幼き日の願い・1
深い暗闇を抜けると、そこは再び同じ屋敷の中だった。だが、何かが決定的に違う。
廊下の柱は黒ずみ、あちこちに爪で引っ掻いたような傷痕が刻まれている。空気は重く粘つき、腐敗した水のような匂いが鼻を突いた。時間の経過を示しているのか、庭の百日紅の木は葉を落とし、寒々しい枝を空へと伸ばしている。
「珠吉。これって時間が、進んだの?」
『ああ。数年……いや、もっとか。千代が少し大きくなっているな』
珠吉の指し示す先、庭を眺める少女の姿があった。
千代だ。幼かった身体は少し成長し、少女の骨格へと変化している。だが、その表情からは一切の感情が削ぎ落とされ、瞳は硝子玉のように光を失っていた。
千代の左目には、相変わらず白い帯状の布が巻かれている。
その千代の傍らに、いつの間にか一人の老婆が立っていた。屋敷の古い奉公人だろうか。老婆は恐る恐る、千代から距離を置きながら声をかけた。
「千代様。お食事を持ってまいりました」
「……お母様は?」
「奥様は本日もご体調が優れず、お部屋から出られません」
「嘘」
千代の声は平坦だった。怒りも哀しみもなく、ただ事実を指摘するように。
「お母様は、千代の顔を見たくないだけ。千代がこの屋敷にいるのが嫌なだけ」
「そんな……そのようなことは……」
老婆はオロオロと視線を泳がせるが、千代の左目の布に視線が触れると、嫌悪感を隠しきれずに身を引いた。その反応を、千代は見逃さなかった。
「皆、千代の目が嫌いなのね」
「いいえ! 滅相もございません! ……ただ、その……お労しくて……」
「嘘つき」
千代は立ち上がり、老婆をじっと見つめた。
その瞬間、老婆の影の中から、ぬっと黒い手が伸び、老婆の足首に絡みついた。老婆は「ひっ」と短い悲鳴を上げて後退りし、逃げるように去っていく。
千代は逃げ出していく老婆の背中を、ただ冷ややかに見つめていた。
「千代ちゃん、妖を操ってるの?」
『いや、操ってるわけではないはずだ。千代の心の歪み、憎悪や孤独に引き寄せられて、屋敷中の怪異が集まっている。千代自身が、妖を引き寄せる磁石になっているんだろう』
千代は一人、静まり返った廊下を歩き出す。その目的地は明確だった。母親の部屋だ。
母親の部屋の前。千代は声をかけることなく、静かに障子を開けた。
部屋の中は暗く、カビと病人の匂いが充満していた。布団の中に横たわる女性――母親の姿があった。数年前の美しさは影を潜め、痩せこけ、肌は土色に変色している。
「……千代……?」
母親が掠れた声で呟く。
「お母様。気分はどう?」
「来ないで……言ったでしょう……私の前に姿を見せるなと……」
「どうして? 千代はお母様のお世話をしたいの。お母様に笑ってほしいの」
千代は一歩、また一歩と布団へ近づいていく。
母親は恐怖に顔を歪め、ガタガタと震えながら布団を抱きしめた。
「来ないで! その顔を私に見せるな! 忌々しい……お前さえ生まれてこなければ……お前がそんな目で生まれてこなければ、私は……!」
母親の口から吐き出されたのは、あまりにも残酷な呪いの言葉だった。
自分が病に倒れたのも、夫に捨てられたのも、全て左目のない千代を生んだせいだと言わんばかりの激しい拒絶。
夢月は叫びそうになるのを、必死で両手で口を覆って耐えた。涙が溢れて止まらない。
そんな理不尽な言葉を浴びせられて、千代はどう思うのか。どれほど傷ついているのか。
だが、千代の反応は夢月の予想とは異なっていた。
千代は傷ついた顔をするどころか、何処か嬉しそうに、首を傾げて微笑んだのだ。
「そう……お母様は、千代の左目がないのが嫌なのね? 左目さえあれば、千代を愛してくれるのね?」
「な……何を言っているの……狂ったの……!?」
「大丈夫よ、お母様。千代、綺麗な目を探してくるから。お母様が気に入るような、素敵な左目を見つけてくるから。だから、待っていてね?」
誰にも見られず、人ならざるものを映す瞳に、狂気の光が宿った瞬間だった。
千代は母親の悲鳴を残し、部屋を後にする。足取りは、何処か軽やかですらあった。
「千代ちゃん、何をしようとしてるの!?」
『嫌な予感が当たるかもしれん……追うぞ!』
千代は屋敷を抜け出し、近隣の村へと向かって歩いていく。
その周囲には、無数の小さな妖達が群がり、千代の影を踏むようにしてついてきていた。もはや千代自身が怪異の主となりつつあった。
千代が辿り着いたのは、村の外れにある小さな神社。
境内で、幼い少女たちが手毬唄を歌いながら遊んでいる。無邪気で、愛くるしい少女達。
千代は木の陰から、その少女達の姿をじっと見つめる。その視線が定まったのは、一人の少女の顔だった。
大きな、黒黒とした綺麗な両目を持った少女。
「……あの目、綺麗」
千代がぽつりと呟いた。
その瞬間、千代の背後にひかえていた黒い影達が、一斉に蠢いた。千代の歪んだ願いに反応した妖達が、少女達に向かって滑り出していく。
「駄目! やめて!」
夢月はたまらず叫び出し、千代の元へ駆け寄ろうとした。
だが、現実ではない身体は地面を滑るだけで、何一つ干渉できない。
黒い影が少女の顔を覆い尽くす。
境内から、絶叫が響き渡った。
「嫌ぁぁぁぁぁぁっ! 痛い! お目目が! お目目がぁぁぁっ!」
少女の悲鳴に、他の子供達がパニックを起こして逃げ惑う。
やがて影が去った後、境内には左目を押さえてのたうち回る少女が残されていた。指の間から、鮮血が溢れ出している。
そして、千代の手には――血に染まった、小さな球体が握られていた。
「あっ……あぁ……」
夢月はその場に崩れ落ちた。吐き気が襲ってくる。
千代は手の中の「左目」を、愛おしそうにじっと見つめていた。
「ふふ……綺麗な目。これをお母様に見せたら、きっと喜んでくれる……」
千代は手に入れた目を自分の左目の傷口へ押し当てようとした。
だが――ポロリと、目は千代の身体に馴染むことなく、床へ転がり落ち、黒く腐敗して潰れてしまった。
「……どうして?」
千代の表情が固まる。
「どうして……くっつかないの? 千代の目にならないの?」
千代は足元の潰れた目を踏みつけ、顔を歪めた。
「違う……この目じゃ駄目なの? もっと綺麗な目じゃなきゃ駄目なの……!?」
千代の周囲の空気が激しく振動し、妖気が爆発的に膨れ上がった。
『狂い始めたぞ……!』
千代の「お母様に愛されたい」という純粋な願いは、この瞬間完全に折れ曲がり、他人の目を奪うという狂気的な「執着」へと成り果てたのだ。
それからの千代の行いは、凄惨の一途を辿った。
千代は村から村へと移動し、綺麗な左目を持つ少女や女性を探し求めた。
妖達を従え、夜な夜な人の家に侵入しては、その左目を奪い去る。
二個目、三個目、十個目、数十個目――。
どんなに目を集めても、千代の左目に収まることはなかった。奪った目はすぐに腐り、崩れていく。そのたびに千代は激怒し、さらに多くの目を求めて人々を襲った。
夢月と珠吉は、その惨劇の歴史をただ見届けることしかできなかった。
目の前で繰り広げられる惨劇、響き渡る悲鳴、溢れる血。
夢月の心は限界に達しつつあった。
「もう……もうやめて千代ちゃんっ!」
夢月は泣き叫びながら千代の背中を追う。だが、千代の狂気は止まらない。
そして、ついに千代は、大量の目を持ってあの屋敷へと戻ってきた。
屋敷はすでに廃墟と化していた。奉公人達は皆逃げ出し、怪異の気配だけが渦巻いている。
千代は血塗られた手で障子を開け、母親の部屋へと入った。
「お母様! 見て! たくさん持ってきたよ!」
千代は抱えていた着物の裾を開いた。
そこには、無数の人間の左目が転がり出た。言葉にするのも恐ろしい、地獄のような光景。
布団の中で衰弱しきっていた母親は、その光景を目にして、目を見開いた。
「ひっ……ひいいぃぃぃぃっ!! 化け物! 化け物が出たぁぁぁっ!!」
母親は残された力を振り絞り、千代を突き飛ばした。
「来ないで! 私に近寄らないで! お前は私の娘じゃない! 恐ろしい化け物だ!!」
千代は床に叩きつけられ、散らばる目の中に埋もれた。
「お母様……? 千代だよ? お母様のために、綺麗な目をたくさん持ってきたんだよ……?」
「うわぁぁぁぁっ! あっちへ行け! 死ね! 死んでくれぇぇっ!」
母親は狂乱し、近くにあった燭台を千代に向かって投げつけた。
火が着物に燃え移り、煙が上がり始める。
千代はその場に座り込んだまま、母親を見つめ続けた。
その瞳から、一筋の血の涙が流れる。
「……そっか」
千代の声から、一切の感情が消えた。
「お母様は……千代の左目があっても、千代を愛してくれないんだね」
千代の身体から、爆発的な黒い炎が湧き上がった。
屋敷全体が激しく揺れ動き、空間が歪んでいく。
「なら、皆の目を奪えばいいんだ。世界中の全ての左目を奪って、千代と同じにしてしまえばいいんだ。そうすれば……千代は寂しくない……」
千代の姿が、次第に変貌していく。
髪は逆立ち、着物は黒く染まり、指先からは鋭い爪が伸びる。
少女・千代は死に、恐ろしい妖「めとり姫」が完全に誕生した瞬間だった。
燃え上がる屋敷の中、母親の悲鳴が途絶え、めとり姫の狂おしい高笑いが響き渡った。
めとり姫の異様な高笑いが、激しい炎の爆ぜる音と交ざり合い、屋敷の空間全体を歪ませていく。
「千代ちゃん……ッ!!」
夢月は喉を焼き切るような叫び声を上げ、燃えさかる炎の渦の中へと突き進んだ。
『待て、夢月! 引き返せ! ここから先は記憶の領域じゃねぇ、あいつの狂気そのものだ!!』
腕の中から飛び出した珠吉が鋭い声を張り上げ、夢月の着物の裾を引っ張る。だが、夢月の足は止まらなかった。
足元では崩れ落ちた梁が赤々と燃え、視界を遮る黒煙が目を刺す。本来であれば、現実の人間が踏み込める場所ではない。夢月の手足は触れられないはずの過去の炎に焼かれ、実体を持った熱苦しさが皮膚を苛んだ。
「千代ちゃんっ……!」
空間の破綻。夢月の「救いたい」という強烈な意志が、精神世界の壁を無理やりこじ開けていた。
燃え上がる部屋の中央。
無数の人間の目が転がる血溜まりの中で、黒い炎を纏った少女――めとり姫が佇んでいた。逆立った髪、黒く染まった着物、鋭く伸びた爪。その姿は完全に妖のそれでありながら、残された右目からは、一筋の鮮血が絶え間なく溢れ落ちている。
めとり姫がゆっくりと振り向いた。
その瞳には、もはや生きている人間を認識する光はない。あるのは、世界すべてに対する深淵のような恨みと狂気だけだった。
「だれ……? 千代の……目を……うばいにきたの……?」
掠れた地獄の底から響くような声。
めとり姫が腕を突き出すと、夢月の足元から伸びた幾条もの黒い影の手が、一斉に夢月の身体へ襲いかかった。
「ぐっ……!」
影の手が夢月の腕や足、胸元に深く食い込む。激痛が走り、魂を直接削られるような寒気が全身を駆け巡る。
『夢月!!』
珠吉が跳躍し、二股のしっぽから青い狐火を放って影の手を焼き切る。だが、溢れ出す影の勢いは留まることを知らない。
『言わんこっちゃねぇ! ここはあいつの怨念の坩堝だ! これ以上深く入ればお前の魂まで引き裂かれて、あいつの影に取り込まれるぞ!』
「でも……! このままじゃ……千代ちゃんは、ずっとこの炎の中で一人きりだよ!!」
夢月は影の手を振り払い、膝を突きながらも前へ手を伸ばした。
目の前で冷たく嗤う母親の幻影は、すでに炎の中に消え去っていた。千代の周りには誰もいない。抱きしめてくれる者も、名前を呼んでくれる者も、誰一人として。
あるのは、自分が愛されるために奪い取った、無価値な「目」の山だけだった。
「千代ちゃん……!」
夢月は力を振り絞り、踏み出した。
一歩、また一歩。
炎が肌を焼き、影の手が身体を切り裂く。激痛に意識が飛びそうになりながらも、夢月はめとり姫との距離を詰めていく。
「こないで……千代の……左目を……かえして……!」
めとり姫が叫ぶ。その周囲で妖気が爆発し、黒い突風が夢月を押し戻そうとする。
だが、夢月はその風に抗い、ついにめとり姫の目の前までたどり着いた。
そして――。
――ガシッ。
夢月は、その華奢で冷たい少女の身体を、狂おしいほど強く抱きしめた。
「……ッ!?」
めとり姫の動きが止まった。
黒い炎が夢月の身体を焼き、激痛が背中を突き抜ける。けれど、夢月は絶対に腕を緩めなかった。夢月の温かい体温が、血に濡れた千代の身体へと伝わっていく。
「痛かったよね……寂しかったよね……!」
夢月は千代の頭を抱え込み、必死に声を振り絞った。
「お母さんに笑ってほしかっただけなのに……大好きだよって、抱きしめてほしかっただけなのに……! どうして……どうしてこんな風にならなきゃいけなかったの……!」
「……なに……? あつい……なんなの……?」
めとり姫の掠れた声に、戸惑いが混ざる。
夢月の瞳から溢れ出た温かな涙が、千代の冷たい頬にボタボタとこぼれ落ちた。
「千代ちゃん……あなたは悪い子じゃないよ。良い子にしようって、一生懸命頑張ってたの、私知ってるよ……!」
夢月の指先が、千代の背中を、髪を、優しく撫で下ろす。
それは、かつて幼い千代が、どれほど望んでも得られなかった母親の「体温」だった。
千代の身体が、ビクッと激しく震えた。
「お母様……? ちよを……だきしめて……くれてるの……?」
「千代ちゃん……!」
「ちよ……いい子にしてたよ……? お花も……摘んできたよ……? だから……千代のこと……嫌いにならないで……」
歪んだ怪物の言葉ではない。
そこにあったのは、壊れてしまった幼い少女の、痛々しいほどの悲鳴だった。
千代の残された右目から、血ではなく、透明な本物の涙が溢れ出す。
その瞬間、千代の身体を覆っていた漆黒の狂気が、さあっと引いていくように薄れていった。黒く染まっていた着物が元の色を取り戻し、伸び切っていた爪が消えていく。
だが――。
『夢月、離れろ!! 世界が崩壊する!!』
珠吉の緊迫した叫びが響いた。
千代の心が救われかけたことで、この過去の記憶で形成されていた精神世界そのものが限界を迎えたのだ。
ミシリ、と音を立てて天井が崩れ落ち、周囲の炎が白い光となって弾け飛ぶ。空間がバリバリと音を立てて亀裂を生み出し、夢月たちを飲み込もうと渦を巻いた。
「千代ちゃん……っ!」
「お姉ちゃん……温かいね……」
光の中に消えかけていく千代が、ふっと柔らかく微笑んだ。
それは、あの荒れた庭の木の根元で、一生懸命に作る練習をしていた、あどけない少女の笑顔だった。
「千代の……綺麗な目……あげるね……」
「え……?」
千代がそっと伸ばした指先が、夢月の左目に触れた。
一瞬、温かな光が夢月の視界を包み込み――次の瞬間、天地が激しくひっくり返った。
「……っハッ……!?」
夢月は弾かれたように跳び起き、激しく息を吐き出した。
冷たく硬い感触。鼻を突くのは、古い木や血の匂いではなく、湿ったコンクリートと埃の匂いだった。
そこは、さっきまで自分たちがいた、現代の廃ビルの室内だった。
「ハァ……ハァ……っ!」
夢月は荒い息を吐きながら、自分の胸元や腕を確かめた。傷はない。炎に焼かれた感覚も、影に引き裂かれた痛みも消えていた。ただ、激しい疲労感だけが全身にズシリと重くのしかかっている。
「夢月! おい、夢月! 無事か!?」
黒い毛並みを逆立てた珠吉が、心配そうに顔を覗き込んできた。二股のしっぽが不安そうにパタパタと揺れている。
「珠吉……私……戻って……きたの?」
『ああ……間一髪だったぜ。あいつの精神世界が弾け飛ぶ寸前で、俺がなんとかお前の魂を引っ張り戻したんだ。まったく、無茶しやがって……!』
珠吉はほっと安堵の息をついたものの、すぐに険しい表情で部屋の中央へと視線を向けた。
『……だが、まだ終わっちゃいねぇみたいだぞ』
「え……?」
夢月がハッとして視線を巡らせる。
廃ビルの暗がりの中央。
そこに、ゆらりと立つ影があった。
――めとり姫だ。
しかし、記憶の世界へ踏み込む前のあの刺すような凶悪な殺気は、嘘のように消えていた。
めとり姫は黒い足枷を嵌められたまま、どこか呆然とした様子で立ち尽くし、自分の手を見つめている。
「千代ちゃん……?」
夢月が膝を抱えながら、そっと声をかけた。
めとり姫がゆっくりと顔を上げた。
その時、風もないのに、彼女の左目を覆っていた白い帯状の布が、はらりと解け落ちた。
「あ……」
夢月は息を呑んだ。
布の下にあったのは、空洞でも、潰れた血の痕でもない。
そこには、まるで澄み渡った秋の空のように美しく、温かな光を宿した、綺麗な琥珀色の左目があった。
「目が……」
『……ふん。お前があの狂気の世界で命がけで抱きしめたからな。あいつの中に眠っていた『千代』としての心が、一瞬だけ怪異の呪いを打ち破ったんだろ』
珠吉がどこか悔しそうに、けれど少しだけ誇らしげに鼻を鳴らした。
めとり姫は、新しく宿った己の左目にそっと指先で触れた。
そして、じっと夢月を見つめると、言葉を発することなく、小さく、深々と頭を下げた。
その表情には、もはや人間の目を奪う怪物としての恐ろしさは微塵もなく、ただどこか切なく、感謝を捧げる一人の少女の面影があった。
「千代ちゃん……」
夢月が手を伸ばしかけた瞬間、めとり姫の身体がさらさらと淡い光の粒となって崩れ始め、廃ビルの闇の中へと溶けていく。
「待って……!」
『追うな、夢月。逃げられたわけじゃねぇ』
珠吉が夢月の足元に寄り添い、静かに言った。
『あいつは、自分の中の狂気と執着を抑えきれなくなって、一時的に退いたんだ。……お前が与えた体温に、戸惑っているのさ』
夢月は力なく自分の両手を見つめた。
記憶の世界で千代を抱きしめた時の、あの儚く冷たい身体の感触。そして、最後の笑顔。
「……珠吉。私、千代ちゃんを救いたい」
夢月の声は小さかったが、そこには確かな強い意志が宿っていた。
「あの子は……ただ愛されたかっただけなんだよ。お母さんに笑ってほしかっただけなんだよ。それなのに、こんな悲しい妖怪になっちゃうなんて、あまりにも残酷すぎるよ……」
『……分かってるよ』
珠吉はふっと息を漏らし、二股のしっぽを揺らしながら夢月の肩へと飛び乗った。
『だがな、夢月。次にあいつと対峙する時は、こんな生ぬるい過去の追体験じゃ済まねぇぞ。千代の心を取り戻しかけた反動で、めとり姫の核にある百年の怨念が暴走するはずだ。本物の『退治』か『救済』か……お前にその覚悟はあるか?』
「あるよ」
夢月は腕で涙を拭い、力強く立ち上がった。
「千代ちゃんの本当の願い、私が絶対に叶えてあげる。もう二度と、あの子を一人で泣かせたりしない」
廃ビルの窓から、うっすらと夜明けの光が差し込み始めていた。
暗闇を照らすその光を背に受けながら、夢月と珠吉は、決意を新たに踏み出したのだった。




