鏡花の恋・1
こっちを向いて。そんな目を向けないで。
❁
「――つまり、そのブローチに触れたことで、その少女の記憶を見たということだね?」
静かだが重みのある神楽の声が、夢幻喫茶の柔らかな灯りの中に落ちた。
夢月は膝の上で固く手を握り締め、小さく、けれど確かに頷いた。
「はい」
そう答えたものの、胸の奥底に燻り続けている巨大な感情は、未だに言葉として上手く形にできずにいた。
目を閉じれば、今でも恐ろしいほどの鮮明さで脳裏に蘇る。
あの古びた木造校舎。
夕陽に赤く染まる、薄暗い階段の踊り場。
激しく突き放し、向かい合っていた二人の男女。
胸を引き千切られるような思いで、必死に愛を伝えようとしていた少女。
それを邪魔くさそうにあしらい、冷たく拒絶した男子生徒。
やがて感情の波に飲まれ、激しさを増していった口論。
掴み合い、振り払われた腕。
そして――バランスを崩し、二人の身体が階段の底へと滑落していく絶望的な瞬間。
あれだけの出来事が過去に起きていたと知って、夢月は得も言われぬ悲しみが込み上げた。
冷たい床に広がった、禍々しいほどの赤。
倒れ伏し、息絶えていく少女。
そのすぐ隣に静かに佇んでいた、古びた姿見。
そこに映り込んだ、涙と血に塗れた自分自身の無惨な姿。
姿見は、ただ偶然そこにあるだけだったのだ。偶然、少女が転落した傍にあっただけのこと。
運が悪かったと言えば酷すぎる。少女は姿見があったことで、受け入れたくない現実を目の当たりにしなくてはならなかったのだから。
『――なんで、私が』
あの脳髄を刺すような怨念の声が、今も耳の奥から離れてくれない。
夢月は吸い寄せられるように無意識でブレザーのポケットへ手を差し入れ、指先に触れた小さく冷たい感触を確かめた。
ポケットから取り出されたそれは、木製のテーブルの上へそっと置かれる。
それは、小さな古いブローチだった。
長い年月を暗闇の中で過ごしてきたせいか、表面には細かな傷が無数につき、金属の輝きも失われている。
けれど――それがかつて、誰かにとって命と同じくらい大切な宝物だったということだけは、不思議なほどはっきりとしみるように理解できた。
「……本当に、あの子のものなんだよね」
『恐らくな』
カウンターの端から、珠吉が金の瞳を細めてブローチを睨みつける。
いつものように偉そうな口調ではあったが、その低い声には普段と違う慎重さと警戒が滲み出ていた。
「でも、どうしてそれが夢月さんのポケットの中にあったのでしょうか?」
マスターが静かに尋ねながら、温かい紅茶のカップをそっと差し出す。立ち上る湯気が、二人の間の空間を優しく揺らした。
「それが、私にも全然分からないんです」
夢月は胸の奥をキュッと締め付けられるような切なさに唇を噛み締め、悲しそうに、けれどゆっくりと首を横に振った。
「姿見の中に取り込まれて……あの恐怖の中で意識を失って、気づいたら夢幻喫茶に戻ってきていて。そこで珠吉が、私が何か怪しいものを連れ帰ってきたって言うから」
『我の頭の上から、妙な妖気が漂ってきたからな』
「その時は何のことかさっぱり分からなかったんですけど」
夢月はテーブルの上のブローチを愛おしそうに見つめた。
「ポケットに何気なく手を差し込んだら、これが入っていたんです」
「怪異の側から君に直接渡した、と考えるのが最も自然だろうね」
隣の席からカウンター上に置かれたブローチを見ていた神楽は、ただ冷静にそう言った。
いつも浮かべている、人を食ったような余裕のある笑みは微塵もない。
横顔に刻まれたその表情は、珍しく本気で真剣なものだった。
「でも、私はあの子から直接何かを貰った覚えなんて、絶対にありません」
「だからこそだよ」
「え……?」
「君が己の意志で受け取ったのではなく、気づいた時には手元にあった。それならば、あの姿見に留まる怪異自身が、君という人間を意図して選び、何かを『託した』可能性が極めて高い」
『何かに気づけ、とでも言いたいのか』
「恐らくね」
神楽は美しく細い指先で、ブローチの輪郭をすっと指し示した。
「わざわざ自らの依り代とも言えるこんな代物を寄越したのだから、あの怪異は単純に人間を鏡の中へ引き摺り込んで貪るだけの、邪悪な存在ではないのだろう」
その言葉に、夢月は黙ってブローチを見つめ返した。
自分の小さな掌にすっぽりと収まってしまうほどの、ささやかな装飾品。
それなのに、この小さな金属の欠片の中に、一人の少女の短い一生と、膨大な苦しみがぎゅっと凝縮されているような気がしてならなかった。
「……あの子は」
ぽつり、と、夢月の乾いた唇から、漏れ出すように言葉が溢れた。
「あの子は、私に何かを伝えようとしているのかな」
その呟きに、誰もすぐには答えを出さなかった。
壁に掛けられた古びた柱時計の針だけが、店内を満たす沈黙の中で静かに時を刻んでいる。
カチ。
カチ。
カチ。
その規則正しい金属音だけが、不気味なほど大きく耳に響いた。
『伝えたい言葉があるなら、妖などにならずハッキリと言葉にすればいいだろう』
珠吉は機嫌を損ねたように喉の奥で唸ると、二股に分かれたしなやかな尾をパタリとカウンターの天板へ叩きつけ、フンと可憐な鼻を鳴らした。
「それができなかったから、あんな悲しい形になってしまったんじゃないかな」
その儚くも確かな確信を孕んだ言葉に、珠吉はパタリと尻尾の動きを止める。
ゆっくりと、まるで夢月の心の深層を覗き込もうとするかのように、その神秘的な金の瞳を夢月の方へと向けた。
『どういう意味だ?』
「分からない。でも……」
夢月は、脳裏に刻まれたあの壮絶な過去の情景を思い返す。
夕陽の差し込む廊下で大好きな人の前に立っていたあの少女は、傷つくことを恐れながらも、必死に自分の想いを伝えようとしていた。けれど、差し出した心は踏み躙られ、声は届かなかった。
その果てに訪れた、階段からの転落。
そして少女は息絶える直前、自分の血に濡れた惨めな姿を、冷たい鏡越しに見つめることしかできなかったのだ。
「最後まで……あの子の本当の気持ちは、誰一人として届かなかったんじゃないかなって」
胸の奥が、ぎゅっと握り潰されたように痛んだ。
「だから、今度は、鏡の中から誰かに届こうとしているのかもしれない。私に、聞いてほしいんじゃないかって」
「……なるほど」
『しかし、だ』
珠吉が不機嫌そうに二本に分かれた尻尾をゆらゆらと揺らす。
『理由がどうあれ、あいつは現実に人間を鏡の中へ引き摺り込み、害を成している。現にあの娘――美咲とやらも、まだこちら側へ戻ってきてはいないのだぞ』
「うん」
『ならば、我らのやるべきことは一つ。容赦なく祓うだけだ』
突きつけられたそのあまりに冷酷な真実に、夢月の身体がピキリと凍りついたように僅かに強張った。
「……祓う」
『そうだ』
珠吉は情に流されるような素振りなど微塵も見せず、言葉を飾らずに淡々と、そして突き放すような冷ややかさで言葉を続けた。
『あの姿見に深く巣食う怨念を根こそぎ消し去れば、閉じ込められている人間たちも解放される可能性が高い。それが一番手っ取り早く、確実な解決策だ』
「でも……」
『何だ』
「その子自身は、どうなっちゃうの?」
珠吉がぴたりと口を噤んだ。
夢月はブローチを見つめたまま、絞り出すような声で続ける。
「怪異を完全に消すってことは……あの子も、永遠に消えちゃうんですよね」
『怨念から生まれた妖となった以上、消滅は免れん。それが理だ』
「そう、なんだ」
最初から分かっていたはずのことだった。けれど、改めて仲間たちの口から現実を突きつけられると、鉛を飲まされたように胸が重くなった。
あの怪異は恐ろしい。
人の恋心や願いを巧みに利用し、騙して鏡の中へ閉じ込め、美咲を奪っていった。
夢月自身だって、あの鏡の世界で自分の居場所も存在も塗り替えられていくような、狂いそうなほどの恐怖を味わったのだ。
だから倒さなければならない。美咲や、これまでの被害者を連れ戻すためには、それしか方法がないことも頭では分かっている。
「……なんだか、すごく嫌だな」
「何がだい?」
その声音にはいつものような人を食った冗談めかした響きはない。何処か透明で、それでいて夢月の心の奥底に眠る真意を優しく手繰り寄せるような不思議な深く落ち着いた響きがあった。
「あの子をただの悪者として消して……それで全部終わり、っていうのが」
自分でも、どうしてこれほどまでにあの怪異に肩入れしてしまうのか分からなかった。
多くの生徒を誑かし、異界に引き摺り込み、絶望を見せた。
そんな怪異を無条件に許せるはずなどないし、庇えるはずもない。
「もちろん、美咲を助けたいです! 鏡の中に閉じ込められているたくさんの人達も救いたい。その気持ちは絶対に変わりはない」
夢月は膝の上でぎゅっと拳を握り締め、力強く言葉を重ねた。
「でも」
あの少女の最後の一瞬が、どうしても頭から離れてくれない。
大好きな人の前で、恥ずかしそうに笑おうとしていた幼い顔。
冷酷な拒絶を受けて、ボロボロと崩れていった表情。
血の海の中で、自分が自分でなくなっていく恐怖に怯えていた瞳。
そして――『なんで私が』という、血を吐くような叫び。
「あの子がどうして、あんな悲しい怪異になってしまったのかを知ってしまったから」
夢月はゆっくりと顔を上げ、慈愛に満ちた目を向けた。
「何も知らなかった時なら、ただの怖いお化けだから倒そうって思えたと思うんです」
隣で聞いていた神楽も、膝の上で丸くなっていた珠吉も、向かいにいるマスターも、皆が静かに耳を傾けていた。
「でも今は……あの子にも、あんなことをしてしまうだけの、あまりにも悲しい理由があったんだって分かってしまったから」
神楽は何も言わず夢月の瞳をじっと見つめ、マスターも、静かに紅茶の湯気を見つめたまま佇んでいる。
珠吉だけが、何処か歯痒そうな表情で夢月を見つめていた。
「だから……」
夢月は胸の奥から湧き上がる感情を、一生懸命に言葉へと変換する。
「ただ力任せに消すだけじゃ、駄目な気がするんです」
『駄目、とはどういうことだ』
「分からない……自分でも上手く言えないけど」
夢月はテーブルの上のブローチをそっとすくい上げ、両手で優しく包み込んだ。
「この子は今、私に何かを伝えようとして、これを託してくれたんですよね」
「そうだろうね。間違いなく」
「だったら……」
夢月は包み込んだ自分の手の中を見つめた。
「その言葉を……あの子の話を、最後まで聞いてあげたいんです」
しんと静まり返った店内に、夢月の澄んだ声だけが真っ直ぐに響いた。
膝の上に乗っていた珠吉が呆れたように目を細める。
『お前は、何処までも妙なお人好しだな』
「ふふっ、そうかも」
『相手は人間ではない。怨念に狂った妖なのだぞ』
「分かってるよ」
『生きた人間を何人も鏡の中へ閉じ込め、苦しめてきた存在だ』
「それも、痛いほど分かってる」
『ならば何故、そこまでして危険を冒す必要がある!』
夢月はすぐには答えられなかった。けれど――自分が初めてこの『夢幻喫茶』の扉を叩いた、あの日の出来事を思い出す。
願いがあるはずなのにそれに気づけず、対価も支払えない場違いな自分。
そんな自分を、この店の人達は決して拒絶せず、追い返しもしなかった。
神楽も。
珠吉も。
マスターも。
皆少し浮世離れしていて、変わった人達ではあるけれど。
それでも、自分の拙い話を真剣に聞いてくれた。味方になってくれた。
だから今度は、自分が誰かの声なき話を聞く番なのだと思えたのだ。
「もし、私だったら」
店内に流れる重苦しい沈黙をそっと破るように、夢月はぽつりと呟いた。
「もし私が死んで、誰にも自分の本当の気持ちを分かってもらえないまま、真っ暗な鏡の中でずっと一人で泣いていたら……」
想像するだけで、足元が崩れ落ちるほど恐ろしかった。
恐ろしいだけではない。誰もいない、たった独りで閉じ込められるなど、寂しすぎる。
「たった一人でいいから……自分の存在を、自分がそこにいたことを知ってほしいって、絶対に思う」
神楽が静かに目を伏せた。その美しく整った影の中に、ほんの僅かだけ切ない色が差す。
「君らしいね」
「え?」
「いや」
神楽は小さく、愛おしそうに笑った。けれどその笑みは、いつも夢月をからかう時の意地悪なものではない。
「何でもないよ」
マスターが静かに空になったカップを手にし、冷めかけた紅茶を注ぎ足す。
立ち上る心地よい香りが、緊張した空気を優しく解き解していく。
「では、一度情報を整理しましょう」
カップを再び夢月の前に置き、マスターは言った。
「あの姿見の怪異は、噂されているような『恋を叶える存在』などではない」
「はい」
「人間の切実な願いを利用して鏡の中へ誘い込み、取り込む。そして、その人間が最も望んでいた『幸せな時間』を幻覚として見せる」
夢月は、迷いを振り払うように深く深く頷いた。
その力強い動作と共に、胸の奥底にくすぶっていた最後の怯えが静かに消えていく。
「そして、その幸せを一番酷い形で奪う」
その言葉を引き継ぐように、神楽が静かに口を開く。
「君が鏡の中で目撃した、もう一人の君もそうだね」
「……はい」
「あれは恐らく、君から『夢幻喫茶という大切な居場所』と『幸福』を奪い去り、絶望させるための罠だったのだろう」
夢月は、あの恐ろしい光景を思い出した。
温かい夢幻喫茶。
皆の眩しい笑顔。
そこに当たり前のように座っている自分。なのに――近付いてよく見れば、そこにいたのは自分ではない別の少女だった。
見覚えのない顔立ち。知らない髪型。
自分が大切にしていた場所に、知らない誰かが幸せそうに収まっていたのだ。
「あれは、あの子自身が喉から手が出るほど欲しかった『未来』なのかもしれません」
『何だと?』
「私が見た幻の中にいたあの子は、すごく幸せそうに笑っていたんです」
夢月はカウンターの上に置いたままのブローチをぎゅっと握り締める。
「きっとあの子は、自分があの日に永遠に失ってしまった未来を、ずっと鏡の中から見つめているんです」
好きな人と心から笑い合う未来。
放課後、手を繋いで一緒に帰る未来。
学校で友達とくだらない話をして笑い転げる未来。
何処にでもある、けれど何物にも代えがたい日常を過ごす未来。
――生きてさえいれば、当たり前に手に入っていたはずの未来。
「だから、他の人の恋を叶えてあげたいんじゃない」
夢月の声が、激しい悲しみで途切れ途切れになる。
「自分が欲しくてたまらなかったものを、一度相手に見せて……一番幸せな気持ちにさせておいて……」
夢月の喉の奥がぎゅっと熱くなり、溢れ出しそうになる感情の塊に押し潰されて、言葉を詰まらせる。
息を吸うことすら苦しくなるほどの切なさが胸を塞ぎ、唇を微かに震わせながら、彼女は必死に次の言葉を探そうとした。
けれど、あの子の味わったあまりにも残酷な絶望を思うと、声が途切れたままどうしても出てこない。静まり返った店内に、夢月の悲痛で小さな息遣いだけが痛々しく落ちた。
「……その後で、全部踏み躙って奪っているんだと思います」
『なるほどな』
珠吉の二股の尾が重々しく揺れを止め、喉の奥から絞り出された低い声が、静かに店内に響いた。
それまでの不機嫌なあしらいとは一線を画す、深く沈んだ声音。
「幸せにすることは目的じゃない」
神楽が、何処か他人事のように静かな透き通った声で、淡々と言う。
その声音には感情の波風一つ立っておらず、冷ややかな正確さがあった。
「絶望させるための準備に過ぎない。幸せを掴んだ瞬間の人間の顔こそが、彼女にとってこの世で最も憎く、苛立たしいものなのだろうね」
その言葉が鋭い針のように胸の奥を刺し、夢月は強く頷いた。
幸せそうな他人を見て、激しい羨望と憎悪を抱く。
どうして私だけが。
どうしてあの人達ばかりが。
そんな地獄のような怨念を抱えたまま、冷たい鏡の中で何十年もの長い年月を一人きりで過ごしてきたのだとしたら。
その少女の心は、一体どれほど冷たく、凍りついてしまったのだろう。
「この子」
夢月は指先で、ブローチの表面をそっと撫でた。
「ずっと、たった一人で泣いていたんだ」
誰も返事をしなかった。けれど、その言葉を否定できる者も、ここには誰一人としていない。
夢月は、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳からは、もう迷いや躊躇いは完全に消え去っていた。
「だったら」
胸の奥底で、固い決意がカチリと音を立てて固まる。
「私が聞きます」
『何をだ』
「あの子が本当は何を思っていたのか。何を望んで、何を後悔して……どうして今まで、あんなところで縛られ続けているのか」
胸の奥底を覆っていた迷いや恐れという濁りは完全に払われ、澄み渡った一筋の芯が一本、喉から真っ直ぐに通っているかのようだった。
「全部、あの子の言葉を残さず聞きます」
神楽は目を細め、夢月の心の深層を見透かすように静かに問いかけた。
「話を聞いて……それから、どうするつもりだい?」
その問いにだけは、夢月もすぐには言葉を出せなかった。
怪異を退治する。それが美咲や被害者達を助け出すために、絶対に避けられない結末だ。
でも、ただ力で伏せて消滅させるだけでは、あの少女の魂は永遠に報われない。
「終わらせてあげたい」
両膝の上で固く結ばれた小さな拳にぎゅっと力を込めながら、夢月は自分自身に言い聞かせるように、胸の奥底で揺れる真摯な想いをその一言に注ぎ込んでいた。
「あの怪異を、ただ『倒す』んじゃなくて」
夢月は手の中のブローチを強く、強く握り締めた。
「あの子の悲しい未練を……あの子自身を、ちゃんと終わらせてあげたい」
言葉として吐き出した瞬間、自分でも驚くほど胸の中が澄み渡っていくのを感じた。
恐ろしいほどすんなりと、その覚悟が自分の体に馴染んでいく。
「あんな暗くて冷たい場所で、ずっと一人で縛られているなら……」
夢月は、鏡の向こう側で膝を抱えているであろう少女の姿を強く想い描いた。
「もう……そこから救い出して、終わらせてあげたいんです」
珠吉が、静寂の支配するカウンターの上で重々しく二股の尻尾を揺らした。
琥珀色の瞳に宿る陰影が、店内の微かな灯りを受けて複雑に揺らめく。
『口で言うほど簡単なことではないぞ』
「うん」
『あいつがお前の話に素直に耳を傾ける保証など何処にもない』
「分かってる」
『拒絶されれば、今度こそお前自身が鏡の底へ引き摺り込まれ、二度と戻れなくなるかもしれんのだぞ』
「それも、ちゃんと分かってる」
『ならば――!』
珠吉が、暗がりの中で琥珀色の金の瞳を鋭く光らせる。
夜の闇をそのまま切り取ったかのような瞳孔が細く引き絞られ、そこから放たれる怪しくも苛烈な眼光が、夢月の全身を射抜いた。
『何故そこまでして、己の身を危険に晒す!』
夢月は少しだけ首を傾げ、記憶の糸を手繰り寄せるようにじっと考えた。
胸の奥底で渦巻く感情を一つ一つ丁寧に掻き分け、言葉へと変えていく。
そして――。
「知っちゃったからかな」
困ったように、小さく笑ってみせた。
「あの子の痛みを一度知ってしまったのに、何も知らなかったフリをして見捨てるなんて……私には絶対にできないから」
その迷いのない答えを聞いた神楽は、感心したように深く息を吐き、椅子の背もたれへゆったりと身体を預けた。
「なるほどね」
やがて、彼は美しい唇の端を吊り上げた。
「ならば、決定だね」
『決定だと!?』
「夢月の後輩を救い出す。そして同時に――あの哀れな少女の魂も救う」
神楽は静かに、けれど絶対的な自信を込めて宣言した。
「ただし――」
その瞳に、狙いを定めた狩人のような凄まじく鋭い光が宿る。
それまでの柔らかく落ち着いた雰囲気は一瞬にして霧散し、獲物の僅かな動きすら逃すまいとする冷徹な気迫が、その双眸から溢れ出していた。
「夢月。君が再びあの鏡の世界へ飛び込むなら、今度は前のような無防備な丸腰で行かせるわけにはいかない」
「……はい」
「下手をすれば、君の心ごとあちら側へ引き摺り込まれる。ならば、こちらも完璧な準備を整えて挑むべきだ」
マスターも静かに、揺るぎない力強さを込めて深く頷いた。
「私も、持てる限りの術と道具で協力しましょう」
『……フン、我も行ってやる』
珠吉が、面白くなさそうにフンと鼻を鳴らしてぷいと横を向いた。
『勘違いするなよ、あの娘のためではない! あの不吉な姿見を放置しておけば、いずれこの街全体に災いが広がるからな!』
「ふふっ」
『何がおかしい!』
「いや……珠吉って、本当はすごく優しいんだなって思って」
『う、うるさい! 余計なことを言うな!』
ぷりぷりと怒って顔を背ける珠吉の姿を見て、夢月は今日初めて、心からの笑顔を零した。
その笑顔には、死線を前にした恐怖を乗り越えた、確かな温もりが宿っていた。
けれど、テーブルの上に置かれた小さなブローチだけは、静寂の中で佇んでいる。
傷だらけの古びた装飾品。
そこに深く刻み込まれた、一人の少女の惨劇の記憶。
誰にも届くことのなかった、切ない恋心。
そして、長い年月を経てもなお消えることのなかった、たった一つの哀しい願い。
夢月はそっと手を伸ばし、そのブローチを愛おしそうに握り締めた。
「……待っててね」
誰に聞かせるでもなく、誓うように呟く。
「あの時、誰にも話を聞いてもらえなかったんだよね」
瞼の裏に、あの少女の最期の姿がくっきりと浮かび上がる。
血の海の中で、姿見に映る自分自身を、ただ絶望と恐怖の目で見つめていた少女。
あの瞳に宿っていたのは、激しい怒りだったのか。
胸を裂くような悲しみだったのか。
それとも、世界全てに対する絶望だったのか。
今の夢月には、まだその全てを理解することはできない。
だからこそ――。
「今度は、私が全部聞くから」
夢月は静かに、深く息を吐き出した。
「貴方が何を思っていたのか、何を心から願っていたのか……逃げずに、最後までちゃんと聞くから」
物体であるブローチから返事は返ってこない。
当然だ。ここにその少女がいるわけではない。
あるのはただ、アンティークな家具に囲まれた静かな喫茶店の空間だけだ。
それでも、夢月には確かに感じられた。何処か気の遠くなるような遠い場所から、誰かが縋るような視線で自分を見つめている気配を。
――その瞬間だった。
夢月の手の中で、あの古びたブローチが――チリ……と、微かな音を立てて確かに震えた。
「……え?」
夢月は驚きに目を見開く。
けれど次の瞬間には、もう何事もなかったかのように静まり返っていた。
珠吉も。
神楽も。
マスターも。
誰一人として、その一瞬の微かな異変には気づいていない。
夢月だけが、自分の手の中の感触に痺れたように固まっていた。今のは、単なる自分の気のせいだったのだろうか。
それとも――。
「……『知ってほしい』って……言ってくれたの?」
囁いた問いかけは、誰の耳にも届かない。
それでも夢月は、もう一度だけその重みを確かめるようにブローチを強く握り締めた。
恐しくないと言えば、絶対に嘘になる。
あの禍々しい鏡の中へ再び足を踏み入れることが、怖くないはずがないのだ。手足が縮みあがるような恐怖が、今も背筋を撫でている。
それでも、目の前で消えてしまった美咲を絶対に連れ戻す。そして――あの悲しい少女を、自分の手で終わらせて救う。
その二つの覚悟だけは、もう何があっても揺らぐことはなかった。
夢月は凛とした動作で椅子から立ち上がる。
「それじゃあ、行ってきます」
「何処へ行こうと言うんだい?」
怪訝な表情を浮かべた神楽が静かに尋ねる。
夢月は迷いのない真っ直ぐな瞳で、彼を見つめ返した。
「本館の、踊り場です」
その瞳には、今までに見たこともないほどの強く美しい光が宿っていた。
「もう一度……あの姿見の所へ」
そして、夢月は小さなブローチを、自分の胸元――心臓に一番近いポケットの中へと大切に仕舞い込んだ。
まるで、大切な友人から託された宝物を、命がけで守り抜くかのように。
今度こそ。
鏡の向こう側で待っている、あの少女の元へ届くために。
❁
放課後の図書室には、静けさそのものが満ちていた。
時折響く乾いたページの捲れる音と、壁に掛けられた時計の刻む規則正しい秒針の音。
窓の外からは、運動部の威勢のいい掛け声や笛の音が遠く聞こえていたものの、分厚い木製の扉に遮られてしまえば、それすらまるで何処か別世界の出来事のように思える。
古紙とインクの匂いが漂う空間で、斜陽が静かな本棚の隙間を橙色に染め上げていた。
「八雲先輩、この本って何処に戻せばいいですか?」
返却された何冊かの文庫本を両手で大切そうに抱えた美咲が、高々と聳える本棚の前で足を止めた。
「それ? 確か、あっちの棚だったと思うけど」
少し離れた長机で、貸出カードの整理をしていた八雲がふと顔を上げた。
「たぶん、この辺り」
「たぶん……?」
「うん。ごめん、俺も全部の分類を暗記してるわけじゃないからさ」
「ふふっ」
美咲の唇から、小さな笑い声が零れた。
「図書委員の先輩なのにですか?」
「先輩だからって、何でも知ってると思わないでよ」
「でも、私よりずっと図書室のことに詳しいじゃないですか」
「そりゃ、一年長くやってるからね」
八雲は苦笑しながら立ち上がると、美咲の元へ歩み寄り、彼女が持っていた本の中からすっと一冊を受け取った。
「ほら、これならこっちの棚」
「あ、ありがとうございます」
「いいって。この曜日の当番、一緒なんだから」
二人の図書委員の当番日は同じだった。
そのため、放課後に静かな図書室へ残る時には、自然と二人きりで顔を合わせることが多かった。
委員会になったばかりの最初の頃こそ、美咲は一歩引いて先輩である八雲に遠慮していた。
けれど、何度かこうして一緒に当番を熟すうちに、胸の緊張も少しずつ解けていったのだった。
「涼風さん、今日ちょっと元気ない?」
「……え?」
棚の隙間に本を差し込もうとしていた美咲の手が、ぴたりと止まる。
「そう、見えますか?」
「うん。なんとなくね」
「そんなこと、ないですよ」
「そっか」
八雲は、それ以上は踏み込もうとしなかった。
「本当に大丈夫?」と何度も問い詰めることもしない。
理由を無理に聞き出そうともしない。
ただ当たり前のことのように優しく笑うと、何事もなかったかのように自分の作業へと戻っていく。
「…………」
美咲は、棚越しに見える八雲の背中を、じっと静かに見つめた。
優しい人だと、いつもそう思う。
けれど、八雲の持つその優しさは、自分だけに向けられた特別なものではないことも知っていた。
困っている人がいれば自然と手を差し伸べる。
誰かが落としたものがあればさりげなく拾う。
元気がなさそうな人がいれば、当たり前のように声を掛ける。
八雲にとっては、それが呼吸をするのと同じくらい「普通」のことなのだろう。
だからこそ――美咲は、ほんの少しだけ羨ましかった。
自分も、彼のように誰もを温かく包み込める人になれたらいいのに、と切なく思う。
「……先輩」
「ん?」
「八雲先輩って、いつもそんな感じですよね」
「そんな感じって?」
「優しいっていうか……」
「俺が?」
八雲は作業の手を止め、少し考えるように首を傾げた。
「別に、普通じゃない?」
「普通じゃないですよ」
「そうかな」
「そうです」
美咲がきっぱりと言い切ると、八雲は参ったなというように困り顔で笑った。
「じゃあ、ありがとう?」
「……どういたしまして?」
何処か噛み合わないおかしな会話になってしまい、美咲も思わずふっと笑ってしまう。
ほんの少し、心が緩んだだけ。
それだけのことなのに、胸の奥底にずっと溜まっていた冷たく重い塊が、すうっと薄くなっていく気がした。
「そういえば、涼風さん」
「はい?」
「この前言ってたあの小説、もう読んだ?」
「えっ、覚えてたんですか?」
「そりゃ覚えてるよ。同じ委員の仲間だしね」
「……そっか」
何気なく投げかけられた一言だった。けれど、美咲の胸の奥には、その言葉がじんわりと温かく広がる。
自分が前にポツリと口にしたくだらない雑談を、彼が覚えていてくれた。
たったそれだけのことなのに、跳ね上がるほど嬉しかった。
「まだ、途中なんです。続きがすごく気になってるんですけど、最近ちょっと忙しくて……」
「じゃあ、今日貸出延長処理をしておこうか?」
「いいんですか?」
「もちろん。返却日までに焦って読み終わらなかったらもったいないしね」
「ありがとうございます、先輩」
「どういたしまして」
八雲が眩しそうに目を細めて笑う。美咲も、吸い寄せられるように笑顔を返した。
放課後の、静かな図書室。
夕陽が落ちていく、二人きりの空間。
ドラマチックな出来事なんて、ここには何一つない。
ただ返却された本を元の場所に戻して、少しだけ他愛のない会話をして、互いに笑い合っただけ。
それでも――美咲にとって、この時間が心から愛おしかった。
学校へ来ること自体が、少しだけ息苦しく感じるような日でも。
誰かの無神経な言葉が、胸の奥に冷たく刺さって抜けない日でも。
この場所に来て、八雲と他愛のない言葉を交わしているだけで、塞ぎ込んでいた胸のつかえが取れ、ほんの少しだけ息がしやすくなる。
「……先輩」
「ん?」
「私、図書委員になって……本当によかったです」
「唐突だね」
「ふふっ。なんとなくです」
「そっか」
八雲は、深追いして理由を聞こうとはしない。ただ、いつもの温かい眼差しで笑っていた。
その飾らない何気ない笑顔を見つめながら、美咲は胸の奥底でそっと呟く。
(こんな時間が、ずっと続けばな)
けれど、その胸の深みで芽生えつつある愛おしい感情に「名前」をつけることだけは、美咲にはまだ、どうしてもできずにいた。




