終章 ここで生きる
時を越える過酷な旅から戻って数日が過ぎ、店の中には変わらない穏やかな珈琲の香りと、静かに時を刻む古びた柱時計の音が満ちている。
カウンターの隅にある一番の特等席では、千代が小さな木製の椅子に腰掛け、真剣な眼差しで大きな画用紙に向かっていた。
その小さな手元には、一本の小さな飾りのついた帯留めと、ガラスの小さな瓶に挿された青いドライフラワーが置かれている。お菊から受け取ったあの思い出の野花は、店のマスターの手によって大切に時間が止められ、いつも千代のすぐ傍で優しく佇んでいた。
「千代ちゃん、クレパス、緑色使う?」
焼き立てのスコーンが載ったお皿を手に、夢月が隣の席から覗き込むように声をかけた。
夢月もまた、千代と同じく「ある願い」を胸にこの夢幻喫茶へ辿り着き、時を過ごしている客の一人だ。己の運命に惑わされ、行き場を失った者達が迷い込むこの場所で、夢月は千代の傷に寄り添うようにして日々を共にしていた。
『うん! お姉ちゃん、あお色と、みどり色、かりてもいい?』
「もちろん。はい、どうぞ」
千代の言葉使いからは、かつての寂しげな「ひめ」という自称が自然と消え、自分の名前を愛おしそうに口にするようになっていた。自分の存在を誰かに許されるのを待つのではなく、この場所に自分がいていいのだと、心の底から信じられるようになった証だった。
千代がクレパスを走らせて描いていたのは、大きな大きな樹と、その下に並ぶ人々の姿だった。
真ん中には、赤い着物を着て、青い花を髪に挿した小さな女の子。その両隣には優しく微笑む夢月と、お調子者らしく頭を掻いている八雲。足元には丸くなって欠伸をする二股の尾を持った猫・珠吉の姿。そして、樹の上の澄み渡る青空には、何処かお菊の面影を感じさせる柔らかな光の雲がふわりと浮かんでいる。
「へえ、上手いっすねぇ」
向かいのテーブル席から身を乗り出したのは、八雲だった。
彼もまた、夢月や千代と同じ「客」としてこの店に身を寄せている一人だ。戻ってきた左目の奥に何処か哀愁を漂わせながらも、八雲は悪戯っぽく口の端を上げて絵を覗き込んだ。
『やくもさんはね、いつも笑ってるから、大きくかいたの!』
「あはっ、嬉しいこと言ってくれるんだね! よーし、じゃあ俺のミルクティについてるマシュマロ、千代ちゃんに二つともあげちゃうっす!」
八雲はそう言って、自分の添え皿にあったマシュマロをひょいと摘み、千代のカップへと優しく浮かべて見せた。
『ほんと!? わーい!』
千代が手を叩いて無邪気に喜ぶ。その弾んだ声と眩しい笑顔に、夢月と八雲は顔を見合わせて温かな微笑みを交わした。
『ふん、調子のいい奴め。甘やかしすぎて虫歯になっても知らんぞ』
カウンターの上で日向ぼっこをしていた珠吉が、二股の尾を優しくパタパタと揺らしながら、欠伸混じりに呟く。けれど、その琥珀色の目は満足そうに細められていた。
千代は椅子からぴょんと飛び降りると、珠吉の傍へ歩み寄り、その柔らかい背中をそっと撫でた。
『たまきちさん、いつもありがとう』
『……べ、別に我は日向ぼっこをしているだけだ。変な気を回すでない』
照れ隠しにそっぽを向く珠吉だったが、千代が撫でる手に気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らし、自ら頭を千代の小さな手にすり寄せていく。
その光景を、カウンターの奥でマスターが静かに見守っていた。
淹れたての珈琲から立ち上る湯気の向こうで、マスターの神秘的な瞳が穏やかに揺れる。
「過去の傷は、消えて無くなるわけではありません。ですが、温かな思い出と今の絆が、その傷を包み込む優しいかさぶたになっていくのでしょうね」
その時、店の奥にある奥まった扉の開く音がして、可憐な木綿の鈴の音が小さく響いた。
秋風の吹き込むカウンターの奥、厨房の暖簾をそっと潜って姿を現したのは、赤い小振袖に丸帯を締め、おかっぱ頭を揺らした小さな少女。
色白の肌に、丸い大きな漆黒の瞳。その身から漂うのは、人間のものではない、可憐で何処か懐かしい神気――夢幻喫茶に居候している座敷童子のとこよだ。
「あ、とこよちゃん」
手を振りながら夢月が優しく声をかけると、とこよはトトトと小さな足音を立ててカウンターの隙間から出てきた。
丸い目をパチクリとさせ、素朴で拙い言葉遣いで一生懸命に言葉を紡ぐ。
『むつきさん。やくもさん。……おはよー、ございます』
「おはよー」
とこよの声は、まるで小さな鈴を転がしたように愛らしく、少し言葉を確かめるようにゆっくりとしたテンポだった。
夢月と八雲は思わず笑みを零し、その愛らしい姿を眺める。
その間、千代は目を丸くして、トトトと近づいてきた自分と同じくらいの背丈の少女を見つめた。
『こ、こんにちは。あたし、千代っていうの』
『ちよ……ちゃん。わたし、とこよです』
とこよは小首を傾げ、千代の広げているクレパス画をじーっと覗き込んだ。
『わあ……この青い花、とってもきれい。ちよちゃん……あやかしのけはいがする。でも、むつきさんたちとなかよしなんですね』
『うん! お姉ちゃんも、やくもさんも、たまきちさんも、みんな千代の大切な人なの!』
千代が誇らしげに胸を張ると、とこよはパッと顔を輝かせた。
『いいなあ。 わたし……いつも、おへやのおくでおるすばん、多かったから。ちよちゃんとお絵描き、したいです』
『ほんとう!? じゃあ、とこよちゃんもいっしょにお絵描きしよう! ほら、このあお色のクレパス、つかっていいよ!』
『 あ、ありがとう……ちよちゃん』
とこよは嬉しそうに小さな手を叩くと、千代の隣の椅子へちょこんと腰掛けた。
千代は新しく大きな画用紙を広げ、とこよにクレパスを手渡す。二人は頭を寄せ合い、「何を描こうか」「お花を描こうよ」「とこよちゃんの赤い着物も描いてあげる」と、楽しそうに声を弾ませ始めた。
同じ童女の姿をし、何処か世間から浮いた孤独を知る二人の妖。
顔を合わせてからの二人が心を通わせるのに、時間は全く必要なかった。あっという間に打ち解け、楽しそうにコロコロと笑い合う千代ととこよの姿は、まるで昔からの幼馴染のようだ。
千代ととこよが身を寄せ合い、無邪気に戯れる様子を、夢月は離れた席から静かに見つめていた。
頬を緩ませながらも、夢月の胸の奥には、ふっと切なく重い澱のような感情が静かに広がっていく。
(千代ちゃん、本当に良い笑顔になったな)
そう思いながらも、夢月の脳裏には、あの江戸の夜の冷たい石畳の光景が蘇っていた。
お菊の冷たくなった身体。血のついた簪。そして、涙で顔をくしゃくしゃにして叫んでいた千代の慟哭。
あの日、千代はお菊の最後の思念を受け取り、「ありがとう」を伝えることができた。
「生まれてきてよかったんだ」と、自分自身の存在を許すことができた。
夢月は深く息を吐き出し、胸に手を当てる。
(この店『夢幻喫茶』に迷い込む客は、皆が切実な願いを抱えている)
マスターはいつも言っていた。ここは、願いを持つ者が辿り着く場所なのだと。
そして夢月自身も理解していた。ここを訪れる客の全てが、救われ、願いを完璧に叶えて立ち去れるわけではないのだということを。
千代の根本的な願い――それは、「お菊さんと一緒に生きること」だったはずだ。
あの温かなお姉さんの腕の中で、抱き締められ、共に明日を迎えること。かつて冷たい橋の下で夢見た、ただそれだけのささやかな幸福。
けれど、その願いは、どれほど時を遡ろうとも、決して叶うことはなかった。
過去を変えることはできず、お菊の死という残酷な運命を覆すことはできなかった。
千代が手に入れたのは、「感謝を伝えること」と「自分を許す覚悟」だけ。
お菊という存在を失ったという絶対的な事実は、何一つ変わっていないのだ。
(だから千代ちゃんは、この店に居続けるんだ)
夢月は、切なそうに瞳を伏せた。
願いが叶った客は、それぞれの未来へと旅立っていく。けれど、根本的な願いを叶えられなかった千代は、帰るべき本当の故郷を持たないまま、この夢幻喫茶という時の隙間に留まり続けるしかない。
叶えられない願いという、一生消えない哀しみを胸に抱えたまま。
ここで仲間に囲まれ、笑顔を見せていても、千代の心の一番深い場所には、永遠に埋まらない空白がぽっかりと開いているのだ。
夢月は、握り締めた自分の手をじっと見つめた。自分もまた、叶うかどうかも分からない願いを抱えてこの店に留まる「客」の一人だからこそ、千代の抱える切なさが痛いほど胸に刺さっていた。
「……如月さん。なんだか難しい顔をしてるっすね」
低い、けれど温かみのある声がして、夢月はハッと顔を上げた。
いつの間にか、八雲が夢月の隣の椅子に腰掛けていた。彼の手には、温かい珈琲の入ったカップが握られている。
「八雲君」
「千代ちゃんととこよちゃん……楽しそうじゃないっすか。あんな風に笑う千代ちゃんを見られるなんて、あの過去の街から戻ってきた直後は思えなかったっすよ」
八雲は静かにミルクティーを一口啜り、二人の少女へ優しい視線を向けた。
夢月は少しの間、躊躇した後に、胸の内に溜め込んでいた想いをぽつりと零した。
「ねえ、八雲君。私、考えちゃってたの。千代ちゃんは……本当の意味では、救われていないんじゃないかって」
「救われていない?」
「うん。千代ちゃんはお菊さんに『ありがとう』を言えた。自分を責めるのをやめることもできた。でも、千代ちゃんの一番の願いだった『お菊さんと一緒に生きていくこと』は、叶わなかった。過去は変わらなかったし、あのお姉さんは戻ってこない」
夢月は声を詰まらせながら、画用紙に描かれた青い野花を見つめた。
「願いを叶えられなかったから、千代ちゃんは今も、この夢幻喫茶に居続けるしかない。ここは温かいけれど、千代ちゃんにとって、ここは『願いが叶わなかった場所』でもあるんじゃないかって……そう思ったら、胸が苦しくて」
夢月の言葉を、八雲は静かに受け止めていた。
店内には、柱時計の規則的な音と、千代達の無邪気な笑い声だけが響いている。
八雲はゆっくりと自分の左目――かつて千代の運命と、彼女の纏う見えてしまう呪いの渦に巻き込まれ、一度は光を失う原因となったその左目に、そっと指先を触れた。
「如月さん。俺のこの目のこと、知ってるっすよね」
「え、うん」
「俺の左目が怪異に侵されて、光を失いかけたのは……元を正せば、千代ちゃんの存在や、彼女を引き寄せる『異能』が原因だった。俺にとって千代ちゃんは、自分の体を傷つけて、平穏な日常を奪った『因縁の相手』でもあるはずなんすよ」
八雲の声は、何処までも穏やかだった。恨みや怒りの色など、微塵も含まれていない。
「普通なら……憎んだり、遠ざけたりしてもおかしくないかもしれない。でも、俺は千代ちゃんを一度だって恨むことなんてできなかったっす」
「どうして?」
夢月が尋ねると、八雲は少し寂しそうに、けれど深く頷いて微笑んだ。
「だって……千代ちゃんは、俺と同じだからっすよ」
「同じ?」
「そう。『見えてしまう者』の孤独っす」
いつにも増して消え入りそうな微笑みを浮かべた八雲は、カップに落としていた視線を千代達に向けた。
「人には見えないものが見えてしまう。周囲からは化け物扱いされ、気味が悪いと遠ざけられ、親にすら拒絶される。その苦しみと恐怖は、俺にとっても他人事じゃなかった。俺には家という居場所がまだあったけど、千代ちゃんには誰もいなかった。たった一人で、冷たい暗闇の中で膝を抱えていたんだ」
八雲の瞳の奥に、強い共感と優しい光が宿る。
「千代ちゃんが抱えている傷は、俺の左目の傷なんかより、ずっと深くて痛いものっす。自分が存在することすら罪だと思い詰めさせられてきたんだ。そんな子を……誰が責められるってんですか。自分と同じ悩みを抱えて泣いていた小さな女の子を、憎めるわけがないじゃないっすか」
八雲はカップをテーブルに置くと、腕を組んで千代達の姿を見つめた。
「確かに、千代ちゃんの『お菊さんと生きる』っていう一番の願いは、叶わなかったかもしれないっす。この店に居続けるのも、その哀しみを背負っているからかもしれない。……でもね、如月さん」
八雲は夢月と真っ直ぐに目を合わせた。
「願いが完全に叶わなかったからって、千代ちゃんがここで得たものが『無意味』だったわけじゃないっすよ。お菊さんの想いを知って、自分の存在を許せたこと。そして今、ここでこうして仲間と出会い、笑い合えていること。それ自体が、千代ちゃんにとって新しい生きる意味になっているんじゃないっすかね」
「八雲君⋯⋯」
「俺達は、千代ちゃんの過去を消してあげることはできないっす。お菊さんを生き返らせることもできない。でも、『今日』という日を一緒に笑って過ごすことはできる。叶わなかった願いの痛みを抱えたまま、それでも生きていけるように……隣で肩を並べて歩くことはできるはずっす」
八雲の言葉は、夢月の胸の奥に溜まっていた暗い雲を、優しく吹き払っていくようだった。
完璧な救いなど、この世には存在しないのかもしれない。
傷は残り、叶わなかった願いは永遠に胸を刺し続ける。
けれど、救われ切らないからこそ、人は誰かと手を繋ぎ、温もりを分かち合うことができるのだ。
『むつきさん! やくもさん! 見て!』
一生懸命な声が響き、千代ととこよが二人で一枚の大きな画用紙を掲げて駆け寄ってきた。
そこに描かれていたのは、秋の陽光に包まれた夢幻喫茶の店内だった。
大きな窓、磨かれたテーブル、美味しそうなスコーンとミルクティ。
そして、真ん中で手を繋いで笑う千代ととこよ。その周りを囲むように、夢月、八雲、珠吉、そしてマスターが、皆いっぱいの笑顔で描かれている。
さらに、店の天井の隅には、温かな琥珀色の光と共に、優しく微笑むお菊の姿がクレパスで温かく描かれていた。
『とこよちゃんと一緒に描いたの! みんなで、お茶会してるの!』
『わたしもかきました。千代ちゃんのお友達、みんな……えがおに、なりました』
はしゃぐ二人の少女の姿に、夢月は目頭が熱くなるのを覚えた。
千代の描いた絵の中で、お菊は決して過去の死者ではなく、今の千代達を優しく見守る「温かな光」として存在していた。
「……とっても素敵。二人とも、すごく上手に描けたね」
夢月は目元の涙をそっと拭い、二人の頭を愛おしそうに撫でた。
嬉しそうに目を細めた千代ととこよはちょこんと並んで椅子に座り、それぞれに用意されたカップを両手で包み込むようにして、ふうふうと温かな湯気を吹きながら一口含んだ。
「美味しいね」「あたたかいね」と顔を見合わせ、また可愛らしく笑い合う。
千代の帯の間に挿された青いドライフラワーが、秋の陽光を受けて微かに輝いていた。
叶わなかった願いはある。
消えない傷痕もある。
それでも、千代はもう一人ではない。
同じ哀しみを知り、同じ痛みを抱える仲間達がここにいる。
時を越えた「ありがとう」の言葉は、お菊の魂へと届き、そして千代自身を未来へ歩ませる確かな光となったのだ。
夢月は自分のカフェオレのカップを手に取り、そっと目を閉じる。
夢幻喫茶の何気ない日常の中に、皆の温かな笑い声が何処までも優しく響き渡っていた。
冷たい雨の降る木橋のたもと
誰にも望まれず 膝を抱えていた夜
凍える小さな肩を包み込んでくれたのは
紫煙の香りと 不器用で温かな温もりだった
泥にまみれた世の底で
名前すら持たぬ命が出会い
差し出された 一輪の青い野花
一文の価値もない草花に
あなたは世界で一番綺麗な笑顔を咲かせた
「生まれてこなければよかった」
誰かの冷たい言葉が傷を抉るとき
あなたは命を賭して あたしの存在を叫んでくれた
その腕に抱かれた小さなお花は
暗闇を照らす たったひとつの祈り
何百年の時を越え
月明かりの石畳に届いた言葉
「ありがとう」――
涙に濡れた声は 星の海へと溶けてゆく
忘れない あのあたたかな手触りを
あたしはもう 怯えたりしない
あなたと出会えたこの旅路で
あたしは確かに知ったから
「生まれてきて、よかった」
胸の帯に抱いた 枯れぬ青い一輪と共に
歩き出す 優しい仲間たちの待つ未来へ
空の向こうで見守るあなたへ届くように
あたしは今日も 愛おしいこの場所で笑う
『現し世の間、見透かす目』・完
第三部完結です。
ここで一度完結とさせていただきます。




