幼き日の願い・3
「ほんっとうに! ありがとうございます!」
夢幻喫茶の重い木製扉を潜り、店内に一歩足を踏み入れた瞬間だった。
待ち構えていた八雲が弾かれたような勢いで駆け寄ってきた。
「わっ……! ちょっと、八雲君!?」
思わず半歩後退する夢月の目の前で、八雲は顔の前で両手を叩くように合わせ、幾度も深く頭を下げている。
「本当にありがとうございました! 如月さんが何とかしてくれたんすよね!? いや、マジで助かりました……!」
「う、うん……無事でよかったよ」
戸惑いながら答える夢月の腕の中には――小さな一人の童女が、ちょこんと収まっていた。
『おいおい、ガキみたいにはしゃぎ回るんじゃない。店の商品が倒れたらどうすんだ』
夢月の肩の上から、二股の尾をゆったりと揺らしながら珠吉が呆れたように声を上げる。八雲は珠吉の小言に「はいはい」と軽く手を振りつつ、ふと夢月の胸元へ視線を落とした。
「……ん? 如月さん、その子……」
八雲の視線が、夢月の腕の中へと吸い寄せられる。
そこにいた幼き怪異――めとり姫と、真っ直ぐに目が合った。めとり姫は夢月の袖を小さな手でぎゅっと握りしめたまま、じっと八雲の顔を見つめている。
「うん」
夢月は腕の中のめとり姫の背中を、包み込むようにそっと撫でた。
「この子がね、八雲君の目を返してくれたの」
「……!」
その言葉を聞いた瞬間、八雲の表情が凍りついたように一変した。
息を呑み、恐る恐る自分の左目に手を当てる。瞼を何度か瞬かせ、指先でその輪郭を確かめるように触れた。
「そういえば……ついさっき、急に左目の視界がじわっと戻ってきたんすよ。最初は一体何が起きたのかさっぱり分からなかったんすけど、もしかして、この子が?」
「そうだよ。ちゃんと返してくれたんだよ」
八雲はしばらくの間、呆然とした様子でめとり姫を見つめ返した。
すると、その粘り強い視線に耐えかねたのか、めとり姫は申し訳なさそうに、気まずく視線を足元へ落とした。
『ごめんなさい……』
小さく、消え入りそうな声だった。
「……え?」
八雲がその場に固まる。まさか、自分を襲い、目を奪っていった恐ろしい怪異から、こんな風に素直に謝罪されるとは思っていなかったのだろう。
「あ、いや……」
八雲は頭を掻きながら困ったように視線を泳がせたが、決してめとり姫から目を逸らそうとはしなかった。
やがて、めとり姫が意を決したように小さな顔を上げ、八雲の左目、そして右目をじっと見つめ直す。
『ひめと、同じ目』
「ん? 俺の目がっすか?」
『うん。ひめの右目も妖を映すの。人には視えないものが視えちゃうの』
八雲の動きがピタリと止まった。店内に、掛け時計の規則正しいチクタクという音だけが響く。
「……マジっすか?」
『うん。嘘じゃないよ。本当に、視えるの』
八雲は目を見開いた。その唇が微かに震えている。
戸惑い、驚き、そして胸の奥底から込み上げてくる言葉にならない感情が溢れ出し、すぐには声にならなかった。
やがて――掠れた声で、絞り出すように呟く。
「……同じ人が、いたんだ」
その声には、目を奪われたことに対する怒りや恐れなど微塵もなかった。ただただ、深く、温かな安堵の響きが滲んでいた。
ずっと、自分だけだと思っていた。
見えてはいけないものが視えてしまう苦しみも、誰に打ち明けても理解されず「気味が悪い」と遠ざけられた孤独も。ずっと「自分がおかしいのだ」「俺の存在が間違っているのだ」と、一人で自分を責め続けてきたのだ。
けれど――今、目の前にいる。
自分と同じ景色を見て、同じように傷つき、行き場を失ってきた存在が。
たとえそれが人間ではなく、絶望の果てに怪異へと成り果ててしまった哀しい少女だとしても。
八雲にとって、その事実は何よりも救いとなる光だった。
「……そっか」
八雲は、憑き物が落ちたように柔らかく、胸のすくような笑みを浮かべた。
「俺だけじゃなかったんすね。なんだ、もっと早く会えてたら良かったのにな」
『うん!』
めとり姫も、パッと花が咲いたように顔を輝かせて笑った。
その愛くるしい、子供らしい本来の笑顔を見て、夢月は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
『フン……まぁ、一件落着ってところか』
「そうだね、これで一安心かな」
めとり姫が八雲の目を奪ったという過去の罪は、決して消えるものではない。どんなに切ない理由があろうと、人を傷つけた業が容易に帳消しになるわけではないのだ。きっと彼女はこれからも、その重荷を胸の奥に抱えていかなければならないだろう。
けれど、かつて誰にも言葉を信じてもらえず、暗闇の中で叫び続けていた少女が。
「見えてしまう」という同じ深い孤独を抱えた少年と出会った。
そして今、少年は彼女を害なす怪物として恐れるのではなく、自分と同じ痛みを持つ一人の存在として、静かに、そして温かく受け入れている。
それこそが、幼い千代がずっと欲しかったものだったのだ。
――私を、信じてほしい。
――ここにいていいのだと、誰かに言ってほしい。
暗闇の底で千代が泣きながら叫び続けていた切なる願い。
「めとり姫」と呼ばれた少女は今、夢幻喫茶という優しい光の満ちる場所で、ようやく報われ、次の一歩を踏み出したのだった。
自分という存在を、その言葉を、信じてくれる人達と共に。
夢月は腕の中のめとり姫を、愛おしさを込めてそっと強く抱き締め直した。
めとり姫は何も言わず、夢月の袖を心底嬉しそうにぎゅっと握り締める。
その小さな手は――もう二度と、暗闇の中に迷い込むように解けることはなさそうだった。
❁
夢幻喫茶に、ゆったりとした穏やかな時間が流れていた。
カウンターの向こうでは、マスターがいつものようにネルドリップで静かに珈琲を淹れていた。豆が膨らみ、香ばしく深い香りが店内全体に満ちていく。珠吉はその横で丸まり、時折満足そうに二股の尾をゆらりと揺らしていた。
八雲は、戻ってきた自分の左目の見え具合を確かめるように、光にかざしながらパチパチと何度か瞬きを繰り返している。
「如月さん、やっぱマジで視えるっす。歪みも違和感も全然ないっすよ」
「よかったね、八雲君」
そして、夢月の膝の上には、着物姿の小さな少女――千代がちょこんと収まっていた。
『……ねえ、お姉ちゃん』
「ん? どうしたの、千代ちゃん」
千代は夢月の洋服の袖を、小さな指先できゅっと強く握り締めた。
何かを伝えたいように唇を微かに開くけれど、言い淀むようにすぐに閉じてしまう。
そんな躊躇うような仕草を何度か繰り返したあと、千代はようやく意を決したように顔を上げた。その右目には、どこか怯えと期待の混ざった光が宿っている。
『……ひめ、お願い……してもいい?』
夢月はぱちりと目を瞬かせた。
これまでの千代は、誰かに何かをねだったり、助けを求めたりすることに慣れていないようだった。
欲しいものを口にすることも、苦しいと告げることも。
きっと、幼い心で「願ったところで叶わない」「我慢しなければ捨てられる」と知っていたから。
だからこそ、目の前の小さな口から紡がれた素直な「お願い」という言葉が、夢月には愛おしく、そして嬉しかった。
「もちろん。どんなお願いでも言ってみて?」
千代は恥ずかしそうにぽっと頬を赤らめ、視線を落とした。膝の上で、小さな手が居心地悪そうに小さく動く。
『お姉さんに、会いたい』
そう口にした途端、千代の表情が静かに揺れた。
切なそうで、寂しそうで、けれど、胸の奥から溢れ出すような温かな愛おしさが籠もった顔だった。
『お姉さんにね……もう一度だけ、会いたいの』
夢月は言葉を挟まず、千代の小さな手をそっと包み込んで続きを待った。
『前に、ひめがひとりで夜の町に逃げ出してどうしたらいいか分からなくて泣いて時、お姉さんが見つけてくれたの。寒いねって言って、一緒にいてくれたの』
千代は、過去の記憶をひとつひとつ慈しむように、ぽつりぽつりと小さく言葉を紡いだ。
『ひめ、あの時お母様にも嫌われて、何処へ行けばいいのかも分からなかった。帰りたくなかったし、誰に助けてって言えばいいのかも、何も知らなかった』
幼い声が、思い出す恐怖に少しずつ小さくなる。
『でも、お菊は何も聞かなかったの。千代が帰りたくないって言ったら、そうかって。じゃあ帰らなくていいじゃないかって言ったの。それだけだったの』
千代は小さな両拳をぎゅっと握りしめると、伏せていた顔をぐっと上げた。
まだ幼さの残るその輪郭に宿っていたのは、もう迷いや恐れではない。
涙を拭い去った右目の奥に、確かな意志の光を宿らせて、真っ直ぐに夢月を見つめた。
『だからね、ひめ……ちゃんとお礼を言いたいの』
その瞳に、涙は浮かんではいなかった。
けれど、夢月には痛いほど伝わってきた。千代がどれほど長い歳月、怪異として狂気に呑み込まれている間も、そのたったひとつの「温もりの記憶」を胸の奥深くに抱きしめ続けていたのかが。
『ありがとうって。あの寒い夜、そばにいてくれてありがとうって。毒じゃない温かいご飯をくれてありがとうって……ちゃんと言いたいの』
最後の掠れた声に、八雲も口元にカップを運ぶ手を止め、静かに千代を見つめていた。
夢月は千代の柔らかい髪をそっと撫で、ぎこちなく微笑む。
「……うん」
安易な言葉は言えなかった。何百年の時を超えた今、その人間がどうなっているのか、簡単に「叶うよ」と約束することはできない。
けれど、叶えてあげたいと強く思った。千代が暗闇の中でずっとずっと抱き締めてきた、唯一の光のような願いを。
「探そう、千代ちゃん」
千代の真っ直ぐな眼差しを受け止めた夢月は、胸の奥からこみ上げてくる愛おしさに目元を緩め、柔らかく微笑んだ。
膝の上の小さな手に自分の手を重ねると、そこから確かな温もりが伝わっていく。
その笑みは、暗闇の中でずっと一人で耐えてきた少女の凍えた心を、優しく解かしていくようだった。
「お菊さんが何処にいるのか、私達で一緒に探そう」
千代はしばらく夢月の顔をぽかんと見つめていた。
やがて、春のつぼみが綻ぶように、ぱっと顔を輝かせて笑う。
『うん! ありがとうお姉ちゃん』
その無邪気な笑顔を見て、八雲も髪を掻き上げながら、何処か誇らしげに小さく頷いた。
「よしっ。じゃあ決まりっすね! まずは、そのお菊って人について分かることを整理しましょう。千代ちゃんが覚えてること、どんな小さなことでもいいから教えてくれないか?」
『覚えてること?』
「そうっ。何処で出会ったのかとか、どんなお店に行ったとか。どんな匂いがしたとか、何でもいい!」
千代は小さな首を傾げ、記憶を手繰り寄せるようにじっと考え込んだ。
『えっとね、冷たい風が吹く古い橋の下だったよ。川の音がしてて、お月様が出てたの』
「橋の下か」
八雲は細い顎に手を当て、困り果てたように唸り声を上げた。
片方の手でボリボリと頭を掻きながら、テーブルの古地図と千代の言葉を交互に見比べる。
数百年前の記憶と現代の街並みを重ね合わせる作業の難しさに、その眉間には深く皺が寄せられていた。
「他には何か覚えてないか?」
『お姉さんはね、いつも派手じゃない着物を着てて。夜になると、灯りのある町の方へ行って、朝になると帰ってきたよ』
その言葉を聞いた瞬間、夢月は切なさに少しだけ表情を曇らせた。
夜鷹として、身を粉にして生きていたお菊。
千代が出会ったのは、彼女自身も明日をも知れぬ過酷で切ない生活を送っていた頃なのだ。
それでもお菊は、見知らぬ片目の幼子に、温かい飯握りを分け与えた。
自分自身にさえ、何の余裕もなかったはずなのに。
「……お菊さんのこと、もっとちゃんと知りたいね」
夢月がぽつりと呟くと、カウンターの向こうからカチャンと静かな音が響き、マスターの声が届いた。
「それでしたら、まずは千代さんが生きておられた『時代』と『場所』を特定する必要がありますね」
「時代っすか?」
「ええ。千代さんの記憶に残る町並み、橋の造り、あるいは当時の風俗や出来事。それらが結びつけば、古文書や過去の記録から手掛かりを探し出すことができるでしょう」
マスターはゆっくりと珈琲カップをソーサーに置いた。
「ただし――一つだけ、心に留めておいてください」
いつもの穏やかな声音だけれど、その静かな瞳には、真実を見通すような深い厳かさが宿っていた。
「願いを追い求めるということは、必ずしも自分が望んだ通りの『救い』を得られるとは限りません」
八雲はすっと顎に指を添え、考え込むように低い唸り声を漏らした。
視線を斜め上に泳がせながら、千代の記憶にある「橋」と「川」の情景を、なんとか現代の地図へ落とし込もうと真剣に知恵を絞っている。
『……どういうこと……?』
「探している大切な人が、今もこの世の何処かで、幸せに生きているとは限らないということです。過去を知るということは、時に酷な残酷さと向き合うことでもあります」
しんと店内の空気が静まり返った。
夢月は膝の上の千代の顔を覗き込む。視線を先でマスターを真っ直ぐと見つめる千代はすぐには答えなかった。小さな胸が、静かに上下している。
やがて、夢月の袖を握り締める千代の指先に、ぎゅっと強い力が籠もった。
『……それでも、いいの』
小さく、けれど一度も揺らぐことのない声だった。
『ひめ、ちゃんとお礼が言いたいの。もし……もし会えなくても、お姉さんがどんな風に生きて、どうなったのかを知りたいの』
それは、現実から逃げるための願いではなかった。
たとえどれほど悲しい事実が待っていたとしても、千代は知りたいのだ。
自分をただ一人人間として愛してくれた人が、どんな人生を歩み、あの夜の後に何処へ行ったのかを。
カウンターの上で丸くなっていた珠吉が、ゆっくりと体を起こして前足を伸ばした。
『……ふん。なら、まずはその『昔の町』の跡地を探すしかないな』
「珠吉、何か心当たりでもあるの?」
『さあな。だが、何百年も前に流されて現代の地図から消えてる可能性の方が高いぞ。街並みだってすっかりコンクリートになっているだろうからな』
珠吉は顔を前足で洗うと、黄色い目を細めて千代を見下ろした。
『だがまあ……指を咥えて何もせずに諦めるよりは、足掻いてみる方が性に合ってるだろう』
『うん!』
千代が力強く頷いた。その前向きな声に、八雲も破顔して笑みを零す。
「よし、じゃあ決まりっすね! 明日から本格的に調べましょう!」
『明日?』
「そうっす。今日はもうすっかり夜だし、如月さんも千代ちゃんも疲れてるだろ。まずはしっかり休んでからやんないと!」
『……そっか』
千代は一瞬だけ待ちきれなさそうに残念そうな顔をしたが、すぐに嬉しそうに笑顔を取り戻した。
『じゃあ、明日ね!』
まるで、明日の遠足の約束でも交わすかのような、弾んだ声だった。
夢月はその屈託のない笑顔を見つめながら、胸の奥に何処か切ない痛みを覚えていた。
千代にとって、お菊との再会――そしてお礼を伝えることは、彼女の魂が真に救われるための、最後のピースなのだ。
だからこそ、絶対に叶えてあげたい。夢月はそう深く胸に誓った。
――この時の夢月は、まだ知る由もなかった。
温かな願いを追いかけたその先に、どれほど切なく残酷な過去の現実が待ち受けているのかを。
そして、その真実が千代の心に、どんな痕跡を残すことになるのかを。
けれど、ただ一つだけ、確かな事実があった。
千代はもう一度、あの温もりへ向かって「ありがとう」を伝えるために願ったのだ。
❁
翌朝の夢幻喫茶。客席の丸テーブルには、香ばしい焼きたてのおむすびの匂いが漂っていた。
夢月も千代の隣に並んで腰を下ろし、マスターが運んできてくれたおむすびの皿を千代の前へとそっと寄せた。テーブルの片隅には、八雲が持参した江戸時代の古地図や周辺地域の郷土史資料がうずたかく積まれている。
「はい、千代ちゃん。熱いから気を付けて食べてね」
夢月が声をかけると、竹の皮の上に載った小さな丸いおむすびから、立ち上る湯気が千代の顔を包む。
千代は両手で大切そうにおむすびを包み込むと、ふーふーと息を吹きかけ、恐る恐る一口齧りついた。
『あったかい……』
千代の瞳が、ぽっと嬉しそうに輝く。
『お姉さんがくれたのも、こんな味だったの。竹の皮の匂いがして、ほんのり塩味がして』
向かいの席に座る八雲が、古文書から目を離して「へえ」と身を乗り出した。
「そのお菊さんって人、料理が得意な人だったんすか?」
『ううん、お料理はあんまりしなかったよ。お姉さんがくれたのは冷めてて、もっと固かった』
千代はおむすびを口に含んだまま、愛おしそうに目を細めた。
『お仕事の帰りにね、竹の皮に包まれたおむすびを一つだけ買ってきてくれるの。お姉さんは「あたしはお腹すいてないから」って言って、いつもひめに半分以上くれたんだよ。後から分かったんだけど……お姉さんもお腹が鳴ってたの』
千代の素直な言葉に、夢月と八雲は顔を見合わせた。自分自身にも余裕がない中で、幼い千代へ分け与えられていた小さな温もり。同じ客としてその話を聞いていた夢月の胸にも、情景が鮮やかに浮かび上がる。
『ひめね、お姉さんに何かあげたくて……でも、ひめは何も持っていなかったから』
千代はおむすびを呑み込むと、自分の小さな胸元をぎゅっと押さえた。
『道端に咲いてた、青くて小さい野花を摘んで持っていったの。お花なら、お金がなくても摘めるでしょう? でもね、差し出したあとで怖くなっちゃったの。お母様みたいに「こんなのいらない」って捨てられたらどうしようって……』
「お菊さんは、何て言ってくれたの?」
隣で並んで座る夢月が優しく尋ねると、千代の唇が小さな笑みを形作った。
『お姉さんね、鼻でふんって笑ったの。「あたしに花なんて持ってきたって、一文にもなりやしないよ」って』
「うわぁ……なんか素っ気ないっすね」
八雲が苦笑いを浮かべると、千代は大きく首を横に振った。
『ううん、違うの! お姉さん、そう言いながらね……その青いお花をすごく大事そうに折らないようにして、着物の帯の隙間にそっと挿してくれたの。お仕事に行く時も、ずっと挿したままいってくれたの』
夢月の膝の上で丸くなっていた珠吉が、片目を薄く開けて「ふん」と鼻を鳴らした。
『口は悪いが、不器用で温かい奴だったんだな』
『うん! ひめが「お姉さん大好き」って言ったら、「あたしみたいな女を好きになったっていいことなんてない」って怒るんだけど……ひめの手が冷たいと、自分の手ぬぐいを手首に巻き付けて温めてくれたの』
千代は夢月の洋服の袖をそっと摘まんだ。まるで、その頃を再現するかのように。
『お姉さんの手は、お母様の手みたいに白くてツルツルじゃなくて、少しゴツゴツしてて固かったの。でも……世界で一番あ温かい手だった』
静かな店内に、千代の澄んだ声だけが響く。
見返りを求めず、ただ自分をそのまま受け入れてくれたお菊との日常。それは過酷な運命の中にいた千代にとって、唯一の救いであり、永遠の宝物だったのだ。
「……よしっ!」
八雲が古地図をバシッと叩いて、身を乗り出した。
「その青い野花が咲いてた川端と、古い木橋の跡地……客同士、皆で絶対に探し出しますよ! 如月さん、準備はいいっすか?」
「うん! 一緒に行こう、千代ちゃん」
夢月が手を差し出すと、千代は嬉しそうにその手をぎゅっと握り返した。
『うん、夢月お姉ちゃん!』
おむすびの温もりと、思い出の野花の記憶を胸に抱き、同じ「客」として集まった夢月達は、お菊の足跡を辿るための第一歩を踏み出したのだった。




