十七時、縁結びの姿見・2
いつから、好きだったんだろう。
そう自分に問い始めた頃には、すでに私の恋も、私の短い人生すらも、とっくに終わりを迎えていた。
暗い。
寒い。
冷たい。
痛い。
どうして、私はこんな寒々と暗い場所に一人でいるんだろう。
私は、ここで何をしていたんだろう。
誰に何を言われて。
自分は何を言って。
どうして、こんな取り返しのつかないことになってしまったんだろう。
何も、思い出せない。
何度かろうじて残る記憶を辿ろうとしても、頭の中には粘着質な黒い靄がかかったように、何ひとつ浮かんでこない。
ただ――あの日見た、あの人の笑顔だけが。
どんなに打ち消そうとしても、どうしても頭から離れてくれない。
好きだった。
ただ、純粋にあの人の隣にいたかった。ただ、それだけだったのに。
なのに。
どうして、私の心はこんなにも千切れるほど苦しいの?
どうして、私はこの底のない暗闇から出られないの?
誰か。
お願いだから誰か、私をここから救い出して。
私は、おうちに帰りたい。
あたたかい場所へ、帰りたいだけなのに。
ねえ。
どうして誰も、私を迎えに来てくれないの?
私はここにいるよ。ずっと、ここで待っているのに。
暗い。
寒い。
寂しい。
孤独は、嫌。
誰かと、話がしたい。
誰かに優しく触れてほしい。
誰かに――私を好きだと言ってほしい。
そう、心の底から悲痛に願った瞬間。
何処までも続く暗闇の向こう側に、ぼんやりと柔らかな光が灯った。
そこにあったのは、一枚の姿見。
ガラスの向こうには、見覚えのある懐かしい景色が滲むように映っている。
古びた木の匂いが漂う、古い校舎。
見慣れた、あの階段の踊り場。
そして――。
鏡の前で胸の前に細い両手を組み、縋るように目を閉じる、幼い一人の少女。
『――好きな人と、結ばれますように』
無垢な言葉が鼓膜を揺らした瞬間。
私の存在しないはずの胸の奥底が、刃物で突かれたようにひどく痛んだ。
どうして、貴方までそんなことを願ってしまうの?
そんな呪いのような願いを口にしたら――。
また、私のいるこの寂しい場所へ引き摺り込まれてしまう。
また、ここで絶望する人が一人増えてしまう。
そう思っているのに。
私の冷え切った指先は、吸い寄せられるように鏡の向こう側へと手を伸ばしてしまう。
届かない。
どれだけ必死に手を伸ばしても。
喉が破れるほどに叫び続けても。
この冷たい手は、境界線であるガラスの向こう側には決して届かない。
ただ、あちら側の世界を見ていることしかできないのだ。
誰かの恋を。
誰かの儚い願いを。
誰かの温かな幸せを。
ずっと、ずっと――。
ただ指を咥えて見ていることしか、私にはできない。
いつから、私はここに囚われているんだろう。
いつまで、私はここで一人きりで泣き続けるんだろう。
分からない。
何も分からない。
ワカラナイ。
ただ、ただ私は、あたたかい場所へ帰りたいダケなのに。
❁
夢月は息を殺し、ゆっくりと鏡へ向かって歩み寄った。
一歩。
また一歩。
靴底が不気味な暗闇を踏みしめるたび、コン、コン、と乾いた足音だけが虚無の空間に虚しく響き渡る。
少なくとも、今のところは、姿見の鏡面は何も映し出そうとしない。
己の立ち姿も。
背後に広がる何処までも底のない暗闇さえも。
ただ、漆を塗り固めたような黒々としたガラスの表面だけが、夢月の動揺を映すこともなく静かに見返していた。
「ここは、姿見の内側の世界?」
恐る恐る、細い指先を伸ばす。指の腹が冷たい鏡面へ触れようとした、まさにその瞬間だった。
ふわり、と、漆黒の鏡面の奥深くで、淡く温かな橙色の光が灯った。
「えっ?」
夢月は弾かれたように手を引っ込める。
鏡面に張り付いていた暗闇が、水面に石を投じたかのように滑らかな波紋を描いて揺らめいていく。
そうして、揺らぎが収まった鏡の向こう側に――見慣れた光景がじわりと浮かび上がった。
「……嘘」
夢月は目を見開いたまま、息を呑んだ。
そこに映し出されていたのは、古びた本館の踊り場でもなければ、名もなき異界の景色でもない。
深みのあるアンティーク扉。
柔らかく店内を包み込む橙色の照明。
カウンターの奥の棚に整然と並ぶ、艶やかな紅茶の缶や珈琲豆。
カチ、カチと静かに時を刻む古い壁掛け時計。
そして、見慣れた文字が躍る立て看板――夢幻喫茶。
「……夢幻、喫茶……なのかな……?」
思わず漏らした声が、微かに震えた。
間違えるはずがない。
放課後になれば何度も足を運び、扉のベルを鳴らした大好きな場所だ。
重い扉を開ければ、マスターがいつもの穏やかな笑みで「おいでませ」と迎えてくれて。
使い込まれたカウンターの上では珠吉が丸くなって欠伸をしていて。
少し離れたいつもの端のカウンター席では、神楽が優雅に紅茶のカップを傾けている。
そんな、当たり前で愛おしい、いつもの日常の光景。
けれど。
「……何か、おかしい……」
夢月は不自然さを感じ取り、密かに眉を寄せた。
景色は確かに、いつもの夢幻喫茶そのものだ。
間違いなく、温かな憩いの店内だ。なのに――妙なほど静まり返っていた。
壁掛け時計の針は動いているはずなのに、カチカチという秒針の音が聞こえない。
いつも店を満たしている香ばしい紅茶や珈琲の豊かな香りすらもしない。
それでも。鏡の向こう側には、確かに三人の姿があった。
マスターがいつものように落ち着いた手つきでカウンターの奥に立っている。
珠吉がいつもの横柄な態度で、カウンターの上に香箱座りで座っている。
そして――。
「右京さん」
夢月の唇から、自然とその名前が零れ落ちた。
神楽が皆と話して、笑って、紅茶を飲んで、また笑っている。
整えられたいつもの軍服姿。
立ち振る舞いから溢れ出る、いつもの隙のない気品。
そして、いつもと同じ所作で静かに紅茶を口に含んでいる。
その姿を目に焼き付けた瞬間、夢月の胸の奥で固く張り詰めていた糸が、一気に解けていくのが分かった。
「……よかった……」
知らない暗闇にたった一人で取り残された強烈な恐怖。
美咲が目の前で姿を消してしまったことへの拭えぬ罪悪感と不安。
そして、自分までもがこの気味の悪い異界へ引き摺り込まれてしまったことへの動揺。
それら全てを押し殺し、夢月はずっと必死に大丈夫だと自分に言い聞かせて強がっていたのだ。
けれど、自分の帰るべき大好きな場所が目に入っただけで、強張っていた心が嘘のように解きほぐされていく。
「帰れるんだ」
ぽつりと、安堵の呟きが漏れる。
鏡の向こうには、いつもの夢幻喫茶があるのだ。だったら、あそこへ飛び込んで戻ればいい。
マスターに「怖かったです」と事情を打ち明けて。
珠吉に「無茶をしやがってこの愚か者が!」と怒られて。
神楽にはきっと、「とんだ無茶をするね、君は」と呆れたように優しく苦笑されるのだ。
そうして、また平和な日常へと戻っていく。
きっと大丈夫。絶対に助かる。
夢月はそう信じて疑わなかった。
鏡面へ、迷うことなく両手を伸ばす。今度は何の躊躇いもなかった。
「マスターっ!」
ガラスに向かって声を張り上げる。
けれど、鏡の中のマスターはぴくりとも動かず、ただ黙々とグラスを磨き続けている。
「珠吉っ! ここだよ!」
名前を呼ぶ。
けれど黒猫は耳すら動かさず、虚空を見つめたまま身じろぎひとつしない。
「右京さん! 助けて……っ!」
それでも、誰一人として、こちらに顔を向けようとはしなかった。
「……え……?」
夢月の顔から、笑みが徐々に引き攣り、固まっていく。
何度叫んでも。
何度両手で鏡面を激しく叩きつけても。
鏡の向こうの三人は、まるで夢月という存在の音も影も最初から存在しないかのように、ただそこにあるだけの「置物」のように佇んでいる。
「ねえ、聞こえないの!?」
ドン、と小さく拳を叩きつける。
「皆! ねえ! ねえってば!」
ドン、ドン! と必死に叫びながら鏡を叩く。それでも、何の反応も返ってこない。
やがて、鏡の向こう側にいた神楽が、ゆっくりと優雅な動作で顔を上げた。
「……っ!」
夢月はパッと息を呑んだ。
目が合った――そう思った。
けれど、神楽の涼やかな切れ長の瞳は、夢月の立っている空間を完全に透過し、虚無のその先を素通りしていた。
まるで、鏡のこちら側には誰もいないと言わんばかりに。
そして神楽は何事もなかったかのように、再び手元の紅茶のカップへと静かに視線を落とした。
「…………ぁ」
夢月の背筋を、氷水を注ぎ込まれたかのような冷気が這い上がっていく。
おかしい。
ここは、自分の知っている夢幻喫茶じゃない。少なくとも、自分が愛した温かなあの店ではない。
そう直感した、その瞬間。
どこからともなく、湿り気を帯びた声が鏡の奥から鼓膜へ直接響いた。
『――帰りたくて、堪らないのでしょう?』
「……っ!」
誰の声なのか判別がつかない。
男のようでもあり、女のようでもあり、老人のようでも、幼子のようでもある。
耳元で直接囁かれているようにも、遥か遠くの底から反響しているようにも聞こえる気味の悪い歪んだ声。
夢月は恐怖に引き攣り、咄嗟に後ろを振り返った。
けれど、そこには相変わらず冷たい黒々とした暗闇が広がっているだけだ。
弾かれたように、再び鏡へ視線を戻す。
すると、さっきまでそこにいたはずの神楽の姿が、影のように掻き消えていた。
「……え……?」
マスターもいない。
珠吉も消えている。
誰もいなくなった、しんと静まり返る夢幻喫茶の店内だけが、虚ろに鏡の向こうに残されていた。
そして、その誰もいない店の客席の中央に。
ポツンと一つだけ、夢月を招くように木製の椅子が置かれていた。
まるで、誰かが夢月が境界線を越えて入ってくるのを、今か今かと待ち構えているかのように。
『帰りたくて……温かい場所へ戻りたいのなら――』
声が、今度は誘惑するように甘く頭蓋を揺らす。
『ここへおいで。貴方の居場所は、ここにあるわ』
夢月は足が竦み、指一本動かすことができなかった。
恐ろしい。とてつもなく気味が悪く、逃げ出したい。
なのに、鏡の向こうに透けて見える「偽りの夢幻喫茶」の温もりと安らぎが、狂おしいほどに恋しくなってしまっている自分がいた。
夢月は震える息を呑みながら、恐る恐る姿見へ手を伸ばした。
指先が、冷たい鏡面へと接触する――その瞬間だった。
ぐにゃり、と、ガラスの境界線の向こう側にあった静止画のような夢幻喫茶が、大きく歪み歪んだ。
「……っ!」
水面に大石を投げ込んだかのように激しい波紋が広がり、見慣れた店内の景色が絵の具のように溶けて崩れていく。
けれど、今度はあの真っ暗な虚無の世界へは戻らなかった。
揺らめく波紋の向こう側から、見慣れた店内の光景が、今度は色鮮やかな立体感を伴って再び浮かび上がってくる。
木製のアンティーク扉が、静かに押し開かれた。
カラン、カラン――。
暗闇に、あまりにも澄んだ聞き慣れたドアベルの音が響き渡る。
「こんにちはー!」
明るく元気な声と共に、一人の少女が軽やかな足取りで店内へと入ってきた。
着慣れた制服姿。
重そうな通学鞄を肩に掛けて、走ってきたのか少しだけ息を弾ませながら。
その顔を正面から捉えた瞬間、夢月は自分の胸の鼓動すら止まった錯覚を覚えた。
「…………え……?」
そこにいたのは――自分だった。
夢月と寸分違わぬ顔立ち。
同じ制服の結び目。
同じ髪型、同じ仕草。
まるで、鏡のあちら側に「もう一人の夢月」が現実として存在しているかのようだった。
「……私……?」
呆然と呟く声が、乾いた喉から引きちぎれる。
けれど、鏡の向こう側の「夢月」には、こちら側の声など一切届いていない。
「今日も来ちゃいました!」
そう言って、迷いのない足取りでいつものお気に入りの客席へと向かっていく。
その表情は、夢月自身が普段この愛おしい店で浮かべているものと何ひとつ変わらなかった。
楽しそうで。
心底嬉しそうで。
世界で一番安心しきっている、温かな笑顔。
「おや、今日も来てくださったのですね」
消えたはずのマスターの声が鼓膜を揺らす。
一つ瞬きをすると、また彼らがいる。何食わぬ顔で、何もなかったように、そこにいる。
そして、一度消えたはずのマスターは、しっかりと“向こうにいる夢月”を見ていた。
「はい!」
鏡の中の夢月が嬉しそうに頷いて笑う。
そのすぐ隣では、黒猫の珠吉がカウンターの上で丸くなってシッポをパタパタと揺らしていた。
『遅いぞー! 待ちくたびれたんだからなっ!』
「ごめんごめん、珠吉。今日はちょっと最後のホームルームが長引いちゃって」
そんな、何気ない遣り取り。
これまで何度も何度も繰り返してきた、夢月にとって宝物のような会話。
そして――。
「やっと来たんだね、夢月」
カウンター席の奥から、低い澄んだ声が響く。
「……っ!」
夢月は吸い寄せられるように、鏡面へと顔を極限まで近づけた。
そこに座っていたのは、神楽だった。
気品ある軍服に身を包み、いつものように優雅な手つきで温かな紅茶を口に含んでいる。
その姿を目に焼き付けた瞬間、夢月の胸の奥が、ぎゅっと握り潰されたように熱く痛んだ。
「右京さん……っ」
けれど、鏡の中のもう一人の夢月は、そんな神楽の元へとパッと表情を輝かせて駆け寄っていく。
「神楽さん、聞いてくださいよ! 今日、学校でね――」
「ふふ。まずは落ち着いて座りなさい。ちゃんと聞いてあげるから」
楽しげな笑い声が、鏡の向こうから零れ落ちてくる。
無邪気で、弾むような声。
何処までも穏やかで、優しさに満ちた空間。
そこには、夢月が心から愛し、守りたいと願っていた「夢幻喫茶の日常」の全てが存在していた。
いや、違う。
夢月は、すぐに決定的な異質さに気がついた。
「……伊吹……さん……?」
鏡の奥のカウンター席に、いつの間にか、もう一人の見慣れた人物が座っていた。
神楽のその隣、彼と夢月の間に座っていたのは伊吹だった。
「ああ、来たのか」
「はい! 伊吹さんも来てたんですね」
「こいつに引き摺られてな」
強面の彼とは思えないほど、穏やかに笑う伊吹。
その姿を目にして、夢月の胸の底から湧き上がる違和感と恐怖が、さらに黒く広がっていく。
「梢さん、まで」
今度は、夢月の背後のボックス席で静かに微笑む梢の姿。
そして――。
「とこよ、ちゃん?」
知っている顔が、大好きな仲間達が、次々と鏡の中の夢幻喫茶へ現れては、和やかに集い合っていく。
伊吹。
梢。
とこよ。
マスター。
珠吉。
神楽。
そして――「私(夢月)」。
全員が揃っていた。
まるで、この世界で怪異なんて何ひとつ起こっていないかのように。
美咲が消えてしまった惨劇など、最初から存在しなかったかのように笑っている。
楽しそうに会話を交わしている。
いつものように、くだらない冗談を言い合って。
いつものように、誰かが温かく笑って。
いつものように、かけがえのない幸せな時間が流れている。
「…………」
夢月は、冷たい鏡の前で完全に立ち尽くしていた。
おかしい。
絶対におかしい。こんなの狂っている。
だって、本物の自分は、今こうして寒々と暗い異界の中に置き去りにされているのだ。
誰にも届かない場所で、ずっと鏡の向こうの光を指をくわえて見つめているのだ。
「……どうして……っ」
鏡の中には、「私」が存在している。
幸せそうに笑っている。
大好きな皆に囲まれて、楽しそうに過ごしている。
まるで、最初から自分という存在がこの暗闇に消えてしまうことが決まっていて、代わりの「私」さえいれば、何も問題はないと言わんばかりに。
胸の奥底が、刃物でえぐられたように激しく痛んだ。
自分の居場所。
自分が何よりも大切にしていた、温かな箱庭。
そこに、自分と全く同じ顔をした「誰か」がすんなりと収まっている。
しかも、その「偽物の私」は、現実の自分よりもずっと上手く笑い、ずっと愛されていた。
「違う……っ」
夢月は、己を激しく拒絶するように首を振った。
「そこにいるのは……私じゃない……っ!」
声に出して自分に言い聞かせる。
けれど、鏡の向こうで「もう一人の自分」が嬉しそうに笑うたび、胸の奥がざわざわと狂おしく逆立った。
あれは、どう見ても自分だ。
自分の顔。自分の声。自分の笑い方。
もしも、自分がこの底なしの暗闇から永遠に出られなかったら。
もしも、二度とあのみんなの元へ戻れなかったら。
あの「夢月」が、自分の代わりにずっとあの場所で、皆と笑って過ごしていくのだろうか。
自分という本物が暗闇の中で腐り落ちていったことすら、誰一人として気づかないまま。
「…………嫌だ……っ」
気づけば、夢月の血の気の引いた唇から、絞り出すような悲鳴が漏れていた。
「嫌……嫌だあ……っ!」
縋るように、激しく鏡へ両手をつく。
冷たい。
ガラスの向こう側には、あんなにも眩しく温かな光景が広がっているというのに。
自分の掌に伝わってくるのは、ぞっとするほど死んだように冷たい感触だけだった。
「私も、いるのに……っ!」
必死になって、拳で鏡面を叩きつける。
「私もここにいるよっ!」
ドンッ!
「ねえ……っ! 見てよ……っ!」
ドンッ、ドンッ!
「私を見て! 私を思い出してよ……っ!」
けれど、誰一人として、こちらを振り返りはしない。
鏡の中の「自分」だけが、皆の前で幸せそうに笑い続けている。
その完璧で無傷な笑顔が、今の夢月にとってはどんな怪物よりも恐ろしかった。
すると、鏡の向こう側で、神楽がふと何かを感じ取ったように顔を上げた。
「……?」
そして、微かな違和感を覚えたように、夢月の立っている鏡面へ視線を向ける。
「……右京さん……っ!」
夢月の表情に、ぱっと縋るような希望の光が浮かんだ。
今度こそ。
今度こそ、自分に気づいてくれた。
「右京さん、ここ! ここにいるよ……っ!」
ガラスを何度も何度も叩く。
「私、ここに――」
けれど、神楽の美しい瞳は、暗闇の中にいる夢月を映してはいなかった。
その視線は、自分の目の前にいる「もう一人の夢月」へと優しく注がれていた。
「どうかしましたか、神楽さん?」
鏡の中の夢月が、不思議そうに首を傾げて尋ねる。
神楽は、いつもの愛おしむような温かな笑みを浮かべた。
「いや……何でもないよ」
そう言って、いつもの優雅な所作で紅茶を口へと運ぶ。
夢月の両手から、一瞬で全ての力が抜け落ちた。
その絶望の隙を逃さず、耳元のすぐ近くであの湿り気を帯びた女の声が、甘く滑らかに囁きかけてきた。
『――羨ましいでしょう?』
「……っ!」
弾かれたように振り返る。けれど、背後には何処までも虚無な暗闇が変わらず広がっているだけだ。
『あそこにいるのは、貴方が心の底から渇望していたもの』
声だけが、蛇のように夢月の頭蓋の中を這い回る。
『ずっと、この暗闇の中にいればいいのよ』
夢月は呆然と鏡を見つめ返した。そこでは、もう一人の自分が満ち足りた顔で笑っている。
大切な人達に囲まれて。
何一つ傷つくことも、怯えることもなく。
誰も失わず、誰にも拒絶されず。
ただ、約束された幸せの中に微睡んでいる。
『貴方という存在が、最初からいなくたって――』
声が、夢月の耳朶を優しく、そして残酷に濡らす。
『あの人達は、あんなにも幸せそうでしょう?』
夢月は答えなかった。答えられなかった。
鏡の中では、今も穏やかで温かな時間が流れている。
神楽が何か話すと、伊吹が彼の横腹をつついて叱る。
梢が呆れたように苦笑し、とこよが楽しそうにその会話へ加わる。
マスターはそんな皆を温かな眼差しで静かに眺め、珠吉はカウンターの上で丸くなりながら、時折満足そうに尻尾を揺らしている。
そして、その中心にいるのは――夢月。
自分と同じ顔、同じ制服を着た少女。
皆に愛おしそうに笑いかけ、皆から愛おしそうに笑いかけられている。
そこには何の違和感もない。まるで、この冷たい暗闇の中にいる夢月こそが偽物なのだと言わんばかりに。
「……違う」
夢月は震える声で呟いた。
「違う……違うよ……っ」
自分に言い聞かせるように、何度も激しく首を振る。けれど、鏡の中の幸福な光景は消えてくれない。
むしろ、少しずつ、何かが決定的に狂い始めていた。
「……え?」
鏡の中の夢月の顔が、僅かに揺らぎ、歪んだ。
笑っている。確かに笑っている。
けれど、その輪郭が水面に映った月のように、ゆらりと揺らめいて崩れていく。
(な、なんなのよこれ!)
夢月が息を呑み、目を凝らす。
すると、少女の髪が変わった。
鏡の中の少女の髪が、ゆっくりと形を変えていく。夢月よりも少し長い。色も違う。結んでいる位置も違う。
着ている制服だって同じ学校のものだ。けれど、着こなし方が違う。
スカートの丈も、胸元のリボンの結び方も、鞄につけられた見覚えのないキーホルダーも。
何もかもが、自分とは違っていた。
(誰? この子は一体?)
そう心の中で呟いた瞬間、鏡の向こうの少女がぬっとこちらを見つめ返した。
その顔は――全く知らない少女の顔だった。
「…………っ!」
知らない女子高生。けれど、彼女は夢月と全く同じ場所に当然のように座っていた。
夢月と同じように無邪気に笑っていた。
「―――」
神楽が、あまりにも自然に彼女の名を呼ぶ。でも、呼んでいるはずなのに聞き取れない。
「はい?」
知らない少女が振り向く。その声すら、夢月のものではない。
なのに。神楽は何の疑問も抱かず、優しく目を細めていた。
「今日も来てくれて嬉しいよ」
「私もです、神楽さん!」
少女が心底嬉しそうに笑う。
その隣では、とこよを膝に乗せた伊吹が穏やかに笑っている。
「お前がいると賑やかでいい」
「そうですか?」
「ああ」
「わたし、きてくれたうれしいですっ」
とこよも楽しそうに笑う。
マスターも穏やかな微笑みを浮かべて、温かな珈琲を注いでいる。
珠吉でさえ、その少女の足元へ甘えるようにすり寄っていた。
それらの光景を目にした夢月は、信じられなくて言葉を失った。
違う。あれは自分じゃない。美咲でもない。全く知らない誰かだ。
なのに、誰も異変に気付いていない。誰も、自分という本物がいなくなったことを悲しんでさえいない。
「……私の……居場所……」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
あの場所は、居場所のなかった自分が見つけた、かけがえのない場所だった。
何も持たなかった自分を優しく受け入れてくれた場所。
学校でも家でもない。
けれど、確かに自分にとって何より大切な憩いの場所だった。
そこに今――自分ではない誰かが、さも当然のように収まっている。
「返して……っ」
震える手を冷たい鏡につける。
「そこは、私の場所なのっ!」
けれど、少女は幸せそうに笑い続けている。まるで夢月の存在など、最初からこの世に存在しなかったかのように。
『ほら』
再び、声がする。今度は、すぐ首筋の辺りからだった。
『貴方の代わりなんて、いくらでもいるのよ』
「……っ!」
『貴方がいなくても、時間は何事もなく進む』
「違う」
『誰も困らない』
「違うっ!」
『誰も、貴方を待ってはいない』
「違うっっ!」
夢月は必死になって鏡を叩いた。
何度、何度拳を打ちつけても、冷たい鏡面はびくともしない。
「私は、ここにいるのっ!」
声を破らんばかりに張り上げる。
「私は、ずっとここにいるんだよっ!」
それでも、誰一人として振り返らない。
鏡の中の少女だけが、幸せそうに笑っている。
その笑顔を見ている内に、夢月の胸の奥に、暗く冷たい感情が芽生え始めていた。
怖い。
嫌だ。
奪われたくない。
――寂しい。
目の奥が熱くなり、限界を迎えて涙が溢れ出した。
もし、このまま戻れなかったら。
もし、本当に自分という存在が消えてしまったら。
あの場所には、あの少女が居座る。
皆は彼女と笑う。彼女と話す。彼女を「夢月」と呼ぶ。そしていつか、本物の自分のことなど、誰も覚えていなくなる。
「……そんなの、嫌……っ」
顎先から滴るその雫は鏡面に触れる前に、黒い暗闇の中へ吸い込まれて消えていく。
その瞬間だった。
鏡の中の知らない少女が、不意にこちらを見た。
今まで誰の視線にも気づかなかったはずの少女が。初めて、真っ直ぐに夢月の目を射抜いた。
そして、ゆっくりと口元を歪に吊り上げる。
それは、先ほどまでの無邪気で温かな笑顔とはまるで違っていた。
『そう』
あの声が空間に響き渡る。
『それでいいの』
鏡の中の少女が、夢月へ向かってすっと手を伸ばした。
その白く細い指先が、鏡面の内側から触れる。
同時に、鏡の表面には、ドロリとした黒い波紋が激しく広がった。
『欲しいでしょう?』
夢月の目の前に、再びあの眩しい光景が重なり合う。
夢幻喫茶。
皆と過ごす愛おしい時間。
溢れる笑い声。
温かな紅茶の湯気。
そして――自分の帰るべき居場所。
『ここにいれば、全部手に入るわ』
夢月は震える唇を固く噛み締めた。
『でも、そのためには――』
鏡の向こうの少女が、暗く微笑む。
『貴方が、ここへ来なくちゃ』
その言葉が聞こえた瞬間、鏡の表面から濡れたように白い手が境界線を越えて伸びてきた。
「――っ!?」
夢月は反射的に後ずさろうとする。けれど、その手は逃がすまいとするように、蛇のような執拗さでゆっくりとこちらへ伸びてきた。
一本。また一本。
細く冷たい指が、暗闇の中へ這い出してくる。
夢月は必死に身を翻して逃げようとした。けれど――足が、ピクリとも動かない。
「な、に……これ……っ!」
まるで足枷を嵌められ、床に縫い付けられたようだった。
その間にも、鏡の中の光景は歪みながら変化していく。
夢幻喫茶の景色が遠ざかる。
少女の姿も。
神楽の姿も、マスターも、珠吉も、伊吹も、梢も、とこよも。
全てが底なしの鏡の奥へ沈んでいく。
最後に残ったのは――あの場所で幸せそうに笑う、見知らぬ少女だけだった。
少女は、夢月と同じように虚空へ手を伸ばす。
『――おいで』
その言葉と同時に、鏡の中から伸びた無数の手が夢月の両腕を固く掴んだ。
「――いやあぁっ!」
夢月の身体が、強烈な力で鏡の向こう側へと引き寄せられる。
冷たい。
ぞっとするほど死んだように冷たい指の感触だった。
「離してっ! 離してよっ!」
必死に腕を振りほどこうと暴れるけれど、どれだけ力を込めても冷たい拘束は解けない。
鏡の向こうから、さらに粘着質な手が何本も伸びてきて、足首を、肩を、胴体を絡め取っていく。
その伸びた手の先にあるのは、終わりのない底なしの暗闇。
そして、その暗闇の中に永遠に閉じ込められた、無数の「過去の願い」たち。
誰かの泣き声。
誰かの叫び。
誰かの切実な祈り。
誰かの怨念と後悔。
その全てが重なり合い、渦を巻いて夢月の耳元で狂おしく囁き始める。
『好きな人と結ばれますように』
『好きな人とずっと一緒にいたい』
『幸せになりたい』
『誰かに愛されたい』
『私を見て』
その絶望の混声の中で、一つだけ、ひどく寂しげで澄んだ声が混じっていた。
『……私も、ただ好きだっただけなのに』
「え?」
その声は、夢月の激しい抵をふっと止めた。
聞き覚えのない声なのに、その声には、言葉では説明しきれないほどの深い哀しみと絶望が滲んでいた。
『ただ……あの人が、好きだっただけなのに』
鏡の奥の深淵で、少女が泣いていた。
幸せそうな不気味な笑顔を浮かべたまま、ぽろぽろと血のような涙を流している。
そして、夢月の腕を掴んだ冷たい手に、さらに痛いほどの力が込められた。
『だから――』
少女が、泣きながら、狂おしく笑う。
『貴方も、私と同じになって』
「――っ!」
次の瞬間、夢月の視界が、溢れ出た眩悪な光と闇に呑まれ、真っ白に染まり上がった。




