますから」
「はい。何だか……楽になりました」
「では、貴方様の『願い』をお聞かせ願えますか?」
マスターの問いかけに応じるように真っ直ぐ彼を見つめる美咲の目には、先ほどまでの恐怖も警戒も消えていた。
ここへ来て初めて見せる、美咲の小さな笑み。
まだ幼さの残る顔に薄っすらと笑みを浮かべ、彼女は深く腰掛け直した。
そしてもう一度顔を上げると、はっきりとした口調で言った。
「私、好きな人がいるんです」
❁
徐々に客足が増え、店内が少しずつ賑やかさを増していく。
カウンター席に並んで座る夢月と美咲の間には、重苦しい沈黙が流れていた。
一度だけ「好きな人がいる」と口にした美咲だったが、それ以降は固く口を閉ざしてしまったのだ。
先ほどまで光を宿してマスターを見つめていた瞳も、再び伏せられている。
彼女の願いのためにも、そして彼女自身のためにも、もう少し踏み込んで理由を尋ねるべきなのだろう。
そう分かってはいても、夢月もマスターも、これ以上踏み込んでよいものかと逡巡を余儀なくされていた。
「夢月先輩」
「な、何?」
ずっと黙り込んでいた美咲が、突如として夢月の名前を呼んだ。
まさか彼女から話を切り出してくるとは思わず、夢月は素っ頓狂な裏返った声を上げてしまう。
振り向くと、美咲はすでに夢月をじっと見つめていた。
「私がこれから何を言っても……絶対に馬鹿にしないって、約束してくれますか?」
美咲の瞳には、強い決意が宿っていた。
同時に、そこには拒否を許さないような底知れぬ圧が滲んでいる。
問われた夢月は、弾かれたように勢いよく頷いた。
断れない――そう思わせるだけの不穏な空気を、彼女の全身から感じ取ったからだ。
夢月の反応を確認すると、美咲は満足そうに口元を緩め、ひとつ息を吐いて語り始めた。
「夢月先輩って、恋占いとか信じますか?」
「こ、恋占い……?」
やけに真剣な眼差しを向けられたものだから、一体何を打ち明けられるのかと身構えていた夢月は、肩の毒気を抜かれたような気分になった。
恋占いといえば、少女向けの雑誌や書籍に載っているような、あの可愛らしいお呪いのことだろうか。
色恋沙汰とは無縁の生活を送ってきた夢月にとって、「恋占い」など日常で耳にすることすら稀な単語だった。
「最近、校内でやけにカップルが増えたじゃないですか。それと同時に、うちのクラスの女子の間でも恋占いが流行りだしたんです」
「言われてみれば……確かにみんな、やけに星座とか誕生日を聞いて回っていたっけ」
記憶を手繰り寄せると、近頃クラス内で互いの生年月日を熱心に尋ね合う生徒達の姿が思い当たる。
友達の少ない夢月にも聞いてくる者は 時折いたが、女子達のグループで盛り上がっていたのは、多かれ少なかれ占いや運勢の話だった。
「私だって、最初は馬鹿馬鹿しいって思っていましたよ。占い一つで恋が叶うなら、誰も苦労しませんから」
夢月からふいっと視線を外した美咲は、自分の膝の上で強く握り締めた拳を見つめた。
悔しげに細められた瞳の奥に、微かな熱が揺らめいている。
「でも……何でしょうね。恋占いなんていう馬鹿げたものに縋らないと、自分だけが周りに置いていかれるような気がして……」
「周りに置いていかれるって……そんなの、気にしなくたっていいのに」
恋占いの存在すら今知ったような夢月からすれば、それらを信じている美咲よりも自分の方がよっぽど時代に取り残されている。
恋愛に興味がなく、周りの流行にも疎い夢月だからこそ言える、無責任な慰めだったのかもしれない。
自分がどれほど的外れな言葉をかけているか、この時の夢月は気づいていなかった。
「そう……ですよね。他人は他人。私が気にすることじゃないって、頭では分かっています。でも……」
美咲は一度言葉を切り、膝の上で握り締めていた手をゆっくりと開いた。
「どうしても……あの人の近くにいたいって、思っちゃうんです」
そう呟く美咲の横顔は、まるで恋愛映画のヒロインのように儚げで、何処までも一途な恋する乙女そのものだった。
純粋に誰かを愛おしむ、無邪気で切ない少女。
相手が誰なのかは分からないが、ぽっと頬を赤らめる美咲の姿を見ていると、どれほどその人物を大切に思っているかがひしひしと伝わってくる。
先ほどまで感じていた彼女への不気味な違和感は、いつの間にか霧散していた。
気がつけば、夢月は自然と問いかけていた。
「あの人って……誰なの?」
何気なく尋ねたつもりだった。
しかし美咲は思いのほか大きく目を見開き、心底驚いたように固まった。
「え、えっと……それ、は……」
突如として目を泳がせ始めた美咲は、これまでにないほど頬を朱に染めている。
両手の人差し指をチョンチョンと突き合わせながら、恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。
そんな風に照れる美咲を前にして、夢月は好奇心を抑えきれずに思わず身を乗り出す。
その仕草が拍車をかけ、美咲の顔は熟した林檎のように真っ赤になった。
「……ひ、ひとつ上の……先輩です」
「てことは、二年生……私と同級生か」
自分のクラスメイトの顔すら全員は把握していない夢月にとって、年上の先輩と接点がある美咲は、何処か眩しく羨ましい存在に見えた。
しかも、その先輩に恋をしているというのだ。
「何処で出会ったの?」
「私、図書委員なんですけど……たまたま同じ日に当番になって。一年生で右も左も分からない私に、その人がすごく優しく教えてくれたんです」
恋愛漫画などでよく目にする、異性の優しさに触れて恋に落ちるというシチュエーション。
美咲もまた、王道とも言えるきっかけでその先輩に惹かれたらしい。
異性と関わる機会の少ない夢月には未知の世界だったが、真っ赤になって語る美咲を見ていると、決して馬鹿にする気にはなれなかった。
むしろ話を聞いているうちに、自分まで胸が甘酸っぱくなるような錯覚すら覚える。
「その人って、どんな人?」
「第一印象は……元気で明るい人だなって思いました。一番最初の委員会で自己紹介があったんですけど、私、人前に立つのが苦手で上手く話せなかったんです。皆の視線が集まるのが、思った以上に恐くて……」
自嘲気味に呟く美咲の言葉には、夢月にも重なる部分があった。
極度の人見知りというわけではないが、大勢の前で注目を浴びれば誰だって緊張する。
華夏という親友がいなければ、自分だって孤独な高校生活を送っていたはずだ。
美咲の控えめな性格からしても、自分から進んで声を張るタイプではないのだろう。
心の中で深く共感しながら、夢月は静かに耳を傾ける。
「席を立ったまま声が出なくなって固まっていた私に、隣に座っていたその人が『落ち着いて、大丈夫だよ』って優しく声をかけてくれたんです」
美咲の声が、ふっと柔らかさを帯びる。
「それが、本当に嬉しくて……。今までも人前に出て言葉詰まらせる度に、周りから冷たい目を向けられてきました。でも、その人は優しく背中を押してくれて……誰かにあんな風に励ましてもらえたの、生まれて初めてだったんです」
言葉を区切り、美咲は愛おしそうに目を細めた。
「その人の言葉に……私、救われたんです」
そう語る美咲は、ここへ来て初めて、まるで花が綻ぶような華やかな笑顔を浮かべた。
店を訪れた当初の怯えた気配は微塵もなく、そこにいるのは大好きな人を想う一人の少女だった。
たった一歳しか違わないというのに、美咲は先輩である自分よりも遥かに深く他人を見つめ、大切に思っている。
照れくさそうに頬を染める姿も、ちっとも恥ずかしいことなどではなく、純粋に羨ましかった。
「……って、すみません! 私、勝手に一人で喋りすぎちゃって……」
「ううん、気にしないで。名前は知らなくても、すごく素敵な人なんだなって伝わってきたよ。そんな人がいるなら、私も話してみたいな」
「もしかしたら、夢月先輩も知っているかもしれません。この間、その人が選択授業で本館に向かうところを見かけたんですけど……そのすぐ隣に、夢月先輩もいたので」
美咲はそう言うと、足元に置いていた鞄を持ち上げ、膝の上に載せた。
ジッパーを開けて中を探る彼女の横で、夢月は今の言葉に思考を巡らせる。
夢月が取っている選択授業は受講人数が少ない。
そのため、普段あまり関わりのない生徒とも言葉を交わす機会が多々あった。
選択授業の教室へ向かう途中で、一緒になる人物といえば――。
「さっきも言った通り、恋占いなんて馬鹿馬鹿しいって思っていたんですけれど……」
美咲の声が、ふっとトーンを落とした。
「やっぱり……縋りたくなっちゃうんですよね」
俯いた美咲の手元にあったのは、筆箱から取り出された一個の消しゴムだった。
下ろしたての新品らしく、白い角が綺麗なまま残っている。
一見すると、何処にでもある普通の消しゴムだ。
しかし美咲は、それを宝物でも扱うかのように愛おしげに見つめていた。
夢月は身を乗り出し、彼女の手元を覗き込む。
「恋占いにもいろいろあって……私はその中でも、一番簡単そうなこの占いに試してみたんです」
ここでようやく、美咲が「恋占い」について尋ねてきた理由が腑に落ちた。
口では否定しながらも、彼女は溢れる恋心と不安に耐えかね、お呪いに救いを求めていたのだ。
好きな人に振り向いてほしいという、切実な願いを込めて。
美咲の指先が、スリーブをゆっくりと滑らせる。すると、白いプラスチック消しゴムの本体が露わになっていく。
だが――本来なら真っ白であるはずの側面に、不自然な黒い傷のようなものが刻まれていた。
最初は単なる汚れかと思った。
けれど、スリーブが押しずらされるにつれ、その「汚れ」の異質さが剥き出しになっていく。
消しゴムの三分の二ほどが露出した時、夢月は息を呑んだ。
それは汚れなどではない。黒のボールペンで、削るように深く刻み込まれた「人の名前」だった。
「え……?」
“それ”を見るなり、夢月の口からは思わず声が漏れた。
まさか美咲の消しゴムに、誰かの名前が執拗に刻まれているなど、想像すらしていなかった。
美咲は何も言わない。
ただ、黒く刻まれた文字をじっと見つめている。
その瞳には、先ほどまでの恥じらいとは明らかに異なる、暗く底深い安堵が浮かんでいた。
「新品の消しゴムにマジックとかの消えないペンで好きな人と自分の名前を書く。その間にハートを書いて、誰にも見られずに使い切ると恋が叶う……」
美咲は淡々と、感情の抜けた声で説明を続けた。
「何でもいいから自信が欲しくて、縋れるものが欲しかったんです。クラスの子達がやってるのを見て……ハートを描くのは流石に恥ずかしかったから、せめて好きな人の名前だけでも、と思って」
そこで美咲は、ひび割れたような笑みを浮かべた。
「今思えば、かなり痛いことしてますよね」
乾いた笑いを漏らすと、美咲は夢月の言葉を待つことなく、消しゴムをすっとスリーブに戻した。
そのまま筆箱へ納め、鞄のジッパーを閉める。
夢月に見せるためというより、自分自身にその存在を刻みつけるかのような、短い一幕だった。
誰にも使われていない、名前の刻まれた消しゴム。
それがそこにあるという事実だけが、臆病な彼女の精神を繋ぎ止めているようだった。
「……夢月先輩?」
放心したように固まっている夢月を、美咲が覗き込んできた。
夢月の瞳は見開かれたまま、美咲の空になった手元を凝視している。
目から入った情報が脳に届く前に凍りついたように、思考が拒絶を起こしていた。
――けれど、名前だけは。
はっきりと、脳裏に焼き付いて離れなかった。
「……なんで、八雲君の名前が?」
「あ……やっぱり」
美咲の表情が、ほんの一瞬だけ変貌した。
歓喜に歪むように、自分の立てた推測が正しかったことを確認し、心から満足したように。
「夢月先輩も……八雲先輩のこと、知っていたんですね!」
美咲の消しゴムに深く刻まれていたのは、夢月が校内で唯一親しく接している男子生徒の名前だった。
今日、夢幻喫茶へ来る前にも、体育の授業の合間に少し言葉を交わしたばかりだ。
彼とは選択授業が同じで、これまでにも何度も話したことがある。
向こうから気軽に話しかけてきては、「今日の授業ダルいっすね」とか、くだらない雑談を笑い合える相手。
一見するとノリの軽い調子者に思えるが、裏では非常に勉強熱心で面倒見が良いことを夢月は知っていた。
美咲が言った通り、気後れする後輩にも気さくに手を差し伸べられる優しさを持った人物だ。
クラスのムードメーカーで、誰もが惹きつけられる人気者。
自分とは対極に位置する存在。
特別な感情を抱いていたわけではない。それでも、美咲が彼に恋をした理由は痛いほど理解できた。
「ぶっちゃけてしまうと、高校に入ってから先生以外で初めて話しかけてくれた生徒が、八雲先輩だったんです」
美咲は再びぎこちなく笑った。
「私って、見るからに暗いじゃないですか。長い前髪と目つきのせいで、誰も寄ってこなかった。……そんな中で、唯一声をかけてくれたのが八雲先輩だったんです」
言葉を失う夢月に、美咲は隠す様子もなく彼の魅力を語り続ける。
最初は微笑ましい恋物語として聞けていたはずの言葉が、今や一句一字ごとに頭を刺す激痛となって襲いかかってきた。
美咲の好きな人が自分の知人だったから――だけではない。
胸の奥深くに、目に見えない冷たい棘がズスリと突き刺さっている。その痛みの正体を、夢月はまだ知らない。
「ねぇ、夢月先輩」
「……え?」
「私、またあの踊り場に行こうと思っているんです」
美咲は鞄を抱えたまま、夢月の目をまっすぐに見つめ返した。
「だから……夢月先輩も、来てくださいね」
「え……?」
「時間は今日と同じ、放課後が良いかな」
美咲は薄く微笑んだ。けれどその笑顔は、先ほどまでの「恋する少女」のものとは決定的に異なっていた。
冷たく、影を孕んだ、逃げ場を塞ぐような笑み。
「絶対に来てくださいね。待ってますから」
「……あ、うん……」
夢月が引き攣った返事をしたのを見届けると、美咲はスッと立ち上がった。
そして、何処か急ぎ足で店の出口へと向かっていく。
「美咲ちゃん、もう帰るの……!?」
「はい。今日はもう、十分ですから」
「十分って……?」
夢月の問いかけは、美咲には届かなかった。
彼女は一度も振り返ることなく、古びた扉へと手を伸ばす。
カラン。
寂しげな鈴の音が響く。
美咲の華奢な背中は、扉の向こうに広がる白銀の光の中へと溶けるように消えていった。
取り残された夢月は、怒涛のように押し寄せた異変の数々に、ただただ立ち尽くすことしかできない。
けれど、この時の夢月は、まだ知る由もなかった。
次にあの姿見の前へ足を運んだ時。
自分が直面する出来事が、到底「ただの恋占い」などという甘っちょろい言葉では片付けられない悪夢だということを。




