幼き日の願い・4
夜の静寂が少しずつ解け、夢幻喫茶の磨き抜かれたカウンターに浅い朝の光が差し込んでいた。
木製の重厚な扉が開くと同時に、涼やかな鈴の音が響く。その音に導かれるようにして、千代は小さな足取りで真っ直ぐに夢月の元へ駆け寄ってきた。
『お姉ちゃん!』
「千代ちゃん、おはよう」
千代の瞳には、昨夜までの暗い影を吹き飛ばすような、期待と興奮が満ちあふれていた。その小さな身体からは、何処か切ないほどの一途さが伝わってくる。
『今日はお姉さんを探しに行くんだよね?』
夢月を見上げる千代の瞳は、まるで朝露を吸った野花のように澄んでいた。
昨日の夜は、ちゃんと眠れただろうか。夢の中でまたあの冷たい暗闇に怯えてはいなかっただろうか。そんな愛おしさと切なさが胸を締め付け、夢月は膝を折り、千代の頭を慈しむように優しく撫でた。柔らかい髪の感触が、夢月の掌に心地よく伝わる。
「うん。今日はお菊さんと出会った町へ行こう。千代ちゃんの大切な人に会うために」
『ほんと!?』
千代の顔がぱっと明るくなる。さっきまでの不安を忘れたかのように咲いたその無邪気な笑顔を見ていると、夢月の胸の奥までポカポカと温かな光で満たされていくようだった。
だが、二人の温かなやり取りを静かに見守っていたカウンターの向こう側から、穏やかだが規律を含んだ声が響いた。マスターが、いつもと変わらぬ澄んだ眼差しで二人を見つめている。
「時を越える以上、いくつか絶対の注意が必要です。過去の人々に不必要な干渉をしないこと。時代の流れを大きく変えてしまえば、戻れなくなる恐れもあります。そして何があっても、皆さんで行動すること。一人でも離れれば、時の狭間に取り残されかねません」
「分かってます、マスター。絶対に千代ちゃんの手を離しません」
夢月が真剣な表情で頷くと、カウンターの端で丸くなっていた珠吉が、ひょいと軽やかな動作で床へ跳び降りた。二股に分かれた長毛の尾が、揺ら揺らと不機嫌そうに空を煽る。
『本当に分かっているのか。お前さんは妙なトラブルや情けに首を突っ込むのが得手だからな』
「妙なことって……私はただ、困っている人をほっとけないだけで」
『それを自覚がないと言うのだ。一番厄介な性質だ』
「もう! 珠吉っ!」
夢月がぷっと頬を膨らませると、隣で古地図を丸めていた八雲が「まあまあ」と小さく苦笑いを浮かべた。戻ってきた左目の奥に、柔らかい光を宿している。
「まあまあ、如月さん。今回は千代ちゃんの切実な願いを叶えるための旅なんすから。変な脱線はしないで、ちゃんと目的を絞って動くようにしましょうよ」
「……うん。八雲君の言う通りだね」
千代は、三人の和やかな遣り取りを、大きな瞳をパチパチさせながらじっと見つめていた。
誰かと一緒に出掛けること。
目的地があって、共に歩む仲間がいて、帰るべき温かな場所があって、一日が終われば今日の出来事を笑い合いながら話せること。
かつての千代にとって、そんな当たり前の日常さえ、手手を伸ばしても決して届かない、果てしなく遠い夢のようなものだったのだ。
「それじゃあ、準備はよろしいですか?」
マスターの問いかけに、夢月と八雲は力強く頷いた。珠吉は「やれやれ」と言いたげに短く鳴き、二股の尻尾をゆったりと揺らした。
千代は一度だけ、温かな木漏れ日に包まれた夢幻喫茶の店内をぐるりと見回した。それから、意を決したように夢月の差し出した手を、両手でぎゅっと握り締める。
『……お姉さんに、会えるかな』
期待に満ちていたはずの声の裏側に、ぽつりと落とされた小さな不安の影。
過去に受けた心の傷跡――拒絶され、蔑まれてきた記憶が蘇り、身を竦ませる少女の怯えを感じ取った夢月は、ぎゅっと握られた千代の手を、逃がさないよう力強く握り返した。
確実な未来を約束することはできなくても、この手を絶対に離さないことだけは心に誓いながら。
「会えるといいね。ううん、絶対に会いに行こう」
確かな約束はできなくても、今はその温もりを伝えたかった。
マスターが店の奥、普段は開けられることのない重厚な木造りの扉の前へ立った。鍵が回るカチリという静かな音が響き、扉がゆっくりと引き開けられる。
その向こうには、喫茶店の店内には存在するはずのない、見慣れない静寂な廊下が何処までも続いていた。廊下の壁面はぼんやりとした微光を放ち、空気そのものがひんやりと冷えている。
夢月が不思議そうに覗き込むと、珠吉が迷いのない足取りで先に歩き出した。
『ぼさっとするな。時の道は、いつまでも開いているわけじゃないぞ』
「時の道……?」
『過去へ続く道。マスターの術式で空間を繋いでいるのだ』
廊下の突き当たりには、古びた佇まいの木戸が佇んでいた。
木戸の表面には、神代文字や見たこともない古代の呪符のような細かな模様がびっしりと刻まれている。夢月には読むことができなかったが、見ているだけで頭の奥がツンと痺れるような感覚があった。
マスターが静かに木戸の表面に手を添え、夢月の疑問に応えるように言葉を紡ぐ。
「千代さんの記憶を手掛かりに、皆さんを当時の町へ導きます。ただし、辿り着けるのは、千代さんの深い情念と縁が残る場所……つまり、最も記憶が強い場所です」
『……お姉さんがいたところ?』
「ええ。そこから先は、皆さん自身の足と目でお探しください」
ギィィ……と重い木擦れの音を立てて、木戸がゆっくりと開いた。
向こう側から勢いよく吹き込んできたのは、川の湿った匂いと、夜の訪れを告げる冷ややかな風だった。
夢月は思わず目を見張る。
扉の向こうに広がっていたのは、茜色から紫紺へと染まりゆく、江戸の古い町並みだった。
❁
石畳の道。
軒先に吊るされ、風に揺れる提灯の赤い灯火。
道の向こうから聞こえてくる、威勢の良い商人たちの声や、聞き慣れない着物の擦れる音。
現代の東京とは何もかもが違う。けれど、何処か人間の生活の熱っぽさを感じさせる、不思議な光景だった。
『ここが』
茜色の夕闇に沈む街並みを見つめながら、千代がぽつりと呟いた。
その小さな声は、込み上げてくる過酷な思い出と、胸を突く愛おしい温もりに揉まれ、琴の糸のように微かに震えている。
握り締められた夢月の掌に、千代の小さな指先が、微かな震えと共に一層強く食い込んでいった。
『ひめが、お姉さんと会った町』
夢月は千代の横顔を覗き込んだ。さっきまでの無邪気な笑顔はすでに消え、千代は真剣な眼差しで辺りを見回している。
失くしてしまった温もりを確かめるように。あるいは、もう二度と戻らないかもしれない幸福の破片を探すように。
「千代ちゃん?」
『……あっち』
千代が小さな指で、町の奥へと続く緩やかな坂道を指差した。
『あっちに行くと、木でできた橋があるの。ひめ、覚えてるよ』
千代の小さな足が、ぽくぽくの足音を立てて石畳を踏み出す。夢月、八雲、そして珠吉は、その小さな背中を追うように歩き出した。
夕刻の町は、一日の中で最も賑やかな活気に包まれている。
店先では威勢のいい威勢で魚や野菜を売る声が飛び交い、大の大人達がそれぞれの用事に追われて行き交っている。
夢月は、すれ違う人々が纏う色鮮やかな着物や、日本髪を結った女性達の立ち姿に見とれた。遠くの楼閣からは、ポロロンと優雅な三味線の音が聞こえてくる。教科書でしか見たことのなかった「江戸時代」が、いま自分の五感全てに生々しく迫っていた。
けれど、千代はそんな物珍しい景色には一切目もくれなかった。彼女の視線は、前方のただ一点――記憶の中にある場所だけを追っている。
『もう少し……もう少しだよ』
やがて、傾斜を下りきった通りの先に、小さな木造の橋が見えてきた。
千代は駆け出しかけて、ハッと息を呑んで足を止める。
橋の下をさらさらと流れる川のせせらぎ。
対岸に見える、ぽつぽつと灯り始めた提灯の温かな光。
間違いない。
あの冷たい雨混じりの夜、行く宛もなく、たった一人で膝を抱えて座り込んでいた、あの場所だった。
『ここだ』
千代は橋のたもとへ歩み寄ると、小さな身体を丸めてしゃがみ込んだ。辺りを見回し、橋の下の深い暗がりを覗き込む。
『ここでね、ひめ泣いてたの』
その声は、過去の凄惨な哀しみを語っているはずなのに、何処か嬉しそうでもあった。
『お腹が空いて、寒くて、おうちに帰りたくなくて……どうしたらいいか分からなくて』
千代は川底の暗闇を揺らめかせる水面を見つめたまま、微動だにしなかった。
耳を澄ませば、あの夜と全く同じ川のせせらぎと、冷たい川風が頬を撫でていく。
一人きりで膝を抱え、寒さに震えていた自分の隣に、紫煙と微かなおしろいの匂いを纏ったお菊が、そっと腰を下ろしてくれた瞬間の温もりが、今も鮮明に皮膚に残っていた。
『そしたら、お姉さんが来てくれたんだよ』
夢月は胸がギュッと締め付けられるのを感じた。
ここは、千代にとって暗闇の中に差した唯一の光――決してみ忘れることのできない聖域なのだ。
世界中の誰もが自分を忌み嫌い、味方など一人もいないと思っていた絶望の夜。そんな幼い千代の隣に、理由も聞かず、ただ静かに寄り添ってくれた人がいたのだ。
「お菊さんは、いつも何処から来ていたの?」
八雲が膝をついて視線を低く落とし、千代の目線に合わせながら、そっと諭すような声で尋ねた。
戻ってきた左目の奥に真っ直ぐな思いやりを宿らせ、千代が安心して話せるように穏やかな調子で耳を傾けている。
『えっとね、あっち』
千代が指差したのは、川沿いに立ち並ぶ格子の荒い長屋の先、あやしく提灯が揺れる路地の奥だった。
『夜になると、いつもあっちから歩いてきてくれたの。お仕事が終わると、この橋の近くを通って……ひめに会いに来てくれたの』
「じゃあ、まずはその路地のあたりを探してみようか」
八雲が立ち上がりながら言うと、千代は大きく頷いた。
『うん!』
千代の両手を夢月と八雲がそれぞれ握り、立ち上がろうとしたその時だった。
一行の先頭を歩いていた珠吉が、唐突にその足を止めた。
提灯の赤黒い光と陰影が交錯する路地の境界線でピタリと立ち竦み、琥珀色の瞳を細めて暗がりの中を鋭く睨みつける。
浮かれ立つ街の喧騒の裏に潜む、この時代特有の禍々しい気配を、その鋭い鼻腔と髭が目敏く捉えていた。
『……待て』
珠吉の二股の尾がピンと硬直したのを見て、三人は思わず足を竦ませ、弾かれたように振り返った。
本来ならただの人間である夢月には、妖の世界もその気配も見えないはずだった。しかし、今の夢月の額には、珠吉によって貼られた『妖視の御札』がある。
御札から伝わる冷たい痺れのような感覚と共に、夢月の視界には、路地の陰や屋根の隙間に蠢く黒いモヤのような怪異の輪郭がはっきりと映し出されていた。江戸の夜街には、人間の欲望や怨嗟に惹かれて集まった低級な怪異が無数に蠢いているのだ。
夢月は千代を庇うようにそっと背中に手を回し、ゴクリと唾を呑み込んで珠吉の視線の先を凝視した。
「どうしたの、珠吉?」
『人に聞き込みをするなら、誰彼構わず尋ねるなと言っているのだ。夜鷹を探していると知られれば、余計なトラブルや、質の悪い岡っ引き、あるいはタチの悪い怪異を呼び寄せることになりかねん』
珠吉は低い声で警告を発した。
『夜鷹というのはな、この時代の最底辺の遊女だ。岡場所の遊女よりもさらに苦しい境遇に置かれ、闇に紛れて客を取る。そうした女達の周りには、金と欲望に群がる酷い人間や、人間の負の感情を喰らう小鬼が集まりやすい』
「そっすね。無闇に『お菊という夜鷹を知りませんか』なんて聞き回ったら、足元を見られるか、変な噂を立てられてお菊さん自身にも迷惑がかかるかもしれないっす」
八雲が慎重に同意を示すと、夢月も千代の肩を抱く手に力を込め、深く頷いた。
千代は夢月の温かい手触りを感じながら、胸の中で激しく打ち鳴らされる「早く会いたい」という焦りを必死で抑え込み、静かに、けれど力強く頷いた。
あのお姉さんに会いたい――その願いは胸の奥で熱く脈打ち、今すぐにでも街の暗がりへ走り出したいほどだった。
けれど、かつてのように泣き叫んで運命に流されるだけの千代ではない。大切な人に届けるための「ありがとう」を、正しく伝えるために。
千代は足を止め、川面に提灯の灯りが揺れるあの橋のたもとを、記憶に焼き付けるようにじっと振り返った。
『……お姉さん』
小さな呟きが、川のせせらぎに静かに溶けていく。
『ひめ、来たよ』
返事はなかった。それでも千代は、ほんの少しだけ柔らかく笑った。
『今度こそ、ありがとうって言うからね』
そうして一行は、お菊の手掛かりを探すため、茜色から群青色へと変わりゆく夕暮れの町へと歩き出した。
❁
夜の町には、昼間とは違う暗く爛れた顔があった。
軒先に吊るされた赤提灯が路地を妖しく照らし、酒に酔った男達の下卑た笑い声が通りに響き渡る。三味線の不協和音に誘われるように、人々は闇の底へと流れていく。
その喧騒の片隅を、お菊は一人歩いていた。
向かうのはあの橋ではない。何処か遠く、生きたくもない地獄だ。
買われた客に呼ばれれば愛想よく笑い、機嫌を損ねないように言葉を選ぶ。どれだけ足が棒のように疲れていても、どれだけ嫌な思いをして心がボロボロに削られても、絶対に表情には出さない。
そうしなければ、この街の底では一日たりとも生きていけないからだ。
お菊は、自分の仕事を恥じてはいなかった。というより、恥じる暇などなかった。
明日を生きるためには一文でも多くの金がいる。明日の粥を喰らうにも、雨風を凌ぐ湿った寝床を確保するにも、身受けの借金を返すためにも。
この世の中は、息をするだけでも金が必要だったのだ。
だから、お菊は笑った。
男達が望む通りのあばずれな女の顔をし、望む通りの戯れ言を口にして、相手が満足して金を落とすまでその場にいた。
それが、彼女の生き方だった。
「おい、お菊!」
座敷の奥で上等な酒をあおっていた男が、下品に手招きをした。
「こっちへ来いよ、酒が薄くて叶わん」
「はいはい。そんな大声で呼ばなくたって聞こえてるよ」
お菊は慣れた手つきで着物の裾をさばき、男の隣に擦り寄るように腰を下ろした。
男はそこそこ金を持っている商人らしかった。身に纏う着物は上等で、酒も惜しまず注文している。お菊にとっては、機嫌よく酔っ払って余分に銭を落としてくれれば、それでいいだけの客だった。
「近頃、この近くで妙な噂が立ってるのを知ってるか?」
「さあねぇ。あたしは噂話を集めるために夜の町を歩いてるわけじゃないからさ」
「相変わらずつれない女だなあ」
「ふふ、そういうお堅いのがお好きなくせに」
お菊が軽く受け流して艶っぽく微笑むと、男は満足そうに豚のような声を上げて笑った。それから、男は酒をぐっと飲み干し、徳利をドスンと置く。
「妙なガキがいるらしいんだよ」
「ガキ……?」
「ああ。片目のないガキだそうだ」
お菊の盃を持つ指先が、ほんの僅かに固まった。けれど、酒に酔った男は気づかない。
「生まれつき、左目がくり抜かれたみたいにないんだと。だが、顔立ちは妙に整っててな。見た目だけなら、将来はさぞかし美しいお女郎になるだろうよ」
「……へえ」
お菊は興味のないふりをして、手元の盃に酒を注ぎながら相槌を打った。
片目のない子供――その言葉に、ひとりの小さな少女の顔が鮮明に浮かび上がった。
あの日、冷たい風が吹く古い木橋の下で、膝を抱えて丸くなっていた小さな子。
寒さに身体を震わせながら、「帰りたくない」と蚊の泣くような声で呟いていた子。
名前は――千代。
あの夜、お菊はあの子の事情を深く尋ねなかった。
尋ねたところで、幼い胸に隠した傷を抉るだけだ。自分だって、他人に踏み込まれたくない泥のような過去の爪痕を背負って生きている。
だから、ただ隣に腰を下ろした。
竹の皮に包まれた握り飯を分けて、とりとめもない話をして。それだけのことだった。
けれどあの子は、自分があげた道端の青い野花を着物の帯に挿してあげただけで、まるで世界中の温もりを全部もらったみたいな顔で……ほっと胸を撫で下ろして笑ったのだ。
「……その子が、どうかしたのかい?」
お菊は、胸の激しい鼓動を隠すように、なるべく何でもない調子で尋ねた。
男は待ってましたと言わんばかりに身を乗り出してきた。
「どうやら、そのガキ、妙なことを口にするらしいんだ。誰もいない暗がりを見て喋ったり、そこに『何か』がいると言ったりな。しまいには、見えないものが見えるなんて抜かし出したそうだ」
「子供なんて、そんな空想くらい誰でも語るだろ」
「いや、そんな生易しい話じゃないんだよ」
男の声に、ねっとりとした蔑みと面白がるような響きが混じりはじめる。
「そいつが不気味なことを言い出すと、周りで妙なことが起きるんだと。家の中で不吉な物音がしたり、身内が病に倒れたりな。そりゃあ、気味が悪いだろう?」
お菊は黙って手元を見つめていた。
千代が、そんなことを呟いていたのを思い出す。
あの子は時折、誰もいない暗がりをじっと見つめていた。
「そこに何かいるの?」と尋ねたとき、ひめは小さく首を縦に振った。
けれど、その瞳に嘘や化かすような気配は微塵もなかった。
ただ、自分にだけ見えている世界を、そのまま怯えながら話しているだけ。
お菊の目には映らないものだった。だからといって、あの子の言葉を嘘つきだと切り捨てる理由にはならなかった。
「それで?」
お菊が続きを促すと、男は声を潜めてニヤニヤと笑った。
「町の連中はな、あれは人間じゃない……化け物の類なんじゃないかって噂してんだ」
男はふんと鼻を鳴らし、歪んだ笑みを浮かべながらこちらを見た。
その軽々しくも不躾な鼻笑いは、静かな座敷の空気をねっとりと濁らせ、お菊の胸の奥に冷たい不快感をくすぶらせるのには十分だった。
「生まれつき片目がないだけでも不気味だってのに、化け物まで見えると言い張るんだ。そりゃあ、まともな人間じゃねえよ」
お菊の胸の奥で、何かがミシリと音を立てて軋んだ。
普通の子供。
化け物。
男の口から吐き出される浅はかな言葉が、酷く不快に耳の奥にこびりつく。
「親も可哀想になあ。あんな欠陥のあるガキを抱え込んでちゃ、まともな暮らしもできやしねえ」
「……そうかい」
「いや、いっそ生まれてこなければよかったんだ。あんな不吉なものが町にいるだけで迷惑だろう? 存在するべきじゃないんだよ、ああいうガキはな」
――その瞬間だった。
「……あんた」
お菊の声が、自分でも恐ろしいほど低く冷たく響いた。
「あ?」
「今、なんて言った?」
不機嫌そうに声を上げた男が、怪訝そうな顔つきでぬっと振り返る。
だが、そこにいたのは、さっきまで男の機嫌をとって媚びを売っていた夜鷹の女ではなかった。
お菊の顔から作り物の笑みは跡形もなく消え去り、そこには能面のように冷たく、男を射殺さんばかりの鋭い眼差しだけが残されていた。
「だから、化け物のガキだって――」
「その子のこと、何も知りもしないくせに」
抑えていた胸の熱情が激流となって溢れ出し、もう自分の意志では止められなくなっていた。
喉の奥から紡がれる言葉は、堰を切ったように次から次へと溢れ出ていく。
さっきまでヘラヘラと酒を飲んでいた男は、思いもよらぬ女の激昂に気圧され、言葉を失って鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くしていた。
「何だと……?」
「あの子が、どんな気持ちで毎日を生きてるかも知らないんだろ。何を見て、どんなに寒さに震えて、どんな顔で笑う子かも知りもしないくせに!」
お菊の声が、微かに震えていた。怒りなのか、やり場のない悲しみなのか、自分でも分からない。
「なのに……どうしてそんな酷いことが言えるんだい!」
「おいおい、何を熱くなってるんだよ。俺はただ世間の噂を――」
「噂なら、人の命や尊厳を笑って踏み躙ったっていいのかい!?」
男の顔から不愉快な笑みが消え、苛立ちが混じる。
「たかが乞食同然のガキだろ! お前には何の関係もないはずだ!」
関係ない――。
その言葉を聞いた途端、お菊の脳裏にあの夜の光景が色鮮やかに蘇った。
橋の下で膝を抱えていた千代。
帰りたくないと泣きそうな声を出して。
毒じゃないかと怯えながら、それでも分け合っておむすびを食べた小さな手。
そして、帯に挿した青い野花を見て、心から嬉しそうに咲かせたあの笑顔。
あの子は、ただ誰かに側にいてほしかっただけだ。
ただ一人の人間として、言葉を聞いてほしかっただけなのだ。
それなのに。それなのに、この男は。
「……ふざけるんじゃないよ」
お菊は畳を力強く蹴り、勢いよく立ち上がった。
荒々しく揺れた着物の裾が風を切り、座敷に漂っていた酒の匂いを一瞬で吹き飛ばす。
いつものしなやかな立ち振る舞いとは違って、全身から溢れ出る圧倒的な怒りと気迫に、周囲の空気が一瞬で氷のように凍りついた。
「おい、何なんだ急に!」
「千代は……あの子は、あんたなんかが嘲笑っていい子じゃない!」
「会ったことでもあるのか!? 貴様にどうしてそこまで言われんとならんのだ!!」
男の詰問に、お菊は答えなかった。
答えるつもりもなかった。あの子のことを、こんな男に喋りたくなどなかったから。
自分があの子と出会ったことも、あの子がどんなに愛おしい顔で笑うのかも、何一つ教えたくなかった。
「いいから座れ! 金を払ってる俺の話を聞けと言ってるんだ!」
男が荒々しく腕を伸ばし、お菊の腕を強く掴み引き寄せる。
乱暴に引っ張られた拍子に、お菊の髪に挿していた黒塗りの金属の簪が、ハラリと畳へ落ちた。
お菊は反射的にその手を振り払い、床の簪を拾い上げると――気づいた時には、尖った簪の先を男の喉元へ突きつけていた。
男の動きがピタリと止まる。
座敷の空気が、氷のように凍りついた。
何が起きたのか、お菊自身にも分からなかった。
ただ、男が千代を化け物と蔑んだことが許せなかった。あの子の存在そのものを否定したことが、自分の命を奪われるより許せなかった。
これまで自分がどんな酷い目に遭おうと、何を言われようと、こんな身を焼くような怒りが込み上げたことなど一度もなかったのに。
どうして。どうして、あの子のことになると、こんなにも心が狂いそうになるのだろう。
「……お、お菊……」
男が、引き攣った恐怖の声を出した。その声で、お菊はハッと我に返る。
自分の手が、がくがくと激しく震えている。
指先に力が入らない。
手元を見ると、尖った簪の先端が、男の皮膚の目と鼻の先で震えていた。
自分が何をしたのか。何をしてしまったのか。
理解した瞬間、お菊の全身からスーッと血の気が引いていった。
「……あたし、は……」
声にならなかった。
怖かった。男を傷つけそうになったことも、この先自分がどうなるのかも。
何より、自分がどうしてここまで我忘れて怒り狂ってしまったのか、その理由に気づいてしまったことが。
千代は、ただ一度橋の下で出会っただけの子供だ。
ほんの短い時間、隣に座っておむすびを食べただけ。
何かを約束したわけでもない。これからずっと守ってやると誓ったわけでもない。
それなのに、あの子が存在するべきではないと言われた瞬間、お菊はまるで自分自身の魂そのものを否定されたように感じたのだ。
あの子が生まれてこなければよかったなんて。そんな悲しいことを、一体誰が決めていいというのだ。
お菊は、震える自分の手と簪を見つめた。そして、ようやく自分の本当の気持ちを理解する。
あたしは――あの小さな子を守りたかったのだ。
あの寒い夜、何も求めずに隣へ座った時から。
あの子が、青い野花を嬉しそうに手渡してくれたあの瞬間から。
もう二度と、あんなに切ない顔をさせたくないと思っていたのだ。
たった一度の出会いだった。
けれどその出会いは、お菊の泥のような人生の中に、決して消えない一筋の光を残していた。
誰になんと言われようと、これだけは絶対に譲れないと思える、大切な宝物を。
お菊は簪を床へ叩きつけると、男の制止を聞かずに座敷を飛び出した。
階段を転がるように駆け下り、店を抜け出す。
「おい! 待てお菊! 何を考えているんだ!」
後ろで店主や客の怒鳴り声が響いたが、振り向かなかった。
冷たい夜風が、涙で濡れたお菊の頬を叩く。
胸が苦しい。息が切れる。けれど、足は止まらなかった。
頭の中にあるのは、ただ一つ。あの橋のたもとへ行かなければ。
千代が、あの子がまた一人で寒さに震えているかもしれない。
街の心ない噂話に追われ、冷たい川の傍で泣いているかもしれない。
(待っていて、千代……! 今、あたしが行くからっ!)
お菊は無我夢中で、闇に包まれた江戸の街を走り抜けていった。
――しかし、お菊はまだ知らなかった。
自分を追う男たちの足音と共に、暗闇の向こうから、恐ろしい運命の歯車が回り始めていることを。
そして何百年の時を超えて、自分を「お姉さん」と呼ぶ少女達が、今まさにその橋を目指して歩みを進めていることを。
茜色から深い群青へと溶けていく夜の街で、二つの絆が、いま再び交差しようとしていた。




