幼い日の願い・2
千代が五つになった頃だった。
あれほど母の温かな笑顔を求めていた千代は、いつしか言葉よりも先に、母の顔色を窺うことを覚えていた。
朝、目覚めた瞬間の母の機嫌が良いかどうか。
父が仕事から帰ってきた時、母が穏やかに笑っているか。
自分が部屋の敷居を跨いだ時、苦々しそうに眉を顰められないか。
幼い頭の中は、息を潜めるようにそんなことばかりで占められていた。
そしてもう一つ、千代にはどれほど願っても、自分ではどうすることもできないものがあった。
――自分自身の、生まれ持った顔である。
左目がない。
ぽっかりと空いたその一点を除けば、千代の顔立ちは恐ろしいほど母親によく似ていた。
透き通るような白い肌。すっと通った整った鼻筋。長いまつ毛が落とす繊細な影。幼いながらも、誰の目にも明らかな美しさを持っていた。
けれど、左目のない千代の顔を見た人々は、その美しさよりも先に異形の部分を凝視した。
――気味が悪い。
――あれは鬼の子だ。障りがある。
――見てはいけない、目が腐る。
路地裏や長屋の陰でひそひそと交わされる影口を、千代は小さな耳で何度も聞かされた。
けれど、ある時期から少しだけ周囲の反応が変わった。千代の顔を見る大人達の目が、以前とは明らかに違っていたのだ。
それは、千代が十二になった頃。
恐れて遠ざける目ではない。何処か品定めをするような、ねっとりと肌にへばりつく粘つく視線だった。
幼い千代には、その汚らわしい目の意味が理解できなかった。
ただ分かっていたのは、そんな視線を向けられた日は、決まって母の機嫌が妙に良かったということだけだった。
「千代」
「……なに、お母様」
「今日は綺麗にしておいで」
母は千代を鏡の前に座らせ、長い髪を丁寧に整えた。
いつもなら髪を引っ張るように乱暴に扱う手が、その日だけは薄気味悪いほど優しかった。
千代はそれが無性に嬉しかった。もしかしたら、今日はお母様が自分を好きになってくれたのかもしれない。自分を本当の子として抱き締めてくれるのかもしれない。
そんな淡い期待を胸に抱いて、鏡の中の自分を見つめる。けれど、着物や髪をどれほど飾っても、ぽっかりと空いた左目の穴だけはどうしても埋まらない。
「……お母様」
「なに」
「千代、綺麗?」
母が一瞬だけ櫛を引く手を止め、冷ややかな沈黙が流れた。
そして――。
「……口を開けずに、黙っていればね」
吐き捨てるように、そう答えた。
その夜からだった。
見知らぬ男達が、代わる代わる屋敷の敷居を跨ぐようになったのは。
千代には、その大人達が何者なのか分かるはずもない。父の客なのか、母の知り合いなのかすら教えてもらえない。
ただ、暗がりの中で母に強く手繰り寄せられ、奥の暗い部屋へと連れていかれる。
「ちゃんとしていなさい」
握り締められた手首に痛いほどの力を込められ、いつも耳元で囁かれるのはそれだけだった。
「余計なことは喋らないの」
「どんな嫌なことを言われても、泣いちゃダメよ」
「置物みたいに、大人しくしていればいいの」
千代は言われた通り、息を殺して耐えた。そうしていれば、いつか全てが終わった後に、母が優しく笑ってくれると信じていたから。
けれど、男達が去り、重い静寂が戻った後も母が笑うことはなかった。
むしろ、洗っても落ちない何か汚らわしいものを見るような、蔑みの目を向けられることさえあった。
「……お母様?」
「なに」
「千代、言われた通り、ちゃんとできたよ」
「そう」
「だから……」
千代は縋るように、母の着物の袖を小さな手でぎゅっと掴んだ。
「……千代のこと、褒めてくれる?」
母はその手を、容赦なく振り払った。
「うるさいわね。触らないで」
千代には、そうやって絶えず拒絶される意味が分からなかった。言われた通りにした。泣かなかった。騒がなかった。母を困らせないよう、じっと耐えた。
それなのに、どうして一度も抱きしめてもらえないのだろう。
やがて千代は屋敷の中だけでなく、外の知らない場所へも頻繁に連れ出されるようになった。
見知らぬ豪華な屋敷、人通りの多い町、そして提灯の紅い灯りが怪しく揺れる夜の街。
何処へ行っても千代の手を引く大人がいて、何処へ行っても知らない人間が千代の顔を覗き込んできた。
その度に、「まあ、綺麗な子だね」「片目なのが惜しいくらいだ」と声がかかる。
千代は、その『綺麗』という言葉が大嫌いになった。
綺麗だと言われる度、胸の奥が氷を押し当てられたように冷たくなっていく。
何が綺麗なのか、何故そんな風に褒められるのか、幼い頭では理解できなかった。ただ分かっていたのは、その言葉が聞こえる度に、母の顔から人間らしい感情がすうっと消えていくことだけ。
――綺麗じゃなければよかった。
――何処にでもいる、普通の子だったらよかった。
――他の子みたいに、ちゃんと左目があったらよかった。
そうすれば、お母様は私を「気味が悪い」と捨てずに、愛してくれたのだろうか。
そんな惨めな夜がどれほど続いたのか、幼い千代には数え切れなかった。季節がいくつ過ぎ去ったのかも分からない。
ただ、夜が来るのがたまらなく怖かった。
知らない大人達に囲まれ、酒と香水の混ざった不快な匂いの中で息を潜め、朝になると何事もなかったかのように寒々しい自分の部屋へ戻される。誰も千代に「大丈夫かい」とも「怖かったね」とも言ってくれない。
だから千代も、自分の恐怖や悲しみを言葉にすることをやめてしまった。
ある、肌を刺すように冷え込む夜。
千代はいつものように、見知らぬ夜の町へ連れてこられていた。
不快な酒の匂い、遠くの楼閣から響く三味線の喧しい音、あでやかな着物を着た大人達の下品な笑い声。
千代は一人、狭い路地の影に小さく腰掛けていた。誰かを待っているのか、誰かに待たされているのかも分からない。
けれど今夜だけは、どうしてもその場に踏み留まることができなかった。胸の奥が張り裂けそうで耐えられない。
千代は静かに立ち上がった。誰にも気づかれないよう、音を立てずに裏口の隙間から夜の濃い闇へ足を踏み出す。
大人にあてがわれた履物は千代の小さな足には不釣り合いに大きく、石畳を歩くたびに『パタ、パタ』と寂しい音を立てた。
行き先も、帰り道も分からない。それでも、あの生暖かい地獄のような場所に戻ることだけは、絶対に嫌だった。
やがて町の猥雑な賑わいが遠のき、暗がりの中に古い木橋が見えてきた。
千代は吸い寄せられるように、川の匂いが漂う橋の下へと潜り込む。
川のせせらぎを聞きながら膝を抱え込んで丸くなると、ほんの少しだけ息がしやすくなった。
「……寒い」
掠れた小さな呟きは、湿った川風と暗闇に溶けて消える。千代は凍える顔を膝の中に埋めた。
「お母様」
呼んでみても、返ってくるのは冷たい川の水音だけだ。
「千代、悪い子なのかな。千代が綺麗じゃなくなったら……お母様、笑ってくれる?」
誰も答えてはくれない。寂しさと寒さに小さな身体を竦ませていた、その時だった。
「――あんた、こんなところで何してんだい」
頭上から、不意に声が降ってきた。千代はびくりと肩を跳ね上げ、恐怖に怯えながら顔を上げる。
橋の古い柱の影に、一人の女が立っていた。
派手な着物を着ているわけでもない、薄い羽織を引っ掛けただけの、夜の街の最底辺に立つ夜鷹の女だった。
千代は身を固くし、警戒して少しだけ後ずさる。女は千代の左目を覆う布を一瞬だけ見つめ、煙管をくわえたまま静かに佇んでいた。
「……迷子かい?」
千代は答えず、ただ唇をきつく噛みしめる。
「親は何処へ行ったんだい」
「……帰りたくない」
千代がぽつりと絞り出すように漏らすと、女の眉が微かに動いた。だが、事情を根ほり葉ほり問い詰めるような真似はしなかった。
「そうかい」
あまりにも短く、あっけらかんとした答えが聞こえて、千代は不思議そうに目を見開いて女を見上げる。
「……怒らないの?」
「なんであたしが怒るんだい」
「帰りたくないって言ったから……勝手なこと言ったら、普通は大人は怒るの」
「帰りたくないなら、帰らなきゃいいじゃないか。自分の足でここまで来たんだろ」
大人からそんな言葉をかけられたのは、生まれて初めてだった。大人はいつも「言い付けを守れ」「大人しくしていろ」「余計なことをするな」と命令ばかりしたのに。
「お姉さんは、千代を叱らないの?」
「叱る理由がないからね。あんたがあたしに迷惑をかけたわけじゃない」
女は淡々と言い、千代から少し離れた湿った地面にドカりと腰を下ろした。
そして懐から、竹の皮に包まれた小さな飯握りを取り出す。冷や飯ではなく、まだほんのりと温もりが残っていた。
「お腹が減ってんだろう。食べるかい?」
千代はじっとその飯握りを見つめた。これまで出会った大人達は、何かを与える時には必ず代償を求めてきたからだ。
「……毒?」
女が一瞬ぽかんと呆れたように口を開け、それから『くすっ』と腹を抱えて可笑しそうに笑った。
「ははっ! 随分と警戒心が強いお嬢ちゃんだねぇ。こんな湿気た場所で毒殺してどうすんだい」
女は飯握りの端を自分で一齧りしてみせ、咀嚼してから、千代の小さな手の中に持たせた。
「ほら。毒なんか入ってないよ。食いな」
千代は恐る恐る口に運んだ。塩気と、ほんのりとした温かさ。その小さな温もりが、冷え切っていたお腹と胸の奥底に、じわじわと広がっていく。
「……おいしい」
「そうかい。そりゃよかった」
「お姉さん」
「ん?」
「千代……ここに、ずっといてもいい?」
女は煙管を取り出し、小さな火をつけながら紫煙をくゆらせ、目を細めた。
「好きにしな。夜が明けるまでは、誰もここには来やしないよ」
理由も求めず、見返りも求めず、ただ同じ暗闇の中で隣にいることを許してくれる存在。
千代は生まれて初めて出会ったその女の隣で、噛みしめるように小さく、何度も頷いた。
誰かの役に立たなくても。
大人にとって都合よく綺麗でなくても。
自分の何かを切り切り刻んで差し出さなくても――ただそこに生きていていいのだと。
千代はこの冷たい夜、生まれて初めて自分の意志で『生きること』の息吹を知ったのだった。
そしてこの温かな出会いが、千代の残酷な運命の歯車をさらに大きく揺り動かしていくこととなる。
まだ幼かった千代は、その先に待つ闇の深さを、まだ知る由もなかった。
❁
橋の下で分け合った温かい飯握りと、紫煙の匂い。
あの日から、千代の暗闇の中に小さな灯台がひとつ、ぽっと灯った。
屋敷へ戻れば、相変わらず冷ややかな母の視線と、夜な夜な訪れる見知らぬ男達の影が千代を押し潰そうとする。けれど、千代はもう声を出して泣かなかった。お腹の底に残ったあの温もりが、「お前はここにいていい」と教えてくれたからだ。
千代は隙を見つけては屋敷を抜け出し、あの古い木橋の下へ通うようになった。
女の名は、お菊といった。
夜の底で春を売る夜鷹の女で、身寄りもなく、明日をも知れぬ暮らしを送っていた。
「また来たのかい。物好きな子供だねぇ」
お菊は煙管をふかしながら呆れたように言うが、決して千代を追い払うことはしなかった。
千代がお菊の隣にちょこんと座ると、お菊は懐から薄い手ぬぐいや、時には竹の皮に包まれた握り飯を取り出して千代に持たせた。
「お姉さん、これ」
ある日、千代は道端で摘んだ青い小さな野花をお菊に差し出した。
お菊は目を丸くし、それから可笑しそうに鼻で笑った。
「あたしに花なんて持ってきたって、一文にもなりやしないよ」
そう言いながらも、お菊はその不揃いな野花を大切そうに帯の間に挿した。
「千代、お姉さんのこと大好き」
「バカ言っとくれ。あたしみたいな女を好きになったって、いいことなんて一つもないよ」
お菊の言葉はいつも乱暴で素っ気なかったが、千代の手が凍えていると、自分の小さく薄い手ぬぐいを千代の手首に優しく巻き付けてくれた。
母の手からは感じたことのない、ごつごつとした、けれど確かな人間らしい温もり。千代にとってお菊は、世界でたった一人の「本当のお母さん」のような存在になっていったのだ。
「あんた、なんで家に帰りたくないんだい」
「お母様は、千代がいい子じゃないから嫌いなの。いい子でいたいけど、大人に嫌なことをされるから怖い」
淡々と語る千代の話を聞いたお菊は、それまでの穏やかな風貌など何処かへ消し去る。
千代が顔をあげた時に目に入ったのは、怒りに染まったお菊の顔だった。
「なんだって、こんな小さな子供に⋯⋯」
その言葉の先を千代が理解できるはずもなかった。
ただ、千代の小さな手を握り締め、悔しさを苦しげに噛み締めている。
「千代、いいかい」
ずいっと近づけられたお菊の顔は、長い髪に隠れていただけでそれは美しいものだった。
もっと綺麗な着物を着れるだけの金があれば。
もっと生きやすい世の中に生まれていれば。
何か他に輝かしい人生があったのではないかとすら思ってしまう。
「あんたはあたしみたいになるんじゃないよ。あんたの人生は、あんたが決めるんだ。一人で生きていくことだって、願っていいんだよ」
男に春を売る夜鷹としてではなく、一人の女として。
「⋯⋯うんっ!」
初めて見たお菊の優しい笑顔は、これが最後だった。
❁
季節が巡り、木枯らしが吹く初冬の夜。
千代はいつものように、胸を躍らせて木橋の下へと向かった。
昼間、屋敷の庭で見つけた綺麗な赤色の紅葉の葉を、お菊に見せてあげたかったのだ。
だが、橋の下にお菊の姿はなかった。
いつもなら紫煙の匂いが漂っているはずの暗がりに、冷たい川風だけが吹き抜けている。
千代は胸に嫌な騒ぎを感じながら、お菊を待った。一刻が過ぎ、二刻が過ぎても、お菊は現れない。
不気味な静寂に耐えかねた千代は、お菊を探して夜の街へと踏み出した。
小さな足で走り回り、華やかな提灯の陰や、路地の奥を必死に探す。
やがて、裏路地の深い闇の中に、人集まりができているのが見えた。
「――おいおい、死んでるぜ」
「また夜鷹の女か。寒さで凍えたか、病気だろうよ」
「身寄りもねえだろうし、無縁塚に放り込むしかないな」
ひそひそと交わされる男たちの雑談。
千代は息を呑み、大人達の隙間を縫うようにして前へ躍り出た。
冷たい石畳の上に横たわっていたのは、薄い羽織を羽織ったお菊。その顔は青白く固まり、二度と動かない。
「お姉さん……?」
千代が歩み寄ろうとすると、男の一人が千代の腕を強引に掴んで引き戻した。
「こら、ガキ! 近寄るんじゃない! 穢れが移るぞ」
「離して! お姉さん! お姉さんっ!」
千代は必死に暴れ、叫んだ。けれど、幼い千代の力では大人を振り払うことなどできない。
その時、冷たくなったお菊の懐から、風に煽られて一枚の薄汚れた手ぬぐいがこぼれ落ちた。
それは、あの日千代の手首に巻いてくれた、あの手ぬぐい。そしてその脇には、千代が以前渡した枯れた野花が、大切そうに紙に包まれて残されていたのだ。
お菊は、千代が贈ったものをずっと大切に持ち歩いていた。
(あたしを、好きになったって……いいことなんてないって言ったのに)
男達はお菊の遺体を粗末な筵で包むと、まるで塵でも捨てるかのように荷車へ載せ、暗闇の奥へと運んでいってしまった。
「お姉さん! お姉さんーーっ!」
千代の叫び声は、夜の静寂の中に虚しく吸い込まれていった。
お菊を失った夜、千代の中で何かが音を立てて壊れた。
世界で唯一、自分を「千代」として見てくれた人。
綺麗でなくても、片目でも、ただそこにいるだけで微笑んでくれた人。
そんな大切な人さえも、この残酷な世界は容赦なく奪っていく。
屋敷に戻った千代を待っていたのは、相変わらず冷酷な母の視線と、「何処へ行っていたの」という身勝手な叱責だった。
(……どうして? どうしてお菊お姉さんが死んで、この人達が生きているの? 綺麗な顔をして、心の中は鬼みたいな大達が、どうして)
千代の胸の底で、ドロリとした黒い怨嗟の渦が巻き起こった。
絶望と憎悪が最高潮に達したその瞬間、千代の心の隙間を突いて、暗闇から無数の妖達が這い寄ってきた。
『哀しいねぇ、千代ちゃん』
『可哀想に。お前を愛してくれる者など、この世には誰もいない』
『奪われたなら、奪い返しなさい』
『綺麗になりなさい。お姫様になりなさい。そうすれば、皆がお前を愛するようになる』
妖達の囁きが、千代の歪んだ願いと重なり合う。
「……そっか」
千代はぽっかりと空いた左目の穴を撫でながら、虚ろな目で呟いた。
「綺麗な目があれば……ひめも、愛してもらえるのかな」
あの日、お菊がくれた温もりは、千代が「人間」として繋ぎ止められていた最後の糸だった。
その糸がぷつりと切れた時、千代という幼い少女の心は永遠に闇へと沈み――目を奪う凄惨な怪異「めとり姫」が誕生した。
めとり姫。
目取り姫。
娶り姫。
お菊が大切に持っていた手ぬぐいだけが、千代の袂の奥深くで、静かに冷たくなっていった。
❁
目の前に佇む「めとり姫」と静かに対峙しながら、夢月はずっと考えていた。
どうして彼女は、あの夜、八雲の左目を奪ったのか。
ただ、「こんな目さえなければいいのに」と八雲が絶望混じりに口にしたから――それだけでは決してなかったはずだ。
めとり姫は、八雲にも自分と同じものが視えていることに気づいていたのだ。
妖をその身に映し出してしまう目。
本来ならば人には見えるはずのない、異形や怪異を映してしまう呪われた目。
誰にも理解されず、時には「気味が悪い」「頭がおかしい」と蔑まれ、自分自身さえも疎ましく思ってしまう孤高の目。
だからこそ、欲しかったのだ。
自分と同じ孤独と痛みを背負う、八雲のその目が。
『……ひめは、嘘を吐いてなんかなかった。ただ、信じてほしかっただけなの』
めとり姫の掠れた声が、しんとした空間に静かに響く。
『お母様にも、屋敷の皆にも、ひめが見ているものは、本当にそこにいるんだって。嘘じゃないんだって』
夢月は何も言わず、黙ってその言葉に耳を傾けていた。
千代が幼い頃に、必死な思いで大人達へ口にしていた言葉。
「妖がいる」「あそこに黒い影がいる」「あの人の後ろに怖い顔がある」――。
何度も何度も訴えて、泣き叫んだけれど、誰一人として千代の言葉を信じてはくれなかった。
母に構ってほしくて、気を引くために嘘を吐いていたわけではない。幼い千代は、ただ自分の目に確かに視えている事実を、素直に伝えていただけだったのだ。
『なのに……誰も、ひめを信じてくれなかった』
めとり姫の声が、掠れ、少しずつ小さくなっていく。
『妖はひめの心が弱って、ボロボロになっているところに入ってきたの』
母親の心が歪んで変わってしまったのも。
両親が血を流すような争いを繰り広げるようになったのも。
広大な屋敷の中に蠢く異形の影が増えていったのも。
全て、自分のせいなのだと――幼い千代はそう思い込み、自分を苛み続けていったのだ。
――自分が悪い子だから。
――自分がこんな風に生まれてきたから。
――自分に、この呪われた目があるから。
けれど、本当は違ったのだ。
妖は、千代の心の過酷な揺らぎにつけ込んだだけに過ぎない。弱り切った心に親しげに寄り添うふりをして近づき、憎しみを注ぎ込み、孤独を肥大化させていった。
『子に罪は無いというのに、な』
夢月の傍らで、猫又の珠吉がぽつりと呟いた。抑えられた低い声だったが、その言葉に込められた溢れんばかりの痛切な思いが、夢月には痛いほどよく分かった。
めとり姫はぽつんと俯いている。そのあまりにも小さな肩が、微かに震えていた。
夢月は彼女の目の前にそっとしゃがみ込み、できるだけ柔らかく、包み込むような優しい声で語りかけた。
「左目がなくたって、妖を映す右目を持っていたって、貴方は貴方でしょう?」
『え⋯⋯?』
「見えちゃったっていいんだよ。それは、千代ちゃんが悪いわけじゃない。決して悪いことじゃないよ」
夢月の温かな言葉に、めとり姫は信じられないものを見るように驚いて目を見開いた。そして――ほんの少しだけ、小さな口元を緩めた。
拙く、幼く、けれど何処か憑き物が落ちたような、穏やかな笑みだった。
『……お姉ちゃん。この目、返すね』
めとり姫が、小さく華奢な掌を差し出す。
すると、その掌の空間に淡く美しい光の粒子が集まり始めた。光は次第に確かな輪郭を持ち、丸い形へと変わっていく。
夢月は息を呑み、受け止めるように恐る恐る自分の掌を差し出した。
やがて光に包まれた掌に残されたのは、八雲から奪われた左目だった。
けれど、過去の記憶の世界で目撃したような、血と怨念に塗れたおどろおどろしいものではない。柔らかく温かな光を纏って、静かに浮かんでいる。
「……これが、八雲君の目」
夢月の指先がその光に触れた瞬間――目は一層強く瞬くように輝き、そのまま手の中から溶けるようにして消えていった。
「返っていった……のかな」
夢月はそっと自分の胸に手を当てた。
今、遠く離れた場所で、八雲の左目が元通り収まった――そんな温かな確信が、胸の奥底から溢れ出してくる。
「返してくれて、ありがとう」
まるで年の離れた妹を愛おしむような声で、夢月は優しい微笑みと共に言った。
めとり姫は心底嬉しそうにふふっと笑うと、そっと夢月へ小さな手を伸ばした。
『うん』
細い指先が、夢月の着物の袖口をぎゅっと掴む。
『ねえ、お姉ちゃんって呼んでもいい?』
「うん、いいよ」
そう答えると、めとり姫の真っ白だった頬がぽっと朱に染まった。
『それじゃあ……お姉ちゃん』
「うん」
『目、ちょうだい?』
「…………え?」
夢月の笑顔が瞬時に引き攣り、凍りついた。
次の瞬間、珠吉の全身の毛根が一斉に逆立ち、二股に分かれた尾からバチバチと青い狐火が弾ける。
『おいっ! 貴様、まだ反省してないのかっ!』
『ふふ……あはは! 冗談だよ』
めとり姫が、いたずら成功と言わんばかりにくすくすと声を上げて笑った。
その無邪気で可憐な笑顔は、先ほどまで街を恐怖に陥れていた恐ろしい怪異とは、全くの別人だった。
――この子は、本当はこんなふうに笑える普通の子だったのだ。
夢月は胸を撫で下ろし、冷や汗を拭いながら、切なく胸を痛めた。
けれど、「めとり姫」という恐ろしい異名がついた背景には、もう一つ、彼女の幼い哀しい願いがあったのだ。
――母のような、美しく品のあるお姫様になりたい。
町の人々から「なんて綺麗なお方だ」と絶賛されていた母。
母のように美しく華やかになれば、自分も人間として愛してもらえるのではないか。家族にも、町の人々にも怖がられず、気味悪がられず、「可愛い普通の女の子」として認めてもらえるのではないか。
それは、幼い少女なら誰もが一度は抱くような、あまりにもささやかで愛おしい夢。
けれど千代は、その切なる願いを狂気と憎しみの中で歪ませ、最悪の形で叶えてしまったのだ。
人から美しき目を奪い去る妖。
綺麗な目を求めて闇夜をさまよい歩く悲しき姿。
人々が恐怖と忌避を込めて呼んだ名こそ――めとり姫。
彼女は姫になりたかったのだ。誰からも愛される、母のような姫に。
けれど成り果てたのは、誰からも恐れられ、討伐されるだけの怪物だった。
何もかもを失い、妖へと堕ちてしまった一人の哀しい少女は、夢月の差し出す暖かな光に包まれながら、救われたようにそっと静かに目を閉じたのだった。




