↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
おいでませ夢幻喫茶へ  作者: 榊原蓮華草
現し世の間、見透かす目
PR
38/44

目取り姫・4







 お母様、お母様。


 今日はお裁縫をしてみたのです。お母様がくださった手拭いに、名前を入れてみました。



 まあ、とっても上手に縫ったのねぇ。



 あの頃のお母様は、そう言って何度も私の頭を撫でてくれた。


 

 でも、あの頃から、お母様の中の私は“悪魔”でしかなかったのだと。


 幼く愚かな私は気づいていなかった。






 ――ドサッ。


「っ……!」


 一瞬の浮遊感の後、夢月の身体が硬い板張りへと落ちた。

 空間がグニャリと歪み、世界の境界線が溶け落ちていくような不快な感覚。感覚が現実へと戻された瞬間の衝撃に備え、夢月は全身の筋肉を硬直させて身を竦めた。


「痛っ!」


 硬く目を閉じ、全身を打ち付けるような鋭い痛みを待つ。

 だが、待てども待てども、冷たく硬い床に身体が激突する悲鳴のような激痛はやってこなかった。

 代わりに、衝撃を受け止めるようにして夢月の腕を占めていたのは、生き物特有の温かな体温と、柔らかで密度のある毛並みの感触だった。


「……?」


 夢月はゆっくりと目を開け、身体を起こした。

 そこでようやく、自分の周囲を包み込む環境の異常な変化に気づく。

 頬を撫でて吹き抜ける風。そこに乗って届くのは、湿り気を帯びた古い木の香りと、何処か懐かしい青々とした草木の匂いだった。さっきまでの、あの息も詰まるような張り詰めた殺気と怪異の気配が嘘のように、辺りには穏やかで、けれど何処か寂しげな静寂が広がっていた。

 視線を巡らせた夢月は、思わず息を呑む。


「珠吉?」


 夢月の腕の中には、艶やかな黒い毛並みを持った一匹の猫又が丸まっていた。

 恐る恐るその背中に触れながら呼びかけると、黒い塊がフシュッと小さく鼻を鳴らし、二股に分かれた特徴的なしっぽを不機嫌そうにゆらりと揺らす。

 ぎゅっと抱き締めたその身体からは、トックン、トックンと確かで力強い鼓動と、生き生きとした体温が指先を通じて伝わってきた。


「珠吉、大丈夫? 怪我はない?」

『……うるさい。大丈夫だ』


 珠吉は夢月の腕の中から顔だけをひょっこりと出すと、眩しそうに琥珀色の目を細めた。長いまつ毛に縁取られたその瞳は、昼なお暗い影を宿している。


『ったく……また妙な術に巻き込まれて、遠くまで飛ばされたか』

「また……?」

『見てみろ。また知らぬ場所にいるだろうが。現実の気配じゃねえ』


 夢月が視線を上げると、目の前に広がっていたのは見知らぬ古い大屋敷だった。

 知らぬ内に腰を下ろしているのは、幾人もの拭き掃除によって鏡のように磨き上げられた長い縁側。その向こうには、計算し尽くされた配置の岩や庭木が配置された広い庭園があり、風に揺れる木々の葉がさらさらと澄んだ音を立てて鳴っている。


 現代の住宅とは明らかに構造が違う。

 庭の隅に置かれた、長い年月を感じさせる苔むした石灯籠。屋敷を支える重厚な木の柱の造り。職人の業が光る古風な障子や欄間。そして、何処か遠くから、微かに聞こえてくる屋敷の奉公人らしき人々の気配。


「誰か……いるの?」


 夢月が不安に押し潰されそうになりながら立ち上がろうとすると、膝の上にいた珠吉がその腕を制するように、小さな肉球で力強く押さえた。


『待て』

「え?」

『下手に動くな。まだ状況が掴めてねぇ』


 珍しく、珠吉の声は低く重かった。いつもの揶揄うような軽さは欠片もない。

 夢月はその真剣な言葉に従い、もう一度息を殺して周囲を見回す。

 けれど、不思議なことに、自分達を襲ってきた「めとり姫」のあの激しい憎悪や、怪異特有の禍々しいどろどろとした気配は何処にも存在しなかった。あの恐ろしいめとり姫の姿も、跡形もなく消えている。


「なんだろう……すごく静かなのに」


 それでも、胸の奥が妙にざわついていた。ザラザラとした胸騒ぎが、波のように寄せては返している。

 初めて足を踏み入れたはずの場所なのに。この古い木の匂い、風の渡る音、そして皮膚にへばり付くような独特の空気感を、何故か自分は「知っている」ような気がしてならない。


「珠吉、ここって一体何処なの?」

『おそらく、あいつの記憶の中だ』

「めとり姫の?」

『ああ』


 珠吉は庭の奥、遠くの影を凝視するように見つめた。琥珀色の瞳の中央にある瞳孔が、縦に鋭く細まる。


『さっきの話を聞いていれば分かるだろう。あの妖がどうして生まてしまったのか――その答えは、あいつがまだ人間だった頃の時間にあるはずだ』


 夢月は言葉を失い、黙り込んだ。

 めとり姫。八雲の妖を映す目を奪い取った恐ろしい妖。けれど、その底知れぬ狂気と哀愁の裏に隠された、悲しい正体――。


「……千代ちゃん」


 夢月がぽつりと、掠れた声でその名を呟いた、まさにその瞬間だった。


「――お母様!」


 庭の向こう、眩しい日差しが落ちる樹木の影から、鈴を転がすような幼い少女の高い声が響き渡った。

 夢月が弾かれたように振り返る。

 

 そこにいたのは――まだ恐ろしい妖などではなく、一人の小さな少女だった。


 華奢で小さな身体に、上質な絹で織られた仕立ての良い着物。そして、たったひとつだけ残された右目をキラキラと宝石のように輝かせて、無邪気に笑う少女。


「……あの子が……千代ちゃん……」


 そんな少女の無垢な姿を目にした夢月は、息を吸い込むことすら忘れて立ち尽くした。

 千代。めとり姫という怪物になる前の、ただの寂しがり屋な女の子。

 千代は嬉しそうに草踏む音を立てて庭を駆けていく。その可憐な表情には、何の疑いも抱いていない、屈託のない純粋な笑顔が咲き誇っていた。


「お母様!  今日ね――!」


 千代の声が、屋敷の奥へと遠ざかり、消えていく。夢月はその小さく、あまりにも儚げな背中をじっと見つめ続けた。


 次の瞬間――どくっと、胸が痛いほどの跳躍を見せ、夢月自身のものとは明らかに違う、ドロリとした鮮烈な感情の奔流が、直接心の中に流れ込んできた。


 嬉しい。

 楽しい。

 お母様が大好き。

 もっと見てほしい。

 そして――何よりも、お母様に、笑ってほしい。


「……っ、ふ……あっ……!」


 あまりにも密度の高い感情の重さに押し潰されそうになり、夢月は胸元を力強く掻き毟るように押さえた。視界がグラリと揺れる。


「今の……なに……?」

『千代の感情だ。残り香みたいなもんだがな』


 夢月は胸元を小さく押し開けるようにして、肩を揺らしながら深く息を吐き出した。

 喉の奥がキュッと引き攣り、目頭が熱く焼けるように痛む。

 たった今、自分の胸を激しく叩いたのは、母親を愛してやまない幼い少女の、狂おしいほどの情熱と熱量だった。

 あまりにも純粋で、あまりにも切ない想い。それが自分自身のものではないと頭では分かっていても、動揺で膝と声が激しく震えてしまう。


 そんな夢月の青ざめた顔を、珠吉は琥珀色の瞳でじっと見上げた。

 その静かな瞳には、いつものように夢月を揶揄う色も、おちゃらけた態度も一切なかった。


『ここは、ただ過去の出来事を映画みたいに見せられる場所ではない。あいつの記憶と心が強固に直結している、精神の世界そのものだ』

「記憶と……心……」

『ああ。生半可な気持ちで入れば、あいつの感情に呑み込まれて正気を失うぞ』


 夢月の腕の中から身を起こし、珠吉は真剣な眼差しで夢月を射抜くように見つめた。


『だから、目を逸らすな。どんなに辛くても、最後まで見届けろ。それが、あいつと向き合うということだ』


 夢月は一度固く目を閉じ、深呼吸をしてから、再び奥へ消えていった千代の残像へと視線を向けた。

 幼い千代は、ひたすら母親の幻影を追いかけて駆けていく。その瞳に宿っていたのは、あまりにも純粋で、あまりにも小さなたったひとつの願い。


 ――大好きなお母さんに、笑ってほしい。


 そのあまりにささやかで、けれど深く重すぎる願いが、やがて一人の少女の運命を狂わせ、恐ろしい妖へと変貌させていくことになる。

 まだ、この時の千代は何も知らなかった。

 自分の純粋な願いが、やがて自分自身と周りの全てを破滅させる悪夢のような「執着」へと変わってしまうことを。


(最後まで、見届けるって⋯⋯)


 夢月は、磨き上げられた縁側からゆっくりと立ち上がった。

 脚が微かに震えていたが、ギュッと拳を握り締めて力を込める。目の前では、小さな着物姿の千代が、パタパタと軽快な足音を廊下に響かせながら、屋敷の奥へと向かって駆けていく。


「待って、千代ちゃん!」


 夢月は思わず手を伸ばし、声を張り上げた。

 だが、伸ばした指先は虚しく空気を切り裂くだけで、触れ触れられる感触はない。夢月の声も、まるで厚いガラス越しであるかのように千代には届かず、しんと冷え切った空間に消えていった。


「……聞こえて、ないんだよね?」

『当然だ』


 珠吉が縁側から、音もなくしなやかな動作で飛び降りた。着地した足音すら聞こえない。


『ここは過ぎ去った過去の記憶の断片だ。あいつにとって、今の我等は存在しない幽霊みたいなものなのだからな。干渉はできん」

「でも……こんなに近くに見えるのに」

『触れることもできなきゃ、言葉を届けて助けてやることもできない。我等に許されてるのは、ただそこで起きたことを見届ける監視者になることだけだ』


 珠吉は猫目を細め、静まり返った屋敷の薄暗い奥を見つめた。


『……まあ、『普通の記憶』なら、の話だがな』

「普通じゃないの?」


 珠吉の含みのある言い方に、夢月は胸のざわつきを覚えた。だが、珠吉はそれ以上答えず、ただ先を急ぐように歩き出す。立ち止まっている暇はない。夢月は千代の小さな背中を追いかけて、素足のまま屋敷の冷たい板張りへと足を踏み入れた。


 ひんやりとした古木独特の匂いと、冷ややかな空気が皮膚を刺す。外の庭園には暖かな陽光が降り注いでいるというのに、一歩屋敷の中へ踏み込むと、まるで時間を止められた墓場のように薄暗く、しんと静まり返っていた。廊下の角を曲がるたびに、影が濃くなっていくような錯覚を覚える。


「お母様!」


 廊下の先から、幼い少女の弾んだ声が聞こえてきた。夢月と珠吉は足音を殺し、その声を頼りに静かに廊下を進んだ。

 やがて、幾重にも重なる部屋の一つ、障子が少しだけ開け放たれた部屋の前で千代が足を止めた。


「お母様、今日ね――!」


 千代は嬉しそうに声を弾ませながら、部屋の中へと踏み込んでいく。

 夢月は障子の隙間から、そっと中の様子を覗き込んだ。


 部屋の奥、上等な畳の上に一人の女性が座していた。

 千代の母親だ。

 艶やかな漆黒の髪を綺麗に結い上げ、職人の手による素晴らしい柄の入った上質な着物を纏った美しい女性。誰もが思わず見惚れてしまうような気品と整った顔立ちを持っていた。

 けれど、その顔には血通う生気が感じられず、何処か疲れ切ったような、冷ややかな陰りが表情全体にこびりついていた。まるで精巧に作られた人形のようだった。


「……何?」


 母親の声は、感情の起伏が削ぎ落とされたように低く、冷たかった。


「今日ね、お庭にすっごく綺麗なお花が咲いていたの!  お母様にも見せてあげようと思って――」


 千代は無邪気な笑顔をいっぱいに咲かせ、小さな両手を前へと突き出した。その小さな掌の中には、さっき庭で摘んできたばかりと思われる、鮮やかな赤い野の花が大切そうに握られていた。茎の端からは、千代が一生懸命に摘んだことを物語るように、小さな泥がついていた。


「……そう」


 母親の返答は、あまりにも短く、素っ気ないものだった。


「お母様、綺麗でしょう?  お部屋に飾ろうか?」

「ええ」

「本当に?  綺麗?」

「……ええ。綺麗よ」


 まるで決まりきった台詞を淡々と口にするかのような棒読み。そして恐ろしいことに、母親の視線は千代が差し出した赤い花にも、千代自身の顔にも、一度として向けられることはなかった。虚空の一点を見つめたまま、ただ唇だけを動かしている。


 千代の顔から、パッと咲いていた屈託のない笑顔が、少しずつ萎んでいく。差し出された手が、悲しげに微かに震え始めた。


「……お母様」

「何?」

「……笑って?」

「え?」

「お花、こんなに綺麗だから……千代もね、ほら、こうやって笑ってるよ?」


 千代は必死になって自分の両頬を指で押し上げ、不自然なほどの笑顔を作ってみせた。大好きなお母さんに笑ってほしい。ただその一心で、幼い少女は懸命に訴える。


 だが、母親は答えない。

 部屋の中に、針を落としても聞こえるほどの重苦しい沈黙が流れる。

 千代の痛々しいほどの視線に耐えかねたように、母親はようやく、ゆっくりと首を動かして千代の方へと視線を送った。


 だが。母親の視線は、千代の顔の左側、その一点でぴたりと止まった。


 そこにあるはずの左目がない。ぽっかりと空いた、痛々しい肌の輪郭と、それを覆う痛々しい布。

 その視線が触れた瞬間、母親の瞳にぎょっとした激しい嫌悪と、恐れ、そして拒絶の色が走った。母親はまるで汚いものや忌まわしい怪物でも目にしたかのように、弾かれた動作で即座に視線を明後日の方向へと逸らした。


「……もういいでしょう」

「お母様?」

「部屋に戻りなさい」

「でも、お花……せっかく摘んできたのに……」

「千代!」


 ピシャリと、部屋の空気を切り裂くような鋭く冷酷な声が飛んだ。明確な拒絶と憎悪が混ざり合った声だった。


「言うことを聞きなさい。あっちへ行きなさいと言っているのよ」


 千代は小さな身体をびくっと竦ませ、手に持っていた赤い花をギュッと握り潰してしまった。そして、力なくぽつりと俯く。


「はい。ごめんなさい」


 消え入りそうな小さな声を残し、千代は深々とお辞儀をすると、小さな背中を丸めて逃げるように部屋を立ち去っていった。


 夢月はその痛々しすぎる光景を、ただ唇を噛み締めながら見送るしかなかった。


「珠吉」

『何だ』

「今の……どうして、あんな言い方をするんだろう」

『ああ』


 珠吉は重々しく首を振った。その顔は険しい。


『あの母親は、千代の失われた左目を見たくないのだろう。自分の産んだ娘に『欠陥』があるという現実が耐えられないのか……それとも、自分の生んだ子に対する罪悪感から逃げたいのか。どちらにせよ、あの子の存在そのものを拒絶している』

「そんな……ひどすぎるよ!  千代ちゃんは、ただお母様に笑ってほしくて……抱き締めてほしくて頑張っていたのに!」

『だからタチが悪いんだ』


 珠吉の声が、底意地の悪い暗闇のように低く沈む。


『幼い子供というのは、親に愛されない理由や拒絶された理由を、全部『自分が悪い子だからだ』と自分の中に探そうとする。あの母親の冷酷な態度が、どれだけあの子の心を歪めて苛んできたか……考えただけで反吐が出るぞ』


 二人は、トボトボと歩く千代の後を静かに追った。

 千代は廊下の曲がり角、日が届かない薄暗い壁際まで来ると、その場に崩れ落ちるようにして蹲まった。小さな膝を抱え込み、着物の袖で顔を覆う。


「……どうして?」


 小さく、掠れた声が聞こえてくる。誰に届くでもない、悲痛な問いかけ。


「千代……悪い子じゃないよ……。お話もちゃんと聞くし……お掃除もお手伝いするよ……だから……」


 千代の肩が激しく揺れる。

 ポロポロと大きな涙の粒が溢れ出し、冷たい廊下の板張りに落ちては、丸い黒い染みを作っていく。


 胸が、万力で締め付けられるように痛んだ気がして、夢月は自分の胸を強く押さえた。


 その時だった。泣きじゃくる千代のすぐ後ろ、影が溜まる廊下の闇から、ぬっと不自然な黒い影が這い出てきた。


「……え?」


 それは人間でも、動物の影でもなかった。

 関節が幾重にも折れ曲がったような不気味な脚を持ち、ぬらぬらと黒く光る、歪んだ異形の存在。影は音もなく、蠢きながら廊下の奥へと消えていく。


「珠吉、今……今のみえた……!?」

『ああ。見えた』

「あれって」

「妖だ。この屋敷、ただの屋敷ではないらしいな。薄暗い怨念と怪異の気配がどろどろに湧いてるではないか』


 珠吉が猫目を極限まで細め、低く唸った。

 千代は袖で乱暴に涙を拭うと、去っていく黒い影を、まるで感情が抜け落ちてしまったかのようなぼんやりとした目で見送っていた。


「……お母様には、見えないんだ」


 ぽつりと、千代が呟く。


 そう、千代には「見えていた」のだ。幼い頃から、普通の人々には見えない、この世ならざる異形たちの姿が。


 よく見れば、屋敷のあちこちに異変が存在していた。

 廊下の隅、天井の梁の陰にこびり付く、ドロドロとした黒い泥のような影。

 暗がりからこちらをじっと見つめている、幾つもの不気味な眼球の群れ。

 庭の木々にへばり付き、じっと屋敷の中を伺っている、人の形をした化け物たち。


 千代はそれらの恐ろしい異形達を怖がる様子もなく、まるで散歩途中の野良犬でも見るかのように、淡々と見つめていた。


「こんにちは」


 千代は蹲まったまま、ぽつんと小さな手を振ってみせる。

 当然、異形達が言葉を返すことはない。ただ不気味に蠢き、闇の中へと消えていくだけだ。


「変なの。皆、お話してくれない」


 千代は力なく立ち上がると、フラフラとした足取りで歩き出した。

 夢月と珠吉は、その小さな背中の後ろをついて行く。


 千代が向かったのは、屋敷の裏手にある、手入れの行き届いていない荒れた小さな庭だった。

 そこには、長年の風雨で崩れかけた苔むした石灯籠と、立派な幹を持つ大きな百日紅(さるすべり)の木が一本だけ佇んでいた。

 千代は木の根元にちょこんと腰を下ろすと、再び小さく膝を抱え、木の隙間から見える灰色の空を見上げた。


「ここなら、お母様に『あっちへ行きなさい』って怒られない」


 寂しげで、諦めに満ちた呟き。そして――。


「……千代に、左目があったら」


 夢月の足が、ピタリと止まった。


「千代に、両目があったら……お母様、笑ってくれるのかな。千代のこと、見てくれるのかな」

「……っ!」


 ドクン!  と激しい鼓動が鳴り響き、またしても千代の感情の渦が、津波となって夢月の精神に直接流れ込んできた。


 寂しい。

 悲しい。

 冷たい。

 怖い。

 お母様に抱き締めてほしい。

 ただ頭を撫でて、「千代、大好きだよ」って笑ってほしいだけなのに。

 どうして私には、目がないの?

 どうして私だけ、壊れているの?


「千代ちゃん……!」


 夢月は耐えきれなくなり、叫ぶようにその名を呼んだ。

 すると、まるでその叫びが空間を越えて届いたかのように、千代がハッとしてこちらを振り返った。


「…………?」


 一瞬、真っ直ぐに千代の右目と夢月の目が交差した気がした。

 けれど、千代にはやはり何も見えていないようで。千代はすぐに興味を失ったように小さく首を傾げると、自分の失われた左目ではなく、残された唯一の「右目」を、愛おしそうにそっと指先で撫でた。


「この目が……もう一つあったら……お母様は、千代を好きになってくれるのかな」


 その言葉を聞いた瞬間。


 ――ぞくり。


 夢月の背筋を、氷の刃で撫で上げられたかのような恐ろしい悪寒が走り抜けた。

 身体の毛穴という毛穴が開き、寒気が止まらない。

 隣にいた珠吉の表情も一変し、全身の黒い毛が逆立った。


『ここからだ』

「え……?」

「『めとり姫』という恐ろしい怪物が産声を上げたのは……きっと、この瞬間からだ」


 珠吉が鋭い爪をシャキッと伸ばし、屋敷の奥を狂暴な眼差しで睨みつける。

 その視線の先――さっきまで続いていたはずの廊下の奥に、どろどろとした底なしの漆黒の暗闇が広がっていた。


 さっきまで存在しなかったはずの狂気的な妖気が、うねりを上げて充満し、夢月たちを引きずり込もうと渦を巻いている。


『覚悟を決めろ。行くぞ』


 千代はまだ木の下で、自分の右目を撫でながらぽつんと座っている。

 夢月達は悲しい少女をその場に残し、黒く渦巻く過去の深淵、そして「めとり姫」の狂気の根源へと足を踏み入れ直したのだった。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。