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おいでませ夢幻喫茶へ  作者: 榊原蓮華草
現し世の間、見透かす目
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幼き日の願い・5




 ――足音が、追ってくる。

 宵闇に包まれた夜の町を駆け抜けるお菊の耳に、暗がりを切り裂くような荒々しい怒声が届いた。


「いたぞ!   あっちの路地だ!」

「逃がすな!  簪で人を刺し掛けた女だ、まだ遠くへは行けていないはずだぞ!」


 振り返る余裕など、毛頭なかった。お菊はただ、生温い夜風を切り裂いて走り続ける。


 息が苦しい。

 一足踏み出すごとに、肺の奥を鋭い刃物で刺し抉られるような激痛が走る。胸の奥が焼き切れるように熱い。

 それでも、足を止めるわけにはいかなかった。


 右手には、血の付いた一本の金属の簪。

 左手の掌には――小さな青い野花。


 走る度に、頼りない花弁が夜風に震え、乾いた音を立てて一枚、また一枚と漆黒の石畳の上へ落ちていく。


「っ、ぐ……っ、は……っ」


 喉の奥から、堪えきれない湿った咳が込み上げた。

 お菊は走る速度を緩めず、咄嗟に左手の甲で口元を強く押さえた。

 掌に広がる、ねっとりとした赤い色。

 月光に照らされたその血は、悲しいほどに見慣れた色だった。


 もう、何度この色を見ただろう。

 最初は、朝方に少し胸が重くなり、浅く咳き込むだけだった。

 それがいつからか、息を吸い込むだけで肋骨の裏側が引き千切れるように痛むようになった。夜になれば身体を灼くような発熱に襲われ、朝を迎えても鉛を飲み込んだような重苦しさが抜け落ちない。歩くことさえ億劫で、床から起き上がれない日が増えていた。


 病だった。この街の底に生きる女達を、食い尽くすように蝕む労咳。

 医者に診せる金など一文もなく、ゆっくり身体を休める温かな場所もない。

 自分の命がそう長くはないことなど、とうの昔に分かっていた。いつかこうして倒れる日が来ることも。


 けれど、今夜ではなかったはずだ。


 まだ、やり残したことがある。

 まだ、あの場所に残してきた小さな子がいるのだ。


「……千代」


 掠れた唇から、熱い溜息と共に名前が零れ落ちた。

 その瞬間、すぐ背後の暗がりから、どたばたと地響きを立てて追手の足音が肉薄してきた。


「おい!  そこの角を曲がったぞ!   追い詰めろ!」


 お菊は奥歯が砕け散るほど強く食いしばり、もつれる足に無理やり力を込めて再び走り出した。

 湿った石畳に足を取られ、視界がぐらりと大きく傾く。

 激しい眩暈に襲われ、倒れそうになりながらも、濡れた土壁に強く手をついてギリギリのところで踏み留まった。


 その拍子に、大切に握りしめていた左手の中の花が、くしゃりと潰れかける。


「あ……っ!」


 お菊は青ざめ、慌てて花を包み込むように握り直した。

 指の間から覗く花弁は、もうほとんど残っていなかった。茎も折れかけ、無残に潰れている。

 それでも、これを捨てることだけは、自分の命を捨てる以上に出来なかった。


 これは、千代がくれた花だから。


 いつだったか、風の冷たい日の夕刻。

 木橋の下で膝を抱えていた千代が、道端の雑草の陰にひっそりと咲いていた名もなき青い花を見つけて、まるで宝物でも見つけたかのように目を輝かせ、小さな両手で大切そうに差し出してきたのだ。


『お姉さん、これ』

『あたしに花なんて持ってきたって、一文にもなりやしないよ』


 たったそれだけのことだった。

 世間から見捨てられた貧しい子供が、目に留まった野花をくれただけ。ただ、それだけのことに過ぎない。

 なのに、お菊はその枯れかけた花を、どうしても捨てることができなかった。


 長年、夜の街で男達の相手をして生きてきた。

 誰かに何かを渡す時、大人は必ず見返りを求める。

 優しくしてほしい。

 褒めてほしい。

 身体を買ってほしい。

 自分を好きになってほしい。

 この世界は、取引と欲望と計算でできているのだと、お菊は疑っていなかった。


 けれど、千代は違った。

 泥に汚れた小さな手で花を差し出して、ただ、心からの笑顔を咲かせていた。

 あの子は教えてくれたのだ。

 誰かに何かをあげるということが、見返りなんて何もなくても、こんなにも胸を温かく、誇らしくしてくれるのだと。


「……っ、はぁ……っ、く……っ」


 お菊の視界が、真っ赤な血の混じった涙でぐにゃりと歪んだ。

 もう、長くは走れない。

 自分の身体が、指先の冷たさから順に死へと向かって冷え切っていくのが分かった。

 とっくに限界を超えている。それでも、あの男達に捕まって、引き摺られて嘲笑われるわけにはいかなかった。

 簪を握る右手に、血が滲むほど固く力を込める。


 あの座敷で、男に簪を突きつけたことに後悔がないわけではなかった。

 もしもあの場で、別の言葉を選べていたなら。

 立ち上がらず、ただ愛想笑いを浮かべて聞き流していたなら。


 今頃あたしは、いつものように何事もなかった顔で夜を過ごし、明日もあの橋へ向かえていたのかもしれないのかい?


 けれど、あの子が生まれてこなければよかったなどと。

 あの子が存在するべきではないなどと。

 そんな言葉だけは、命と引き換えにしても絶対に聞き流すことなど出来なかった。


 お菊は、瞼の裏に千代の顔を浮かべた。

 橋の下で膝を抱えていた、小さな子。

 帰りたくないと、震える小さな声で呟いていた子。

 手渡したおにぎりを受け取る時、毒でも入っているのではないかと怯えた目で疑っていた子。

 独立して生き抜く術も持たぬまま、世間の冷たい眼差しに怯え、息を潜めていたあの小さな肩。

 そして、別れ際に『ありがとう』と、世界で一番綺麗な顔で笑った子。


 あの子は、生まれてから今日まで、どれほどの冷酷な言葉を浴びせられてきたのだろう。

 どれほど長く、冷たい夜をたった一人で耐え抜いてきたのだろう。

 まだあんなに幼いというのに。

 どうしてあんなにも、大人の顔色を窺い、自分の存在を申し訳なさそうに恥じ入らなければならないのだろう。


「……あたしは……っ」


 お菊は掠れた息を深く吸い込んだ。

 肺の奥が、焼きごてを押し当てられたように激しく痛む。


「あんたに、何ひとつしてやれなかったね」


 呟いた直後、激しい咳の波が津波のように押し寄せた。その場に蹲り、必死に口元を押さえる。

 指の隙間から、ドロリとした温かい血が溢れ出し、ポタポタと石畳を赤く染めた。

 膝の力が、完全に抜け落ちる。お菊はドサリと石畳に膝をついた。硬く冷たい地面が、容赦なく膝小僧を打ち砕く。

 立ち上がろうとした。腕に力を込め、身体を起こそうとした。

 けれど――身体が、ぴくりとも動かなかった。


「……うそ、だろ……っ」


 両手を血で汚れた地面につき、もう一度、全身の肉を絞り出すように力を込める。

 駄目だった。指先ひとつ、もう言うことを聞いてくれない。

 ただ、ヒューヒューという荒い喘鳴だけが、寂しげな夜の静けさに虚しく響いていた。


 背後から聞こえていた怒声は、まだ少し遠くにある。

 それなのに、お菊にはもう悟っていた。自分はもう、ここから逃げ切ることはできないのだと。


 病で血を吐いて死ぬか。

 あるいは、追いついてきたあの男達に踏みつけられて殺されるか。

 どちらにしても、この泥のような人生は、ここで終わりなのだ。


 不思議なことに、死への恐怖はなかった。

 ――いや、違う。怖くないわけがない。生きていたかった。

 明日も目を覚まして、この泥臭い町を歩いて、くだらない噂話に呆れて、誰かの機嫌を取りながらそれでも何とか一日を生き延びたかった。

 千代に会えるかもしれない明日を、もう少しだけ続けていたかった。


 けれど、あの男達に捕まって蔑まれるくらいなら。

 自分の最期くらい、あの子のために怒り、あの子のために使い果たた命の死でありたい。


 お菊は、震える左手ゆっくりと開いた。

 血の滲んだ掌には、千代からもらった野花が残っている。

 潰れかけた二枚ほどの花弁。

 折れかかった、細く頼りない緑の茎。

 それでも、確かにそこにあった。あの子がくれた温もりの証が。


「……千代……」


 もう一度、掠れた声で名前を呼ぶ。

 今すぐ会いたかった。

 たった一度でいい。もう一度だけあの子の小さな手を握り、あの綺麗で切ない顔を見たかった。


 知識も、財産も、綺麗な言葉も何ひとつ持たないあたしだけれど。

 この命を賭けてでも、伝えたかったのだ。

 お前は、生まれてきてよかったのだと。

 世界中の誰もがそう言ってくれなくても、お前がこの世に生を受け、そこに存在していることは、決して間違いなどではないのだと。


 けれど、お菊が本当の胸の底で伝えたかったのは、それだけではなかった。


 もしも……あたしがあの子の母親になれたなら。

 もしも、あの子があたしの腹から生まれてきた子供だったなら。

 あたしは、あの子をどんな風に育てただろう。


 朝になれば名前を優しく呼んで起こしてやって、腹が減ったと泣けば温かい粥を食べさせてやる。

 眠れない寂しい夜には、隣に添い寝して、背中をトントンと叩いてやるのだ。

 悪いことをしたら、ちゃんと叱ってやるだろう。

 けれど、あの子の存在そのものを否定することだけは、死んでも絶対にしない。


 片目がなくても。

 人には見えない化け物が見えていても。

 千代は、あたしの大切な千代なのだから。


「……あたしの子供、か……」


 お菊は、涙で濡れた唇を微かに綻ばせ、微かに笑った。

 自分の命すら明日の保証がない女が、そんな幸福な妄想を抱くなんて、可笑しくてたまらなかった。


 それでも、あの子が、もしも自分の元に生まれてきていたなら。

 あの子は、少しは幸せだったのだろうか。

 それとも、やっぱりこんな惨めな女の子供として、不幸になってしまったのだろうか。


 お菊は、折れかけた青い野花を、血に染まった胸元へぎゅっと抱き締めた。

 冷たい夜風が、濡れた頬をさっと撫でていく。

 遠くで、男達の足音が急速に近づいてくる。もう、すぐそこまで迫っていた。


 お菊はゆっくりと目を閉じた。

 最後に一度だけ、叶わぬ願いと知りながら、心の中でひめに問いかけた。


 ――ねえ、千代。

 あんたは、あたしと出会ったことを、少しでも『よかった』って思ってくれたかい?

 もし、あたしがあんたを自分の子供みたいに愛していたとして。

 あんたは、こんなあたしの元に生まれてきた方が良かったって、そう思ってくれるかい……?


 答えを聞くことは、もう永遠にできない。それでも、お菊は夜空の星に祈り続けた。


 いつか千代が大きくなり、誰かに同じ酷い問いを向けられた時。

 自分が生まれてきたことを、決して『間違い』だったと思わずにいられるように。

 たとえ、あたしが傍に居てやれなくなっても。

 あの子がいつか……自分自身の存在を、許してあげられるように。


 お菊は胸元の花を、命の全てを込めて握り締めた。


 夜の町に、追手達の足音が覆い被さるように迫る。けれど、お菊はもう振り返らなかった。

 ただ、腕の中の小さな花を見つめていた。


 千代がくれた、たった一輪の青い花。

 それが、お菊の冷え切った人生の最後に残された、あまりにも温かな光だった。





 ❁





 月明かりが凍てついた石畳を照らし、お菊の冷たくなった体に蒼白い陰影を落としていた。

 街の喧騒は遠く消え去り、そこにはただ、途絶えた息と、残された幼い少女の絶望だけが横たわっていた。


「……お姉さん?」


 千代の手が、空を切る。

 冷たくなっていくお菊の頬に触れたいのに、指先が触れればその「死」という確定した事実を認めざるを得なくなる。だから千代の手は、拒絶するように、そして求めるように、空中で震えたまま彷徨っていた。


 ぽたり、ぽたり。千代の瞳から溢れ落ちた涙が、お菊の頬に、そして潰れた青い野花の上に落ちる。

 けれど、どれほど涙を零しても、どれほど心の中で叫んでも、お菊の胸が再び上下することはなかった。


 夢月は、額に貼られた『妖視の御札』を通して、お菊の周囲に揺らめく「死」の残滓を見ていた。

 冷たく澄んだ夜気の中に、先ほどまで確かに存在していた熱量が、一滴ずつ消えていく。


「……そんな……」


 夢月の声が、激しいショックで喉に引っかかった。

 マスターの警告が、頭の中で何度も何度も反響する。


「時代の流れを、大きく変えてしまえば――」


 歴史は変わってしまったのではない。

 千代が夢幻喫茶を訪れ、この時代へ戻る道を選択するよりもずっと前……何百年の昔、千代がお菊と出会ったあの夜から、この凄惨な結末は決まっていたのだ。


 もしも、千代が片目を失わずに生まれていたなら。

 もしも、母親から拒絶されず、橋の下で一人泣いていなければ。

 もしも、お菊があの寒い夜、膝を抱える千代の隣に座り、青い野花を受け取っていなかったなら。


 お菊は、あの座敷で客の男に怒りを爆発させることはなかったはずだ。

 病に侵された身でありながら、無謀にも夜の街を逃げ惑い、血を吐いて息絶えることもなかった。

 惨めな夜鷹としてだとしても、もう少しだけ長く、明日を迎えることができていたのかもしれない。

 千代がお菊を愛したから。

 お菊が千代の存在そのものを、己の命よりも大切に守ろうとしてくれたから。

 その愛おしく温かな絆の全てが、回り回ってお菊の命を奪う鋭い刃となってしまった。


(そんなの……あまりにも残酷すぎるよ……)


 夢月は胸を押さえた。

 千代はただ、傷つけられ続けた人生の中で、唯一自分を人間として接してくれたお菊に「ありがとう」と伝えたかっただけなのだ。

 あの日言えなかった言葉を届けるために、時さえ越えてここまでやってきたのだ。

 それなのに、辿り着いた答えが「自分がいたから、あのお姉さんは死んでしまった」という事実だというのか。


 千代の肩が、激しく上下していた。

 小さな背中に背負わされた運命の重さに、崩れ落ちるようにしてお菊の胸元へ崩れ伏す。


「ひめが……っ、ひめがいたから……?」


 喉を破るような、掠れた慟哭が夜の闇を切り裂く。


「ひめが、生まれてきたから。お姉さん……死んじゃったの……?」


 千代の手が、血に染まったお菊の着物をぎゅっと握り締めた。

 潰れた青い野花が、千代の涙で濡れていく。

 その悲痛な叫びは、夜の静寂を切り裂き、月明かりの下で誰に届くこともなく虚しく響き渡っていた。

 夢月も、八雲も、そして珠吉すらも、ただその場に立ち尽くし、あまりにも重すぎる少女の涙を見つめることしかできなかった。


 けれど、その時。夢月の額に貼られた御札が、急に微かな熱を帯びてピリピリと強く痺れ始めた。


(……え……?)


 夢月は息を呑み、涙に濡れた目を凝らした。

 御札の効力によって拡張された視界の中で、息絶えたお菊の身体から、淡い黄金色の光がゆらゆらと立ち上っているのが見えた。

 それは霊魂などではない。お菊が命を使い果たす最後の最後、胸元に抱いた青い野花へとしがみつくように遺した、純粋で強烈な『残留思念』――残響のような想いの結晶だった。


 光は、血に濡れたお菊の手元……潰れかけた青い野花を中心に揺らめいている。

 夢月が吸い寄せられるように一歩踏み出し、その光にそっと手を伸ばした瞬間、彼女の頭の中に、お菊の切なくも優しい声が直接流れ込んできた。


『ねえ、千代。あんたは、あたしと出会ったことを……少しでも「よかった」って思ってくれたかい?』

『もし、あたしがあんたを自分の子供みたいに愛していたとして。あんたは、こんなあたしの元に生まれてきたほうが良かったって、そう思ってくれるかい……?』


 それは、男たちから逃げ惑い、血を吐きながら石畳に膝をついたお菊が、冷えていく意識の中で千代へ問いかけた「最後の願い」だった。


 お菊の声はさらに続き、夢月の胸を強く揺さぶる。


『お前は、生まれてきてよかったんだよ。誰に何と言われようと、お前がそこにいることは、決して間違いなんかじゃない』

『あたしがそばに居てやれなくなっても……いつか、あんたが自分自身の存在を許してあげられますように』


 思念を通じて伝わってくるのは、後悔でも怒りでもなかった。

 ただひたすらに千代を愛し、千代の幸せと存続を祈り続けた、母親のような無償の温もりそのものだった。


「違うよ千代ちゃん!」


 夢月は溢れ出す涙を拭いもせず、千代の隣に崩れ落ちるように膝をついた。そして、泣き叫ぶ千代の小さな身体を、両腕でぎゅっと抱きしめた。


「お菊さんは、千代ちゃんを責めてなんかいない!  自分の命が縮んだことも、千代ちゃんと出会ったせいだなんてm一瞬だって思ってないよ!」

『う、あぁぁ……っ!』

「お菊さんが最後に祈っていたのはね、千代ちゃんが自分を責めないこと。千代ちゃんが『生まれてきてよかった』って、自分のことを許してあげられることだったの!」


 夢月はお菊の硬くなった手から、潰れた青い野花をそっと取り上げ、千代の小さな掌へと包み込ませた。

 御札越しに見える淡い光が、千代の手を包むように優しく揺らめく。


「見て、千代ちゃん。お菊さんはね、命が消えるその瞬間まで、千代ちゃんがくれたこのお花を握り締めてたんだよ。千代ちゃんと出会えたことが、お菊さんの最後の救いだったんだよ」


 千代は掌の中の小さな花と、お菊の穏やかな死に顔を交互に見つめた。

 ぽたりぽたりと落ちる千代の涙が、お菊の遺した残留思念の光に反射して、夜の石畳の上で幾重にもキラキラと輝いた。


『お姉さん……っ。ひめね……ひめ、お姉さんと会えて……すごく、すごく嬉しかったのっ!』


 千代はお菊の胸元に顔を埋め、しがみつくようにして叫んだ。


『生まれてきてよかった!  ひめ、お姉さんにあえて、本当によかったっ!  ありがとう……ありがとう、お姉さん!!』


 何百年の時を超えて、ようやく届いた「ありがとう」の言葉。

 その瞬間、お菊の胸元で揺らめいていた淡い光が、まるで千代の言葉を聞き届けて安心したかのように、ふっと優しく、温かな粒子となって夜空へと溶けていった。





 ❁




 月明かりの下、夜空へと溶けていったお菊の思念の光は、まるで名残惜しむように千代の頬を優しく撫で、そのまま静かな星々の海へと消えていった。

 冷たくなったお菊の身体を、八雲と珠吉の手で静かに路地の奥、柔らかな土が眠る場所へと横たえ、八雲はお持ちの数珠を手にそっと静かな祈りを捧げた。


「……お菊さん。千代ちゃんのこと、俺達でちゃんと守っていきますから。安心して眠ってください」


 珠吉も二股の尾を静かに伏せ、琥珀色の瞳を閉じ、低く短い唸り声で別れの挨拶を告げた。

 千代はお菊の胸元から預かった、潰れかけた青い野花を、自らの小さな帯の間にそっと挿し込んだ。かつてあの日、お菊がしてくれた時のように。


「ひめね、お姉さんのこと、絶対忘れないよ。ずっとずっと……」


 涙を拭った千代の瞳には、もう過去の恐怖や呪いに怯える影はなかった。

 かつて自分を拒絶した過去、そしてお菊との愛おしく切ない記憶……その全てを抱えて生きていくという、小さくも力強い覚覚悟が宿っていた。


「……さて。長居をすれば、時の道の結び目が解けてしまうぞ」


 珠吉が静かに促す。八雲はマスターから預かった小さな木札を懐から取り出すと、空間が静かに揺らぎ始め、行きに来たあの古びた木戸がぼんやりと宵闇の中に浮かび上がった。

 夢月は千代の手をもう一度しっかりと握り締めた。その掌は、旅立ちの朝よりもずっと温かく、お互いの絆で満たされていた。


「帰ろう、千代ちゃん」

『うん。 お姉ちゃん』


 木戸を開けると、向こう側から見慣れた夢幻喫茶の柔らかな木漏れ日と、香ばしいコーヒーの匂いがふわりと漂ってきた。

 四人が時の道を通り抜け、最後の一歩を踏み出すと、ギィと音を立てて扉が閉まり、静かに鍵の開く音が響いて元の壁へと戻っていく。

 カウンターの向こう側では、マスターがいつも通りの温かな眼差しで、淹れたての温かい紅茶をカップに注ぎながら四人を迎えた。


「おかえりなさい。無事に伝えられましたか」


 千代は夢月の手を握ったまま、マスターに向かってしっかりと頷いた。


『うん!  お姉さんにね、ちゃんと届いたよ。ひめ……ううん、千代はね、生まれてきてよかったんだって、そう思えたの』

「……そうですか。それは何よりです」


 マスターは穏やかに微笑むと、千代の目の前へ、ほんのり甘い香りが立つ特製のホットミルクをそっと置いた。

 千代は両手でカップを包み込み、温かな湯気を吸い込んだ。

 その横顔を、夢月と八雲、そしてカウンターの上に跳び乗った珠吉が優しく見守っている。


 失われた過去の傷は消えなくても、その過去があったからこそ辿り着けた「今」と、共に歩んでくれる仲間達がここにいる。

 千代は帯に挿した小さな青い野花にそっと触れ、空を見上げるようにして小さく微笑んだ。


(お姉さん、見ててね。千代、皆と一緒に……ここでちゃんと生きていくからね)


 静かな夢幻喫茶の空間に、鈴の音が優しく響き渡り、止まっていた物語の時間が、再び未来へ向かって静かに動き始めた。







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