十七時、縁結びの姿見・4
「――その怪異は、人の恋を叶えているわけではないんじゃない?」
不意に上から落とされた静かな声に、夢月はハッと顔を上げた。
カラン、と寂しげな音を立ててアンティークな扉が軋みながら閉じていく。その向こうから姿を現したのは、いつもと変わらぬ凛とした軍服姿の男――神楽だった。
何食わぬ顔で店内へ入ってきた彼は、しかし普段のように決まった席へ向かおうとはしない。
軍帽の庇の陰から、鋭い眼差しで真っ直ぐに夢月達を見つめている。
「右京さん?」
「話は聞かせてもらったよ」
そう言って、神楽は夢月の隣の椅子を静かに引いた。
クッション性のある椅子に腰を下ろすなり、机の上に肘をついて頬杖をつき、じっと夢月を見つめる。
「それで?」
「それで……?」
「君が鏡の中で見たものを、もう一度最初から話してごらん」
急な問いかけに夢月は一瞬だけ戸惑ったものの、神楽の真剣な瞳に押されるように、記憶を手繰り寄せて素直に頷いた。
「鏡の向こうに、この店があったんです」
「うむ」
「そこに、皆がいました。マスターも、珠吉も、右京さんも……それから、私も」
自分で口にしていても、あまりにも奇妙で現実離れした話だと思う。
けれど、あの光景は決して都合のいい夢などではなかった。
あの時全身を包み込んだ温かな胸の高鳴りも、皆と笑い合っていた確かな安心感も、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
「鏡の中の私は、皆と楽しそうに笑っていました。まるで、本当にここにいるみたいに」
「だが、途中で変わったと」
「はい」
夢月は浅く息を呑み、固く結んだ唇を震わせた。
直感した真実の恐ろしさに、指先からすうっと血の気が引いていく。
「あの『私』の顔が、歪んで……気付いたら、知らない女の子になっていたんです」
「どんな娘だった?」
「私と同じ学校の制服でした。でも、髪型も髪の長さも違って……鞄についていたキーホルダーも違いました。全然知らない女の子です」
そこで夢月は、胸の奥にずっと引っ掛かっていた冷たい違和感を、重い言葉にして口にした。
「だから、思ったんです」
「何を?」
「十七時に姿見へ願いを捧げた時に現れる存在――それこそが、美咲ちゃん達を巻き込んでいる怪異の正体なんじゃないか、って」
神楽は僅かに瞳を細め、静かに夢月を見つめ直した。
いつもの食えない笑みをすうっと消し去り、夢月が自力で辿り着いた結論の重みを確かめるように、深く長い沈黙を落とし込む。
「そう考えた理由は?」
「だって……」
夢月は膝の上でスカートを強く握り締めた。
「最初は私だったんです。でも、途中から知らない女の子になった」
言葉にすることで、自分が体験した不気味な現象が何を意味していたのか、ようやく自分でも理解し始めていた。
「きっと、あの鏡は恋を叶えているんじゃない」
夢月の声は、未だ去りやらぬ恐怖の過剰な余韻に揺れていた。
逃げ出したくなるほどの悪寒が背筋を駆け上がるのを必死に耐え、言葉の重みに押し潰されそうになりながらも震える口唇を開く。
「願った人が一番欲しいものを見せて……それを手に入れたと思わせてから、その人自身を鏡の中に閉じ込める」
セピア色の店内が、水を打ったように静まり返った。壁掛け時計の秒針の音だけが空しく響く。
「美咲ちゃんも……きっと同じです」
好きな人と結ばれたい。
ただそれだけの純粋な願いを鏡に捧げた美咲が、今何処で、どんな境遇に遭っているのか。
考えただけで、背筋に冷や汗が吹き出していた。
「つまり、恋を成熟させているように見せかけて――」
神楽が静かに、けれど酷薄な事実を突きつけるように言葉を継ぐ。
「成熟した恋そのものを、自分のものにしている」
「はい」
「そして、その幸せな未来を見せることで、本人から現実へ戻る意思すら奪ってしまう」
夢月は固く口を結んだまま、黙って深く頷いた。
喉の奥が引き攣り、声を出せば震えてしまいそうだったからだ。
瞳に揺らぐ決意の光だけを灯し、夢月は神楽の視線を受け止める。
「あの怪異は、人の幸せを奪ってるんです」
言葉にした瞬間、胸の奥が鉛のように重くなった。
自分が見た夢幻喫茶の温かな日常も。
美咲が見ているであろう、大好きな人と笑い合う時間も。
全部、誰かが切望した大切な幸せだ。それを鏡の向こうに潜む何者かが横取りし、自分のものにしてしまう。
「ならば、やはり急ぐ必要があるね」
神楽は帽子を目深にかぶり直すと、己の腹を固めるように静かに、けれど強く頷いた。
「君が探している後輩を鏡から引き摺り出す。そして、その怪異そのものについても知らなければならない」
「でも、どうやって」
夢月が縋るように問いかけた、その時だった。
『ん?』
膝の上に乗っていた珠吉が、突然ぴたりと動きを止めた。二股の尾が不気味に静止し、黒い耳がぴくぐりと動く。
それまで夢月の話に耳を傾けていた珠吉が、鼻先をひくひくと動かし、怪しむように空気を嗅ぎ始めた。
『……おい』
「え?」
『お前、何か連れ込んだだろう』
「連れ込んだ? 何言ってるの?」
意味が分からず、夢月は首を傾げた。
鏡の中に引き摺り込まれた時も、この店に辿り着いた時も、夢月は一人だったはずだ。
怪訝な顔をする夢月を見ても珠吉は答えない。ただ、鋭い琥珀色の瞳で夢月の胸元をじっと睨みつけている。
『その辺りから、妙な気配がする』
「え?」
珠吉の鋭い視線につられるように、夢月は恐る恐る自分のブレザーへ目を落とした。
見たところ、おかしな点はない。
狐疑の念を抱きつつも横腹辺りに手をやると、ブレザーのポケット越しに、ひんやりとした硬い異物の感触が指先に伝わってきた。
「あれ?」
咄嗟にポケットの中に手を入れる。指先がそれを掴み、外へと引き出した。
そして――。
「何、これ」
掌に乗っていたのは、古びた小さなブローチだった。
金属製の飾り。僅かに表面がくすんではいるものの、縁には細かな美しい装飾が施されている。
「こんなの……私、持ってない」
夢月はただただ、自分の手元を呆然と見つめることしかできなかった。
記憶の糸をいくら手繰り寄せても、この怪しげなブローチを手に入れた覚えなど何処にも存在しない。
あんな恐ろしい鏡の底へ引き摺り込まれ、命からがら逃げ帰ってきたほんの僅かな隙。その最中に、自分が気づかぬまま「それ」を押し付けられていたのだと悟り、心臓が痛いほど脈打ち始める。
『だから言っただろう』
珠吉は低く喉を鳴らし、重苦しい唸り声を洩らした。
『妙な気配がすると』
「でも、どうしてこんなものが……」
「夢月、触らない方が――」
神楽が警戒した声を張り上げ、何かを言いかけた。
けれど、夢月の指先は、すでに吸い寄せられるようにブローチの冷たい金属面に触れる。
その瞬間だった。
――キィン……。
「……っ!?」
全身の毛穴が収縮し、鳥肌が立つ間すらなかった。
視界が一瞬にして真っ白に弾け、強烈な眩暈が意識を揺らす。
自分のものではない未知の記憶と感情の濁流が、頭の中へ容赦なく流れ込んできた。
「え?」
次の瞬間、目の前に広がり始めたのは、夢幻喫茶のセピア色の店内ではなかった。
❁
――ずっと、ずっと昔。
まだ、この古びた本館が今よりもずっと新しかった頃。
放課後の校舎には、昼間の喧騒が嘘のような静けさが広がっていた。
西日に照らされた縦長の大窓から差し込む夕陽が、長い木造廊下を深みのある橙色に染め上げている。
新校舎の教室棟の方からは、運動部の威勢のいい掛け声や吹奏楽部の奏でる金管の音が微かに響いていた。けれど、この古い本館まで足を運ぶ生徒など、ほとんどいない。
ぎしりと軋む古い木造の床を踏みしめる靴音だけが、不気味なほど大きく響いていた。
――コツ。
――コツ。
一人の少女が、誰もいない静かな廊下を歩いている。
制服のスカートをゆらゆらと揺らしながら、何度も胸元へ手をやる。
そこにある小さなブローチを、指先で確かめるように幾度も触れていた。
「大丈夫」
誰に言い聞かせるでもなく、消え入りそうな声で小さく呟く。
「大丈夫だから」
どれほど深く息を吐いても、胸の奥の騒ぎは鎮まる気配を見せない。
ドクドクと鼓膜を揺らす心臓の音が、まるでカウントダウンの鐘のように頭の中に重く響き渡る。
怖い。いっそこのまま消えてしまいたい。全てを投げ出して何処か遠くへ逃げ出せたら、どれほど楽になるだろう。
けれど――今日という日を諦めるわけにはいかなかった。
少女は立ち止まり、震える手首を返して腕時計を見る。
もうすぐ、十七時。約束の時間だった。
彼が来る。そう思っただけで、頬がカッと熱くなる。
今日という日を迎えるまで、何度も、何度も迷った。
言おうか。
やっぱりやめようか。
もし、笑ってあしらわれたら。
もし、迷惑だと思われていたら。
もし……今までのように、楽しく話せなくなってしまったら。
考えれば考えるほど不安の底なし沼にはまっていく。
それでも、今日だけは、どうしてもこの胸の熱を伝えたかった。好きだという気持ちを。ずっと、ずっと好きだったことを。
いつから好きだったのかなんて、もう自分でもよく分からない。
最初は、ただの同じクラスの男子生徒だった。
席が隣同士になった。
忘れ物をした時、消しゴムを貸してもらった。
体育祭の準備で、遅くまで一緒に居残った。
くだらない冗談を言って笑い合った。
誰にでも同じように明るく接する人だった。特別優しいわけでもない。特別格好いいわけでもない。それでも、気付けばいつも目で彼を追っていた。
教室の扉を開けて入ってきた時。
友達と肩を叩き合って楽しそうに話している時。
先生に叱られて困ったように苦笑いしている時。
退屈そうに欠伸をして涙目を拭っている時。
そんな何気ない日常の瞬間を目にするだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
だから、いつの間にか。
――好きになっていたのだ。
「言えるかな」
少女は胸元のブローチをきゅっと握り締める。
いつの日か、彼が誕生日プレゼントにと言って贈ってくれた物。どういう意図で渡して来たのかなどどうでもいい。
別に高価な宝飾品ではないけれど、彼女にとっては大切な宝物だった。
これを見るたびに、今日の日の思い出を、甘い記憶として思い出せるように。
そんな幼い幻想を抱いてしまうほど、少女は浮かれていた。
もう一度、時計の針を見る。
十七時ちょうど――その時だった。
「ごめん、待たせた?」
背後から、聞き慣れた声が落ちてきた。
少女の肩がびくっと跳ねる。弾かれたように振り返った。
「……っ!」
そこに、大好きな彼が立っていた。
「ううん! 今来たところ!」
思わず裏返った声が出てしまう。
急に恥ずかしさがこみ上げ、少女は真っ赤な顔を覆うように俯いた。
「そっか」
彼はそれ以上何も言わなかった。
少女の隣をそっけなく通り過ぎ、一階へと繋がる階段の方へと歩いていく。
「それで、話って何?」
「あ……」
少女は慌ててその背中を追った。
階段の目の前。二人の間には、微妙な距離があった。たった数歩のその距離が、妙に遠く冷たく感じる。
「あのね」
「うん」
「私……」
言葉が喉につかえて、どうしても出てこない。
今日この日を迎えるまで、頭の中で何千回と繰り返してきたはずだった。
一人きりの部屋でも。夕暮れの登下校の道でも。姿見の前でも。何度も、何度も復習を重ねてきた大切な言葉。
それなのに、いざ本人を目の前にした瞬間、全ての記憶が真っ白に弾け飛んでしまった。
「私ね」
少女は縋るように胸元に手を置く。
小さなブローチを握り締めると、指先がガタガタと震えていた。
「ずっと、言いたかったことがあって」
ぎゅっと拳を握り締め、意を決して顔を上げる。
ふいに、視線が交差した。
夕陽の黄金色を映し出す彼の瞳と真っ正面からぶつかり合った瞬間、全身の血管が一斉に収縮し、激しい血流の音がドクンと鼓膜を強く揺らした。
怖い。手足が冷たくなり、呼吸すら止まってしまいそうなほど怖い。
それでも、もう背を向けて逃げることだけはしないと決めていた。
「……貴方のことが、好きです」
言った。とうとう言えた。
ずっと胸の奥底に抱え込んできた、大切で重い言葉。
たった一言の言葉を口にした瞬間、まるで視界全体がパッと明るく輝いたような錯覚に包まれる。
返事を待った。ずっと、待った。
数秒。たったそれだけの時間が、まるで永遠の拷問のように長く引き引き延ばされていく。
彼は黙っていた。少女も息を殺したまま、彼の固く結ばれた唇をじっと見つめる。
「ごめん」
たったその一言で、少女の胸が万力で握り潰されたようにぎゅっと締め付けられた。
「そっか」
笑おうとした。必死で、いつものように笑えているつもりだった。
首を振って、考えなんて全て振り払って、もう一度彼の顔を見る。
「ううん、いいの! 急にこんなこと言われても困るよね」
「いや、そういうことじゃなくて」
彼は少し苛立ったように、困り顔で頭を掻いた。
「前から思ってたんだけどさ」
「う、ん⋯⋯」
「こういうの、正直ちょっと迷惑なんだよね」
「…………え?」
少女の頬に浮かんでいた引き攣った笑顔が、ぴたりと惨めに凍りついた。
「いや、別に嫌いとかじゃないけど」
「……迷惑……?」
「だって、俺そういうつもり全然なかったし。勝手に期待されても困るっていうか」
言葉を失った少女は、ただ唇を震わせることしかできなかった。
胸の奥で、ガラスのように繊細な何かがカチンと音を立てて砕け散っていく。
「ごめん」
縋るような想いも虚しく、少女は反射的に頭を下げていた。
「私、そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、どういうつもりなの?」
「それは……」
「好きだからって、こっちまで同じ気持ちになるわけないだろ」
「そ、そうだよね」
「なら、もうこういうことしないでよ。周りにも変に誤解されるし」
胸を刺すその冷酷な言葉に、少女は弾かれたように顔を上げた。
「周り?」
「最近、俺達付き合ってるみたいに噂されてるだろ」
「あ……」
「正直、迷惑なんだよ」
胸の奥が、焼けつくように痛かった。
さっきまであんなに温かかった場所が、氷を詰め込まれたように冷たくなっていく。
「ごめん」
また、謝ってしまった。
「本当に、ごめんね」
彼の顔が見ていられなくて俯いたけれど、涙が溢れ出しそうだった。
でも、絶対に泣きたくなかった。せっかく想いを伝えたのだから、最後くらい笑って終わりたかった。
「じゃあ、私、帰るね」
これ以上みっともなく泣き出す前にと背を向け、踵を返そうとした。
「待って」
背後から低く呼び止められる。
その一言に、もしかしたら――というほんの微かな期待を抱き、少女は縋るような思いで振り返った。
「まだ、何かあるの?」
「いや……」
けれど、振り返った先にいた彼は、あからさまに不快感を露わにした顔をしていた。
「だからさ、もうこういうのやめてくれない? 俺、本当にそういうの困るから」
「……分かった」
「じゃあ」
期待した自分が愚かだったと思い知らされるような、容赦のない切り捨てだった。
それだけ冷たく吐き捨て、彼は立ち去ろうとする。
少女は去っていく背中を呆然と見つめていた。何も言えない。視界が涙で歪んでいく。
けれど――彼が階段を降りていく前に、どうしても、一つだけ聞かずにはいられなかった。
「ねえっ!」
彼は立ち止まり、煩わしそうに振り返った。
「何?」
「私…⋯そんなに、迷惑だった?」
重苦しい沈黙の後、彼は心底面倒くさそうに大きな溜息を吐いた。
「……だから、そういうところだよ」
「え?」
「いちいち重いんだよ」
少女の瞳が、突きつけられた現行の恐怖に見開かれる。
「好きなら好きで勝手にすればいいけど、俺を巻き込まないでくれる?」
「あ⋯ぁ」
「もう、俺のことは諦めてよ」
冷たく放たれたその刃のような言葉が、少女の胸の奥、一番柔らかい場所へと、一切の容赦もなく根元まで突き刺さった。
「……なんで」
胸の奥から溢れ出す感情を抑えきれず、気付けば、自分の声が激しく震えていた。
「なんで、そんなひどいこと言うの?」
「は?」
「私……ただ、好きだっただけなのに!」
「だから、それが迷惑だって――」
「なんでっ!」
悲鳴のような少女の叫びが、誰もいない放課後の廊下に悲しく響き渡る。
堰を切ったように溢れ出した大粒の涙が、ポロポロと木造の床へ零れ落ちていった。
「私、何も嫌なことしてないじゃんっ!」
「してるだろ!」
「何もしてない!」
「だから――」
「好きになるくらい、自由じゃない……!」
感情を爆発させた少女は、彼の制服の胸ぐらを両手で強く掴んだ。
「私が貴方を好きで、何が悪いのよっ!」
「おい、やめろって!」
「なんでそんなこと言うの! どうしてっ!」
彼もまた不快感を露わにし、少女の手首を強く掴み返す。互いに感情が荒荒しく昂っていた。
「離して!」
「お前が先に離せよ!」
「嫌……嫌ぁっ!」
「いい加減にしろって言んだろ!」
少女が激しく腕を振り払おうとした。彼もまた、鬱陶しそうに同時に力を込めて突き放す。
その瞬間――足元が空を切った。
「――え?」
二人の身体が浮き上がり、大きく傾く。
少女の指先が、反射的に彼の制服を強く掴み直した。
「危な――」
次の瞬間、二人の身体は、暗い階段の底へと吸い込まれるように転落していった。
――ドンッ!
――ドサッ!
――ガタンッ!
重い打撃音が何度も響き、身体が不自然な方向へ打ち付けられる。
世界が滑落していく。何が起きているのか分からない。
けれど少女の指先だけは、絶望の中でも彼の制服を離さなかった。
そして――恐ろしい静寂が訪れた。
何も聞こえない。
遠くで響いていた部活動の掛け声も、校庭の笑い声も、全てが漆黒の闇の向こうへ遠ざかっていく。
少女は踊り場の冷たい床に倒れていた。
指一本すら動かない。息を吸い込むことすら苦しく、胸が激痛に苛まれる。
「……あ……」
声にならない。視界が急速に濁っていく。
すぐ隣には、男子生徒が疼くまり、何が起きたのか理解できずにガタガタと震えていた。
少女は、辛うじて動く首をほんの少しだけ動かした。
その虚ろな視線の先に―――姿見があった。
古びた木製の枠に囲まれた、大きな姿見。
夕陽の残光を受けて、その鏡面だけが異様なほど明るく、冷たく輝いている。
少女はぼんやりと、吸い寄せられるように鏡を見つめた。
そこに――血だらけで息も絶え絶えな自分が映っていた。
「…………う、ぁ」
鏡の中には、血の海に倒れている無惨な自分がいた。
制服は破れて乱れ、髪はぐちゃぐしゃに絡まり、頬には泥と涙の跡が残っている。
そして、その身体の下から、どろりと赤いものが広がっていた。
「なんで」
少女の血の気の引いた唇が震える。
「……なんで……私が……」
鏡の中の自分が、漆黒の瞳でじっとこちらを見つめ返している。
当然だ。鏡なのだから。
けれどその時の少女には――まるで鏡の中の自分が、恐ろしい「知らない誰か」のように見えた。
こんな惨めな姿になるために。
こんなところで死ぬために、ここに来たわけじゃない。
ただ、好きだった。
ただ、それだけだったのだ。
好きな人と一緒に笑いたかった。
放課後、一緒に並んで帰りたかった。
くだらない話をして、時々喧嘩して、仲直りをして。
そんな、誰もが手に入れる当たり前の未来が欲しかった。
ただ、それだけだったのに。
「……私……」
少女の目から、最後の涙が零れ落ちる。
「ただ……好きだっただけなのに……っ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
隣で怯える彼へなのか。愚かな自分自身へなのか。
それとも、こんな残酷な仕打ちをする世界そのものへなのか。
「……どうして……」
視界が急速に闇へ沈んでいく。
遠くで誰かが悲鳴を上げている気がした。けれど、もう何も聞こえない。
少女は息絶えるその瞬間まで、鏡から目を離さなかった。
鏡の中の自分もまた、最後まで少女を見つめ返す。
そして――少女の意識は、永遠の闇へと引き千切られた。手には、あのブローチを握ったまま。
❁
――どれほどの時間が流れたのだろう。
誰もいなくなった踊り場。
夕陽はとっくに沈み、古びた校舎は漆黒の暗闇に包み込まれていた。
そこにはもう、少女の遺体も、動かなくなった男子生徒の姿もない。
残されているのは、床にこびりついた黒ずんだ痕跡と――壁際に静かに佇む、一枚の古びた姿見だけ。
何処かで時計の歯車が噛み合い、針が動き出す。
カチ。
カチ。
カチ。
やがて――姿見の中に、ありもしないものが映し出された。
誰もいないはずの暗い踊り場。そこに、一人の少女がひっそりと立っていた。
深く俯き、長い髪が顔を覆い隠している。
制服は、あの日のまま。その胸元には――あの小さなブローチが、鈍く光を放っていた。
少女はゆっくりと顔を上げる。
鏡の向こう側の現実には、誰もいない。それでも少女は、何かを待ち続けるように、ずっとそこに佇んでいた。
そして、廊下の暗闇の向こうから、一人の女子生徒が怯えながら歩いてくる。
「……ここだ」
震える小さな声。
女子生徒は噂を頼りに、姿見の前で立ち止まった。
少女は鏡の底から、その生きた少女の姿をじっと見つめる。
女子生徒は胸の前で祈るように手を組んだ。
「好きな人と……」
少女の穢れを知らない輝かしい瞳が、ゆらりと妖しく揺れる。
「……結ばれますように」
その愛おしい願いの言葉を聞いた瞬間。
少女は、鏡の中で、ゆっくりと耳まで裂けるような笑みを浮かべた。
――ずっと、欲しかった。
自分には決して手に入らなかったもの。
誰かと愛し合い、笑い合う未来。
好きな人に「好きだ」と言ってもらえる未来。
当たり前に幸せになる未来。
けれど――目の前の少女には、それがある。これから手に入る未来がある。
ならば、それを私が奪ってしまっても――いいよね?
姿見の表面に、ドロリと水面のような波紋が広がった。
現実の女子生徒は何も気づかない。ただ、鏡の中に映る自分の姿を嬉しそうに見つめている。
そして、鏡の中に映る女子生徒のすぐ背後に――あの少女が立っていた。
冷たい手をゆっくりと伸ばし、女子生徒の胸元に触れる。あのブローチを付けていた場所。
鏡の向こう側から、こちら側へ。
そして、女子生徒の存在が、影のように鏡の中へ吸い込まれて消えた。
代わりに、鏡の中には、大好きな彼と手を繋ぎ、幸せそうに笑う少女の姿が映し出されていた。
その隣には、優しく微笑む男子生徒がいる。
顔はよく見えない。けれど、少女は本当に幸せそうに笑っていた。
まるで――あの日、永遠に失われたはずの未来を、ついに手に入れたかのように。
ただ、その恍惚とした笑顔の奥底には、誰の耳にも届かないほど小さな呪いのような声が残されていた。
『……ずるい』
❁
「――っ!?」
弾かれたように、夢月は現実へ引き戻された。
椅子の上で身体を大きく跳ねさせ、肺が破れそうなほど荒い呼吸を繰り返す。
「夢月!」
神楽の緊迫した声が響いた。
カウンター越しにマスターも、見たこともないほど心配そうな表情でこちらを見つめている。
膝の上に立つ珠吉だけが、鋭い野性の目を光らせ、夢月の手元を深く睨みつけていた。
「……今の……」
夢月はガタガタと震える自分の指先を見下ろした。
そこには、あの古びたブローチがしっかりと握り締められている。
「今の、誰かの記憶……?」
『何を見た』
珠吉の重々しい問いに、夢月はすぐには答えられなかった。
頭の中には、血の海の中で瞳から光を失っていった、あの少女の最期の姿が強烈に焼き付いている。
そして何より――絶命の際、少女が最後に見つめていたあの姿見。あれは今も変わらず、学校のあの踊り場に立ち続けているのだ。
「このブローチを持っていた女の子が」
夢月は血の気の失せた顔をゆっくりと上げた。
「昔、あの姿見の前で死んだんです」
神楽の端正な表情から、いつもの不敵な笑みが完全に姿を消した。
夢月はまだ知らない。けれど今、自分達が追っている怪異が、ただ人の恋心を弄ぶだけの浅はかな存在などではないことを――。
その怪異が、何故生まれ、何故人の「成就した恋」を強奪し続けるのか。
その恐ろしい呪いの根源の一端を、夢月はあまりにも残酷な形で掴んでしまったのだった。




