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おいでませ夢幻喫茶へ  作者: 榊原蓮華草
現し世の間、見透かす目
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32/44

未来人?・2




 神楽と伊吹が夢幻喫茶を後にしたのは、ちょうど西日が街路樹の葉を黄金色に染め上げ始めた時刻のことだった。

 赤煉瓦のハイカラな街並みを、夕陽が橙と朱の混ざり合った薄闇で優しく包み込んでいく。

 ガタゴトと高い金属音と車輪の振動を響かせて走り去る路面電車。通りを行き交う人々の履く下駄や利休履きが擦れる乾いた音。それらの都市の雑音の中に、突如として割り込む声があった。


「おい」


 人通りのある街道の途上で、背後から低く重い声が飛び、周囲の空気を一瞬で凍りつかせる。


「ん?」


 神楽は足を止めると、外套の裾を優雅に揺らしながらゆっくりと振り返り、いつものように何処か戯れるような、捉えどころのない笑みを唇に浮かべてみせる。


「あれ。君も出てきたのかい」


 振り返った神楽の視線を受ける伊吹の顔に、笑みなど微塵もなかった。

 軍服の襟を正し、軍帽を深く被り直すと、その庇が落とす深い影から、鋭い眼光で神楽の表情を真っ直ぐに見つめている。

 引き締まった口元は一文字に結ばれ、身に纏う隙のない独特の緊張感が、大正浪漫に華やぐ街の平和な空気から彼を異物のように浮き彫りにしていた。


「どうしたんだい?  そんなに怖い顔をして」

「何か気になることでもあったんだろう」


 神楽の軽い軽口を容易く無視し、伊吹は核心を突く。


「……それを聞くために着いてきた、と?」

「ああ」


 無駄を徹底的に削ぎ落とした伊吹の言葉に、神楽は困ったように肩を竦めてみせた。 

 立ち止まった二人の異様な佇まいを余所に、雑踏の中を街の人々が次々と通り過ぎていく。

 矢絣(やがすり)の着物に海老茶色の袴をつけ、編み上げ靴を鳴らして楽しそうに囁き合う女学生達。漆黒の蝙蝠傘(こうもりがさ)を手に、胸ポケットの懐中時計を気にしながら歩く洋装の紳士。重そうな大きな風呂敷包みを背負い、額の汗を拭う商人。そんな活気ある大正の風景の中で、二人だけが時間から切り離されたかのように、ただ静かに佇んでいた。

 時が二人を避けて流れているかのような、不自然なまでの隔絶感。


 神楽はしばらく沈黙を守っていた。通りを抜ける冷ややかな風が、彼の外套と髪を揺らすのをじっと見つめていたが、やがて諦めたように小さく、深々と溜息を吐き出す。


「……まったく。君は昔から、そういう余計なところばかり鋭いね」

「誤魔化すな」

「誤魔化しているつもりはないんだけどね。ただ、藪を突ついて蛇を出すような真似は、風流じゃないと言いたいだけさ」

「なら話せ」

「はいはい。相変わらず冗談の通じない男だ」


 神楽が軽やかに掌を翻し、再びゆっくりと歩き出す。伊吹もまた、当然のようにその隣へ歩調を合わせた。固い軍靴の靴底が地面を叩く重厚な音と、神楽の奏でる軽快な足音が、一定の間隔で並んで刻まれていく。


 言葉を交わさぬまま進む足先が向かうのは、先ほどまでいたモダンな夢幻喫茶から数丁ほど離れた、路地裏にひっそりと佇む甘味処――今ではすっかり二人の馴染みの場所となった『蜜富(みつとみ)』であった。

 表通りの繁華街の喧騒から一本入ったそこは、打ち水がされたばかりの石畳が夕陽を反射して濡れた光を放っている。築何十年もの時を刻んだ古風な木造建築の店構え。軒先には風に揺れる青い暖簾が掛かり、何処か懐かしい木と砂糖の香りが漂っていた。

 店の前に到着すると、二人は店内の賑やかな座敷に入るのではなく、表の庇の下に置かれた朱塗りの長椅子へと腰を下ろした。

 暖簾の奥からは、ハキハキとした店員の明るい声が店内へ響いている。


「いらっしゃいませー!  こちらへどうぞ、すぐにお茶をお持ちします!」


 活気ある声に混じって聴こえる、冷やしあんみつの小鉢に陶器と匙が触れ合う澄んだ音。香ばしく網の上で焼き上げられた団子と、甘辛いみたらしの焦げる芳しい匂い。お茶を啜りながら世間話に花を咲かせる客達の和やかな話し声。

 いつもと何も変わらない、長閑で穏やかな大正の昼下がり。

 けれど、長椅子に深く腰掛けた神楽の横顔だけは、視線を遠くの茜色の空へ向けたまま、硬く強張っていた。


「お待たせしました、温かいお茶でございます」


 看板娘が気を効かせて運んできた湯飲みの湯気が、二人の間にゆらゆらと立ち上る。伊吹は短く「重宝する」とだけ言い、湯飲みを手に取った。ずず、とお茶を啜る音が、一瞬だけ二人の間の重苦しい沈黙を切り裂く。


「あの未来人」


 湯飲みを膝の上に戻し、横から神楽が低い声で口を開いた。


「ん?」

「やけに夢月のことを見ていた」


 神楽の美しい眉が、僅かにぴくりと動いた。だが、顔の角度は変えない。


「そこが気になるのか?」

「気になるだろう。あのような異質な気配……この時代の人間でも、また我々のような存在とも異なる気配を纏った男が、意味ありげに彼女を視線で追っていたんだからね」

「そうか」

「まるで、あらかじめ彼女の存在を知っているような目だった」


 神楽は深く目を細め、先ほど夢幻喫茶を去っていった男の不気味な面影を脳裏で反芻するように、ひとつひとつ言葉を確かめながら重ねていく。


「単なる初対面の興味や観察じゃない。以前から彼女という人間を、その運命を含めて知り尽くしている者の目だ。……夢月と、過去か、あるいは未来で会ったことがあるようにも見えた」

「……」

「君は、何か知っているんじゃないのかい。伊吹」


 直球すぎる問いに、伊吹はすぐには答えない。その代わり、静かに目を開き、ふう、と長く、深く息を吐き出した。湯飲みの湯気が彼の息と共に揺れて消える。


「お前が本当に聞きたいのは、それではないのだろう?」

「まあ、そうなるね」

「気になることがあるなら言え」


 伊吹は活気あふれる店の中、そして通りを行き交う人々の影へと視線を向けると、ほんの少しだけトーンを落とし、隣の伊吹にしか届かないほど深く声を潜めた。


「俺が気になっているのは、その『未来人』そのものの正体じゃない」

「……何?」

「彼が夢月を見ていたこと。そして――」


 一度言葉を切り、神楽は細く白い指先で長椅子の朱塗りの木目を、愛おしむように、あるいは探るようにそっと撫でた。


「俺達が、わざわざあの刻、あの場所に居合わせたことだ。全ての事象があまりにも綺麗に繋がりすぎている」


 伊吹は黙ってその言葉の真意を探るように、神楽の横顔を睨みつけた。軍帽の庇の奥で、鷹のように鋭い眼光が鈍く光る。


「どういう意味だ。俺達が店にいたのは、単なる気まぐれだろう」

「果たしてそうかな?」


 神楽は薄っすらと微笑んだが、その瞳の奥には欠片ほどの笑意も存在しなかった。


「俺達がここに来たのだって、本当にただの気まぐれだと思うかい?  何者かに誘導されてる気がしてならないんだよ」

「誰がそんなことするんだ」

「まだ確証はない。ただ、なんだか嫌な予感がするんだよ。仕組まれてるようなね」


 神楽は諦めたように苦笑し、手元の湯飲みをゆっくりと回した。


「まるで、誰かが裏で仕組んで全員をここに集めたみたいじゃないか」

「仕組んだ……?  あいつ等を巻き込んで、一体何を企んでるんだ」


 伊吹の声に、微かな殺気が混じる。彼にとって夢月や仲間達の平穏を脅かす存在は、誰であろうと斬り捨てるべき対象でしかなかった。


「落ち着きなよ、伊吹。まだ刀を抜く場面じゃない。ただ……」

「ただ、何だ」

「粗方、見当はついているのさ。この奇妙な盤面を動かしている『中心』が何処にあるのか」


 低く、研ぎ澄まされた刃のように鋭い伊吹の問いが飛ぶ。


「誰だ」


 神楽はしばらく答えなかった。ただ静かに遠くの空を見つめ、大正の街道に響く雑踏の音に耳を澄ませている。


「……八雲」


 長い時間を掛けてぽつりと漏れたその名は、思いがけないものだった。


「八雲?  あのやけに危なっかしい少年か?」


 伊吹は意外そうに眉を顰めた。八雲といえば、普段は忙しなく五月蝿くて、それでいてお人好しな、夢幻喫茶の常連である普通の少年に過ぎない。ただ、人には見えないものが見えてしまうという「目」を持っていること以外は。


「そうさ。あの少年だよ。この妙な胸騒ぎの中心にいるのはね」

「八雲が噛んでいるとでも言うのか」

「まさか。本人は何も知らないさ。自分がどんな厄介事に巻き込まれかけているかも、その『目』がどれほど危険なものを引き寄せているのかもね」


 神楽は手に持っていた湯飲みをそっと長椅子の上に置き、視線を落とした。揺れる茶柱を追うその眼差しには、いつもの戯れるような軽さは一切ない。

 伊吹は無言のまま、軍帽の庇の陰からじっと神楽の横顔を睨みつけていた。周囲を行き交う街の人々の足音や店員の明るい声が、二人を避けるように遠くへ流れていく。


「未来人の視線、夢月の存在、そして俺達がそこに集められたこと……全ての糸は、最終的にあの少年の元へと繋がっている。彼が引き寄せてしまっているんだよ。過去も、未来も、そして異形の者達までも」

「あの少年の『目』がか」

「ああ。見るべきではないものまで見えてしまうその目が、いよいよ世界の歪みを呼び込み始めたのかもしれない」


 何気なく落とされたその言葉だけが、甘味処『蜜富』の長閑なみたらしの香りと喧騒の中で、妙に重く、そして冷ややかに途切れず響いていた。


「ならば、なおさら放置はできんな」


 伊吹は力強く言い放ち、腰の長刀の柄に自然と手を置いた。軍服越しにも伝わるその筋骨隆々とした体躯から、圧倒的な圧迫感が放たれる。


「あの少年に何かが迫っているというのなら、俺達が立ち塞がるまでだ。どのような怪異であろうと、俺が刃の錆にしてやる」

「頼もしいねぇ、剣豪殿は」


 神楽はクスクスと軽やかに笑ったが、すぐにその笑みを消し、真剣な眼差しで伊吹を見つめ返した。


「でもね、伊吹。相手が切り捨てられる『肉体』を持った存在ならいい。けれど、もし迫っているのが『運命』そのものや、もっと因果の深い何者かだとしたら……剣一本で守り切れるかい?」

「……それが本題か」

「俺達は見守り、備えるしかないのさ。彼がその過酷な運命に呑み込まれる前に、伸ばされた手を掴めるようにね」


 夕暮れの風が一際強く吹き抜け、甘味処の暖簾を激しく揺らした。

 街灯に明かりが灯り始め、大正の街並みはゆっくりと昼から夜へとその姿を変えていく。暖かな橙色の光が灯る一方で、建物の影、路地の奥、コンクリートの電柱の陰には、濃密で禍々しい「黒」が静かに溜まり始めていた。

 神楽は立ち上がり、衣服に付いた塵を軽く払う。伊吹もまた軍帽を目深に被り直し、重い足取りで歩き出した。


 二人が去っていった長椅子の横、路地裏の暗がりの中から、じっと二人を見送る「見えない視線」が存在していることに、まだ誰も気づいてはいない。

 大正の華やかな街の裏側で、八雲の持つ「目」を狙う漆黒の影が、着実に、刻一刻とその歩みを進めていたのだった。





 

 ❁





「まただ」


 また、見られている。

 住宅街の緩やかな坂道を歩きながら、八雲は心の中で吐き捨てるように呟いた。

 夕刻にはまだ間がある時間帯。橙色に染まり始めたアスファルトの道路には、買い物帰りの近所住民がちらほらと歩いており、勢いよくペダルを漕ぐ一台の自転車が風を切って八雲の横を通り過ぎていく。何の変哲もない、何処にでもある静かな郊外の日常風景。


 ――の、はずだった。


 右前方、古びたコンクリートの電柱が一本立っている。

 その隣。ヒビ割れたブロック塀と電柱のほんのわずかな隙間に、それは存在していた。

 黒い、煙のようなナニカ。ゆらゆらと揺らめく不吉な霧のようにも見えるが、物質として濃すぎる陰影を持っている。太陽の光を吸い込むようなその黒は、輪郭が曖昧で、地面に溶け出すようにだらりと揺れていた。

 そして、その蠢く黒身の中央に、ギョロリと濡れた大きな目が一つ、真っ直ぐにこちらを見つめていた。


「……」


 八雲は見なかったことにした。すっと視線を正面へ逸らし、歩く速度を変えずにそのまま通り過ぎようとする。

 こういう不気味なものには一切関わらない。それが幼い頃から身につけた生き残るための鉄則だった。

 見えても、見えないふり。聞こえても、聞こえないふり。たとえ目の前に立ち塞がれても、決して反応を示さない。無視し続ければ、相手は反応のなさに飽きて勝手に消えていく。


 今までは、そうだった。


『うぅ……』


 背後から、耳の鼓膜を直接湿った手で撫でられるような不快な声が響いた。

 八雲は振り返らない。拳を強く握り締め、ただ前だけを見る。


『ああ……っ』


 粘着質のある不快な塊を引きずる音が重なる。湿った肉が地面を擦るような音。人間の足音ではない。だが、確実に自分の背後へと接近してきている。


「……」


 八雲の歩幅が少しだけ大きくなった。足音が早くなるのを悟られないよう、必死に平常心を装う。


『……あ……たく……』


 また声が響く。今度は空気の振動を介さず、はっきりと耳の奥へ直接届いた。間違いなく自分を呼んでいる――そんな悪寒が背筋を駆け上がり、冷や汗が首筋を伝落ちる。


「……やめろよ」


 八雲は声に出さず、喉の奥で小さく呟いた。

 返答はない。けれど、後頭部に突き刺さるような異様な視線が熱を持って迫ってくる。じりじりと距離が縮まっているのが、肌の毛穴が開く感触で解かる。

 耐えかねた八雲は、とうとう鉄則を破って足を止め、勢いよく後ろを振り返ってしまった。


「っ……!」


 黒い影。さっき電柱の影にいたナニカが、僅か数メートル後ろの路面上に佇んでいた。

 いや、浮かんでいるのではない。粘液のような黒い身体を地面にしがみつかせるように這っている。まるで影そのものが自我を持ち、這いずり回っているかのようだった。その中央に鎮座する巨大な単眼が、歓喜に歪むように瞬きをする。


「……まじかよ」


 八雲の顔から血の気が引き、引きつった笑みが漏れる。

 彼は足早に歩き出した。後ろの影も同じように速度を上げる。ずるり、ずるりという音が加速する。八雲が耐えきれずに小走りに移行すると、影も地面を滑る黒い液体のように距離を詰めてきた。


「なんでっ!  なんで追ってくるんだよ!」


 ついてくるなんて、今まで一度もなかった。


「なんなんだよ、お前……!」


 ついに八雲は走り出すと、住宅街の路地を全力で駆け抜ける。鞄が背中で激しく跳ねる。すれ違う歩行者達が何事かと驚いた顔で八雲を見るが、八雲の背後を猛スピードで追ってくる黒い影の存在には、誰も気づいていない。彼らの目には、ただ一人の少年が何もない空気を恐れて狂ったように走っているとしか映っていないのだ。その孤独感が、さらに八雲の恐怖を煽る。


「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……!」


 見慣れた我が家の角を曲がり、門構えが見えた。

 八雲は勢い任せに敷地へ飛び込み、玄関のドアノブを掴んで跳び込むと、バンッと大きな音を立てて扉を閉めた。

 震える手で鍵を掛け、チェーンを引っ掛ける。背中をそのまま頑丈なドアに預けて滑り込むように崩れ落ちた。荒い呼吸が狭い玄関に響き渡る。心臓が胸破らんばかりに脈打っていた。


「来てない、よな」


 恐る恐る立ち上がり、爪先立ちになってドアの覗き穴に目を近づける。

魚眼レンズの歪んだ視界の向こう。誰もいない静かな道路。夕暮れの日差しが落ちる門の前にも、あの黒い影の気配はない。


「ふぅ、助かった……か」


 胸を撫で下ろし、膝の震えを抑えようとした、まさにその瞬間だった。


「おかえり、拓」

「!」


 奥のリビングから、母親がパタパタとスリッパの音を立ててひょっこりと顔を出した。


「浮かない顔だね。何かあった?」


 エプロン姿のいつものふんわりとした柔らかい笑顔。その温かな顔を見た瞬間、八雲の全身にピンと張っていた緊張の糸がふっと切れた。


「……ただいま」

「また見えちゃったの?」


 母親は驚く様子もなく、全てを包み込むような優しいトーンで尋ねる。言葉の裏に深い慈愛が滲んでいた。


「うん」

「そう」


 それ以上、母親は何も追及しない。何かを問い詰めても息子の負担になるだけだと知っているのだ。八雲もまた、心配をかけたくなくて多くを語ろうとはしない。

 世界で唯一、母親だけは知っていた。息子が普通の人には見えない「異形のもの」を見てしまうという特殊な体質を。そして、それゆえに八雲が幼少期からどれほど恐怖し、深い孤独を抱え込んでいるのかを。


「無理しないでね。何かあったらすぐ言うのよ」

「分かってるって」


 八雲は静かに靴を脱ぎ、鞄を引きずるようにして階段を上がっていった。

 二階の自分の部屋へ入ると、八雲は鞄を床へ投げ捨て、吸い寄せられるようにベッドへ倒れ込んだ。シーツに顔を埋める。


「……疲れた。なんで俺ばっかり」


 ぎゅっと目を閉じる。すると、暗くなったまぶたの裏に、先ほど見つめられたあの黒い影の異形が鮮明にフラッシュバックした。

 濡れた巨大な一つの目が、じっと自分を凝視している感触。肌にこびりついたような不快感が消えない。


「……」


 八雲は飛び起きるように目を開け、仰向けになってじっと天井の木目を見つめた。


「こんな目さえなければ……」


 ぽつりと零れ落ちた言葉。部屋の静寂に吸い込まれていく、乾いた呟き。

 それは自分を呪う恨みなのか、理不尽な体質への憎しみなのか、それとも切実な平穏への願いなのか――八雲自身にも分からなかった。


 ただ、幼い頃からずっと胸の底で思い続けてきたこと。

 普通の目が欲しい。


 余計なものなど何も見えなくていい。霊も、妖怪も、影も、何も聴こえなくていい。他の皆と同じ「普通」の日常を生きられるのなら、そのためにならなんだって差し出してもいい。


「……まただ」


 小さな溜息が出るのは、これで何度目だろうか。

 思い返せば昔から、何度も何度も不気味な怪異に遭遇してきた。小学校の薄暗い廊下で、通学路の古い祠で、自室の押入れの前で、誰もいないはずの公園で。何処へ行こうとも「何か」がそこに居座り、八雲をじっと見つめ、歪んだ執着を持って近づこうとしてきた。

 幼かった頃は怖くてたまらなかった。泣きじゃくりながら母親の服の裾を掴み、「どうして僕だけなの」「どうして僕に見えるの」と何度も問い詰めた。けれど、そんな理不尽な体質に答えなど存在するはずもなかった。

 だからこそ、八雲は生きるために諦める術を覚えたのだ。


 見ない。聴かない。関わらない。

 己の心を無にして無視することだけが、自分という脆弱な存在を守る唯一の盾だった。


「……なのに」


 今日は明らかに違っていた。あの影は、明確な危険な意志を持って八雲を追ってきたのだ。いつもなら距離をとって家へ逃げ込めば、諦めて諦念とともに消えるはずなのに。


「なんで……」


 八雲は枕に顔を深く埋めた。

 部屋の中が急激に暗くなっていく感覚に襲われる。窓の外を見やれば、まだ陽は落ち切っておらず夕方にもなっていないはずだった。なのに、カーテンの僅かな隙間から覗く外の景色だけが、まるで濃墨を流し込んだかのように異様なほど暗く沈み込んでいる。


「……?」


 八雲は顔を上げ、窓辺を凝視した。

 違和感。部屋の中の空気が、重く湿り気を帯びて皮膚に纏わり付く。

 何かがいる。ガラス窓のすぐ外。網戸越しに、何かが部屋の中を覗き込んでいる。


「またかよ。しつこいな」


 嫌悪感を剥き出しにした声が漏れた。八雲はベッドから立ち上がり、外の存在を拒絶するように厚手のカーテンをきっちりと閉め切って背を向ける。


「そんな見てくんなよ」


 吐き捨てるように呟いた、その時。

 窓の外に渦巻いていた嫌な気配が、唐突に完全消滅した。


「……え?」


 八雲は思わず振り向く。カーテンの隙間を恐る恐る覗き込むが、そこにはもう何も存在しない。ただの静かな庭が見えるだけだ。


「……帰ったのか……?  なんだよ、脅かすなよ……」


 安堵の息を吐き出し、胸を撫で下ろそうとした、まさにその瞬間だった。


『ほしい』

「……!?」


 声が聴こえた。窓の外からではない。八雲が立っている、この閉ざされた部屋の内部から。しかも、すぐ耳元、息が掛かるほどの距離から。


『ほ、しい……っ』


 八雲の顔から急速に血の気が引いていく。体中の毛穴が一斉に開き、全身が凍りつく。

 ゆっくりと首を横へ向けた。誰もいない。視界には自分のベッドと勉強机があるだけだ。誰もいないはずなのに。


『め……』


 濡れた吐息のような声が、鼓膜を直接揺らす。脳の髄まで響く声。


『めが……ほしい……』

「やめろ!」


 八雲は狂ったように両手で強く耳を塞いだ。


『ちょうだい……その目……』

「……っ!」


 心臓が跳ね上がった。それは、八雲がこれまでの人生で一度も聴いたことのない種類の言葉。

 これまでの怪異は、八雲の存在に反応したり、ただ驚かせようとしたりするだけだった。自分の「目」そのものを明確に欲しがり、言葉にして要求してくる怪異など、存在するはずがないのに。


『その目が……ほしい……!』


 耐えきれなくなった八雲がその場から逃げ出そうと扉へ向かって立ち上がった、その瞬間。


「――っ!?」


 皮膚に、何かが直接触れた。冷たい。氷の塊をそのまま押し当てられたかのような、芯まで凍てつく惨烈な冷気。

 八雲は反射的に自分の腕を強く振り払った。狂ったように服を叩く。


「なんだよ……っ!  触るな!  入ってくるな!」


 誰もいない。部屋の中には自分一人しかいないはずだ。それなのに、触れられている。

 手首。腕。肩。何かが肌の上を滑るように這っている。粘りつくような冷たい感触が、服の上から、そして肌へ直接、ゆっくりと八雲の身体を上へ上へと這い登ってくる。


「やめろ……っ!  やめてくれよ!」


 胸元。首すじ。顎。知識の空白地帯を埋める不快な感触。そして――

 頬。


「……っ」


 触れられた瞬間、八雲は恐怖のあまり完全に息を止めた。全身の筋肉が硬直し、指一本動かせない。

 感触はさらに上へ。頬の皮膚をなぞり、目尻へ。まるで、八雲の「目の位置」を正確に確かめるかのように、冷たい多頭の指先のようなものが愛おしむように撫でまわす。


『……これ』


 耳元で、歓喜に狂い震える不気味な声が囁いた。


『これが……ほしい……』

「――!?」


 ズキン、と、突然、右の眼球の奥を物理的な太い針で貫かれたかのような鋭い激痛が奔った。


「っ…⋯!」


 八雲は両手で顔を覆い抱え込み、床へと崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。

 痛い。今まで生きてきた中で一度も味わったことのない、視神経を直接引き千切られ、奥から抉り出されるような地獄の激痛。


「うあ……っ!  ああ!」


 視界が真っ白に染まっていく。光も影も消え、ただ圧倒的な白と激痛だけが支配する。そして、その白濁した意識の渦の中に――一瞬だけ、八雲の見知らぬ光景がフラッシュバックのように鮮烈に映し出された。


 血のように赤く染まった、禍々しい空。

 誰もいない、建物が惨散に崩壊した荒廃した道。

 そして、その崩壊した世界の中心で、こちらをじっと見つめている――


 巨大な、一つの目。


「……誰、だ……お前……なんなんだよ……」


 痛みに耐えかねて意識が遠のく中、八雲は意識の底で力なく問いかけた。

 返答はない。ただ、


『やっと……』


 耳元で、全てを手に入れたかのような冷ややかな声が、確かに囁いた。


『見つけた』









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