十七時、縁結びの姿見・3
夢幻喫茶の古びたアンティーク扉についた真鍮のベルが、誰も触れていないというのに、微かな振動に揺れて小さな音を立てた。
けれど、扉が開くこともなく、店内には誰も入ってこない。
高い小窓から差し込む、斜陽を帯びた午後の柔らかな陽射し。
古い壁に掛けられた木枠の時計が刻む、静かな秒針の音。
カウンターの奥では、マスターがいつもと変わらぬ穏やかな所作で、挽きたての珈琲をドリップしている。
その目の前のカウンター上では、二本の尾を持つ黒猫――珠吉が、香箱座りの体勢で丸くなっていた。
『…………』
珠吉は、半開きの琥珀色の瞳で、しばらくの間じっと閉ざされたままの扉を見つめていた。
やがて、ふう、と深く長い溜息を吐き出す。
『人間というものは、どうしてこうも愚かなのか』
「随分と辛辣ですね、珠吉」
丁寧に淹れた珈琲を陶器のカップへ静かに注ぎながら、マスターが苦笑を漏らした。
『事実を言っているまでだ』
珠吉はゆったりと身体を起こすと、二股に分かれたしなやかな尾をゆらりと揺らした。
『己の浅はかな欲望を叶えたいばかりに、得体の知れぬ化け物へ祈りと願いを捧げる。しかも、その願いの先にどんな地獄が待っているのかも知らずにな』
「人は、誰しも何かを強く願わずにはいられない、弱く儚い生き物ですから」
『だから愚かだと言っているのだ』
珠吉の鋭い琥珀色の瞳が、カウンターの向こう側で佇むマスターへと向けられる。
『願いとは本来、己の血と汗を流して掴み取るものだ。それを他の何かに簡単に叶えてもらおうなどと考えるから、怪異の情念に付け込まれる』
「……ええ。おっしゃる通りで」
マスターは否定しなかった。ただ静かに、スプーンでカップの中の珈琲をかき混ぜる。
琥珀色の湯気と共に、黒い液体がカップの中で滑らかに小さな渦を描いた。
『しかも、今回の姿見の怪異は、ただ無差別に願いを叶えるだけではない』
「そうですね」
マスターの手が、ふと止まる。
カップの中に落としていた目を細め、一段声音を落として言った。
「願いを『叶えたように見せる』――と言った方が、より正確でしょう」
願いを対価に人々に心の拠り所としての居場所を与える店。
そんな夢幻喫茶の店主である彼が口にするには、それはあまりにも残酷だった。
カウンターの上で丸くなっていた珠吉はムクリと身体を起こし、マスターの顔を見上げる。
『人の一番欲している幻像を見せつけ、そこへ縋り付かせる』
「ええ」
『そうして魂の骨抜きにし、現実という居場所を奪い去る』
店内に、重く短い沈黙が降り落ちた。壁掛け時計の秒針だけが、静寂を刻み続けている。
カチ。
カチ。
カチ。
秒針が進む音に合わせて、珠吉は零れ落ちそうな琥珀色の目を瞬いた。
『……あの娘は、どうなる』
「夢月さんですか?」
『惚けるな』
珠吉が耳を伏せ、低く威嚇するように鋭く睨みつける。
分かっているくせに。
端からこうなることを予想していたのはマスターも同じ。
どれだけ止めようとしたところで、珠吉にもマスターにもこうなることは避けられなかったのだ。
『今、あいつは一人であの気味の悪い鏡の中に閉じ込められている』
「……そうですね」
マスターは静かに目を伏せ、珠吉から目を逸らす。
突然店にやってくるようになった一人の女子高生。彼女は、願いがあるから来店しているはずなのに、自身の願いが何であるのか分からないという。
そんな彼女がいつからか他人の願いを叶えるためにその身を賭している。
夢月には、この店と自身を繋ぐ縁とは違う何かを持っていた。
「ですが……まだ完全には取り込まれていません。彼女の意思は死んでいない」
『ならば、我らの手で助け出せるのだな?』
「可能性はあります」
『可能性、だと?』
曖昧な回答に、珠吉の背中の毛が僅かに逆立った。
『随分と他人事のような言い草だな、マスター』
「そう聞こえましたか?」
『聞こえたも何も――』
言いかけて、珠吉は言葉を飲み込んだ。
カウンター越しに見つめたマスターの表情に、言葉を失ったからだ。
いつもと変わらない、穏やかで温かな微笑み。
傷ついた客を優しく包み込むような、柔らかな眼差し。
けれど、その瞳の奥深くには、微かな、けれど深く切ない憂いが滲んでいた。
「……夢月さん自身が、あの鏡の恐怖を振り払い、自分の足で『こちらの世界へ戻る』と強く願わなければいけないのです」
夢幻喫茶は、願いを持ち、夢を見た者を縁によって繋ぐ。
全ての始まりは、その人が抱く願いがあるからこそ。願いがあるから、夢を見て、縁が生まれる。
「外から無理に手を差し伸べるだけでは、あの異界の情念から彼女を引き剥がすことはできません。それでは、彼女の心ごと壊れてしまう」
『だから……あえて一人で境界を越えさせたのか。止めよとしたのも所詮上辺だけ』
「ええ」
マスター、これまでに多くの客人を見てきた。
誰しも願いを持っていて、それを叶えたくて苦しみ、藻掻いていた。
マスターも珠吉も直接願いを叶えることはできない。ここは、ただ願いを対価に心落ち着く時間を与えるだけ。
だからこそ、夢月のような存在は異質であり、輝かしかった。
対価になる願いが分からないから、「また明日も来たい」という願いを対価にする。
そんな客人をマスターは一度も見たことがなかった。
「夢月さん自身が、あの怪異の抱える悲しみと自分自身の恐れに、直接向き合う必要がありますから」
珠吉はそれ以上何も言わず、黙り込んだ。
やがて、しなやかな動作でカウンターからトッと直接飛び降りた先は、自然と夢月が座ることを受け入れるようになっていたあの席だった。
学校であったくだらない出来事を話して。
マスターの淹れたカフェラテを嬉しそうに飲んで。
珠吉の小言に膨れ面をして笑って。
そして時折、厄介な怪異の噂を持ち込んでは、この店を賑やかに彩っていた。
『…………』
フミフミと柔らかい座面を踏みしめると、また身体を縮めて丸くなる。
クッション性のある座面は柔らかいはずなのに、夢月の膝の上の方が余っ程心地良く感じた。
こうして丸くなっても撫でてくれる相手がいないからだろうか。
『……本当に、馬鹿な奴だ』
「珠吉?」
『あんなに危なっかしい人間は、今まで見たことがない』
吐き捨てるような言葉とは裏腹に、その低い声には隠しきれない強い心配が滲んでいた。
『大した術も知らぬくせに、他人の悲鳴を聞けばすぐに首を突っ込む。自分が一番危険な目に遭っているというのに、それでも後輩の少女を助けようと必死になる』
「……ええ」
『挙げ句の果てには、自分から進んで囮になるなどと――』
珠吉の二本の尾が、苛立たしげにパタパタと座面を叩いた。
人間というものは、つくづく愚か。
時に自分の命を優先して周囲を裏切り、時に他者のために自分の命すらも危ぶませる。
『本当に……救いようのない愚か者め』
マスターはそんな黒猫の背中を見つめ、ふっと温かく微笑んだ。
「だからこそ――夢月さんなのかもしれませんね」
『…………何だと?』
「己の欲望のためではなく、誰かの痛みや悲しみのために立ち上がり、願える人だからです」
珠吉はそれには答えず、ただ、ちらりと店の入口へ視線を向けた。
アンティークな扉に掛かる小さな鐘が揺れる気配はない。
時に、夢幻喫茶は外からの干渉を完全に遮ることがある。どれほど深く迷い、切実な願いを抱く者がいようと、その存在を隠したまま彷徨わせるのだ。
理由は至極単純だった。一度訪れた客が己の願いを叶えようとしている時、店はその結末を静かに見守るからである。そしてその願いが果たされて初めて、次なる迷える客人を迎え入れるのだ。
今、この店が静寂を守っているのは、一人の少女が己の願いのために奮闘しているからに他ならない。
『あいつは、無事に戻ってくるのか?』
「さあ。私にも分かりません」
『……随分と冷酷で冷静だな』
「慌てたところで、私達が今できることは限られていますからね」
マスターがいつものように穏やかな笑みを浮かべ、ドリップポットを静かに傾ける。
その時だった。
――カラン、カランッ!
突然、静寂に包まれていた店の扉についた真鍮のベルが、砕け散らんばかりの激しさで打ち鳴らされた。
『ふにゃぁっ!?』
珠吉が弾かれたように顔を上げる。マスターも注ぎかけていた手をぴたりと止めた。
そして次の瞬間――。
バンッ! と激しい衝撃音と共に、重厚な扉が勢いよく開かれた。
「うわああああああっ!?」
突如として何者かの人影が店の中に飛び込んでくる。
「…………」
『…………』
セピア色の店内に、悲鳴にも似た少女の叫び声が木霊する。
もつれる足で転がり込むようにして店内に飛び込んできた夢月は、そのままパニック状態で背後の扉を全重量で勢いよく叩き閉めた。
「はぁ……っ、はぁ……っ! ひっ……はぁ……っ!」
激しく肩を上下させ、乱れた呼吸のまま、縋るように背中を頑丈な扉に押し付ける。
何度も深く息を吸っては吐き、服の上から跳ね上がる胸元を必死に押さえつけながらガタガタと震える。
「……っ、はぁ……っ、うそ……なに……っ」
そして、命拾いしたことを祈るように、恐る恐るその両目を開けた。
「…………え?」
眼前に広がっていたのは、冷たい境界の闇ではなく、見慣れた温かな店内だった。
磨き抜かれた木製のテーブル。
珈琲の心地よい香りが漂うカウンター。
壁に掛けられた古時計が刻む、穏やかな秒針の音。
そして――。
「……マスター……?」
「お帰りなさいませ、夢月さん」
いつもと何一つ変わらぬ優しく温かな笑顔で、マスターが静かにそう告げた。
夢月は、現実感が追いつかずしばらく呆然と立ち尽くす。
「…………え? ……え……?」
もう一度、首を振って店内をくまなく見渡す。
何も変わっていない。怪異の冷たさも、あの絶望的な暗闇もない。間違いなく、自分の大好きな夢幻喫茶だ。
「……ここ……夢幻喫茶、ですよね……?」
『他に何処があると言うのだ、大痴れ者が』
カウンター席の上から呆れ果てた声が飛んできた。
視線を向けると、二股の尾を揺らした黒猫の珠吉が、こちらをジロリと見上げている。
黒いフワフワ。つぶらな琥珀色の瞳。揺れる二つに分かれた尻尾。
「珠吉……っ!」
夢月はパチパチと瞬きを繰り返した。
それから、焦ったように自分の身体をペタペタと見下ろす。
いつもの制服。
何処にも怪異の手形も、傷一つ残っていない。
「……私……戻ってきたの……?」
『そう見えているが? 現に今、我が眼前で間抜けな面を晒してる』
「でも、なんでっ!?」
夢月の頭の中は混乱を極めていた。けれど、あの惨劇の記憶だけは恐ろしいほど鮮明だ。
あの姿見から伸びてきた、死人のように冷たい無数の手。
腕を強く掴まれ、逃れることすら許されなかった確かな感触。
境界の向こう側へと、引き摺り込まれていく恐怖。
そして――視界が真っ白に染まり、途切れた記憶。
「私……確かに、あの鏡の中に……」
そこまで呟いて、夢月はハッと弾かれたように顔を上げた。
そして、思考が追いついた瞬間、あまりにも不可解な決定的事実に気づく。
「なんで私、今ここにいるの?」
当然すぎる疑問だった。
自分はつい先ほどまで、学校の本館の二階踊り場にいたはずなのだ。
姿見の前で、美咲を助けるための囮として怪異を誘き寄せ、願いを口にした。
そして鏡の中へ引き摺り込まれたはずなのだ。
それなのに、今、自分はあの不可解な暗闇の中ではなく、放課後にいつも訪れる夢幻喫茶の店内に立っている。
ガラス扉の向こう側を見ても、そこに広がっているのは夕暮れの学校の校舎ではなく、いつもの夢幻喫茶の玄関アプローチだ。
「わ、わたっ、私どうやってここに来たの!?
『何を今更驚いている』
珠吉が、トッと軽やかな音を立てて座面から床へ飛び降りる。
そして夢月の足元まで悠然と歩いてくると、二股に分かれた尾をゆらりゆらりと揺らした。
『この店はな、元よりあらゆる境界と繋がっているのだ』
「……色んな所と……?」
『そうだ』
珠吉はフンと鼻を鳴らし、得意げに胸を張る。
『時代も、地理も、生きておる世界すらも異なる者が、引き寄せられるようにこの店に辿り着く。お前も知っておろう?』
「そ、そういえば聞いた気もする⋯?」
『だから、お前が何処の異界に囚われていようと、この店へ繋がる「道」さえあれば、いつでも戻ってこられるんだ』
ここは、あの世とこの世、天国地獄、そして未来と過去、現世を繋ぐ小さな喫茶店。
それすなわち、“時空の狭間”に夢幻喫茶はあるということ。
「…………そんな無茶苦茶な」
『今さら何を抜かす』
珠吉がニヤリと不敵に口元を歪めた。
『夢の中でこの店を知ったはずのお前が、放課後になると当たり前のように境界を越えて毎日のようにここへ来ている時点で、十分に無茶苦茶だろうが』
「そ、それは……っ」
ぐうの音も出ない。夢月は反論できず、口を噤むしかなかった。
確かに、珠吉の言う通りだ。
この夢幻喫茶という存在そのものが、最初から常識の枠外にある。過去の時代を生きた人間、異能を持つ者、人ならざる妖や怪異。そうした特異な縁を持つ者達が同じ空間で静かに時間を共有している時点で、まともな現実ではないのだから。
「じゃあ、私がここに戻ってこられたのも」
『この店がお前という存在を強力に引き寄せた、とでも言っておこうか』
「店が私を?」
『あるいは――』
珠吉がふっと言葉を切った。
その深遠な琥珀色の瞳が、夢月の瞳をじっと射抜くように見つめる。
『お前自身が、死に物狂いで「ここへ戻りたい」と心から強く願ったのかもしれんな』
「っ!」
夢月は小さく息を呑んだ。
戻りたい。自分はそれほどまでに、強く願ったのだろか。
あの暗闇の底で見せられた、惨く不条理な幻像。
笑顔を浮かべる彼らと、そこに当然のように収まっている見知らぬ「誰か」。
自分の居場所が消えていく恐怖に耐えかねて、奪われることが恐ろしくて。
皆のいるこの場所へ戻りたいと、心から渇望した自分の姿を思い出す。
「……そう……なのかな……」
夢月は小さく自嘲気味に呟いた。
けれど、マスターは何も答えない。ただ静かにドリップの手を休め、優しく夢月を見つめている。
珠吉もまた軽妙な態度を消し去り、重々しい沈黙を落としていた。
二人の何処か引っ掛かる様子を不思議に思った夢月は、何事かと首を傾げた。
「あの、二人ともどうかしたんですか?」
「いえ」
マスターがいつもの柔らかな笑みを浮かべ、穏やかなトーンで答える。
「無事にこちらへお戻りになられて、本当によかったと思いまして」
その温かな言葉に触れ、夢月は胸の奥のつかえが少しだけ取れた気がした。
「はいっ! 私も、本当に」
服の上から、そっと自分の胸に手を当てる。心臓は、まだ痛いほどの早鐘を打ち続けていた。
あの冷たい鏡の感触。
耳元で囁く、甘く不気味な声。
自分と同じ顔から、見知らぬ顔へと変貌していく少女。
そして――。
『貴方も、私と同じになって』
思い出しかけた瞬間、まるで氷の刃で直接撫でられたかのように、背筋へ刺さるような冷たい寒気が走った。
あの鏡の底へ引き摺り込まれる感覚、己が自分ではなくなっていく恐怖の記憶が、再び全身を支配しそうになる。
だが――夢月はその弱気を必死で押し殺した。
「でも」
夢月はキュッと唇を噛み締め、顔を上げた。
震える拳を強く握り締め、己の爪が掌に食い込む痛みに意識を集中させる。そうして無理やり恐怖の波を押し流すと、強い瞳で真っ直ぐに目の前の二人を見据えた。
「まだ、何も終わっていませんよね」
その声には、まだ恐怖の余韻による微かな震えが残っていた。
けれど、弱々しく俯いていた少女の眼差しには、はっきりと強い決意の光が灯っている。
マスターと珠吉の瞳の奥が、僅かに揺れた。
「美咲ちゃんが……まだあの恐ろしい鏡の中に閉じ込められたままです」
自分を救うためではなく、誰かのために出されたその声には、先ほどまでの逃避や怯えとは明らかに違う、力強く澄んだ意思の光が宿っていた。
「私がこうして戻ってこられたのなら……美咲ちゃんだって、絶対に助け出せるはずです!」
夢月は一歩、力強く前へと踏み出す。
自分自身が怪異とも妖とも取れぬ怪しい存在に襲われ、あの冷たい境界へ引き摺り込まれたばかりだというのに。
トラウマとして刻まれてもおかしくない恐怖を前にして、この少女は退くどころか、もう一度あの暗闇へ飛び込もうとしているのだ。
「だから……私、もう一度あそこへ行きます。今度こそ美咲ちゃんを救い出さないと――」
誰の指示でもない。自分自身の足で、自分自身の意思で立ち上がった少女の姿。
その眼差しに嘘や誤魔化しがないことを悟り、珠吉は瞳を細め、静かに夢月を見つめ直した。
いつもなら「大痴れ者が」と切り捨てるはずの黒猫が、今はただ、目の前のお人好しで強い少女の覚悟を真っ向から見つめている。
カウンターの奥で佇むマスターもまた、ドリップポットを静かに置き、黙したまま、真っ直ぐなと少女の決意を受け止めていた。
「……そうですね」
マスターは深く、静かに微笑んだ。
「今度は、三人でしっかりと策を練りましょう。もう一人で背負う必要はありませんよ」
「はい!」
夢月は力強く小さく頷いた。
けれど、この場にいる誰も、まだ気づいてはいなかった。
胸を撫でおろし、前を向いた夢月のブレザーのポケット。その中で悲しく光る何かがあることに。
❁
十七時。
放課後の校舎には、昼間の喧騒とはまるで違う、肌を刺すような静けさが漂っていた。
新校舎から少し離れた場所にひっそりと佇む、古びた木造の本館。その一階から二階へ続く暗い階段の踊り場には、場違いなほど巨大な一枚の姿見が、壁に立て掛けられている。
その前に、三人の女子生徒が肩を並べて立っていた。
「ねえ、本当にここ?」
「うん。噂になってる都市伝説、ここでしょ?」
「なんか普通じゃん。ただの古くさい鏡だし」
両端に立つ二人はさして緊張した様子もなく、退屈そうに辺りを見回していた。
一人はスマートフォンの画面を弄り、もう一人は木造の壁に背を預け、暇そうに欠伸を噛み殺している。
対して、中央に挟まれた少女だけは、俯いたまま一言も喋らなかった。硬直したように指先を握り締め、じっと足元を見つめている。
「ねえ、どうするの?」
「どうするって、せっかくここまで来たんだから、やってみなよ」
二人に催促され、少女はゆっくりと顔を上げた。
目の前にあるのは、ただの古い姿見だ。
ところどころ表面が曇り、木枠の縁には細かな傷が無数についている。
立入禁止になってからその姿を見た者は数少なったが、噂に聞いていた以上に鏡に刻まれたヒビが深くなっていた。
「本当に、願ったら叶うのかな」
消え入りそうな小さな声で呟くと、それを聞いた右隣の少女が、くすくすと鼻で笑った。
「まだそんな都市伝説信じてるの?」
「だって……」
「『好きな人と結ばれますように』って願うだけでしょ? そんなの小学生でもできるじゃん」
「そうそう。それで叶ったら、私だって毎日ここに通うわ」
二人の心ない軽口に、中央の少女は困ったように眉を下げて笑った。けれど、その瞳の奥だけは少しも笑っていなかった。
彼女には、どうしても叶えたい切実な願いがある。
好きな人がいる。ずっと、ずっと好きだった。
それでも、自分から声をかける勇気なんて一欠片もない。
だからこそ――こんな根拠のない噂に縋ってしまうほど、彼女は追い詰められていたのだ。
「……じゃあ、やるね」
「おー、頑張れー」
「ちゃんと十七時ちょうどじゃないと駄目なんでしょ?」
「うん」
少女は意を決して姿見の前へ一歩踏み出すと、祈るように両手を胸の前で固く組んだ。
ゆっくりと目を閉じ、そして――小さな唇を震わせた。
「好きな人と、結ばれますように」
その瞬間だった。
――カチッ。
放課後の静寂を切り裂いて、何処かで時計の大きな歯車が噛み合うような、重く乾いた音が響いた。
「え?」
三人の内、誰かが呟いた。
姿見の中に映っていた踊り場の景色が、ほんの僅かに揺らぐ。
まるで水面に石を投げ入れたかのように、鏡の中の光景だけがぐにゃりと歪み、波紋を描いた。
「ちょっと……何これ」
「え、待って、なんか変……」
二人の少女が気味悪そうに姿見へ近づく。
中央の少女だけは動かなかった。
否――動けなかったのだ。
鏡の中に、自分ではない「誰か」が立っていたから。
「え」
鏡の中、少女のすぐ隣に、一人の男子生徒が立っている。
見慣れた制服姿。見間違えるはずもない。
「……嘘」
彼女がずっと片思いしていた、彼だった。
鏡の中の彼は、優しく彼女を見つめ、嬉しそうに微笑んでいる。
口元を動かし、何かを囁いている。けれど、こちらには声が届かない。
「ねえ」
少女の固く強張っていた頬が、ゆっくりと、恍惚とした笑みに緩んでいく。
「これ、私の願い?」
両隣の二人は答えられなかった。
鏡の中では、少女が男子生徒の隣で恥ずかしそうに笑っている。楽しそうに、愛おしそうに。まるで、ずっと昔から二人きりで過ごしてきた恋人同士であるかのように。
「すご」
右側の少女が、呆然としながら思わず呟いた。
「本当に叶ったの?」
「いやいや、そんなわけないじゃん」
左側の少女が恐怖を誤魔化すように否定しかけた、その時だった。
鏡の中の男子生徒が、そっと愛おしそうに少女の手を取ったのだ。
少女が満足そうに、さらに嬉しそうに笑う。
その甘く美しい光景を固唾をのんで見つめる外の二人から、いつしか軽薄な笑みは完全に消え去っていた。
「ねえ」
「なに?」
「これって、私達にも見えてるよね?」
「うん」
――何かが、おかしい。
そんな底冷えするような疑問が、二人の胸の奥に同時に芽生えた。
願いを叶えた本人ならともかく。どうして、部外者である自分達にまで、その「幻」が見えているのだろう。
その瞬間、鏡の中の少女が、ぬっとこちらへ首を向けた。
「っ!?」
一瞬にして身体中が恐怖に支配され、二人の身体が凍りつく。
鏡の中の少女は、こちらを見つめながらニタリと笑っていた。さっきまでと同じ顔。なのに――何かが圧倒的に狂っている。
「ねえ」
鏡の中から、はっきりと声が響いた。
ガラスの壁を通り抜け、脳裏に直接響くような甘く湿った声。
「貴方達も、願ってみる?」
「え?」
現実の踊り場に立つ中央の少女が、ギギギと不自然な動作でゆっくり振り返った。
だが、現実の彼女が目の前にいるのに、鏡の中にも全く同じ少女が立っている。
二人の視線が、現実と鏡の間を何度も往復する。
「ちょっと、どういうことっ!?」
その瞬間、中央の少女の足元が、泥に沈むようにふっと消えた。
彼女の身体が、引きずり込まれるように鏡の表面へと吸い込まれていく。
「きゃああっ――!」
両隣の二人が悲鳴を上げ、慌てて少女の腕を掴もうとした。
しかし、指先は虚しく空を切る。
少女の姿は、まるで水滴が染み込むように姿見の向こう側へと消えていた。
「待って! 嘘でしょ!?」
「何これ、何なのこれ!? 助けて!」
二人がパニックに陥りながら姿見へ駆け寄る。だが、そこにはもう、パニックを起こした二人しか映っていない。
いや――よく見れば。
「あれ?」
右側の少女が、自分の顔を覗き込みながら首を傾げた。
「私、何処……?」
「何言ってるの、そこに映ってるじゃん!」
「違うっ!」
ガタガタと震える指先で、鏡を指差す。
「これ、私じゃない……!」
鏡の中に映っていたのは、二人の女子生徒ではなく――同じ制服を着た、見知らぬ少女が二人だった。
そしてその背後には、先ほど消えたはずの友達が立っている。
三人とも、虚ろな目で楽しそうに笑っていた。
「嫌」
左側の少女が絶望に顔を歪め、後ずさった。
「こんなの、嫌っ!!」
逃げ出そうと背を向け、階段へ駆け出そうとする。だが――階段の先には、何もなかった。
いや、正確には「それ」があった。
――鏡だ。
踊り場の反対側、本来なら階段があるはずの場所にも、いつの間にか巨大な姿見が立ち塞がっている。
「……え?」
さらにその奥。また一枚。
その奥にも、無数の鏡が万華鏡のように連なり、漆黒の暗闇へと続いている。
「いやぁっ!」
右側の少女がボロボロと涙をこぼし、泣き叫んだ。
「帰ろう……! お願いだから帰ろうよ……!」
「うんっ、帰ろう!」
二人は互いの手を千切れんばかりに強く握り合い、階段を駆け下りようと足を踏み出した。
けれど――身体が、一ミリも動かない。
「え……何……?」
がくんと何かに引っ張られるのを感じて、咄嗟に足元を見下ろす。
自分達の靴が、まるで床の木目と同化して縫い付けられたかのように、ビクとも動かないのだ。
その時、前後左右、無数の鏡の中から、重なり合うような楽しげな少女達の声が響いた。
『ねえ』
『貴方達も、幸せになりたいでしょう?』
その甘く甘美な声に誘われるように、二人は金縛りに遭ったまま、吸い寄せられるように正面の鏡へ顔を向けた。
そこには――それぞれの「欲望」が映し出されていた。
大好きな男の子と手を繋ぎ、愛おしそうに笑い合う自分。
クラスの中心で、たくさんの友達に憧れの眼差しで囲まれている自分。
誰からも嫌われず、誰からも傷つけられず、無限の愛を注がれる自分。
欲しかった。
ずっと、喉から手が出るほど欲しかった理想の私。
「……綺麗……」
誰かがうっとりと呟いた。
鏡の中の理想の自分が、こちらへ向けて優しく手を伸ばしてくる。
慈しむように、全てを包み込むように。
『こっちへおいで』
指先と指先が、鏡の表面で触れ合った――その瞬間。
――パキン。
静寂を切り裂き、何処かで冷たいガラスが割れる乾いた音が響いた。
そして、鏡の中で幸せそうに笑っていた少女達の姿が、ドロドロと醜く歪んでいく。
美しい笑顔が崩れ落ちる。
口元が耳元まで裂けるように吊り上がる。
瞳から生き生きとした光が失われ、漆黒の空洞と化す。
その皮肉なお面の奥から現れたのは、血の気が完全に失せた、青白い見知らぬ女の顔だった。
『どうして』
鏡の中の女が、怨念に満ちた声でぽつりと呟く。
『どうして……私だけ……っ』
最早、恐怖のあまり悲鳴すら出せなかった。
『どうして私には、誰もくれなかったの……っ!?』
鏡の向こうで、少女が泣いていた。
血の涙を流しながら、狂ったように笑っていた。
『だったら――』
少女の骨ばった白い手が、鏡の境界を突き破り、内側からずぶりと現実へ伸びてくる。
『貴方達の幸せも、私にちょうだいっ!』
次の瞬間、放課後の踊り場からは全ての音が消え去った。
そこにはただ一枚の古い姿見だけが、何事もなかったかのように静かに佇んでいる。




