未来人?・3
教室に入り、自分の席に着く。
鞄を机の横のフックに掛け、椅子の背もたれに深く身体を預けると、窓から差し込む朝の光が机の表面を白く掠めていた。
いつものように友達と他愛のない話をしていると、キンコンカンコンと高い予鈴が校内に響き渡った。
ほどなくして、廊下を歩いてくる足音が近づき、引き戸がガラガラと音を立てて開く。担任の先生が、手に厚い出席簿を抱えて教室へ入ってきた。
「ほらー、席つけー。朝のホームルーム始めるぞ」
先生の少し気怠げな声に促され、教室中に散らばっていた雑多な会話が、波が引くように少しずつ小さくなっていく。ガタガタと椅子を引く音が重なり、生徒達がそれぞれの席へとついた。
先生は教卓の中央に出席簿をポンと置くと、いつものように指先でページを捲り、生徒の名前を順番に呼び始める。
「はい、今日も元気に……っと」
五十音順に、一人ずつ名前が呼ばれていく。
「はい」「はーい」という、少し眠たげだったり元気だったりする返事が、一定の間隔で教室に響いていた。
そして――。
「ん?」
先生の声がピタリと止まった。
出席簿の上に置かれた先生の指先が動かなくなり、黒縁メガネの奥の目が、教室の後方へと向けられる。
「八雲は来ていないのか。誰か知ってるかー?」
その言葉が落ちた瞬間、教室の和やかな空気が、ほんの少しだけ冷たく張り詰めた。
夢月も、言われた意味を咀嚼するより早く、反射的に八雲の席へと目を向けていた。
誰も座っていない。
使い込まれた木製の机の上には、ノートどころか下敷き一枚置かれていない。
この時間なら、いつも八雲がそこに座っているはずだった。
朝の登校ラッシュ滑り込みで走り込んできては、周りの男子達と昨夜のテレビ番組やゲームのくだらない話をして、先生がドアを開ける直前までケラケラと笑っている。
そんな姿が、当たり前の日常の風景として、そこにあるはずだった。
「珍しいね」
後ろの席の誰かが、不思議そうに呟いた。
「風邪じゃない?」
「昨日は普通だったよな? 別にしんどそうでもなかったし」
そんな探るような声が、教室のあちこちからさざ波のように聞こえてくる。
けれど、八雲が来ない明確な理由を知っている者は、誰一人としていなかった。
「まあ、親からの連絡も特に来てないなら仕方ないか。後で家に電話してみるとして……はい、じゃあホームルーム始めるぞ」
先生はそう言ってパンと出席簿を閉じ、何事もなかったかのように朝の連絡事項を読み上げ始めた。
授業も、いつも通りに始まった。
黒板に白いチョークで素気ない文字が書かれ、教師の一調子な声が教室に響く。
窓の外を見やれば、校庭のグラウンドを体育のクラスが走り回っており、いつもと変わらない賑やかな日常が流れている。
ただ一つ、教室の窓際に位置する、八雲の席だけがぽっかりと空いたままだった。
その日、八雲は学校へ来なかった。
❁
次の日も。
その次の日も、八雲は学校へ来なかった。
最初は、急な熱でも出たのかと、誰も深く考えていなかった。季節の変わり目にはよくあることだ。
けれど、三日目になり、四日目になっても彼の席が埋まらないとなると、さすがに教室でも不安混じりの話題になった。
「八雲君、どうしたんだろうね」
昼休みに、夢月は友達の華夏と机を向かい合わせにして、お弁当箱のフタを開けていた。
向かいに座る華夏は、卵焼きを突つきながらも、チラチラと何度も誰もいない八雲の席へ視線を向けている。
「急に三日も休むなんて、インフルエンザとかかな?」
「さあ。でも、この時期に流行ってないよね」
「だよね。体調が悪かったのかな」
「でもさ」
華夏がふと箸を止め、夢月の顔を覗き込むようにして言った。
「休み始める前の日、夢月ちゃんと八雲君、一緒に帰ってたよね?」
「うん」
夢月は箸を伸ばしかけたまま、小さく頷いた。
八雲が休み始める前日。
あの異様な雰囲気を纏った未来人。ミキトに遭遇した、あの日。
夢月と八雲は、放課後に夢幻喫茶を出た後、夕暮れの街並みを並んで歩いて帰ったのだった。
「八雲君、あの時しんどそうにしてなかった? 何処か痛がってたりとか」
夢月は記憶の糸を慎重に手繰り寄せる。
あの日、二人で歩いた道。夕日に照らされた住宅街の影。
「そんなことなかったと思う。帰ってる時も、普通にくだらないこと話してたし……体調が悪そうな感じは全然しなかったよ」
「何を話してたの?」
「えっと、昨日のテレビの話とか、次の休みに何処に行くかとか。本当に、いつも通りのこと」
思い返せば返すほど、異変の兆候など何一つなかった。
くだらない話をして。
くだらないことで笑って。
夕暮れの分岐点で「じゃあ、また明日」と手を振って別れた。いつもと何一つ変わらない時間だった。
店にいる時もそうだった。
未来人の不思議な話をしていた時も、八雲はいつもの呆れたような、でも何処か楽しそうな顔をしていたのだ。
だからこそ、どうしてあの日を境に突然、学校に来なくなってしまったのか。
夢月には、いくら考えても理由が分からなかった。
「早く来てくれるといいな。八雲君がいないと、なんかクラスの男子たちも静かで調子狂うよ」
華夏は寂しそうに呟くと、もう一度だけ八雲の席を見た。
午後の強い日差しが差し込む、誰もいない机と椅子。
そこだけが、賑やかな教室の中からぽっかりと切り取られ、異次元の隙間のように静まり返っていた。
❁
放課後。
夢月は重い足取りで、一人夢幻喫茶へと向かっていた。
古い雑居ビルと路地の間にひっそりと佇むその店の前に立ち、使い込まれた木製の扉をゆっくりと押し開ける。
カラン、と澄んだ美しい鈴の音が店内に響いた。
「おいでませ、夢幻喫茶へ」
カウンターの奥から、マスターがいつもの穏やかな、包み込むような声で迎えてくれた。
けれど、いつもなら、ドアが開く音と同時に飛んでくる威勢の良い声や、軽薄なからかいの声が、何処からも聞こえてこなかった。
「……あれ?」
夢月は思わず店内の隅々にまで視線を走らせた。
「拓さんは一緒じゃないんですね」
マスターがカウンター越しに、少し首を傾げながら尋ねてくる。
「あ、はい」
夢月は肩から提げた鞄のベルトを固く握り締めながら、頷いた。
「実は、八雲君が今日も学校に来ていなくて。もう三日も休んでいるんです」
「そうですか」
マスターの優しげな目元が、少しだけ陰りを帯びる。
そして、いつもの指定席であるカウンターの端に視線を向けると――。
そこには、黒猫の珠吉がいた。
いつものようにカウンターの上に香箱座りで丸まっている。
ただし、いつもの毛並みの艶やかさが失われているように見え、見るからに元気がない。
普段なら夢月が入ってきた瞬間に声をかけてくるはずなのに、丸くなったままピクリとも動かない。
『あいつ、今日も来ないのか』
「うん。学校も休んでて……連絡も取れなくて」
『そうか』
珠吉の黒い尻尾が、力なくしょんぼりと垂れ下がり、カウンターの木目を力なく擦った。
「あの、右京さんや伊吹さん達は?」
夢月は店内の空虚さに耐えかねるように尋ねた。神楽や伊吹の、あの存在感のある姿も何処にもない。
「それが、お二人もここ数日、姿を見せておられないんです」
「え?」
「梢さんもです。急にご不在になられて」
その言葉に、夢月は目を瞬かせた。
マスター。
珠吉。
そして夢月。
店内にいるのは、この三人だけ。
いつもなら時空を超えて集う賑やかな常連客達で満たされているはずの店内には、今や人影が全くなかった。
しん、と静まり返った店内に、柱時計のカチカチと時を刻む音だけが、やけに大きく、冷ややかに耳へ響いてくる。
まるで、この店だけが現実の時間軸から切り離され、世界の果てに取り残されてしまったかのようだった。
「その……」
夢月は言葉を詰まらせ、手元の冷めかけた紅茶のカップを両手で包み込むように握り締めた。何から話せばいいのか分からず、不安そうに身を竦める。
しん、と静まり返った店内。柱時計の刻む音だけがやけに大きく響く中、マスターはカウンター越しに優しい眼差しを向け、夢月を安心させるようにゆっくりと頷いた。そして、確認するように静かな声で問いかける。
「拓さんが休み始める前日、夢月さんと一緒に帰りましたよね」
静かな店内に響いたマスターの問いかけに、夢月はハッと顔を上げた。その眼差しに含まれた真剣さに促されるように、ゆっくりと記憶の手繰り糸を解いていく。
あの日の夕空の色、肌を撫でた冷たい風、そして隣を歩いていた八雲の横顔――。
「はい。夢幻喫茶を出て、住宅街の途中の分岐点まで一緒に歩きました」
「その後は?」
「『じゃあ、また明日』って普通に声をかけ合って、別れました。八雲君は自分の家の方へ一人で歩いていって」
「なるほど」
マスターが顎に手を当て、深く静かに頷く。
その横で、珠吉がノソリと起き上がり、低い声で呟いた。
『その後に、何かがあった……ということか』
夢月の背筋を、氷のような冷たいものが駆け抜けた。
考えたくはなかった。ただの風邪であってほしいと、心の何処かで強く願っていた。
けれど、八雲が学校を休み始めた日。
その前日に起きたこと。
珠吉は、青ざめていく夢月の様子を黄色い瞳でじっと見つめていた。
『……マスター』
「分かっています」
彼らが意を通じ合わせたように、同時にカウンターの奥へと向かった。
「え? あの、マスター?」
夢月も慌てて彼らの後を追う。
珠吉はカウンターの奥にある古びた木製の棚へ向かうと、小さな身体を押し込むようにして、突然その中へ頭を突っ込んだ。
『おいマスター、何処にしまった? あれだ、あの奥の引き出しだ』
「何を探しているんです、珠吉?」
『だから、あれだと言っているだろう!』
「具体的に言ってくれないと分かりませんよ」
『だから、あの時のアレだよ!』
「説明になっていませんねぇ」
マスターは困ったように苦笑しながらも、珠吉の横に屈み込み、二人して棚の奧をガサガサと漁り始めた。
ガサガサ。
ガサガサガサ。
『これじゃないな』
「それは昔のメニュー表ですね」
『なら、こっちの小箱か?』
「それは私が趣味で集めている古い領収書です」
『……そうか』
「そうです」
緊張感があるのかないのか分からない遣り取りをしばらく続けた後。
『……あった! これだ!』
珠吉が勢いよく棚から顔を出した。
その小さな口には、一枚の古びた紙切れが咥えられている。
「何、それ……?」
夢月は首を傾げ、カウンターの上に置かれた謎の紙きれへとじっと視線を落とした。
珠吉は小さな鼻先でそれをちょんと突き、何でもないことのように黄色い瞳を瞬かせる。
『ただの紙だ』
珠吉はそう言うと、マスターに両手で優しく抱え上げられ、カウンターの上へと降ろされた。
紙は一見すると、何処にでもある羊皮紙のような、少し黄色みがかった普通の紙切れに見えた。
けれど、ハサミで切り抜かれたその形だけが、少し変わっていた。
羽を大きく広げた鳥のシルエット。
鋭いクチバシと滑らかな翼。まるで、烏を模した形だった。
『これから、あいつの家に行くぞ』
「え?」
唐突な宣言に、夢月は驚いて目を丸くした。
カウンターの上の珠吉を見つめ、それから不安そうにマスターの方へと視線を移す。
マスターはいつもの穏やかな笑みを崩さないまま、夢月の混乱を受け止めるように優しく頷いた。
「拓さんの家まで行っていただけますか、夢月さん」
「で、でも……私、八雲君の家がどこにあるのか、詳しい住所を知らないですよ?」
『だから、これを使うんじゃないか』
珠吉がカウンターの上で、咥えていた紙をポんと置いた。
「これって、ただの紙だよね?」
『ただの紙だが、ただの紙ではない。おい、行くぞ』
珠吉は軽やかな四足歩行でカウンターから飛び降り、店の入口の扉へと向かう。
『我もついていこう』
「珠吉も来るの?」
『当然だ。道中でお前に何かあったら、誰にエサの文句を言えばいいのだ』
強がりを言うその黒い尻尾が、緊張でピンと真っ直ぐに立っていた。
❁
日が西へと大きく傾き、街全体がオレンジ色と濃い紫色の影に呑み込まれ始めた頃。
夢月は静かな住宅街の坂道を歩いていた。
その右肩には、ちょこんと乗った黒猫の珠吉の重みがある。
「ねぇ、これ何?」
肩に乗る珠吉に問いかける夢月の額には、一枚の札のような紙が貼ってある。
息をする度にピラピラと揺れるそれは、どういう原理か目に掛かっていても前が見えた。
『お前はあいつと違って怪異が見えるわけではない。夢幻喫茶では縁があるが故に目にすることができているが、一歩外に出れば一般人だ』
「こんな紙一枚で、怪異が見えるようになるんだね」
『弱く、存在が曖昧な怪異は見えん。我のように、それなりに長く妖として生き、力がある妖だけが見えるのだ。その方が何かと都合がいいだろう』
「確かに、あれやこれや怪異が見える方が気が滅入りそう」
それこそ、八雲の悩みであることに気づいた夢月は唇を噛み締めた。
彼は毎日、毎分のようにそんな悩みに苦しんでいる。その苦しみを夢月が理解できることはない。
気を紛らそうと他愛のない会話を交わしながら角を曲がると、見覚えのある場所に辿り着いた。
古いコンクリートの電柱と、ブロック塀が広がる三叉路。
『ここで別れたのか』
珠吉が肩の上から首を巡らせ、周囲の気配を探るように耳をぴくつかせた。
「うん」
夢月も足を止め、周囲を見渡した。
あの日。
夕陽が今と同じように街を赤く染めていた刻。
八雲はここから一人で「じゃあ、また明日」と言って歩いて行ったのだ。
「八雲君は、あっちへ行ったの」
夢月が、記憶の残像を手繰り寄せるようにそっと指を差す。
右手には、夕暮れの街灯がポツポツと灯り始めた、どこか冷ややかな傾斜の急な坂道。
左手には、古い住宅の塀と電柱の隙間に挟まれ、昼間でも薄暗い影を落としている狭い路地。
そして正面には、遠くまで見通せるものの、何処か殺風景で人の気配が途絶えた平坦な道。
三方向へと複雑に枝分かれしている道のうち、あの日、八雲が寂しげな背中を丸め、吸い込まれるように姿を消していったのは――左側の、あの深く暗い路地だった。
『なら』
珠吉がトんと軽い音を立てて夢月の肩から地面へと跳び降りた。
『これの出番だな』
夢月はポケットの中から、店を出る時にマスターから手渡された紙切れを取り出した。
烏の形に切り抜かれた、古びた紙。
掌に乗せて光にかざしてみても、やはりただの古い和紙にしか見えない。
「これ……本当に使えるの? 八雲君の家まで案内してくれるなんて思えないんだけど」
『使えると言ったら使えるのだ』
「でも、どうやって?」
珠吉は地面から夢月をじっと見上げた。
『お前は、物を大切にするか?』
「え?」
突然、全く関係のない問いを投げかけられ、夢月は戸惑った。
「物を……大切にするか、って?」
『そうだ』
「うーん……大切にしてると思うけど。小学生の時に買ってもらった筆箱も、ボロボロになるまで何年も使ってたし……文房具とかも、失くさない限りずっと同じものを使うかな」
『物持ちがいいんだな』
「それなりにはね」
珠吉は満足そうに「ふむ」と喉を鳴らした。
『なら問題ない』
「何が問題ないの?」
『その紙はな、持ち主の『想い』を受け取る触媒なのだ』
夢月は自分の掌の上に乗った烏の紙を見つめ返した。
「想いを……受け取る?」
『そうだ。付喪神という言葉を知っているだろう? 物は長年使われ続けたり、強い意思を持った人間に大切にされたりすることで、持ち主の想いを記憶し、自我のようなものを宿すことがある。この紙は、そうした『想い』に反応するように作られた符なのだ』
「じゃあ、物を大切にする私なら……?」
『この紙に眠る力を引き出し、応えてくれる可能性が高いということだ』
夢月は呼吸を整え、掌の上の紙を見つめた。
半信半疑だった。どう見ても科学的な根拠など何一つない、おまじないのようなものだ。
けれど、今は、これに縋るしかなかった。他に八雲の居場所を知る手がかりは何も存在しないのだから。
「どうすればいいの、珠吉?」
『集中しろ』
「集中……」
『ゆっくり目を閉じろ。そして、お前の純粋な願いを心の中で思い浮かべるんだ』
「願い……」
『そうだ。そして、八雲拓という存在を強く連想しろ』
夢月は言われた通り、ゆっくりと瞼を閉じた。
視界が暗闇に包まれ、耳に届く風の音と、掌に乗った紙のカサついた薄い感触だけが意識の中心に残る。
八雲拓。
いつも朗らかな笑顔を絶やさず誰とでも仲良くなれるクラスの人気者、でも困っている人を見捨てられない優しい一面がある人。
夢幻喫茶のカウンターで、神楽の揶揄いに「勘弁してくださいよ」と呆れ顔で突っ込んでいた八雲。
放課後の帰り道、くだらない学校の愚痴を言い合って、二人で笑った時間。
怪異の不気味な気配に怯えながらも、夢月の前に立って庇おうとしてくれた背中。
そんな、温かくて、当たり前だった日常。
その中心には、いつだって八雲がいたのだ。
「……」
けれど、強く念じているうちに、夢月の心の中に一つの素朴な疑問が芽生えた。
「珠吉……何を願えばいいの? 『八雲君の家に行きたい』って思えばいいの?」
目を閉じたまま尋ねる夢月に、珠吉の低い声が響いた。
『ただ『会いたい』と願うのではない。『あいつの家へ、あいつの元へ導いてくれ』と、その紙に道を乞うのだ』
夢月はもう一度、深く呼吸を吸い込んだ。胸の奥で、八雲に会いたいという切実な想いを強く、強く固めていく。
(八雲君の家へ……)
心の底から、手のひらの上の紙へと語りかける。
(お願い。八雲君のところへ、私を導いて……!)
強く願った、その瞬間だった。
チリ……。
掌の上で、微かな振動が伝わってきた。
夢月は驚いてパッと目を開ける。掌に乗せた紙が、バサバサと鋭い音を立てて身震いを始めた。
「えっ……!?」
夢月が驚いて思わず手を離しかけた、まさにその瞬間。
紙切れはまるで確かな意思を持った生き物のように、力強く羽ばたいた。
ただの薄っぺらかった紙が空中に舞い上がり、軽やかにくるりと一回転する。
そして、次の瞬間には、一羽の見事な烏へと姿を変えていた。
陽光を弾く艶やかな黒い羽。
獲物を射抜くような鋭い嘴。
風を孕んで大きく広げられた翼。
だが、その佇まいは普通の烏とは明らかに一線を画していた。異様な存在感と神聖な気配を纏っている。
「カラス……?」
『八咫烏だ』
珠吉がさも当然といった様子で答える。
『我々を導いてくれる案内役だな』
八咫烏は一度だけ夢月達の頭上を優雅に旋回した。そして、こちらの様子を確かめるように「カァ」と短く鳴く。
次の瞬間、大きく翼を羽ばたかせると、一直線に道の先へと飛んでいった。
「あ、待って!」
夢月と珠吉は顔を見合わせ、慌ててその後を追った。
八咫烏は迷う素振りすら見せず、入り組んだ住宅街を滑らかに進んでいく。曲がり角に差し掛かると、迷いなく右へ。夢月達も風を切るように続いて右へ曲がる。
その光景を走りながら見上げていた夢月は、ふと以前の出来事を思い出していた。
――鬼女と対峙した、あの緊迫した時のこと。
あの時も、夢月達は不思議な存在に導かれたのだ。
神楽から託された一枚の札。あれは途中で命を得たように、一羽の白い鳩へと姿を変えた。そしてあの鳩に導かれた先で、夢月達は恐ろしい鬼女と出会うことになったのだ。
「そういえば……前にもあったよね、こんなこと」
『何がだ?』
「こうやって、紙が生き物になって案内してくれるの」
『まあ、似たようなものだな』
珠吉は前方を軽やかに飛ぶ八咫烏を見上げながら答える。しかし、夢月の胸には小さな違和感が残っていた。
「あの時は、右京さんがくれた特別な札だったけど……」
夢月の手元には、もう何も残っていない。
今回使ったのは、珠吉から『これを使え』と渡された一枚の紙だ。しかも、特別な霊力が込められた和紙などではない。何処にでもある画用紙を、ただ烏の形に切り取ったようにしか見えないものだった。
「ねえ」
『なんだ』
「『物持ちのいいお前なら応えてくれる』って言ってたけど……あれ、どういう意味だったの?」
珠吉はしばらく沈黙を守っていた。やがて、八咫烏から目を離さないまま、静かに口を開く。
『あの烏は、付喪神だ』
「付喪神?」
『ああ』
珠吉の声から戯けが消え、少しだけ真面目な響きが混じる。
『古い道具や、長く大切に使われた物には、時として魂が宿るとされている』
夢月は空を見上げた。黒い翼が、徐々に茜色に染まりつつある夕暮れの空を鮮やかに切っていく。
『長い年月を経た物に宿る精霊。それが付喪神だ』
「じゃあ、あの紙にも魂が?」
『紙そのものというよりは、そこに込められた『記憶』だな』
「込められたもの?」
『人間の想いだ』
珠吉は前を見つめたまま、夢月の数歩先を歩きながら続ける。
『物を長い間、大切に使っているとな、その人の感情や気配が、深く物に染みついていくことがある。嬉しかったこと、悲しかったこと、誰かを心から愛おしいと思った気持ち……時には、憎しみや嫉妬のような負の感情までな』
思わず夢月は立ち止まり、ゆらりゆらりと揺れる珠吉の尻尾を見つめる。その目には、一抹の悲哀が滲んだ。
数メートル先で立ち止まった珠吉は、そのつぶらな琥珀色の目を細めて夢月を見る。
『そういう想いの積み重ねが種となり、やがて物に命が宿るのだ』
「人の気持ちが、物に……」
『そういうことだ』
決して歩み寄ることはせず、じっと夢月の中を見透かすように見つめる。
夢月はその瞳を見つめたまま、ゆっくりと一歩を踏み出した。
『だからな、物を長年大切に扱うお前が触れれば、付喪神もすんなりとお前に心を許し、力を貸してくれると思ったのだ』
「なるほど……そういうことだったんだ」
『ものを大切にすれば神様にも気に入られる。単純な話だ』
「なんだか、昔話のお説教みたい」
『昔話そのものだからな』
珠吉がフンと鼻を鳴らす。夢月は思わずくすりと微笑んだ。
けれど、前を飛ぶ八咫烏を見つめ直すと、すぐに表情を引き締める。それから、先を飛ぶカラスの後を追いかけ走り出した。
夕闇が迫る住宅街。
曲がりくねった細い路地を、紙の烏は引っ掛かることもなく、まるで透明な糸に引っ張られているかのようにスムーズに滑空していく。右へ曲がり、階段を降り、古い木造のアパートの脇を抜け――。
夢月は夢中で足を動かしながら、心の中で八雲の名を呼び続けていた。
(八雲君……今、行くから……!)
けれど、走れば走るほど、夢月は肌に纏わり付く異様な違和感を覚え始めていた。
街の様子がおかしい。
最初はただの夕暮れだと思っていた。しかし、路地を奥へ進むにつれて、街灯の灯りがやけに小さく、弱々しく見えてくる。
民家からは夕飯の匂いも、テレビの音も一切聞こえてこない。
通り過ぎる家の窓はどれも真っ黒に落ち込み、まるで人が住んでいない廃屋の群れの中を走っているかのような、奇妙な静寂が街全体を支配していた。
冷たい。
空気が、刺さるように冷たい。
夢月は走る足を緩めることなく、左腕を強く抱え込んだ。
以前、夢幻喫茶で鬼女の薔薇を見た時に走った、あの原因不明の鋭い痛みが、再び右腕の皮膚の奥でピリピリと蠢き始めていたのだ。




