鏡花の恋・2
席を立ち上がった夢月は、決意に満ちた瞳を皆に向けていた。
「美咲ちゃんを助けるためには、あの鏡の中に行くしかない」
『分かっている』
カウンターの縁に座っていた珠吉が、二股に分かれた尾をゆらりと不穏に揺らした。
『だが、一度完全に取り込まれかけたお前を、ただ同じように送り込むわけにはいかん』
「どういうこと?」
『お前は一度、あの妖の見せる甘い幻影に心を囚われているんだぞ』
珠吉の琥珀色の瞳が、鋭く細められた。
『妖の世界へ一度でも魅入られた魂は、二度目の侵入に耐えられん。次に行けば……今度こそ自らの意志で戻ってこられなくなる可能性が極めて高い』
分かっている。分かりすぎるほど分かっていた。
あの、息もできないほどの深い暗闇。けれどその鏡の向こう側に広がっていたのは、温かな光に満ちた幸せな光景だった。
この大好きな夢幻喫茶で、皆と当たり前のように笑い合っていた自分。
そこにいることが、居場所を求めていた夢月にとってあまりにも心地よかった。
だからこそ、心の底から怖いのだ。
もしもあのまま鏡の向こう側へと進み、あの甘い幻を本物だと信じ込んでしまっていたら……自分はきっと、二度と現実に戻ろうとはしなかったはずだから。
「それでも、行かないと」
夢月は、迷いを振り払うように力強く顔を上げた。
「美咲ちゃんが、まだあの冷たい暗闇の中にいるから」
迷いなく口にした言葉に、誰も何も言わなかった。
重く沈み込む沈黙が店内を支配する。やがて、カウンターの向こうでマスターが静かに口を開いた。
「覚悟はおありですか?」
「はい」
嘘だ。そんな即答できるほど、覚悟はない。それ以上に迷いはあった。
怖くないと言えば嘘になる。足は今だって小さく震えている。けれど、美咲をあの孤独な場所へ置き去りにはできない。
夢月は制服のポケットへすっと手を入れた。指先に触れたのは、あの無数の傷がついた古びたブローチだった。
これは、あの哀しい少女が自分という存在を賭けて、託してくれたものだ。
どれほど危険でも、最後までこの想いと向き合い、受け止め切らなければならない。
『ならば、方法は一つだけだ』
珠吉がカウンターからしなやかな動作で飛び降りた。
小さな身体が、古びた店の重厚な扉へ向かって静かに歩みを進める。
「珠吉?」
『この店が何処と繋がっているか、まさか忘れたわけじゃないだろう』
珠吉が扉の前で足を止めた。
前脚をゆっくりと高く持ち上げ、木目の浮かぶ扉へそっと触れさせる。
『夢幻喫茶は、ただ気休めに人間の願いを叶えるためだけの場所ではない』
――カチリ。
静寂を切り裂くように、小さな金属音が響いた。
鍵など掛けられていなかったはずの扉の隙間から、ドロリとした不穏な気配が溢れ出してくる。
一瞬で空間の空気が変貌した。店内を満たしていた甘く温かな紅茶の香りが潮が引くように薄れ、代わりに鼻の奥をツンと刺すような、凍てつく冷気が流れ込んでくる。
「……寒い」
夢月は思わず自分の両腕を抱き締めた。
珠吉は振り返り、鋭い眼差しを夢月に向ける。
『この扉の向こうを、あの妖が潜む領域の中心へ直接繋げる』
「そんなこと、本当にできるの?」
『この程度、我が力を振るえば造作もないことだ』
尊大に言い放ちながらも、珠吉の二股の尾はいつになく大きく、激しく揺れていた。
マスターがその背中を見つめ、静かに問いかける。
「珠吉様。それは、この店にとっても命にとっても危険なのでは?」
『危険に決まっているだろう』
間髪容れずに放たれた短い一言が、張り詰めた店内の空気を鋭く切り裂き、その場にいる全員の心に深く重々しく突き突き刺さる。
『だが、我が道を拓かねば、この娘は瞬時に妖の胃袋の中だ』
扉の僅かな隙間から、漆黒の霧のような怪異の気が蠢きながら滲み出した。
それは生き物のように床を這い、ゆっくりと夢月の足元へ向かって広がっていく。
「これが……」
『あの姿見の裏側に直接繋がっている道筋だ』
さっきまで見慣れていたただの木製の扉だったはずなのに、今、その扉の向こう側には何も見えない。
光すら存在しない、際限のない黒。
まるで世界そのものが巨大な顎を開けて、自分を呑み込もうと待ち構えているかのようだった。
「行ってきます」
夢月は膝の震えを抑え、ゆっくりと前を見据える。すると、それまで黙って壁に背をあずけていた神楽が静かに声を掛けた。
「夢月」
「はい」
「一つだけ、しっかりと胸に刻んでおいてほしい」
いつもの柔らかな笑みを浮かべている。けれど、その深遠な瞳には一切の冗談も余裕もなかった。
「鏡の中で何を見せられても、どれほど魅力的な救いがあろうとも、それを絶対に『本物』だと思わないことだ」
その言葉は、まるで波立つ水面が静まり返るように、やけにすんなりと夢月の胸の奥に落ちてきた。
「君が見たもう一人の自分の幸せも、あの温かな居場所も、全てあの妖が君の心を折るために作り出した欺瞞に過ぎない」
神楽は一度、夢月の制服のポケットへすっと視線を落とした。
布越しにその奥にあるブローチを見つめているよう。
「本物の幸せは、誰かに与えられるものじゃない。君自身の手で選び取り、掴み取るものだよ」
「はい」
夢月は迷いを一切感じさせない動作で力強く頷いた。
瞳の奧に宿った覚悟の光はより一層輝きを増し、その表情にはもう何意図つとして恐れの色は残っていない。
そして、夢月はすっと背筋を伸ばすと、マスターの方へと深く向き直る。
静かな情熱を湛えた眼差しを、落ち着いた佇まいで見守るマスターの正面へとま真っ直ぐにぶつけた。
「マスター……本当に、ありがとうございました」
「まだお礼を仰るには早いですよ」
マスターはいつもの穏やかな笑みをたたえ、深々と一礼した。
「必ず無事にお戻りください。どんなに時間がかかろうとも、いつでもおかえりいただけるよう、扉を開けておきますから」
『ふん』
最後に、珠吉がプイと素っ気なくそっぽを向いた。
不機嫌そうに鼻を鳴らし、二股の尾をパタンと一度だけ大げさに床へ打ちつける。
「珠吉」
『勘違いするなよ。お前が戻ってこなければ、この店の後始末を我がせねばならず、非常に面倒なだけだ』
「……ふふ」
夢月は小さく笑った。
心の奥底では、足がすくむほど怖くて堪らない。闇の深さも、これから待ち受ける怪異の恐ろしさも、自分一人の力では到底太刀打ちできないことを知っているからだ。
扉の向こうにどんな恐ろしい怪異が待っているのかは分からない。
美咲が無事でいるのかも。
あの少女が何を思い、何を恨んでいるのかも。
それでも、夢月は意を決し、ゆっくりと黒い霧の溢れ出る扉へ手を伸ばした。
冷たい。
まるで暗闇そのもの、冷酷な虚無そのものに触れているようだった。
「……行ってきます!」
夢月は扉を大きく押し開いた。
ぶわっ! っと、一瞬にして狂風のような冷気が店内へと吹き荒れる。
「……っ!」
ぐにゃりと世界が歪み、視界の全てが深い漆黒へと染まり上がっていく。
足の裏を支えていた床の感覚が消え去り、身体が宙へ放り出されるような感覚。
その暗闇の遠く、遠くから――誰かの怨念に満ちた声が響いてきた。
――羨ましい?
――私から全てを奪って、幸せになりたいの?
夢月は静かに目を閉じた。
脳髄を揺さぶるような、聞き覚えのある不気味な声。けれど、もう二度と怯えて足が竦むことはない。
「……違うよ」
失われていく意識と暗闇の中で、夢月は真っ直ぐに呟いた。
「私は、貴方をただ消して終わらせるために来たんじゃない」
ポケットの中でぎゅっと握り締めたブローチが、微かに、けれど温かな熱を帯びていく。
「貴方がいったい何を想っていたのか、ちゃんと知りに来たんだよ」
その言葉を最後に、夢月の身体は、完全に底なしの闇の中へと呑み込まれていった。
❁
何処まで歩いただろう。
夢月には、もうその時間の感覚すら分からなくなっていた。
一分が過ぎたのか、それとも数時間が経過したのか。あるいは、ここでは時間の概念そのものが意味を成さないのかもしれない。
右も左もなかった。上も下すらもない。感覚を遮断されたような漆黒の世界が、ただ何処までも、何処までも果てしなく広がっていた。
空間を満たしているのは、光の一粒すら拒絶する完全な黒だ。足元を見下ろしても、自分が何の上に立っているのかさえ分からない。
硬い床を踏みしめているような確かな手応えはあるのに、視線は何処までも虚無へと落ちていく。まるで空中を歩いているような、浮遊感と接地感が奇妙に混ざり合った不気味な感覚。
それでも、夢月は足を止めなかった。
歩くことだけはできた。いや、歩くことしか自分に残された選択肢がなかったと言った方が正しいのかもしれない。
前へ。
ただひたすらに、前へ。
胸の奥で静かに息づく、微かな決意の灯火だけを道標にして、彼女は闇を裂くようにして足を前に出し続けた。
不思議と、恐怖はない。
もちろん、最初から恐れがなかったわけではない。突如として放り込まれたこの無音の闇の底で、一人きりになった瞬間は、心臓が凍りつくほどの恐怖に苛まれた。だが、歩みを進めるうちに、その恐怖はどこか遠い場所へと押しやられていた。
正確に言えば――怖がっている暇がなかったのだ。
この途方もない暗闇の中には、ずっと誰かの声が響き続けていた。
遠く、果てしない暗闇の深淵から。
すぐ耳元で、甘い吐息のように。
時には振り返った背後から、冷たく。
そして時には、夢月自身の頭の奥底から、直接響くように。
言葉は形を変え、声色を変え、次々と夢月の心に揺さぶりをかけてくる。
『幸せになりたいでしょう?』
『望む未来、欲しいんじゃないの?』
重なり合う幾重もの声は、優しく、耳心地が良かった。全てを諦めてこの暗闇に身を投げ出してしまえば、どんなに楽だろうかと思わせるほどの、甘美な誘惑。
夢月は歩みを止めず、前を見つめたまま、静かに口を開いた。
「それでも、私はここにはいられない」
言葉は小さく声となって闇に消えたが、そこには揺らぎない強い意志が込められていた。
声は、少しだけ間を置いてから、不審そうに問いかけてくる。
『どうして?』
『あちらの世界に戻っても、辛いことばかりだよ。怪異の闇に怯え、人の醜さに触れ、身を削るだけなのに』
「大切な人達がいるから」
迷いなく答える夢月。その脳裏には、思い浮かべるだけで胸の奥が温かくなる人々の顔があった。
素直になれず、いつも毒舌を吐きながらも絶対に背中を見捨てない猫又の珠吉。
静かで冷徹に見えて、その実、客観的な正しさの中に深い洞察を秘めている神楽。
そして、どんな時も変わらない温かな眼差しで、静かに全てを受け止めてくれるマスター。
彼らだけじゃない。
学校に行けば、いつだって一番に笑って話し掛けてくれる華夏がいる。
自分に恋心を打ち明けて、また来てと願った美咲がいる。
だが、暗闇の声は嘲笑うかのように低く響いた。
『でも、皆は君を置いていくかもしれない』
その言葉が落ちた瞬間、夢月の足がぴたりと止まった。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。胸の深部を、冷たく研ぎ澄まされた鋭利な刃物でそっと撫でられたような、背筋が凍りつく感覚。
「そうだね」
夢月は、その言葉を否定しなかったし否定できなかった。
人は変わる。情も移ろう。
自分がいくら誰かを大切に思っていたとしても、相手が自分を永遠に必要としてくれる保証なんて、この世界のどこにも存在しないのだから。
妖として途方もない時を生きる彼らと、儚い人間である自分。いつか置き去りにされる日は、あるいは本当に来るのかもしれない。
『そうでしょう?』
『人間も、妖も、最後は皆一人だよ。裏切られ、忘れ去られ、捨てられる。だったら、最初から傷つかないこの場所にいればいい。ここなら、誰も君を置いていかない』
声は畳みかけるように、夢月の孤独を優しく甘く甘やかそうとする。
「でも」
夢月は、落ちかけた視線をゆっくりと上げた。そして、再び右足を一歩、前に踏み出した。
「だからって、最初から諦めるのは違うと思う」
ピンと張り詰めた空気が肌を刺す。
「傷つくのが怖いからって、拒絶されるのが怖いからって……最初から誰も信じないで、一人で閉じ籠もるなんて、そんなの寂しすぎるよ。置いていかれるかもしれない。裏切られるかもしれない。でも……今、私に手を差し伸べてくれたあの温もりまで疑いたくない」
夢月の踏み出す足取りは、先ほどよりも微かに力強さを増していた。
「未来の恐怖のために、今の感謝を捨てるなんて……絶対に違うと思うから」
語りかけていた声が、返答を失ったかのように途切れた。暗闇に、束の間の静寂が訪れる。
だが、闇は諦めない。しばらくの沈黙の後、今度は先ほどとは違う、もっと低く、哀しみに濡れた別の声が静かに響いた。
『羨ましい?』
短く、切り出すような問いかけ。その声には、深い孤独と怨嗟、そして他者の温もりを求める強い飢えが滲んでいた。
「うん」
夢月は、隠すことなく素直に答えた。
「羨ましいよ」
暗闇の中で、声の主が驚いたかのように僅かに揺らぐ気配があった。
『幸せそうな誰かを見るのが? 温かな場所を持っている誰かを求めるのが?』
「そうだよ。自分にはないものを持っていて、誰かに愛されていて、穏やかに笑っている人を見たら……いいな、羨ましいなあって、どうしても思っちゃうよ」
夢月の素直な言葉に、闇の中の声は期待を込めるように色めき立った。
『だったら――』
『奪えばいい。引きずり降ろせばいい。君にないものを持っている奴らから、全部奪い取って、君のものにしてしまえばいいの。ここにいればそれができる。羨む側の悲しみを、あいつらにも味わわせてやればいい』
「でも」
夢月の強い言葉が、闇の誘惑をきっぱりと遮った。
「羨ましいからって、誰かから奪っていい理由にはならない」
一言ひとこと、自分の心に確かめるように紡いでいた夢月の声に、次第に強い熱が宿りはじめる。
逃げずに、誤魔化さずに、暗闇の奥に潜む存在へ真っ直ぐに向き直った。
「自分が欲しいからって、誰かの大切なものを壊して、奪い取って……それで手に入れた幸せなんて、本当に欲しいものじゃないと思う。そんなの、ただの我䠊で、傷つけられた痛みを誰かに擦り付けてるだけだよ」
夢月は再び歩みを止めた。
周囲を見渡す。上下左右、何処を見ても深い闇しかないその無の空間へと向けて、夢月はまっすぐな視線を向けた。
「幸せになりたいって思うこと自体は、悪いことじゃないと思う」
それは、暗闇の奥に潜む怪異に向けた言葉なのか。
それとも、かつて自分自身の無力さに泣き、誰かを羨んでいた自分自身に向けた言葉なのか。
夢月にも、もう分からなかった。ただ、胸の底から溢れ出る想いを、偽りのない言葉にして紡ぎ出す。
「私だって、幸せになりたいよ。悲しいのは嫌だし、苦しいのも嫌。誰かに優しくされたいし、必要とされたい。みんなと同じように、温かい場所で笑っていたい……!」
言葉を区切り、夢月は深く息を吐き出した。
「でも……誰かの幸せを奪ってまで、自分だけが幸せになるのは違う。そんなやり方で掴んだ幸せなんて、きっとずっと……罪悪感で冷たいままだよ」
深々とした闇の中に、完全な静けさが戻ってきた。もう、夢月の言葉を嘲笑う声も、泥のような欲望へ誘う声も聞こえない。
夢月は、また前を向いて歩き出した。
この暗闇の中で、自分に投げかけられる歪んだ問いから逃げなかった。
否定するだけではない。
かといって、魅惑的な諦念に身を任せて受け入れるだけでもない。
怖い言葉には、怖いと答える。
羨ましいと思えば、羨ましいと素直に認める。
恐怖も、嫉妬も、自分の中にある弱い感情を全て抱きしめた上で――それでも、自分が間違っていると思う生き方だけは、決して肯定しない。
自分が何処へ向かっているのかは分からない。だが、逃げずに進み続けることこそが、この闇を払う唯一の方法だと、彼女の直感が告げていた。
❁
それは、足の感覚が麻痺し、息が少しずつ荒くなり始めた頃だった。
――カラン。
不意に、静寂を破って澄んだ高音が響いた。何かが硬い床に落ちて、転がるような音。
「……?」
夢月はハッと顔を上げる。
暗闇の向こう。今まで何もなかったはずの虚無の空間に、ぽつんと、ぼんやりとした白い輪郭が浮かび上がっていた。闇の黒に溶け込むことなく、そこだけが微かな光を孕んでいるかのように存在感を主張している。
夢月は呼吸を整え、その輪郭を目指してゆっくりと近づいた。
一歩。
また一歩。
闇を押し拓くように進むにつれ、その白い輪郭の正体が、少しずつ鮮明に見えてくる。
「鏡」
そこに立っていたのは、一枚の古い姿見だった。
木製の枠に作られた、背丈ほどもある大きな鏡。けれど――その姿は、もう姿見と呼ぶことすら躊躇われるほどに、悲惨なまでに壊れていた。
鏡面には、無数の重なり合う亀裂が走っている。蜘蛛の巣のように縦横無尽に広がったヒビ割れは、鏡の端から端までを容赦なく覆いつくし、本来映し出すべき世界をズタズタに切り裂いていた。
それだけではない。ところどころには拳大の大きな欠けがあり、裏側の銀色の塗料が剥がれ落ちて、濁った灰色が露出している。光を跳ね返すための鏡としての機能を、あらかた失ってしまった哀れな無機物。
重々しい沈黙と、壊れた鏡。
それでも、夢月は息を詰めた。その無数の亀裂が入った鏡の向こう側に、確かに「誰か」がいたからだ。
「誰?」
壊れた鏡面の向こう、歪んだ光のグラデーションの中に、ぽつんと一人で立っているのは見知らぬ少女だった。
こちらを見ているのかも分からない。その瞳が何処を向いているのか、表情がどうなっているのかすら、ヒビ割れたガラスの乱反射によって打ち砕かれ、判別することができない。
ただ、そこに寂しげに立っていることだけが伝わってきていた。
夢月は息を呑み、胸の上に手を当てた。心臓が早鐘を打つ。
「貴方が」
足が自然と前へ動く。一歩、その壊れた姿見へと近づく。
「噂の根源⋯⋯姿見の怪異なの?」
問いかけは、静かな暗闇の中に吸い込まれていった。鏡の向こうの少女は答えない。身じろぎ一つせず、ただ歪んだ影としてそこに存在し続けている。
夢月はさらに一歩、踏み込んだ。
逃げたいという本能の警告を抑え込み、鏡面に向かってゆっくりと右手を伸ばす。
壊れたガラスの傷口に触れるかのように、指先を伸ばす。あと少し、数ミリでその冷たい表面に指先が触れようとした――。
その瞬間だった。
――パキン!
甲高い、ガラスが悲鳴を上げるような音が空間に響き渡った。
鏡の中の景色が、ぐにゃりと大きく歪む。
「……っ!?」
夢月は思わず息を呑んで手を引いた。
鏡面に走る無数の亀裂が一斉に妖しく揺らめき始める。まるで生き物のようにヒビ割れが蠢き、姿見そのものが激しく波立つ水面のように歪んでいく。乱反射する微かな光の中で、向こう側にいた少女の輪郭が崩れ、溶け出していく。
ガラスの破片が空中へと飛び散るような錯覚。
波立つ鏡面が限界を迎えて弾けた瞬間、鏡は姿を変えた。いや、鏡そのものが押し出されるようにして、少女の姿そのものへと変貌を遂げたのだ。
夢月のすぐ目の前、僅か数歩の距離に一人の少女が立っていた。
着ているのは、見覚えのあるデザインの制服。夢月自身が普段着ているものとよく似た同じ学校の制服だ。
けれど、誰なのかは分からない。
何故なら――その少女の顔だけが、墨を流し込んだかのように、真っ黒に塗り潰されていたからだ。
目もない。
鼻もない。
口もない。
あるべきはずの表情のすべてが、ドロリとした黒い闇によって塗り潰され、削ぎ落とされている。
感情を読み取るための部位が何一つ存在しない。ただ、人間の形をした歪な黒い影が、そこに佇んでいるだけだった。
「貴方は……」
夢月の声が、恐怖と困惑で微かに震えた。
少女は何も答えない。声帯すら与えられていないかのように、完全な沈黙を保っている。
けれど、次の瞬間。その顔面を覆う黒く塗り潰された闇が、ゆっくりと、きしむような動作で夢月の方へと向けられた。
視線が存在しないはずなのに、「見つめられている」という圧倒的な圧迫感が夢月を襲う。
怖い。
危険だ。
今すぐ背を向けて逃げ出した方がいい。
夢月の全身の細胞が、本能が、激しい警鐘を鳴らし続けている。この存在に深く関われば、自分もあの真っ黒な闇に呑み込まれ、顔を奪われ、壊れてしまうかもしれない。
身体が恐怖で震え、膝がガクガクと笑い出しそうになる。
押し潰されそうなプレッシャーの中で、けれど――夢月は逃げなかった。
歯を食いしばり、震える脚でしっかりと床を踏みしめる。そして、ゆっくりと右手を制服のポケットへと滑らせた。
ポケットの底。指先に触れた、ひんやりとした金属とガラスの質感。
夢月はそれを、慈しむようにそっと握り締めた。
――あのブローチ。
この怪異の領域へと足を踏み入れる前、夢幻喫茶を出る時から、ずっとポケットの中で握り締めていた古びた遺物。
「これ」
夢月は、息を整えながらポケットからゆっくりと手を引き出した。
掌の上に載せられたのは、細かな彫刻が施された小さなブローチだった。金属部分は長年の月日によってくすみ、埋め込まれたガラス玉も輝きを失っている。けれど、何処か温かみを感じさせる、古い手作りの品。
それを取り出し、少女に見せるように掲げた、まさにその瞬間だった。
グラリ、と、少女の身体が、まるで強い地震にでも見舞われたかのように激しく揺れた。
「……?」
夢月は驚きに目を見開いた。
ここに来て初めてだった。声の誘導にも、夢月の拒絶にも、ただ淡々と静観を決めていた怪異が、明確で激しい拒絶と動揺の反応を示したのは。
黒い顔の少女は、狂おしいほどの動揺を見せながら、刻むように身体を震わせている。
夢月は怖さを押し殺し、勇気を振り絞って一歩、その少女へと近づいた。
「これ、貴方のものだよね」
優しく諭すように問いかけると、少女の動きがぴたりと止まった。
黒く塗り潰された顔が、夢月の手のひらにあるブローチへと落とされる。少女は固まったまま、動かない。
けれど、次の瞬間、少女の細い腕が、ぎこちない機械のような動きでゆっくりと持ち上がった。
長い指先が空を泳ぎ、夢月の差し出した掌へと伸びてくる。そして、ゆっくりと、重なるようにして夢月の手の上に覆い被さった。
ひやりとする冷気が、肌を通して伝わってくる。血の通っていない、氷のように冷たい指先。その指先が、微かな震えを伴いながら、夢月の手のひらにあるブローチへと触れた。
「…………っ!?」
ドカン、と衝撃音が脳内で跳ねた。
少女の身体から、濃密な黒い靄が噴き出したのだ。
濁った闇の渦が暴風となって吹き荒れ、夢月の視界を完全に奪い去る。凄まじい怨嗟と哀しみ、そして焦燥感が混ざり合った怪異の気配が、奔流となって夢月を押し潰そうと襲いかかってくる。
夢月はあまりの風圧と恐怖に、思わずギュッと目を閉じた。
視界が途切れ、強い冷気が皮膚を刺す。吹き荒れる闇の風に吹き飛ばされそうになりながらも、夢月は足を踏ん張り、差し出した手を絶対に引かなかった。
少女の手を逃がさないように、ブローチを握る手に力を込める。
逃げない。
ここで手を放してしまったら、この子は永遠にこの闇から抜け出せなくなってしまう。
闇の風が耳元でゴーゴーと死者の絶叫のように吹き荒れる。何かが崩れていくような、ガラスが砕け散っていくような悲痛な音が空間に満ちていく。
そして、ふっと風が止んだ。
ぽたり。
静まり返った暗闇に、水滴がひとつ、床に落ちて弾けるような静かな音が響く。
夢月は、恐る恐るゆっくりと目を開けた。
「…………」
目の前に立っていた少女の姿が、劇的に変わり始めていた。
少女の身体を包み込んでいた禍々しい黒い靄が、まるで朝空に溶ける霧のように急速に薄れていく。
そして、何よりもあの墨で塗られたように真っ黒だった少女の顔から、少しずつ、まるで絵の具を洗うかのように色が戻り始めていたのだ。
黒が剥がれ落ちていく。
その下から現れたのは、透明感のある白い肌だった。
続いて、艶やかな長い髪が元の色を取り戻し、肩へと零れ落ちる。
制服の生地が本来の質感を持ち、胸元のリボンが鮮やかな色彩を宿していく。
そして――最後に、少女の顔が完璧に姿を現した。
そこにあったのは、恐ろしい怪異の相でもなければ、人を呪うような怒りや憎しみに満ちた顔でもなかった。
ただ、あまりにも儚く、酷く寂しそうな表情だった。
今にも崩れ落ちてしまいそうなほどに細い眉。涙を限界まで溜め込んだ、途方にも暮れたような瞳。ぎゅっと結ばれた、色褪せた唇。
夢月は息を呑んだ。
全く見覚えのない少女だった。生前の彼女と出会ったことなど一度もないはずだ。
それなのに、何故だろう。
その少女の悲しげな瞳と目が合った瞬間、夢月の胸の奥が、締め付けられるように激しく痛んだ。まるで自分の親しい誰かが泣いているのを目の当たりにしたかのような、切ない愛おしさと胸を刺す痛みが溢れ出してくる。
少女は、夢月の手から離れたブローチを、自分の両手でそっと包み込んだ。
宝物を扱うように。
壊れものを慈しむように。
ずっと、ずっと探していた大切なものを、幾年月もの暗闇の果てにようやく見つけ出したかのように、愛おしそうに胸元へと引き寄せる。
「…………これ」
静寂を破って、声が聞こえた。
それは暗闇の誘惑の声でもなく、響く怪異の威圧でもない。
初めて――その少女自身の口から零れ落ちた、本当の声だった。
掠れていて、微かで、今にも途切れて消えてしまいそうな、小さな女の子の声。
「まだ、あったんだ」
ポロポロと、少女の瞳から大粒の涙が零れ落ち、ブローチの表面を濡らしていく。
夢月は何も言えなかった。何を言えばいいのか分からなかった。ただ、溢れる涙を止められない少女の姿を、じっと見つめることしかできない。
少女の細い指先が、小さく震えている。
その震えは、人を脅かす怪異の力などでは断じてなかった。
そこにはもう、恐ろしい怪異の影などかけらも残っていない。
ただ一人。
誰もいない暗闇に取り残され、大切なものを失い、名前も顔も忘れてしまい、ずっと孤独の中で泣き続けていた――何処にでもいる、普通の女の子の姿がそこにあるだけだった。
「ずっと、探してたの」
少女は涙で声を詰まらせながら、ブローチを固く握り締めて呟く。
「自分が誰なのかも……どうしてここにいるのかも分からなくなっちゃって……ただ、すごく大事なものを失くしたことだけが悲しくて……」
少女の告白は、暗闇の中にポツリ、ポツリと落ちていく。
それは、怪異が生まれる瞬間の残酷な記録だった。
強い執着や未練を残して死んだ魂は、時の経過と共に自分が「誰であったか」を忘れていく。
名前を忘れ、想い出を失い、最期には自分の「顔」すら失ってしまう。
そうして残った「寂しい」「欲しい」「返して」という純粋な感情のバグだけが肥大化し、人を襲う怪異へと変貌してしまうのだ。
この少女もまた、そうやって怪異になってしまった犠牲者の一人に過ぎなかった。
小さなブローチこそが、彼女が人間であった頃の最後の記憶であり、自我を繋ぎ止める唯一の「絆」だったのだ。
「探してくれて……届けてくれて、ありがとう」
少女は、涙に濡れた顔で小さく微笑んだ。
その笑顔は、あまりにも美しく、そして切なかった。
ブローチを手に入れたことで、少女の存在そのものが微かな光を帯び始め、端から粒子となって崩れ始めている。
未練が果たされ、怪異としての核が解けていくのだ。彼女は浄化され、この暗闇から解放されようとしている。
「待って……っ!」
夢月は思わず手を伸ばしかけた。
消えてしまう。この少女は、救われたと同時に、この世界から完全にいなくなってしまうのだ。
少女は首を横に振った。その表情には、先ほどまでの恐怖や悲しみはもうない。穏やかな、凪いだ海のような静けさだけがあった。
「いいの。これで、やっと眠れるから……」
少女の身体が、いよいよ光の粒子となって暗闇へけていく。
「貴方は、優しいんだねっ! こんな場所まで来てくれて……私の顔を、思い出させてくれて……」
光が強まり、少女の輪郭が溶けていく。
「あたたかい人に……囲まれているんでしょう? 大切に……してね……」
消え入るように言葉を残し、少女の身体は光の散りとなって弾け、漆黒の空間へと吸い込まれるように消えていった。
「次は、誰かに愛されるといいな」
掌に残されたのは、あの小さなブローチだけだった。
夢月は、誰もいなくなった空間で、ぽつんと一人佇む。
静かだった。
耳を覆いたくなるような怪異の声も、誘惑も、全てが嘘のように消え去っていた。
暗闇のあちこちに亀裂が走り、まるで古い壁紙が剥がれるように、漆黒の世界が破れていく。その隙間から、温かな、見慣れた光が差し込んできている。
現実に戻る扉が、開こうとしていた。
夢月は、握り締めたブローチを胸の前に抱きしめた。
少女の言葉が、耳の奥で深く響いている。
『あたたかい人に囲まれているんでしょう? 大切にしてね』
夢月の目から、一筋の涙が頬を伝って落ちた。
恐怖に打ち勝てたのは、自分の力ではない。
暗闇の中で自分を見失わずにいられたのは、自分が強かったからではない。
いつだって、帰るべき場所があったから。
待っていてくれる人が、自分を信じてくれている仲間がいたからこそ、自分は踏み止まることができたのだ。
「うん」
夢月は、誰にも聞こえない声で小さく頷いた。
「大切にするよ。私を待ってくれている、大切な人達を……ずっと」
破れていく暗闇の向こう側から、懐かしい匂いが漂ってきた。
コーヒーの深い香り。古い木製の家具の匂い。そして――皆の声が。




