目取り姫・2
八雲は、見えるはずのない左目から見える景色を、何処か他人事のように淡々と説明していた。
ゆらゆらと、視界が規則的に揺れている。
前へ。
後ろへ。
まるで誰かが、幼子の乗る遊具か何かに腰掛け、ゆっくりと身を委ねて揺揺と揺れているように。
どれだけ見渡してみても、周囲は何処までも果てのない真っ暗闇だった。けれど、時折何処からともなく白い一筋の光が差し込む。
そのほんの一瞬だけ、薄暗い影の輪郭から周囲に何かがあることだけが、ぼんやりと判別できるらしい。
しばらくの間、そんな不気味で緩やかな景色が続いていた。
ところが突然、その景色を映し出す視界が大きく乱れ始める。
まるで古い映像の信号が途絶え、激しくノイズを撒き散らすかのように、景色そのものが歪み、激しく揺らめいた。
そして、唐突に止まった。
それから先、八雲の左目は静止した闇の中で、ただある一点だけを凍りついたように見つめ続けているという。
「その景色は一体……」
『大方、目取り姫によるものだろうな』
珠吉は感情の読めない声を低く響かせると、膝の上で小さく『よし』と呟いた。
そして、意を決したように夢月の目の前までとてとてと歩いてくると、行儀よく前足をそろえて座り直す。
『それじゃあ、始めよう』
「う……」
結局、自分が言うしかないのか。小川夫妻の不気味な写真の一件の時も、あの凄惨な鬼女の一件の時も、何かと夢月が危ない橋を渡り、自分から深く首を突っ込まなければならなくなっている気がする。夢月は思わず胸の奥から重い溜息を吐き出した。
珠吉が言うには、めとり姫という異形の怪異を呼び寄せる方法は思いのほか簡単らしい。
以前、夢月が八雲の自宅へと不安に突き動かされて向かう直接のきっかけになった言葉。そして、あの日八雲自身が絶望のなかで口にしてしまった、呪いそのものの言葉。
それらの言葉を脳裏に深く思い浮かべ、夢月は一度だけ冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
嫌な予感が、背筋を這い上がってくる。
けれど、ここで躊躇して足を止めているわけにもいかない。八雲を救うと心に決めたのだから。意を決して、夢月はゆっくりと口を開いた。
「こんな目さえ⋯⋯なければいいのに」
そう呟いた、まさにその瞬間だった。
店内は完璧な密室。外の雑騒も、夜風の音すら届かないはずの静寂の空間。
それなのに、ふわりと、気づくか気づかないかという程度の微かな冷たい風が、夢月の頬をなぞるように撫でて過ぎ去った。
「……え?」
異変に気づいた次の瞬間、唐突に自身のすぐ左側から、吐息のような声が耳元に聞こえた。
『め……ほし、い……』
聞こえてきたのは、ひどく幼い少女の声。
舌足らずで、何処か甘えるように弱々しい響きがある。
『いらな、いな、ら……ちょーだい?』
ゾッと背筋を寒気が走り、声の主を探そうと勢いよく振り返った瞬間――
「どうして、こうなるかな……」
振り返った目の前には、何も存在しなかった。
右も左も、上も下も判別のつかない真っ暗闇の中、あの八雲の語っていた夢の中と同じような無の空間が何処までも広がっている。
けれど、何かが決定的に違う。あの夢の中にあったはずの僅かな温かさも、穏やかな甘い香りもどこにもない。
見慣れた夢幻喫茶の木目調の店内も。
使い込まれたカウンタートップも。
テーブルも椅子も、何もかもが綺麗に消失している。
足元にあるはずの確かな床の感触すら曖昧で、まるで濃い闇の上に浮いているかのようだ。残っているのは、この異空間に放り出された夢月と珠吉の二人だけだった。
『災難だな』
ケラケラと軽薄で緊張感のない声を上げて笑いながら、珠吉がひらりと夢月の肩へ飛び乗る。
「他人事みたいに言わないでよ」
『他人事だしな』
「もう……」
実際に目に見えて厄介極まりない怪異の領域に巻き込まれているというのに、この化け猫ときたら⋯⋯。とは言え、今は不満を口にして怒りを表に出している場合ではない。
夢月は抱いた不安を誤魔化すように、慎重に辺りの暗闇を見回した。
「付喪神、持ってくればよかったな」
『あの紙?』
「うん」
『あー……店から何も持ってきていないな』
完全に丸腰の手ぶらの状態で、一体これから何ができるのだろう。
せめて神楽の用意してくれた札のような紙の一枚や二枚持っておけば、こういう予期せぬ緊急事態にも多少の対処ができたのだろう。何の考えもなしに安易に作戦を始めるべきではなかったと、今更ながら激しい後悔が夢月の胸を苛んだ。
(一体、これから何をすればいいのかな)
果てのない暗闇への不安はある。当然、怖くないわけがない。
鬼女の時のように、一時的にでも恐ろしい傷を受ける可能性すら大いにあるのだ。
それでも今は、この謎の空間が一体何なのか、そしてどうやってここから無事に脱出するのかを調べる方が先決だった。
「珠吉、何かできることはある?」
『さてな。向こうから出てきてくれれば楽だが』
珠吉はピンと右の前足を前方に突き出すと、進めと言わんばかりの無言の圧力を掛けてくる。
夢月は恐る恐る足元の感覚を確かめるようにして、暗闇の中をゆっくり歩き始めた。
と、その時。
――ギイー……ギイー。
「……何、この音?」
何処からとも無く、神経を逆撫でさせる耳障りな音が鼓膜を直接叩いた。
夢月はぴたりと立ち止まり、両目を閉じて必死に耳を澄ませる。肩に乗っていた珠吉も三角の猫耳をぴんと立て、音の発生源を探った。
――ギイー……ギイー……。
油の切れた錆びついた金属と木が激しく擦れ合うような音が、一定の不気味な間隔で、何度も闇の深淵に木霊する。
「嫌な音⋯⋯」
『あっちからだ』
珠吉がピンと耳を鋭く傾け、琥珀色の瞳を険しく細めた。
夢月は珠吉が静かに睨み付ける方向に視線を向ける。耳を澄ませてみれば、その音は闇の奥の左側から連続して聞こえていた。
継続的に鳴り続ける音は、まるで夢月達を嘲笑いながら奥へと誘っているかのようである。夢月は肩の珠吉の頭を一撫ですると、その不気味な音だけを頼りに足を進め出した。
『いかにも、と言った感じだな』
闇の中をしばらく進んだ先に、ぽつんと不自然に一つの扉が佇んでいた。
年月の経った、古びた異形の木製の扉。
そして、その扉はほんの数ミリだけ、誘うように隙間が空いている。
「……怪しい」
『開けろ』
「はーい」
こんな気味の悪い状況で恐怖を感じないわけがない。だからこそ、夢月はあえて明るく、軽い調子で返事をした。
声に出して自分に言い聞かせていないと、恐怖で両脚が竦んでしまいそうだったからだ。
夢月は微かに震える手をゆっくり伸ばし、冷え切った古びた扉の表面に触れた。
――ギィ……。
重く鈍い拒絶のような音を立てて、扉がゆっくりと開く。
その開かれた向こう側には、何処までも落ちていくかのような真っ黒な階段が続いていた。
下へ。
下へ。
底など存在しない闇の深淵へと、無限に続いているように見えた。
一段一段降りるたびに、周囲の空気が目に見えて氷のように冷たく冷えていく。
「寒い……」
『この冷気』
珠吉の声が低く、恐ろしいほど重くなる。夢月はその声音の異変を聞くなり、己の両腕を抱えるように強く押さえつけた。
『悪寒か。近いぞ』
その警告を珠吉が口にした、まさにその瞬間だった。
――ぞくり。
背中を、氷そのもののような冷たい何かが直接撫で上げた。
「珠吉⋯⋯」
『用心しろ』
「え?」
『この状況じゃあ、流石の我でも帰る道なんて保証できんからな』
つまり、一度踏み込めば逃げる道など何処にもないということ。
ここまで足を踏み入れてしまったのなら、腹を括って前に進む他ないのだ。神楽が授けてくれたお札も、頼もしい付喪神の八咫烏もここには存在しない。
生身一つで、頼りない猫又の珠吉と共にこの怪異の深淵へと進まなければならない。
『もうすぐだ』
そして、最後の階段を下りきった瞬間、突然視界が視界の端まで開けた。
広い。
暗闇の中に、何処までも続く何もない広大な空間が広がっている。
「何、ここ」
『なるほどなぁ』
「何がなるほどなの?」
肩に乗る珠吉に視線を向けて尋ねても、納得のいったような返答は返ってこない。珠吉は真っ直ぐ前方を見耐えたまま、二つに分かれた尾先を不穏にゆらゆらと揺らしている。
――ギイー……。
またあの嫌な音が頭上から聞こえて、夢月は思わず息を呑んで頭上を見上げた。
すると、夢月達の立ち位置よりも遥かに高い闇の中で、一人の少女の影が揺れていた。
天井の見えない漆黒の闇から吊るされた、小さな古びたブランコ。その座面に、幼い童女がぽつりと座っている。
――ギイー……。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
少女は無心でブランコを揺らしていた。
『……めとり姫』
静まり返った空間の底に落とすように、珠吉が小さく呟く。その絞り出すような低く重い声は、張り詰めた空気の中へ波紋のようにじわじわと広がっていった。
「あの子が、めとり姫?」
闇の向こうから、童女がこちらを静かに見下ろす。
人形のように整ったあどけない幼い顔立ちとは裏腹に、その両眸に宿る異彩には子供らしさなど微塵もなかった。
光を一切反射しないその瞳は、一度落ちれば二度と這い上がれない底知れぬ底沼のようで、足元を這い回る虫ケラを見るかのような苛烈な侮蔑を湛えている。
背筋を這い上がる本能的な恐怖に、夢月は全身を氷のように硬直させて震わせた。それでもなお、大切な存在のために勇気を振り絞り、小さくとも確かな一歩を前へと踏み出してみせる。
「目を返して」
震える声が、静まり返った暗闇の中にぽつりと落ちる。
空間を侵食する禍々しい寒気ゆえか。背筋を駆け上がる死への恐怖ゆえか。それとも、大切な者を脅かす者へ沸き立つ苛烈な怒りゆえなのか。混ざり合った衝動の中で、答えなど出せるはずもない。
けれど夢月は、冷酷に佇む『めとり姫』の瞳を凛と見据え、決してその視線を外さなかった。
『ひめは、要らないって言うから貰っただけ』
暗闇に響いたのは、鈴の音のように可憐で幼い声だった。
年相応の少女を思わせる何処か愛らしく透き通った音色。しかし、その甘やかな響きに乗せて紡がれる言葉は、人の心を踏み躙ることになんの痛痒も感じていない残酷そのものだった。
『何も悪いこと、してないよ?』
まるで自分は一ミリも間違っていないと、本気で信じ込んでいるようだった。
めとり姫はブランコを揺らしながら、冷ややかに夢月達を見下ろしている。
――これほど幼い子なら、力でどうにか抑え込めるかもしれない。
夢月の脳裏にそんな淡い思考が掠めた、その瞬間。
『お前』
静かに落ちた珠吉の声が、夢月の甘い思考をきっぱりと遮った。何を考えているのかすぐにでも察せたのだろう。
『めとり姫は、その深すぎる憎悪からか……力が圧倒的に強い』
珠吉は一度言葉を切り、じっと目取り姫から溢れ出す禍々しい気配を見据えた。
その圧倒的な霊力と異様な執念――ただの怪異の枠に収まらない歪な存在感の理由を確かめるように、珠吉の鋭い瞳が暗闇を射抜く。
『マスターが話した怪談には、まだ欠けている部分があったんだ』
夢月は何も言わず、肩の上の珠吉を見る。
珠吉は夢月ではなく、ただめとり姫を見上げていた。
『武器も何も使わず――ただ、その手だけで、両親の目を抉り奪った』
その言葉を合図に、めとり姫のブランコがぴたりと止まった。
『……ひめは』
少女の冷たい声が、空間全体に反響する。
『ただ、信じてほしかっただけなのに』
次の瞬間、めとり姫がブランコから身を投げ出した。
地上まではかなりの高さがある。普通なら、そんな高い場所から飛び降りれば無事で済むはずがない。
けれど、めとり姫は何事もなかったかのように、音もなく地面へ立っていた。
そして、じっと夢月と珠吉を見つめる。
逸らせない。いや、逸らしてはいけない。ここで目を離せば、何かが決定的に終わってしまうという本能的な予感があった。
夢月は恐怖に抗うように、一度だけゆっくりと瞬きをした。
「……え?」
思わず目を疑った。
さっきまで、少女とは少なくとも二十メートルほどは離れていたはずだった。
それなのに、もう一度目を開けた時――めとり姫は、もう夢月のすぐ目の前に立っていた。
「っ!?」
逃げ場のない距離に、幼い少女の顔がある。
自由を奪うような圧倒的な圧迫感。逃げ出すことすら叶わない近距離で、夢月は息を殺した。
間近で見るめとり姫の肌は、生きている人間のそれとは明らかに異なっていた。血の通わない陶器のように白く、触れれば氷のように冷たいのだろうと予感させる無機質さ。整った眉や愛らしい唇の造形はまさに可愛らしい人形そのものだが、その中央に位置する顔の左側に目を向けた瞬間、夢月の思考は恐怖で白く塗りつぶされた。
少女の顔には――左目が無かった。
ただ、ぽっかりと黒い穴の空いた闇の巣食う空洞だけが、そこに広がっていた。その落ち窪んだ穴の奥底からは、生者に対する底知れない嫉妬と憎悪の気配が、黒い霧のようにゆらゆらと立ち上っている。右目の沼のように暗い瞳と、左目の底なしの空洞。その二つが同時に夢月を射抜いていた。
『め……ちょーだい?』
少女の白く細い手が、すっと持ち上がる。
幼子の手らしい小さく可愛らしい形をしているはずなのに、爪の先は肉を削ぎ落とすかのように不自然に尖り、凶器のような凄みを纏っていた。
その指先が、夢月の左目めがけて――ゆっくりと、逃れられない速度で伸ばされてきた。
❁
夢月と珠吉が突如として夢幻喫茶から姿を消した後のこと。
「き、消えた!?」
「以前、薫さんの藁人形に触れられた際も、拓さんと夢月さんはこうして突然姿を消したんですよ?」
「⋯⋯やっぱり、普通じゃねぇっすよ。この店」
「ふふふ」
そう美しい顔で優しい微笑みを向けられると、どうにも調子が狂う。
普段の八雲からは想像もできないほど暗く沈んでいる八雲は、フードを深く被り直して俯いた。
こうして明るく取り繕っていない自分を他人に見せるのはいつぶりだろう。
「すんません、こんなんで」
「何故、謝られるのですか。何か悪いことをした訳でもないでしょう」
夢月といっしょに見せに来て笑う八雲も、裏で悩み苦しむ八雲も同じ。マスターは何も言わずとも、そう物語っていた。
(⋯⋯何だって俺は⋯⋯如月さん達を巻き込んだりなんかして)
徐に触れた左目には、もう何も映らない。
正確には見えているのだが、それは八雲自身が望んだ景色などではなかった。
暗闇の中をゆらゆらと揺れ動く、自分のものではない誰かの視界。
時折、何処からともなく差し込む白い光。
そして何より、いまも脳裏に不気味に焼きついて離れない、あの幼い少女の顔――めとり姫。
「……怖いですか?」
カウンターの向こうから、マスターの穏やかな声が静かに響いた。
「え?」
「左目のことです」
短い問いかけが、しんと静まり返った店内に小さく落ちる。
八雲は返答に詰まり、答えを吸い上げるように深く息を吐き出した。マスターの温かい気配を感じながら、言葉にならない葛藤をかき集めるように、八雲は辛うじて声を絞り出す。
「怖い……っていうより」
八雲は答えようとしたが、そこで言葉が途切れた。
マスターは無理に急かそうとはせず、ただいつものように温かい眼差しで八雲を見守っている。
「……嫌なんです」
「目が?」
「はい」
隠し続けてきた感情の蓋がぽろりと外れたかのように、八雲の身体からすっと力が抜けていく。
己の抱える歪さを素直に認めてしまうことへの恐怖と悲痛さを孕ませながら、彼は消え入りそうな動作で、小さく頷いてみせた。
「昔から、ずっと……嫌だったんです」
ぽつり。ぽつり。八雲の口から、堰を切ったように言葉が零れ落ちる。
「俺、前に、小さい頃から『変なもの』が見えてたって話したじゃないっすか」
「妖怪や、幽霊の類ですね」
「今になって思えば、そうだったと思います」
八雲はどこか乾いた音で、力無く苦笑した。
今目の前に見えているものの正体が妖怪や怪異だと理解できているのは、夢月やマスターと出会ったからに過ぎない。
当時の幼い自分には、そんな知識も整理する術も持ち合わせているはずがなかったのだ。諦めと悲哀の混ざった瞳で、八雲はぽつりと自嘲するように言葉を繋いだ。
「でも、子供の頃なんてそんな理屈、知るわけないじゃないですか。周りの大人や友達には何も見えてないのに、自分にだけははっきりと見えている」
八雲はちらりと窓の外に目をやった。
あの時、八雲は確かに夢月と商店街の中から店の中に入った。それなのに、窓の外は白銀に包まれていて景色という景色は見えない。
それが、この店が時空の狭間にあり、様々な時代や空間を繋いでいることを意味しているのに八雲は気づかないふりをした。
「最初は、親に言いました。庭に誰か立ってる、とか。夜になると部屋の隅から誰かが覗いてる、とか」
昔を懐かしむかのように、八雲の口元にほんの少しだけ自嘲気味な笑みが浮かんだ。だが、その瞳に宿っているのは温かな記憶などではなく、ただただ幼い少年の孤独だった。
言葉を一度途切れさせると、彼は自分の膝に落とした視線を固く落とし、遠い目をして呟く。
「でも、始めの頃は信じてもらえなくて。誰もいない場所を指差して泣く俺を見て、夢でも見たんだろうって……。それでも、俺には確かに出ていたんです」
八雲はそこで一度言葉を切り、力無く首を横に振った。
親にすら理解してもらえない恐怖。今でこそ突き放されることはなくなったが、それでも両親に理解してもらえたわけではない。
「自分がおかしいわけじゃないと思いたい」という幼いすがるような思いが、次の過ちを生んでしまったのだと、今の八雲には痛いほど理解できていた。
一度でも否定され、突き放された悲しみは忘れられるはずもない。
自分自身を嘲笑うように小さく息を吐くと、静かに言葉を繋いだ。
「その内、友達にも話すようになって」
静まり返った店内に、八雲の落とした吐息だけが重く響く。親に否定され、友達に救いを求めた結果がどうなったか。それを口にすること自体が、当時の傷口を自分で抉るような作業だった。
八雲は諦めたように力無く微笑むと、消え入りそうな声で言葉を繋いだ。
「……『変な奴』って言われました。嘘つき、気持ち悪い……って」
友達と通学路を歩いていれば、真っ黒な陰に手招きされる。
自分の部屋で漫画を読んでいれば、外から大きな目が見つめてくる。
寝ていれば、耳元で何かが囁いてくる。
これらが普通ではないことくらい理解していたが、それでも自分一人では抱えきれず。
誰かに話して受け止めてほしいと思ったら、気持ち悪いと否定された。
「だから、途中から何も言わないようにした。見えても、聞こえても、何も言わない。最初から何もいないふりをする。それが一番、傷つかずに済む楽な方法だったから」
「ですが……」
「見えちゃうんですよね」
めとり姫に奪われた左目も、変わらずある右目も。
いつだって人ならざる存在を映す。
「見たくなくても、勝手に目に入ってくる。聞きたくなくても、耳元で声が聞こえる。……ずっと、そうだった」
八雲の声が、低く湿り気を帯びていく。
誰にも理解されない孤独。説明すればするほど「頭がおかしい」と不気味がられる絶望。だから八雲は、いつしか自分に異能をもたらすこの目そのものを、心底忌み嫌うようになっていた。
「……だから、如月さんに会ったときも驚いたんです」
「夢月さんに?」
「俺が見えてる異様なものを、如月さんは当たり前みたいに普通に受け入れてくれたから」
八雲の口元に、何処か愛おしそうな小さな笑みが浮かぶ。
「最初は、変わった人だなと思いました」
「変わった人、ですか?」
「俺達、クラスが一緒で、偶然選択授業も同じなんですよ。それで、移動教室の時は一緒に行ったり、俺がこの店の夢を見てからは二人で行ったりって、何かと一緒にいる時間が増えてて。その間も、見えていることばかりだった」
夢幻喫茶では、珠吉や梢のような妖が当たり前のように存在している。
だから、八雲のような目がない夢月にも存在が認識できていた。
しかし、一歩店の外に出れば、妖が見えるのは八雲だけになる。その証拠に、学校から店に向かうまでの道中で妖が見えようと夢月は見向きもしない。
それは、彼女には見えないから。
教えたわけでもないのに家にまで来た夢月の額に変な札が貼られていた辺り、そうしないと夢月は妖を認識できないのだ。
「俺には見えてるのに如月さんには見えてないって気づくと、改めて違うんだなぁって思って」
「拓さんだって、何も変わらないはずですよ」
「どーいう意味っすか?」
「妖が見えるから普通じゃない、そんなはずはありません。大多数が見えないだけで、私や神楽さん達のように見える人だっていますから」
「はは……」
束の間、店内の重苦しい空気がふっと柔らかく緩む。けれど、すぐに八雲の表情は影を落とした。
「だから、あの日も……本当は、心底疲れてたんだと思います」
「ミキトさんと会った日ですか?」
「……はい」
見えても言わない、聞こえても無視する。そうやって息を潜めて生きる日常は、少しずつ、けれど確実に彼の心を削り削り、限界へと追い詰めていたのだ。
あの日感じていた、全身を押し潰すような重い疲労感が蘇り、八雲は胸の奥を小さく痛ませながら語り直した
「如月さんと別れた後、黒い霧みたいな怪異を見ました。電柱の陰から、じっとこちらを覗き込む一つの目。いつものことだと思って逃げて、家に帰って。……そして、自分の部屋であの声を聞いたんです」
『ほしい……』
八雲の身体が思い出したかのように小さく震え、無意識に左目を強く押さえた。
「……あいつに言われたんです。『目が欲しい』って。最初は必死に無視してました。でも、頭の中でずっと聞こえ続けるんです。欲しい、ちょうだい、って」
八雲は唇を噛み締め、血が滲むほど固く拳を握った。
「それで……俺、言っちゃったんです。『こんな目さえなければいいのに』って」
それは、静まり返った店内に小さく、けれど重く落ちた告白だった。
「……本気で思ってたんです。ずっと、生まれてからずっとそう思ってた。見えなければいい。聞こえなければいい。普通になりたい。誰かと同じ世界を生きたい……! そんな身勝手な願いを、何度も何度も抱いて……だから、俺が呼んだんですよね。めとり姫を」
悲痛な叫びのような告白が、静まり返った店内に冷たく落ちた。
自分の不甲斐なさと身勝手さが引き起こした悲劇。八雲は溢れ出しそうになる感情を抑え込むように強く唇を噛み締め、俯いたまま拳を震わせた。
マスターは何も言わず、ただ静かにその痛みに寄り添うように立ち尽くしている。重苦しい静寂が流れた後、八雲は絞り出すような掠れた声で、一番隠したかった本音の続きを漏らした。
「如月さんには、如月さんだけには絶対に言えませんでした」
「何故です?」
「……知られたくなかったからっすかね」
八雲はしばらく黙り込み、やがて痛みに耐えるように顔を上げた。
「俺が、ずっと自分の目を嫌っていたこと。如月さんが否定せずにいてくれた大切な目を、俺自身が捨てたがっていたなんて、知られたくなかった」
そう呟いた八雲の声は、今にも消えてしまいそうなほど小さく震えていた。
如月は、他の誰とも違っていた。異形が見える自分を怪しまず、突っぱねもせず、そのままの八雲を受け入れてくれた唯一の存在。
その存在が救いであればあるほど、自分の内側に潜む醜い欲望が際立ってしまう。八雲は自分の胸元を強く掴みしめながら、秘めていた本音を吐き出した。
「如月さんはきっと、『そんなこと気にしなくていいのに』って優しく笑ってくれると思う。……でも、それが一番怖いんです」
「優しさが、ですか?」
「優しくされると、自分がずっと欲しかった『普通の幸せ』を、如月さんから恵んでもらってるみたいに感じるから。如月さんといる時間は本当に楽しかった……。でもその分、いつか俺のことも『やっぱり気味悪い』って捨てられるんじゃないかって……ずっと怖かったんです」
マスターは、すぐには答えなかった。
静かに立ち上がると、カウンターの上に温かい湯気の立つカップを滑らせ、八雲の目の前へと置いた。
「拓さん」
「……はい」
「貴方は、目が見えるから夢月さんと出会えたわけではありません。そして、万が一その目が見えなくなったからといって、あなたという存在の価値が変わるわけでもないのです」
八雲は黙ってカップを見つめた。
「……そんな簡単に、割り切れるもんじゃないですよ」
「ええ。だからこそ、今すぐ割り切る必要など何処にもありません。貴方たが自分の目を嫌っていたことも、あの日に絶望からその言葉を口にしてしまったことも……誰も、貴方を責めはしませんよ」
八雲はゆっくりと目を伏せ、胸の奥に溜まっていた重い息を深く吐き出した。
「……ありがとうございます」
救いなんてないと、この苦しみから解放される日は来ないのだと地獄のような日々だった。
けれど、夢月に出会い、縁を持ってこの店を訪れて。
八雲は確かに、自分の居場所とやらを見つけつつあったのだ。




