目取り姫・3
めとり姫は、既に目前にまで迫っていた。
鼻腔を突くのは、古びた社や湿った土を思わせる、冷ややかな怪異の匂い。息遣いすら聞こえそうな距離に、その異形はいた。
幼い童女の顔が、目の前にある。
けれど、その輪郭に浮かんでいるのは子供らしい無邪気さなどでは断じてなかった。生気のない肌、表情を一切落とした顔。ただ、ぽっかりと黒い洞のように空いた左目で、じっと夢月を見つめている。
『め……ちょーだい?』
幼さと不気味さが不協和音を奏でるその声を聞いた瞬間――夢月の身体が、恐怖を振り払うように勝手に動いた。
「――っ!」
目取り姫の華奢な両肩を掴み、夢月は全身の体重をかけて勢いよく後ろへ引き剥がそうとする。ぐっ、と腕に力骨を浮かべた。
――重い。
「え……?」
動かない。
まるで大地に深く根を張った大樹か、巨大な岩石でも相手にしているかのように、幼い少女の身体は微動だにしなかった。
めとり姫の細い腕。
着物に埋もれた小さな肩。
その華奢な姿の何処からこれほど絶望的な質量と筋力が出ているのか、到底解らない。夢月は奥歯が痛むほど歯を食いしばり、さらに全身の力を腕へ注ぎ込んだ。
「くっ……!」
力任せの引き剥がしに、ようやく、ほんの数センチだけ目取り姫の身体が傾いた。
その瞬間、めとり姫の顔が首だけを凝然と夢月へ向けた。
表情はない。だが、左目の欠落した暗がりから、冷徹で底知れない「何か」が夢月の存在そのものを品定めするように見つめていた。
ぞわり、と冷たい手で背骨をなぞられたかのように背筋が粟立つ。
――この子は、普通じゃない。
言葉として、知識としては分かっていたはずだった。
けれど、実際にその異常な力に触れ、生身で圧迫されたことで、その事実が冷徹な現実となって脳裏に突き刺さる。
めとり姫の腕が、鬱陶しそうに夢月の拘束を振り払おうと動いた。
「っ!」
死線を感じ取った夢月は、反射的に手を離して後方へ身を躍らせた。
次の瞬間、めとり姫の小さな手が夢月のいた空間を真空を断ち切る音と共に空振った。ブワッと巻き起こった強い風圧だけで、夢月の前髪が激しく揺れ、頬に痛みが走る。
「……今の、当たってたら……」
言葉が喉の奥で引き千切れた。掠めただけでも骨が砕け飛んでいただろう。
避けられたのは、ただの奇跡に過ぎない。夢月が特別、武術や体術に長けているわけではなかった。極限状態の生存本能が身体を弾き飛ばしただけだ。
それほどの致命的な一撃を放っておきながら、めとり姫は呼吸ひとつ乱さず、まるで何事もなかったかのように静かに夢月を見つめ直している。
幼女だから。
小さな子供だから。
哀れな犠牲者だから。
甘い先入観と憐憫が、暴力的な現実の前に一瞬で霧散した。
この子を、普通の子供だと思ってはいけない。一歩間違えれば死ぬ。
夢月が戦慄しながら一歩後ろへ下がった、その時だった。
激しい動きに煽られ、制服のポケットから何かがひらりと滑り落ちた。
「あ……」
薄暗い床へ落ちたのは、一枚の薄い和紙。
丁寧に烏の形に折り切られた、あの紙切れだった。
「八咫烏!!!!!」
夢月の肩の上で、珠吉が張り裂けんばかりの声で叫ぶ。
その言霊に応じるように、床に転がっていた和紙が突然、命を得たかのように激しく躍動し始めた。
バサッ! バサッ!
硬質で重厚な羽ばたき。まるで本物の猛禽が鳥篭を破ろうとするかのように、紙の翼が何度も強く空間を打ち据える。
「え、ちょっと……!」
夢月が目を見張る間にも、紙片は浮力を得て宙へ高く舞い上がった。幾重もの黒い妖気が紙を包み込み、白い和紙は瞬く間に濡れたような漆黒の羽毛を持つ大烏へとその姿を変えていく。
鋭い眼光。圧倒的な神気。
八咫烏は一声高く鳴き叫ぶと、めとり姫へ向かって弾丸の如き速度で一直線に突進した。
『八咫烏……』
めとり姫が初めて、感情の混じった驚きの声を漏らした。
黒き神鳥がその頭上を、凄まじい風切り音と共に疾風のごとく旋回し、威嚇の爪を突き出す。めとり姫の視線が上空へ引きつけられたその一瞬の隙を見逃さず、夢月は死力を尽くして後方へ飛び、めとり姫との間合いを大きく広げた。
激しい運動に息を乱す夢月の肩へ、珠吉が再びしがみ付くように飛び乗る。
『次からは、もっと付喪神を束で連れてくるべきだな……! 命がいくつあっても足りんぞ!』
「……ごもっとも……っ」
夢月は荒い息を吐き出しながら、苦い笑いを浮かべた。
できることなら、こんな恐ろしい異界には二度と足を踏み入れたくなどない。だから「次」が存在すること自体、考えたくもなかった。
けれど、逃げ場のないこの空間で生き残り、八雲を取り戻すためには、今目の前の脅威に全神経を注ぎ込むしかないのだ。
夢月は強く視線を固定し、目取り姫を見据えた。
幼い。
華奢で、小さい。
けれど、二度と油断はしない。目の前の存在が見た目通りの無垢な子供などではなく、人を容易く噛み殺せる「妖」であることを、身をもって理解したのだから。
それでも、恐怖で引き攣る胸の奥で、夢月にはどうしても譲れない意地と願いがあった。
「八雲君の目を……返して!」
腹の底から、鋭く強い拒絶の声を放った。
その言葉が空間を打った瞬間、反応するようにめとり姫の小さく華奢な身体が僅かに、びくっと震えた。
夢月の頭上では、八咫烏が巨大な黒翼を広げたまま、いつでも襲いかかれる姿勢で滑空している。めとり姫は地面に伏せたまま、膝を抱えるような姿勢で夢月を見上げていた。
先ほどの圧倒的な威圧感が嘘のように、その顔に浮かんでいたのは、今にも崩れ落ちて泣き出しそうな――幼子の表情だった。
『ひ、ひめ……』
小さな肩が、悲痛なリズムで震え始める。
『ひめは……ただ……信じて欲しかっただけなの……!!』
それは、腹の底からの絶叫だった。
悲鳴とも、呪詛ともつかない幼子の叫びが世界に響き渡った、まさにその瞬間だった。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!
「……え!?」
世界そのものが、鳴動した。
最初は足裏を小さく震わせる程度の揺れだった。けれど、数秒でそれは立っていることすら不可能な大地震へと変貌する。激しい上下動に、夢月の膝がガクガクと砕けそうになる。
「な、なに……これ……っ!?」
『しっかり足を踏ん張れ!』
珠吉が夢月の制服の襟ぐりにしがみ付き、爪を立てる。
地面がまるで生き物のように大きく波打ち、歪んでいく。壁もない。天井もない。無限に広がる異界の空間そのものが、絶叫を上げるように重い軋み声を上げていた。
――ピシッ……!
「……っ!?」
夢月の目と鼻の先、何もない空中に、太い一本の「亀裂」が走った。
あたかも、世界を映し出していた透明で巨大な鏡が、不可視のハンマーで叩き割られたかのように。
一本。
また一本。
幾重にも枝分かれしながら、空間のヒビ割れが黒い蜘蛛の巣となって広がっていく。
『ここはめとり姫の心象が創り出した『めとり姫の世界』だ!』
珠吉が風音に負けじと低い声を張り上げた。
『主であるめとり姫の感情が激昂し、取り乱せば、世界そのものの基盤が揺らぎ、崩壊する!』
「そんな……じゃあ、このままだと……!」
世界が崩れる。そして崩壊の渦に巻き込まれれば、自分も八雲の目も、二度と現実には戻れない。直感がそう警鐘を鳴らしていた。
足元が爆発するように揺れ、視界が歪む。八咫烏が羽ばたきながら、狂った風が吹き荒れる空間を必死に飛び回り、崩壊の波を食い止めようと黒い妖気を散らしている。
どうすればいい。
何をすれば、この子の暴走を止められる?
めとり姫を……ここで完全に倒す?
力を合わせて消滅させれば、この狂った揺れは収まるのか?
――本当に、それでいいの?
夢月は必死に視線を注ぎ、めとり姫を見た。
八雲の目を奪い、彼を絶望の淵に突き落とした恐ろしい妖。これ以上、好き勝手に暴れさせるわけにはいかない。絶対に目を奪い返さなければならない。
それなのに、猛吹雪のような空間の歪みの中で蹲っているのは、どう見ても傷つき、怯えたひとりの幼い少女だった。
泣いている。
激しく怒り、世界を壊すほどに怯えている。
そして何より――さっきからずっと、壊れたレコードのように同じ言葉を叫び続けている。
信じてほしい。
誰かに、自分を信じてほしい。
ただ、それだけを求めて泣いている。
「……でも」
前へ踏み出そうとした夢月の足が、重く金縛りに遭ったように止まった。
めとり姫の言葉を簡単に「信じる」なんて、できるはずがなかった。
八雲は今も、現実の世界で片目を奪われた痛みに耐え、己の存在に苦しんでいる。その原因と絶望を作った張本人は、間違いなく目の前にいるめとり姫なのだ。
それなのに、そんな存在に向かって「信じる」なんて、軽々しく口にしていいのだろうか。それは八雲に対する裏切りにならないだろうか。
夢月は爪が食い込むほど強く拳を握り締めた。
胸の中で、激しい矛盾が渦巻く。
めとり姫を許すこと。
そして、めとり姫の抱える叫びを信じること。
……その二つは、同じなのだろうか?
違う。
きっと、絶対に違う。
夢月が受け止めようとしているのは、めとり姫が犯した罪や奪った行為の正当性ではない。
めとり姫という一人の少女が、かつて人間だった頃からずっと胸の奥底に抱え続けてきた、あまりにも切実な「叫び」そのものだ。
誰かに信じてほしいと願ったこと。
母親に笑ってほしいと切望したこと。
孤独で、寂しくて、狂うほど苦しかったこと。
それら全てまでを「嘘」だと切り捨ててしまっては、あまりにも救いがないではないか。
「……っ」
けれど、それでも身体の芯が恐怖で凍りつく。
もし、これが全て罠で、騙されていたとしたら?
信じた隙を突かれ、めとり姫がさらに八雲を、あるいは自分を傷つけようとしたら?
夢月の心の中で、相反する感情が激しくぶつかり合い、火花を散らす。
その葛藤の間にも、世界の崩壊は容赦なく加速していた。
――ピシシッ……!!
また一つ、巨大な亀裂が空間を裂く。空間のヒビから刺すような冷気が吹き出し、足元の存在が希薄になっていく。立っているだけでも精神を削られるような極限状態。
『……夢月』
珠吉が低く、試すような、だが包み込むような声音で呟いた。
『お前自身の『心の揺らぎ』を止めろ。この妖を討つか、受け止めるか……決めるのはお前だ』
「私の……心……」
『めとり姫を倒すことだけが、解決ではないぞ』
夢月はもう一度、視線を極限まで落とし、めとり姫を見た。
世界の崩壊の中心で小さく丸まるその姿が、今はひどく儚く、小さく見えた。
さっきまで人を殺めかねない恐ろしい怪異にしか見えなかった存在。
けれど今は、ただ一人、暗闇の中で誰にも信じてもらえず、差し出される手を持たなかった孤独な少女に見える。
夢月は、荒れていた呼吸を整えるように、深く、重く冷たい空気を吸い込んだ。
そして――一歩、固い足取りで前へ踏み出した。
『お前っ! 何をする気だ!?』
珠吉の制止の声が聞こえる。けれど、夢月の足は止まらない。
一歩。
また一歩。
ガラス細工のように亀裂が走り、いつ砕け散ってもおかしくない空間の中を、夢月は真っ直ぐめとり姫へと近づいていく。
怖い。
恐怖で膝は震え、心臓は早鐘のように打っている。正直に言えば、今すぐ逃げ出したい。
それでも、絶対に足を止めなかった。
めとり姫の目の前、手を伸ばせば触れられる距離まで辿り着く。
そして夢月は、優しく、けれど力強い動作でゆっくりと地面にしゃがみ込んだ。目線を同じ高さに合わせる。
めとり姫の右目が、濡れたように揺れながら夢月の姿を映し出していた。
その瞳の奥にあるのは、冷酷な妖の殺意ではない。ただひたすらに「拒絶されること」「捨てられること」を恐れ抜いている、小さな子供の怯えそのものだった。
夢月の胸が、締め付けられるような激しい痛みを覚える。
「……私は」
声が震えた。口唇が引き攣り、一度言葉が喉につかえる。
――本当に、これを口にしてしまっていいの?
夢月はめとり姫の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。そして、遠くで苦しんでいる八雲の顔を思い浮かべる。
ここでめとり姫の想いを受け止めることは、八雲の苦しみを踏み躙ることではない。むしろ、八雲の囚われた過去と奪われた目を取り戻すためにも、この子の悲劇の根底にあるものを知らなければならないのだ。
だから、夢月は意志を込め、もう一度口を開いた。
「私は、貴方の言葉を信じる」
めとり姫の身体がピタリと止まり、ゆっくりと顔を上げた。
『……え……?』
「貴方が、私を試すために嘘を吐いているなんて思わない」
夢月は逃げずに、真っ直ぐにめとり姫の瞳を見つめ続ける。
「貴方が本当に、ただ誰かに信じてほしくて、苦しくて叫んでいたんだって……私は、そう思う」
めとり姫の小さな口が、呆然と僅かに開く。
夢月は一度深く息を吸うと、目を開けて微笑みを向けた。
『……しん、じる……? ひめを……?』
「うん」
夢月は、迷いなく深く頷いた。
「でも――」
強い拒絶を含んだその一言に、めとり姫が弾かれたように瞬きをする。
「貴方が八雲君の目を奪って、彼を傷つけたことまで『許す』って意味じゃない」
夢月は、毅然とした強い眼差しで、はっきりと言い放った。
「八雲君の目は返してもらう。それは絶対に譲らない」
信じることと、犯した罪を無かったことに許すことは、全く別のことだ。
だからこそ、夢月はめとり姫が抱えてきた孤独な気持ちそのものを決して否定しない。
「貴方の本当の気持ちを信じるからこそ……誤魔化さずに、ちゃんと私に話してほしい」
めとり姫は、夢月を見つめたまま固まっていた。
言葉の意味を、生まれて初めて触れた「信愛」の熱を噛み締めるかのように、しばらく何も言わない。
そして――ゴゴゴゴゴ……と激しく響いていた地鳴りの音が、波が引くように小さくなっていく。
空間を切り裂いていた亀裂の進行がピタリと止まり、割れた鏡のようなヒビが光の粒子となってゆっくりと消えていく。
狂ったように揺れていた世界が、穏やかな、静寂を取り戻していった。
めとり姫は、吸い寄せられるように夢月の顔を見つめ続けていた。
まるで、幾百年の孤独の中で、初めて「信じる」という言葉の本当の温もりを知ったかのように。
やがて、ふと目取り姫は視線を動かし、夢月の右肩に鎮座する存在へ目を向けた。
『……ねこまた』
『やれやれ、随分と豪快に暴れてくれたものだな』
珠吉が呆れたような、だが何処か柔らかい眼差しでめとり姫を見下ろした。
その一言に、めとり姫はバツが悪そうに小さな口をすぼめ、気まずそうに視線を横へ逸らす。
頭上を旋回していた八咫烏もまた、荒々しい神気を収め、夢月の左肩のすぐ近くへ静かに降り立ち、羽繕いをした。
先ほどまでの死と崩壊の空気が、嘘のように凪いでいく。
夢月は目の前のめとり姫を改めて見つめた。
ブランコから降りてからの立ち振る舞いには、何処か不自然なほど大人びた雰囲気が漂っている。
幼い顔立ち。
六歳にも満たないような、あまりにも華奢な身体。
その小さな身体には不釣り合いなほど、幾重にも重厚に重ねられた豪奢な着物。
それなのに、その瞳の奥には、幼子には決して宿るはずのない、遥か途方もない歳月をたった一人で生き抜いてきたような、深く暗い寂しさが沈んでいた。
しばらく黙り込んでいためとり姫は、やがて掠れた小さな声で、ぽつりと口を開いた。
『ひめが……人だった頃……』
夢月は言葉を挟まず、静かにただ耳を傾ける。
『生まれつき……左目が、なかったの』
そして、彼女は自分の右目を小さく指差した。
『でも、この右目には、人間には見えないものが見える変わった力があった』
――妖を見る目。
それが、めとり姫――かつて「千代」と呼ばれていた少女の人生を、残酷に狂わせた元凶だった。
生まれつき左目がないという異形。
その凄惨な事実は、小さな家庭の中だけに留まるはずもなかった。
忌み子だ。鬼の生まれ変わりだ。町の人々はひそひそと陰口を叩き、蔑みの視線を向けた。
普通ではない。あの子の近くにいると祟られる。
幼い千代には、周りの大人や子供達が自分に向ける冷たい視線の意味が、どうしても理解できなかった。
ただ、お母様に笑ってほしかった。
冷たい世間から隠すように自分を抱き締めてくれる、母親の温もりと愛が欲しかった。
けれど、母親の瞳には、千代の右目が捉えている異形の姿など何ひとつ映らない。
千代が「あそこに誰かいるの」「恐ろしい顔をした人が見ているの」と怯えて訴えるたびに、母親の顔からは生気が失せ、それを狂気と妄言だと決めつけて激しく叱責した。
そして、いつしか母親自身もまた、我が子の右目に宿る不可解な光そのものを、心底恐れるようになっていったのだ。
それでも、千代は母親を嫌いにはなれなかった。
どれほど気味悪がられても。
どれほど冷たい部屋に閉じ込められ、拒絶されても。
ただただ、かつて見せてくれた母の優しい笑顔が見たかった。
だから、幼い千代は、子供ゆえの純粋さと愚かさで、必死に考え抜いたのだ。
――左目があれば。
――私に、皆と同じ「左目」さえあれば、お母様はきっと、もう一度優しく笑って私を抱き締めてくれる。
それが、少女の人間性を奪い、狂気の怪異へと変貌させる、長く深い悲劇の始まりだった。
❁
千代がめとり姫へと堕ちた夜は、それはそれは寒いものだった。
――きっと、美しい子になるわ。
遠い、遠い記憶の底。
いつの日か、温かな陽だまりの中で母が千代に向けてくれた、優しく穏やかな言葉。
それは千代の短い人生においてあまりにも短く、数えるほどしかなかった幸福の破片。
だからこそ、どれほど冷たい暗闇に突き落とされても、千代にとってその言葉だけは胸の奥で決して消えない、唯一の光だった。
めとり姫。
世を脅かす不吉な怪異としてその名を得る前。
彼女はただの「千代」という名の、可憐で無垢な少女だった。
城下でそこそこの商売を営む両親の間に生まれた、ひとり娘。
決して貧しい家ではなく、身に纏う着物にも不自由はしていなかった。
母親は町でも評判になるほど器量よしで、誰もが振り返るような美しい女性だった。だからこそ、千代が母の腹にいる頃から、周囲の人間は勝手気ままに期待を寄せ、持て囃した。
「きっと、あのお内儀さんに似て美しい子になるだろう」
「美人な母親の娘だ。生まれながらに器量よしに違いない」
母親も、買い物の道すがらそう声をかけられるたび、誇らしげに頬を緩めて笑っていた。
「そうねえ、元気に生まれてきてくれれば、それで十分ですけれど」
その頃の母親は、まだ幸福の絶頂にいた。
仲睦まじい夫婦は、生まれてくる我が子を愛おしそうに心待ちにしていた。
どんな愛くるしい顔をしているのだろう。
どんな大人しい子に育つのだろう。
色彩豊かな明るい未来を、誰もが疑いなく思い描いていた。
しかし、産声と共に生まれてきた千代の顔を見た瞬間――全ての歯車が、狂い始めた。
赤ん坊の左目があるべき場所には、瞼の落ち窪んだ、ただ不気味な皮膚の平地が広がっているだけだった。
歓声は悲鳴へと変わり、町は瞬く間に噂で持ちきりとなった。
「悪魔の落とし子だ」
「忌み子だ、関わるな。災いが伝染る」
「前世で何か恐ろしい罪でも犯したんじゃないか」
根拠のない無責任な毒のような言葉が、千代の家を包囲し、容赦なく突き刺さっていく。
母親は、根が繊細で周囲の評価や視線に流されやすい女だった。
最初は泣きながら愛おしそうに我が子を抱きしめていた。けれど、外から投げ込まれる冷淡な言葉と蔑みの視線が、日を追うごとに母の温もりを奪い、その腕を冷たく強張らせていった。
悪魔の子。異形の子。不吉な化け物。
呪いのような言葉を耳にするたび、母親の胸の中で「愛おしさ」は膨れ上がる「恐怖」へと塗り替えられていく。
そしてやがて、その恐怖の刃は、何も知らず母を慕う千代本人へと向けられるようになった。
千代が五つになった頃。
ある強い雨の夜のことだった。
屋根を激しく打つ雨音が、絶え間なく暗闇の中に響き渡っていた。
冷え切った自室の布団の中で、千代は一人、ガタガタと震えながら母の寝室の前に立っていた。
「お母様……」
眠れなかった。
暗闇の中で、一人でいるのがたまらなく怖かった。
「お父様もお母様も……一緒に寝ても、いいですか……?」
返事はない。ただ荒い息遣いと、重苦しい静寂だけが返ってくる。
「お母様……?」
千代が恐る恐る襖を少しだけ開けると、行灯の細い光の中で、母親が引き攣った顔で千代を見つめ返した。
その視線には、かつて千代を包み込んでくれた温かな愛の余韻など微塵も残っていなかった。そこに宿っていたのは、害獣や化物を見るような、純粋な戦慄と嫌悪。
「……その目を、私に向けないで」
絞り出すような低い拒絶の声。
「え……?」
千代は小首を傾げ、自分のたった一つしかない右目に、小さな手で触れた。
「気持ち悪いのよ……! 頼むから、私を見ないで……っ!」
幼い千代には、何故自分がそこまで拒絶されているのか分からなかった。
千代の右目には、人間には見えない「妖」の姿が映っていた。
襖の陰。部屋の梁の上。押し入れの隙間。
母親には到底見えない異形達が、夜な夜な蠢いているのが千代にははっきりと見えている。
だから千代が「お母様、あそこに誰かいるの」「変な顔の人が見てるの」と無垢に訴えるたび、母親はそれを自分を狂わせるための悪質な嘘だと受け取った。
見えないものが見えると言う娘。
誰もいない暗がりを指差して、怯えて泣き叫ぶ娘。
それが、母親にとっては狂気そのものであり、恐ろしくてたまらなかったのだ。
「出ていって……!」
「……お母様?」
「出ていってと言っているでしょう! 来ないで!」
ヒステリックな叫びと共に、手元にあった小物が千代の足元へ投げつけられた。
千代は小さな肩を激しく震わせた。
何がいけなかったのか分からない。どうして自分がこんなに怒られているのか理解できない。
ただ、大好きな母親に嫌われることだけが、死ぬことよりも怖かった。
「ごめんなさい……ごめんなさい、お母様……」
千代はぽろぽろと大粒の涙を零しながら、素足で廊下を走り、自分の部屋へ逃げ戻った。
パタンと襖を閉める。
その暗がりの中には、天井からぶら下がった歪な妖が、千代を嘲笑うように見下ろしていた。
千代は膝を抱え、その異形を見つめながら、声を押し殺してひたすら泣いた。
「お母様……お母様……」
どれほど不気味なものが見えようとも。
どれほど痛烈に拒絶されようとも。
千代は、母親が好きだった。
他の家の子供のように、頭を撫でてほしかった。笑いかけてほしかった。
もう一度だけでいい、あの記憶の初めにあったように、自分を抱きしめて「美しい子」と言ってほしかった。
夜がさらに深まり、雨音が激しさを増す。
千代は抑えきれない恋しさに突き動かされ、泥のついた足で再び母の寝室へと向かった。
「お母様……」
震える手で、すっと襖を開ける。
布団の中で身を竦めていた母親が、弾かれたように跳ね起き、こちらを振り返った。
「何度言えば分かるの!? 来ないでと言ったでしょう! この化物……っ!」
千代は、その怨嗟に満ちた母の顔をじっと見つめた。
悲しかった。
胸が引き千切れるほど悔しかった。
どうして自分だけがこんな目に遭うのだろう。
どうして、皆と同じように笑って抱き締めてくれないのだろう。
その時――純粋で、無知で、あまりにも幼い千代の頭の中に、ひとつの「答え」が舞い降りた。
――左目。
――私に、左目がないからだ。
お母様が嫌がっているのは、私に左目がないから。
町の人達が「悪魔だ」と騒ぐのも、私に左目がないから。
左目さえあれば。
左目さえ嵌め込めば、私は「普通の子」になれる。
左目さえあれば、お母様はもう一度、あの優しい笑顔で私を抱き締めてくれる……!
取り返しのつかない惨劇へと繋がる狂気の狂信が、幼い少女の瞳に宿った。
千代はふらりと、夢遊病者のような足取りで母親の布団へと歩み寄った。小さな手を、母の顔へ向かってそっと伸ばす。
「お母様……」
千代は、天真爛漫な、愛くるしい笑みを浮かべて呟いた。
「目、ちょうだい……?」
その夜。
豪雨の音を掻き消すほどの、悲惨で絶望的な女の悲鳴が、千代の屋敷から夜の城下へと響き渡った。
それがどれほど恐ろしく、どれほど取り返しのつかない罪なのか。
幼い千代には、最後まで解っていなかった。
ただ、大好きな母親に笑ってほしかった。
自分を愛してほしかった。
ただ、それだけだったのだ。
しかし翌朝。
千代の屋敷で起きた血塗られた惨劇は、瞬く間に城下町全体へと伝播した。
母親の左目を生きたまま抉り取り、血まみれの手でそれを自分の空洞に当てはめようとしていた少女の姿。
人々は、千代を狂気と恐怖の象徴として恐れるようになった。
――人の目を奪う悪魔。
――目取り。
いつしか、人々は彼女をそう呼び、呪った。
幼い千代が何を想い、どれほど血を吐くような寂しさを抱えていたのか。
誰一人として、知ろうとする者はいなかった。
ただ忌み嫌い、恐怖し、石を投げ、遠ざけた。
そして、誰からも差し出される手を得られなかった少女の中に生まれた絶望と憎悪は、歳月とともに肥大化し、黒い怨念となって世界を侵食していった。
やがて千代は、自分を拒絶した町の人々にも同じように微笑みながら近づいていくようになった。
彼女と関わり、その視線を受けた者達は例外なく、一晩にして左目を失っていったという。
それが本当に、人としての千代が望んだ仕業だったのか。
あるいは、膨れ上がった怨念に喰われ、狂った「妖」としての力が暴走した惨劇だったのか。
もはや今となっては、誰にも証明することはできない。
ただ一つだけ、後に「目取り姫」と呼ばれ、恐れられることになる怪異が、かつてはただ誰かに愛されたかっただけの、哀しいひとりの少女だったということ。
それだけは、悲劇の歴史の中に刻まれた動かぬ真実だった。
これは―、ただ母親の愛と幸せを願った童女が、果てしない闇の中へ落ち、怪異「目取り姫」へと堕していった惨劇の、ほんの始まりに過ぎなかった。




