目取り姫・1
八咫烏が突然、羽ばたきを緩めて速度を落とした。そして、静まり返ったある一軒家の門扉の前へ、滑らかに降り立つ。
「ここ……?」
夢月は足を止め、目の前の表札に目を向けた。
八咫烏は地に足を着けると、光が弾けるようにして元の姿、ただの一枚の紙切れへと戻っていく。
ふわり、と風に乗って舞い落ちる紙を夢月は両手で丁寧に受け止めた。
「ありがとう」
心からの感謝を込めて呟き、紙を制服のポケットへそっとしまった。
「さて……」
夢月は隣に立つ黒猫を見下ろす。
本来であれば見えるはずのない存在。一見すればそこらの猫と何ら変わりない姿をしているが、二つに分かれた尾と、その先で揺らめく火の玉は現実離れをしている。
もちろん、猫又であるのだから当たり前なのだが。
「珠吉も、鞄の中に入ってて」
『何故だ!?』
珠吉の耳がピンと逆立ち、尻尾が不機嫌そうに揺れる。
今思えば、妖である彼が他の人に見えることはない。夢月ですら、不思議な札を額に貼っているから見えているのだ。
しかし、珠吉だからこそ何をしでかすか分からない。
世の中には幽霊だの何だのを見える人間がいる。それこそ、八雲のような人間がだ。
黙っていれば普通の猫に見えなくもない。だが、一つ口を開けば流暢に話すのだから面倒事は避けられなくなる。
「だって、八雲君のお家の人に見られたら大変でしょ」
『我は猫だぞ! 何処からどう見ても愛くるしい猫だ!』
「猫又でしょ。喋ったら一発アウトだよ」
『ぬぐ……』
「八雲君や私ならもう慣れてるけど、普通の人が見たら驚いて腰抜かしちゃうよ」
しゅんと尻尾を垂らし、ただでさえ小さな身体がより一層縮こまっている。
「だからお願い。しばらくぬいぐるみのふりしてて」
『ふなぁ……』
珠吉はあからさまに嫌そうな顔を取り、喉をゴロゴロと低く鳴らして抗議の唸り声を上げた。今にも爪を立てて抵抗しそうな勢いである。
『何故我がこのような暗くて狭い袋の鼠ならぬ『袋の猫』にならねばならんのだ……』
「お願いだから」
『……チッ、仕方あるまい』
ぶつぶつと不満を溢しながらも、珠吉は夢月の鞄の中へと滑り込んだ。
『絶対に外へ落とすなよ』
「はいはい、分かってるって」
夢月は苦笑しながら鞄を持ち直し、一度だけ深く息を吸い込んだ。
八雲の家。彼と知り合ってから、ここを訪ねるのはこれが初めてだ。
覚悟を決めて、インターホンに手を伸ばす。
ピンポーン――。
澄んだ電子音が響き、しばらくすると家の中からバタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
ガチャリ、という音と共に玄関の重い扉が開く。
「はい、どちら様?」
ゆっくりと開かれた扉の向こうから現れたのは、穏やかな微笑みを浮かべる一人の女性だった。
小柄で色白、何処か儚げな柔らかい雰囲気を纏った人。少し強く触れただけでも壊れてしまいそうな、繊細な印象を受ける。
「あ、初めまして。八雲君のクラスメイトの、如月夢月と申します」
「ああ、拓の」
女性の表情がふんわりと和らいだ。目元の面影から、すぐに八雲の母親だと分かった。
「学校を休んでいるから、心配して来てくれたんだね。わざわざありがとう。ほら、中に上がって?」
「お邪魔します」
夢月は深く頭を下げ、静かに玄関を上がった。
廊下を歩き、階段を上っていく。その間も母親は何度か嬉しそうに振り返った。
「拓も、お友達が来てくれたらきっと喜ぶと思うわ」
その言葉を聞くたび、夢月の胸が少し痛む。
八雲が学校に来なくなってから、今日で三日。
たった三日のはずなのに、何故だろう。まるで何ヶ月も彼に会っていないような、妙な遠さを感じていた。
二階の奥。一つの部屋の前で母親が足を止めた。
「拓」
母親は優しく扉をコンコンと軽く叩き、実に穏やかな声音で中にいるであろう人物に語りかける。
「如月さんっていうクラスメイトの方が来てくれたよ」
重苦しい沈黙が数秒続いた。やがて――。
「……入って」
奥から掠れたな低い声が返ってきた。確かに八雲のものであるはずなのに、彼のものでないように聞こえる。いつもの天真爛漫な彼はいないらしい。
くるりと振り返った母親は、夢月に優しく微笑みかけた。
「ごゆっくりね」
そう言い残すと、足音を忍ばせるように階段を下りて行く。
夢月はしばらくその後姿を見送っていた。鞄の中で息を殺していた珠吉がひょこっと顔を出す。
感じるものは、この猫又も同じらしい。
珠吉と顔を見合わせると、夢月は八雲の部屋の扉に向き直った。
「失礼します」
夢月はそっとドアノブを回し、部屋の中へ足を踏み入れた。
室内は驚くほど綺麗に整頓されていた。整然と本棚に並べられた漫画、余計なものが置かれていない勉強机、何も貼られていない白い壁。ハンガーには、見慣れた彼の制服が綺麗に掛けられている。
その整いすぎた空間がかえって、彼がここに引き籠もっている事実を際立たせていた。
「……久しぶり、だね」
部屋の端に設置されたベットの傍に座り込んだ夢月は、ぎこちなく問い掛けた。
ベッドの上が不自然に盛り上がっている。八雲が頭から布団を被り蹲っているのだ。
「八雲君?」
長い沈黙の後、ほんの僅かに布団が蠢く。すると、鞄の隙間から珠吉がニョキッと顔を出した。
『よっ』
「あ、こら珠吉っ」
珠吉は鞄から這い出ると、トントンとベッドの上に飛び乗った。
『心配して様子を見に来てやったぞ、若造』
モゾモゾと音がして、八雲が布団から少しだけ頭を出した。けれど、深い影が落ちていて顔はほとんど見えない。
少し身を乗り出した夢月は、顔を覗き込もうとする。
「やっぱり、まだ体調悪い?」
「……いや」
八雲は少しだけ息を吐き出すと、力なく首を振った。布団から覗くその瞳には光がなく、声も掠れてしまっている。
「別に……元気っすよ」
『声が全然元気じゃないぞー』
鞄の中からひょっこり顔を出した珠吉が、容赦なく鋭いツッコミを飛ばす。
その言葉に返せる強がりも尽きてしまったのか、八雲はかける言葉を見失ったように再び黙り込んでしまった。部屋の中に、重苦しい沈黙がしんと落ちる。
「八雲君、顔見せて?」
三日なんて大した日数ではないのかもしれない。
けれど、今や三日会えないというだけでも夢月には我慢できないものがあった。
毎日、学校に行けば顔を合わせる。選択授業の時は一緒に移動する。
放課後には二人で街中を歩いて、夢幻喫茶に向かう。そこでも、二人は一緒に不思議なお客達と過ごしてきたのだ。
突然理由もなく欠席するようになり、今も目の前で普段の八雲からは掛け離れた姿で縮こまっている。
このまま黙って帰るなんてできるはずもなかった。
「本当は」
一切目を逸らさず、答えるまで待ち続けていれば、微かに絞り出された八雲の声が布団の隙間から聞こえた。
「格好悪すぎて、絶対言いたくなかったんすけど……」
ゆっくりと、彼の手によって布団が下ろされていく。隠されていた顔が、陽の光の下に露わになった。
その姿を見た瞬間、夢月も珠吉も思わず口を開けて絶句した。
「……え?」
夢月は目を見開き、珠吉も息を呑んで言葉を失う。
八雲の顔の左側。
その左目だけが光を完全に失い、不気味な灰色に変色していたのだ。
「ど、どうしたの……それ……!」
その異様な左目を見られた八雲は、耐えがたい惨めさに肩を小さく震わせ、隠すように両手で顔を覆うと、小さく身を縮めて顔を伏せた。
「前に、夢幻喫茶で俺の願いを話した時のこと覚えてます?」
「八雲君が初めて店に行った時?」
夢月が尋ね返すと、八雲は小さく、首を縦に振った。
「……あの時俺、言いましたよね。昔っから、変なものばっか見えるって」
夢月は黙って耳を傾けた。八雲は伏せた顔のまま、左目を覆う手にギュッと力を込める。その指先が薄っすらと白く変わっていくのが見えた。
「幽霊とか……妖みたいな気味の悪いやつとか。声まで嫌っていうほど聞こえるんです」
その言葉の裏には、彼が幼少期から一人で抱え続けてきた深い孤独と疲れが滲み出ていた。
「だから、周りから変人扱いされて……気味悪がられることもよくあって」
八雲は自嘲気味に口元を歪めようとしたが、上手く笑えなかった。
誰かに話したところで、気味が悪いと避けられるか、頭がおかしくなったと笑われるだけ。小さな頃からずっと、そうやって孤立してきたのだ。
吐き出すことすら許されなかった感情が、胸の奥で重く澱んでいた。
「でも、今までは、ただて、聞こえる見えだけだったです。」
「……」
「なのに」
彼の肩が、怒りと恐怖で小さく震える。
「あの日から、変わった」
八雲は言葉を切り、喉を詰まらせるように一度息を呑んだ。
それまでの静かな吐露とは明らかに違う、生々しい恐怖を孕んだ気配が部屋の空気を支配していく。
「あの日、学校の帰りに見えたんです。路地の闇の中から、じっとこっちを見てる、大きな一つの目が。逃げても逃げてもついてきて。家に帰って部屋に入っても、耳元で変な声が聞こえ続けて……」
握りしめた八雲の拳が、カタカタと小さく震えていた。額からは嫌な汗が滲み、追いつめられた動物のような怯えがその背中から伝わってくる。
「ずっと無視してたんすよ。聞こえないふりをしてれば、そのうち飽きて消えると思って……」
けれど、甘かった。
「最後に、真横……耳のすぐ傍から聞こえた」
そして彼は、トラウマを再現するようにその声を真似た。
『――め、が、ほ、しい……ちょーだい……』
それはまるで、無知ゆえの残忍さを持った幼い少女が、親に欲しいおもちゃをねだるような、不気味で無邪気な声だったという。
『取られたか』
ペロペロと自身の手を毛繕いしていた珠吉が徐に呟く。
その言葉を聞いた八雲は一瞬表情を歪ませると、自嘲するように苦笑いを落とした。
「言葉って、重いんすね」
力無く笑う八雲の顔が見ていられなくて、夢月は苦し紛れに顔を逸らす。
『何か心当たりがあるんだな?』
「はい」
八雲は激しい後悔に耐えかねたように、左目を圧迫するように強く押さえつけた。爪が食い込むほど指に力が入り、その拳は痛々しいほど震えている。
「情けないっすねぇ……」
強がりで浮かべていた自嘲の笑みは引き攣り、やがて限界を迎えたように掠れた涙声へと変わっていく。
溢れそうになる感情を必死に押し殺そうとするものの、震える喉からは漏れ出る声を抑えきれなかった。
「妖を見るのがしんどいからって、こんな気味が悪いものが見える目が嫌だからって、『こんな目さえなければいいのに』なんて言うべきじゃなかった……っ」
それは、自分自身の弱さが招いた結果に対する、あまりにも痛切な懺悔だった。
その痛々しい姿に、夢月は掛ける言葉を見失ってしまう。
珠吉が静かに歩み寄り、肉球のある前脚を八雲の手にそっと重ねた。
『店に行こう』
「今からっすか?」
『ああ』
俯く八雲を見つめる珠吉の双眸に、揺るぎない力強い光が宿る。
怪異の理を知る者として、このまま引き下がる気などないという強い意志がその瞳に満ちていた。
『お前の目を取った犯人を探し出すためだ』
❁
「あれ、拓? 何処かお出かけ?」
階段を下りると、リビングのドアから母親が顔を出した。
八雲は振り返らず、背中を向けたまま答える。
「ん、ちょっと散歩にでも行ってくる」
口調だけは、驚くほど明るかった。母親に余計な心配をかけまいと、必死に作り出した声だ。
けれど、玄関扉の前で振り返った夢月達の前で靴を履いている彼の顔は、今にも崩れ落ちそうなほど暗く沈んでいる。声のトーンと表情が、痛々しいほど一致していなかった。
「そっか」
母親はそれ以上何も追及せず、柔らかく優しい微笑みを浮かべる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「うん」
バタン、と玄関の重い扉が閉まる。外の空気に触れた瞬間、八雲は長く重い息を吐き出した。
「母さんには、口が裂けても言えないんっすよ」
その呟きに、夢月は寄り添うように問いかける。
「心配をかけたくないから?」
「それもあるけど……」
自分から滲み出る異質さを塞ぎ込むように、八雲は震える指先で前髪を下ろし、灰色に濁った左目を固く覆い隠した。
それ以上誰にも見られたくない、踏み込まれたくないという痛々しい拒絶の仕草だった。
「こんなこと話したって、何かが変わるわけじゃない。目が帰ってくるわけじゃないから。昔から……ずっとそうだったんで」
そう言って無理矢理浮かべた笑顔は、やはり酷く寂しげだった。
❁
静まり返った路地の奥、ひっそりと佇む『夢幻喫茶』。
重厚な木製のドアを開けると、カランカランカランと涼やかな鈴の音が店内に響いた。
「おいでませ、夢幻喫茶へ」
カウンターの奥から、マスターがいつも通りの温かい笑顔で出迎えてくれる。
しかし、八雲の左目に視線を留めた瞬間、マスターの表情に微かな影が差した。
「……また、随分と厄介なものに目を付けられてしまいましたね」
苦笑混じりに言うマスターに、八雲も自虐的に微笑み返す。
「はは、本当っすね。ツイてないです」
けれど、その口元に浮かべた笑顔は、溢れ出しそうな恐怖と後悔を必死に押し殺すための、痛々しいほどの強がりに過ぎなかった。
僅かに引き攣る頬や小刻みに震える唇が、彼の心が既に限界を迎えていることを雄弁に物語っている。
「では」
マスターは夢月と八雲の手元におしぼりを置くと、真摯な眼差しで八雲を見つめた。
「拓さんの目を取った『犯人探し』と参りましょうか」
「はい。お願いします」
八雲の左目には、もう光すら届いていない。店へ向かう道中も、距離感が掴めずに何度も段差につまずいていた。
人が生きていく上で、視力はあまりにも大切なものだ。一刻も早く取り戻さなければならない。
「目を取るような妖怪って、何か心当たりはあるの?」
助けを求めるように夢月が視線を向けると、珠吉は腕を組むように前脚を不器用に交差させた。カウンターの上でじっと目を閉じ、古今東西の怪異の理をを手繰り寄せるようにしばらく思索の海に沈んでいたが、やがて何かを確信したように力強く顔を上げた。
『……いるな』
「本当!?」
『ああ』
珠吉は夢月と八雲を順番に見据えると、深々と、そして力強く頷いてみせた。そのひとつ頷くだけで「任せておけ」と言わんばかりの圧倒的な安心感が、静かな部屋の中に広がっていく。
『しかも、お前が聞いたという不気味な声と、その特徴が見事に一致する』
「どんな妖怪なんすか?」
『――めとり姫だ』
その名前が発せられた瞬間、店内の空気がピリリと緊張感で張り詰めた。
「めとり姫……?」
『そうだ。別名、目取り姫とも呼ばれる』
珠吉は淡々と、しかし重々しく説明を始める。
『名の通り、人間の目を奪い去る妖だ』
「それが、八雲君の目を奪ったっていうの?」
『十中八九そうだろうな』
めとり姫。
幼い少女の姿をしたその妖は、妖怪達の間でも滅多に話題に上らない異端の存在だった。伝承の数も極めて少なく、地域によって語り継がれる姿もまちまちだ。
ただ一つだけ、全ての伝承で共通している奇怪な特徴があった。
――彼女は、決まって「人間の左目」だけを執拗に欲しがる、という点だ。
『昔、こんな怪談があってだな』
部屋の緊張感がピンと張り詰める中、珠吉がいつになく静かで重みのある声で語り始める。その低く落ち着いた声音には、怪異の深淵を知る者としての威厳と、何処か深い慈悲が籠もっていた。
『めとり姫は、元は幼い人間の少女だったと言われている。幼くして両親を亡くし、酷く寂しがり屋な子だった。だがな、彼女には生まれつき、異質な特徴があった。左目の視力が完全に欠落していたのだ。その代わり、残された右目の視力は異様なほど発達していた』
夢月も八雲も、息を呑んで珠吉の言葉に耳を傾ける。
『その右目にはな、普通の人間の目には映らない『人ならざるもの』が、はっきりと見えてしまっていたのだという。『あそこに誰かがいる』『変なものが見える』と、少女は泣きながら母親に訴え続けた。だが、母親は不気味がり、最後まで少女の言葉を信じようとはしなかった』
何度訴えても、どれほど泣き叫んでも。
実の親すら、自分の見ている世界を分かってはくれない。
『『どうして信じてくれないの』『どうして私だけ、こんな目を持って生まれてきたの』……絶望と孤立感の中、少女の心にはどす黒い感情が堆積していった。寂しさ、悲しみ、そして周囲への激しい憎悪』
珠吉の低く抑えた声が、静まり返った部屋の壁にじわりと響く。その声音には、怪異の持つ底知れぬ恐ろしさと、それに抗うための絶対的な確信が込められており、聴く者の背筋を自然と伸びさせるような緊張感を生み出していた。
『やがて少女は、己の『目』に対して異常なまでの執着を抱くようになった。両親が没し、孤独の中で彼女自身もまた怨念の塊……妖へと変貌を遂げた。そして彼女は今もなお、自分と同じ『見えすぎる目』を持った人間を探して、街の闇を彷徨い続けているのだという』
珠吉の話が終わり、店内には重苦しい静寂が落ちた。
「……俺と、まったく同じだ」
話を聞き終えた八雲は、ぽつりと呟いた。
右目だけに残された、妖を見る力。普通の人には見えない世界。
めとり姫もまた、生前、同じ孤独と恐怖を抱えていたのだ。
「つまり……」
伏せる八雲の姿を見つめる夢月の瞳に、確かな光が宿る。珠吉の言葉を受け止めた彼女の口元から、不安を一切挟まない、力強い確信を込めた言葉が静かに零れ落ちた。
「そのめとり姫は、自分と同じ苦しみや『目』を持っている人を探して、彷徨ってるってこと?」
『その可能性は極めて高い』
重々しく珠吉が頷く。その肯定を受け、八雲は膝の上で固く握り締めた己の手を見つめたまま、深い黙考へと沈み込んだ。
もし、珠吉の言ったことが本当なのだとしたら、自分の左目は、単なる不運や理不尽な悪意によって奪われたのではなかったのだ。
あの日、闇の中から自分を覗き込んでいたあの眼差し。それは、自分と同じ「見えてしまう」という惨めな呪いを抱え、それに耐えかねて救いを求めた誰かにあまりにも強く渇望され、奪い去られたものだったのかもしれない。
「めとり姫を引き摺り出す方法はあるの?」
不安の影を完全に振り払うように、夢月が一切の迷いなく尋ねる。
その言葉に込められた揺るぎない覚悟を感じ取り、マスターは静かに珠吉を見やり、問いの答えを委ねた。
言葉を交わさずとも、互いの信頼と決意が確かに通じ合っている。
『……あるには、ある』
その言葉に、八雲が弾かれたように顔を上げた。
「どうすればいいんすか!?」
『簡単なことだ』
珠吉は真っ直ぐに八雲の目を見据えて言った。
『――『こんな目さえなければいいのに』と、心から願うことだ』
八雲の表情が血の気を失い、凍りついた。
その言葉は、あの日、逃げ場のない恐怖に押しつぶされ、絶望のなかで彼がすでに口にしてしまった悪魔のような一言そのものだった。
押し殺していたはずの記憶が鮮明に蘇り、息が止まるほどの衝撃が全身を駆け抜けていく。
「あ……」
八雲の顔から、一瞬で血の気が引いていく。
「言っちゃった……俺、もう言っちゃったよ……!」
自責の念に押しつぶされそうな八雲に対し、珠吉は静かに、しかし何処までも厳しい目で見つめる。
『そうだ』
「……っ!」
『それこそが、めとり姫を召喚する『契約の言葉』なのだからな』
その瞬間――。
「いっつ!!!」
突然、八雲が激痛に叫び、自分の左目を両手で強く押さえた。
「八雲君!?」
「いっ⋯⋯ってぇ!」
左目を抑えるその指の隙間から、不気味な灰色の光が溢れ出し、バチバチと火花のように弾けた。
やがて、数分とも数時間とも思える激痛の嵐が去り、八雲は息を荒げながら、ゆっくりと左手を下ろした。
「……あ」
雷に打たれたかのように、八雲の瞳が驚愕に大きく見開かれる。
「見える。何か、見える」
夢月も、珠吉も、マスターも。一斉に八雲の顔を覗き込んだ。しかし、完全に元通りになったわけではない。
かつて確かに光を宿していた彼の左目は、濁った灰色の中に、ほんの僅かな琥珀色の光が揺らめいている程度だった。
だが、八雲が凝視していたのは、目の前にいる夢月達ではない。
彼の視線は、夢月達の身体を通り越し、店の最も深い闇。誰もいないはずの喫茶店の最奥へと向けられていた。
「……誰か、いる」
八雲の全身から鳥肌が立ち、声が恐怖で激しく震える。
「あそこに……女の子が、立ってる……」
夢月と珠吉が勢いよく振り返った。夢月の目には、そこにはただの壁とテーブルの影しか映らない。
しかし、しんと静まり返った店内の暗がりから、幼く、壊れた鈴のような声が耳元に響いた。
『……みーつけた』
次の瞬間、八雲の左目から琥珀色の光が完全に消え去り、再び深い絶望の灰色へと染まりきった。




