未来人?・1
三部スタートです。
帰りのホームルームが終わり、ガタガタと椅子を引く音や笑い声が遠ざかっていく。教室が少しずつ放課後の静けさに包まれ始めていた。
鞄に分厚い教科書を詰め込み、机の横のフックに掛けた、まさにその時――。
「ねえねえねえねえ!!」
不意に視界が遮られ、目の前に華夏が躍り出てきた。あまりの勢いに、夢月は思わず上半身を仰け反らせる。
「か、華夏……?」
いつも元気が余っている彼女だが、今日は輪をかけて瞳を爛々と輝かせていた。何かとんでもない大発見でもしたのだろうか。
「夢ちゃんは、未来って信じる!?」
「未来?」
「そう、未来!」
勢いよく首を縦に振る華夏。何の話かと首を傾げていると、後ろから規則正しい足音が近づいてきた。
「何話してるんすか、二人して」
八雲が鞄をひょいと肩に掛けながら、不思議そうな顔で寄ってくる。華夏は彼を振り返るや否や、待っていましたとばかりに満面の笑みを弾けさせた。
「未来の話だよ!」
「未来?」
八雲もまた、先ほど夢月が浮かべたのと同じ困惑をそのまま顔に貼り付けたような表情で、首を傾げた。華夏のあまりの勢いに気圧されたのか、その目は何処か泳いでいる。
「未来がどうかしたんすか?」
「二人とも聞いたことない? 今すっごい噂になってる、未来人の話!」
「未来人……?」
華夏は「よくぞ聞いてくれました!」と言わんばかりの動作でポケットからスマートフォンを取り出した。
「ほら、これ! 今ニュースとかSNSで大騒ぎになってるの!」
差し出された画面を二人で覗き込む。そこには躍るような太字で見出しが掲げられていた。
『預言者現る!? この先起こる出来事を言い当てる謎の人物』
華夏が器用に親指を滑らせてスクロールする画面を追うと、そこには生々しい世間の証言がずらりと並んでいた。
「街中を歩いていたら見知らぬ男に突然声をかけられ、数分後に起きる接触事故を寸前で回避できた」
「長年探していた紛失物のありかを、すれ違いざまに言い当てられた」
記事を読むほどに現実味が薄れていくような内容ばかりだが、どのコメントも冗談や嘘で済ませるにはあまりに具体的で、相次ぐ報告にネット上が騒然としている様子が窺えた。
「預言者? 預言者って……あの聖書とかに出てくるような?」
「そう! 今、本物の未来人が街に現れたんじゃないかって、ネットで持ちきりなの!」
夢月達の困惑など何処吹く風といった様子で、華夏は弾むようなリズムで指先を画面の上で滑らせていく。画面がスクロールされる度、新しい証言や写真が次々と現れ、彼女の楽しそうな笑みを一層深めさせていた。
「しかもね、この噂、まさにこの街の周辺で囁かれてるの!」
「ほんとっすか?」
八雲が画面を覗き込みながら、疑わしそうに眉を顰めた。
「正体に触れてないし、怪しすぎません? 信じ難いっすけど」
「でも本当だったらすごくない!? 街中を歩いてたら、すれ違いざまに『この先起こること』を言われたって人が後を絶たないんだよ!」
華夏はスマホを胸元にぎゅっと抱え込み、うっとりとした表情を浮かべた。
「いいなぁ……私も預言されちゃったりして」
まるで自分がその『預言者』とやらに出会う瞬間を妄想している、あからさまに夢見がちな華夏の姿。そんな彼女の様子を前にして、夢月と八雲は示し合わせたわけでもないのに、揃って呆れと一抹の心配が混ざり合った何とも言えない視線を向けた。
八雲は困ったように眉を下げ、夢月は浅い溜息を噛み殺しながら、二人で小さく顔を見合わせる。
「あー! 二人とも全然信じてないでしょ!」
「いや……」
話の飛躍ぶりに追いつけない八雲が、参ったなと言わんばかりに頭を掻き、眉をハの字に下げる。
「さすがに預言者となると。この前の正夢の話とは、また次元が違うじゃないですか」
「でも、夢ちゃんの正夢だってホントになったんでしょ?」
華夏が真っ直ぐ私を見つめてくる。その瞳には、揶揄いの色も面白半分の色もなかった。純粋で真剣な瞳。
「……確かに」
以前、何の前触れもなく見た不思議な喫茶店とその店主が出てきた夢を見た。
今では、その夢は夢幻喫茶と夢月を結ぶ縁が具現化したものであると分かっている。
あれは単なる奇妙な偶然だったのかもしれない。ずっとそう思おうとしていた。でも――あの夢幻喫茶で人外の者達と過ごし、異質な体験を重ねてきた今の夢月には、「あり得ない」と一蹴することがどうしてもできなかった。
「私ね、有り得ないって思うようなことを、この目で確かめてみたいの」
そっとスマホを机に置いた華夏は、屈託なく笑った。
夢月は、そんな彼女の真っ直ぐさが好きだった。自分の好奇心には何処までも貪欲で、周りがどう言おうと、知りたいと思ったことには躊躇なく飛び込んでいく。その強さは、少しだけ羨ましく、尊敬していた。
「でも、未来人っていうのは、さすがに現実離れしすぎてないかな」
「今、俺も少し調べてみましたけど」
八雲が自分のスマホを操作しながら口を挟む。
「『デタラメを言われて揶揄われた』とか『ただの盗聴魔だ』とか、否定的な意見もかなり混ざってますよ」
「だからこそ、自分の目で確かめてみたいんじゃん!」
華夏は迷いなく言い切る。その瞬間、夢月の胸の奥に小さな引っ掛かりが生まれた。
――自分で確かめてみたい。
何故か、デジャヴのような既視感がある。
そうだ。いつか見た、あの鬼女が置いていった不気味な箱。中に何が入っているのか、危険だと分かっていながら、自分の目で確かめずにはいられなかったあの時の自分。
今の華夏の姿が、あの日の自分と重なって見えたのだ。
「……そっか」
思わず小さく吐息交じりに笑ってしまう。華夏は不思議そうに目を丸くした。
「何? 夢ちゃん」
「ううん。すごく華夏らしくていいなって」
「でしょ!」
満足そうに頷くと、華夏は勢いよく鞄を持ち上げた。
「よしっ、今日はこれから街の中をじっくり散策してみる! 二人とも、また明日ね!」
「え、あ、ちょっと――」
引き止める間もなく、華夏は風のように教室を飛び出していった。廊下に響く足音が遠ざかっていく。
「……相変わらず元気っすね、紗鳥さん」
「ふふ、そうだね」
残された夢月と八雲は顔を見合わせ、苦笑いを交わした。
「行きますか」
「うん。夢幻喫茶へ」
夢月達も鞄を抱え、静まり返った教室を後にした。
❁
夕暮れの街は、橙色の光に包まれていた。下校途中の学生や買い物袋を下げた主婦達が行き交い、独特の賑わいを見せている。
夢幻喫茶へと続く歩道を並んで歩きながら、夢月は大事そうに抱えていた小さな紙袋を見下ろした。
「そういえばね。今日、家でスポンジケーキを焼いてみたの」
「へえ、スポンジケーキすか!」
「うん。お店に着いたら、皆で切り分けて食べようと思って。朝早く起きて頑張ってみたんだけど……ちょっと形が不格好になっちゃって」
「いや、如月さんってお菓子作りとか好きなんすね。楽しみだな」
八雲が自分のことのように嬉しそうに目を細める。
「俺の分、ちゃんと残しておいてくださいよ?」
「ふふ、もちろん。一番大きなピースをあげるね」
そんな穏やかで、何処にでもある平和な会話を楽しんでいた。
だから――油断していたのだ。
「――落とすぜ」
耳元で、不意に低く軽い声がした。
「え……?」と呟き、反射的に声のした方へ振り向く。
長身の男が一人、夢月達の横をすれ違いざまに通り過ぎていくところだった。
何を言われたのか、脳が理解するよりも早く。
「わっ……!」
前方から猛スピードで走ってきた小さな女の子が、夢月の足に強くぶつかった。
「きゃっ……!?」
衝撃で手元が狂い、大事に抱えていた紙袋が指先から滑り落ちる。
ボサッと、無情な音を立ててアスファルトの上に転がった。
「あーっ! ごめんなさい、お姉ちゃんごめんなさい!」
ぶつかってきた女の子が慌てて立ち止まり、泣きそうな顔で何度も頭を下げる。
「う、ううん、大丈夫だよ。怪我はなかった?」
「うん……ごめんなさい!」
「大丈夫だから、気をつけて帰るんだよ」
優しく声をかけると、女の子はほっとしたように頭を下げ、再び走り去っていった。
「……あーあ」
夢月はしゃがみ込み、歪んでしまった紙袋をそっと拾い上げた。恐る恐る中を覗き込む。
さっきまでふんわりと膨らんでいた焼き立てのスポンジケーキは、斜めに押し潰され、見るも無残な形に崩れていた。
「如月さん、大丈夫すか?」
「うん。怪我はないんだけど……これじゃあ、マスター達にあげられないね」
申し訳なさそうに視線を落とす夢月を見て、八雲は困ったように眉を下げ、苦笑いを浮かべた。
「まあ、自分で美味しく食べるよ」
「俺も手伝いますよ」
八雲が苦笑しながら手を差し伸べた。
立ち上がりざま、夢月はふと、先ほど声をかけてきた男の背中に目を向けた。男はすでに数十メートル先を、ポケットに手を突っ込んだまま悠々と歩いている。
「さっきの人……」
「ええ。『落とすぜ』って言ってましたよね」
八雲も怪訝そうな顔で男の背中を見つめる。
「なんで分かったんだろ。前目線で走ってくる子に気づいて、注意してくれただけ……っすかね?」
崩れたケーキ。へこんだ紙袋。
すれ違いざまの低い声。
そして、その直後に起きた衝突。
(まさか……華夏が言っていた預言者……?)
頭に浮かんだ言葉を、打ち消すように首を振る。
「……ううん、そんなわけないよね。ただの偶然」
「そうですよね。さすがにタイミングが良すぎただけっすよ」
「うん。早くお店に行こっか。ケーキは残念だけど」
「マスターなら、この潰れたケーキの上手い誤魔化し方教えてくれるかもしれないっすね」
夢月と八雲は気持ちを切り替えるように足を早め、夢幻喫茶へと向かった。
❁
カランコロン、と澄んだベルの音が店内に響く。
「おいでませ、夢幻喫茶へ」
扉を開けると、いつものようにカウンターの奥からマスターの温かい声が迎えてくれた。
店内には、神楽、伊吹、珠吉といつもの顔ぶれが揃っている。漂う珈琲の香ばしい匂いに、先ほど落胆した心が少しだけ解ほぐれていくのを感じた。
席に腰を下ろすなり、八雲が待ちきれない様子で口を開く。
「皆さんって、『預言者』って信じます?」
「預言者、ですか」
マスターがドリップの手を止め、顎に手を当てて思案する。
『うちは信じないわね』
カウンターの隅でおなじみのケーキセットを嗜んでいた梢が、八雲を一切見ないまま即答した。
『我は、いても不思議ではないと思うぞ』
「私も、何か特別な力を持った人間ならあり得ると思う」
「俺は信じない。未来など決まっていないだろう」
神楽、珠吉、伊吹の意見は見事にバラバラだった。
「しかし急にどうしたんだい?」
神楽が不思議そうに目を細め、夢月達を見つめる。
「何か妙なものでも見かけたのかい?」
「気になるってほどじゃないんですけど……」
夢月が言い淀むと、八雲が代わりに状況を説明した。
「ここに来る途中、街中で変な男の人とすれ違ったんです。その人が如月さんに『落とすぜ』って声をかけて……その直後、本当に走ってきた子供とぶつかって、持ってたケーキを落としちゃったんですよ」
「ふうん」
神楽は長い指先を頬に当て、何処か面白がるような眼差しを向けながら興味深そうに頬杖をつく。
『それで預言者なんて言い出したら、世の中預言者だらけになってしまうわよ』
フォークの先で小さなケーキを小さく削り取った梢は、それを口へと運ぶと、何処か不服そうに頬を緩ませながら呆れたように溜息を吐き出した。
「でも最近、この街でそういう『未来を言い当てる人』の噂がすごいらしくて。学校の友達も夢中になって探してるんです」
『人間ってのは、どうしてこうも不確かな噂に踊らされるのかしらね』
腕を組んでフンと鼻を鳴らす梢のツンとした態度に、神楽はたじたじといった様子で目元を緩め、申し訳なさそうに苦笑いを向けるのだった。
「まあまあ、そうお詰めになるな。若者らしい好奇心じゃないか」
『そういう噂って、一体どこから流れてくるのよ。根葉もないことばかり』
「あ、その噂と一緒に『未来人』がどうとかって話も出てて……」
夢月が何気なく付け加えたその瞬間、ピクッ、とカウンターの上に座っていた珠吉の耳が、鋭く跳ね上がった。
「珠吉?」
珠吉の僅かな様子の変化を見逃さなかった八雲が、不思議そうに眉を顰めながら、探るような低い声で尋ねた。
「心当たりでもあるのかい?」
神楽の問いかけに、珠吉は答えなかった。ただ静かに視線を巡らせ、マスターと目を見合わせる。
言葉のない遣り取りだが、確実に二人の間で何かが通じ合ったのが分かった。
「うちの常連客と言うべきか、奇妙な知人と言うべきか」
今までの穏やかな空気を整えるように、マスターは淹れたてのコーヒーカップをソーサーの上へそっと降ろし、指先を静かに離した。
「一人、身に覚えのある方が」
マスターが静かに告げた、その直後だった。
カランコロン、とドアの上に付けられた鐘が、静まり返った店内に高く澄んだ音を響かせる。
隙間風と共に滑り込んできたのは、飄々とした、何処か掴みどころのない男の声だった。
「よっ、マスターぁ」
何故か、聞き覚えのある声が店内に響き渡る。
「これはこれは」
マスターが一切の驚きも見せず、穏やかに微笑んだ。
「噂をすれば、ですね。おいでませ、夢幻喫茶へ」
入ってきたのは、すらりと背の高い男だった。
細められた糸目。何を考えているのか読めない、貼り付けたような薄笑い。そして、左頬には刺青のようにも見える不思議な幾何学模様が刻まれている。
何より、さっき街中ですれ違いざまに夢月に声を掛けたあの男だった。
「噂をすればって、この人が?」
「ん? オレの噂?」
男は軽くと笑うと、何の躊躇いもなく夢月のすぐ隣のカウンター席へ腰を下ろした。
距離が近い。異様な圧迫感に、夢月は思わず身体を少し引き寄せて警戒する。
すると男は、糸目の奥から夢月を覗き込むようにして――。
「ケーキ、残念だったな」
「……っ!?」
背筋にヒヤリとしたものが走る。やはり、この店に来る前にすれ違ったのは、この人だった。
男は夢月の反応など気にする風もなく、隣にいる珠吉へひょいと手を伸ばした。
『やっぱりお前か、ミキト』
珠吉が呆れたように前足を差し出す。男――ミキトは、その肉球を慣れた手つきで握り締め、
「ふはは、久しぶりだな珠吉」
と、無邪気に笑った。
「いやぁ、まさか偶然街ですれ違った人が同じ店にいるなんてなぁ」
『見えたんだろう。次は一体何を持ち込む気だ』
「相変わらず冷てぇなぁ。何、偶然“視えた”から教えただけだって」
「どうして、私がケーキを落とすって知ってたんですか?」
夢月は思わず身を乗り出し、彼の糸目を真っ直ぐに見つめた。
あの時、街中で女の子とぶつかりそうになった瞬間。彼は確かにケーキが崩れる未来を知っていたかのような言葉を残していった。単なる勘や予知などという言葉で片付けるには、あまりにも正確すぎる言い当てようだったのだ。
「あの時、近くにいたんですか? それとも……」
「思考が追いついていないでしょう」
パニックになりかける夢月を制するように、マスターが優しく割って入った。
「この方は、俗に言う『未来』の時代から来られたお客様です」
「未来……人……!?」
夢月と八雲は同時に声を上げ、顔を見合わせた。
過去から来た神楽や伊吹、妖怪である梢や珠吉がこの店に集っている。時空を超えたこの夢幻喫茶なら、未来人がやってくることだって理屈としては理解できる。
理解はできるけれど、目の前の現実として突きつけられると、頭が痺れるような感覚に襲われた。
「……でも、なんで」
声が微かに震えるのを抑えきれなかった。
夢月がこの夢幻喫茶で経験したあの出来事――過去へと飛ばされ、またここへ戻ってきた時間の滑落。それはこの特別な喫茶店という「閉じた空間」だからこそ起きた奇跡なのだと、何処かで思い込もうとしていた。
けれど、もし目の前の男が言っていることが本当なら。あの予言のような出来事が、何でもない普通の日常の路上で起きていたのだとしたら。
「なんで、街の中にいたんですか? この店の中だけじゃないんですか……?」
ミキトがゆっくりとこちらを向く。糸目のせいで視線が何処を向いているのか分からないが、確実に夢月を『捉えて』いるのが彼女には分かった。
そして、ニヤリと唇を吊り上げる。
「なんでオレが外の街を歩けてたのか、分からないって顔だな。簡単な話だ」
ミキトは顔を近づけ、低い声で囁いた。
「お前の仕業だ」
「……私、の……?」
突きつけられた短い一言が、鋭い刃のように胸を刺した。
呼吸が上手くできない。息を呑む八雲の気配も、静まり返るカフェの空気も、全てが遠退いていくような感覚の中で、ミキトの糸目が冷ややかに細められた。
「お前、過去に行っただろ?」
ミキトは珠吉の頭を雑にわしゃわしゃと撫で回しながら言った。
「どうして一般人の生きているお前が、過去に行けたか分かるか?」
「……わかり、ません」
「お前が過去と、現在と、未来の『境界』を壊しちまったんだよ」
「境界を……?」
「そう。平たく言えば――」
夢月の言葉を遮るように、ミキトは口元に薄っすらとした笑みをたたえたまま、人差し指を静かにすっと立てた。
「時空を破壊したんだ」
ミキトの口から漏れ出たその言葉は、あまりにも唐突で、そして現実離れしていた。
張り詰めた静寂が、まるで冷たい氷のように店内の空気を凍りつかせていく。
「ちょっと待ってください! 何言ってるんすか、あんた!」
八雲が勢いよく立ち上がり、夢月を庇うようにミキトとの間に割って入った。その声には強い警戒と怒りが混ざっている。
彼の背中に、夢月は心の中で救われる思いだった。
「ハハッ、熱くなるなよ。オマエらガキには理解できなくてもさ――」
ミキトは意地悪く笑い、ゆっくりと店内を見回した。
「そこにいる『先人』どもは、とっくに勘づいてる顔してるぜ?」
怒りを剥き出しにする八雲をあしらうように、ミキトは糸目の奥で静かに視線を滑らせた。
神楽の落ち着き払った佇まい。マスターの底知れぬ静寂。そして、全身の毛を逆立てて威嚇する珠吉。
一人ひとりの様子を品定めするように、ミキトの視線が順番に移っていく。
「特に、そこの軍人さんか?」
ミキトの細い目が、神楽に向けられピタリと止まった。
「オマエ、結構前から気づいてたろ? この店の『歪み』にさ」
向けられた言葉に、神楽は答えない。
いつものように穏やかで、優しげな微笑みを浮かべたまま。だが、その瞳の奥には、見たこともないほど冷たく重い光が宿っていた。
「……君は、実に物好きな男だね」
神楽の声は、静かだった。静かすぎて、かえって恐ろしかった。
「なーに、ちょっと先が見えるだけの、ただの好奇心旺盛な野郎だよ」
ミキトは楽しそうに肩を竦める。
二人の間に流れる不穏な空気。張り詰めた緊張感に、夢月と八雲は息を飲むことしかできなかった。
ミキトの態度からして、彼と神楽達が顔を合わせるのはこれが初めてのはずだ。それなのに、会話の端々に刺さるトーンが嫌な予感を掻き立てる。
「先が見える、ですか」
夢月が思わず呟くと、ミキトがひょいと振り返った。
「未来から来てんだから、お前らの未来(=オレにとっての過去)が見えてても不自然じゃねぇだろ?」
「過去⋯⋯」
「ケーキを落とすって教えたのも、預言なんて大層なもんじゃない。オレの時代の『歴史記録』に載ってたこと、あるいは既知の出来事を口にしただけだ。『過去に起こった事実』を知ってた、ただそれだけ」
ミキトは何でもないことのように言い切る。
「何もおかしいことなんてねぇよな?」
おかしくない、と言われればそうなのかもしれない。けれど、自分の歩む未来が誰かの「既知の過去」として扱われている感覚は、酷く気味が悪かった。
『……我にも、だんだん理解が追いつかなくなってきたぞ』
珠吉がふうと溜息を吐き、前足で顔を洗うような仕草をした。
「おっと、そりゃ珍しい。大妖の珠吉様ともあろうお方が」
ミキトは何処までも揶揄うような態度を崩さない。
珠吉が本当に理解できていないわけがない。きっと、混乱する夢月や八雲の気持ちを和らげるために、わざと道化を演じているのだ。その優しさが、夢月にとっては痛いほどありがたかった。
『つまり、お前が言いたいのは――』
珠吉が言いかけたその時、ガタッ、と激しい音を立てて椅子が引かれた。
一同が音がした方へ視線を向けると、無表情の神楽がゆっくりと立ち上がっていた。
「神楽?」
伊吹が驚いたように見上げる。
神楽はミキトを一度だけ一瞥し、それから夢月に向かって、ふんわりと柔らかく微笑んだ。
けれど、その笑顔は何処か痛々しく、今にも崩れてしまいそうだった。
「……すまないね。今日は少し気分が優れない。お暇させてもらうよ」
「え、右京さん?」
引き止める声を背に、神楽は一度も振り返ることなく、素早い足取りで店を出ていってしまった。
「神楽!」
伊吹が慌てて立ち上がり、後を追うように扉へと走る。
カランコロン、と激しくベルが鳴り、二人の姿が外の暗がりへ消えていった。
最後に見えた神楽の横顔。
あれは、悲しそうな、そして何かを諦めたような顔だった。
神楽は知っているのだ。夢月が時空を歪めてしまったことの意味を。そして、その先に待っている何かを。けれど、それらを夢月には教えられないのだと、あの表情が物語っていた。
『……で、何を言いかけたんだ?』
残された珠吉が、低く鋭い声でミキトに問う。
ミキトは消えた二人の扉を見つめた後、ニヤリと笑った。
「『本来あり得ないこと』が、あんたによって可能になったって話だよ。……まあ、この店の『領域』が及ぶ範囲に限った話だけどな」
「私?」
「今言ったって分からねぇだろうな。んじゃ、目的も果たしたしオレも帰るわ」
あまりの展開の早さに、夢月は思わず声を漏らしていた。怒りを露わにする八雲の横で、ミキトは何でもないことのようにドアへと向かって歩き出す。
「えっ、もう帰るんですか?」
「長居すると歴史がブレるんでな。またな、珠吉」
『二度と来るな、』
「ハハッ! 相変わらずつれねぇなぁ」
軽快な笑い声を残し、ミキトは風のように店を去っていった。
鐘の音が止み、店内に再び静寂が訪れる。
「……一体、何だったんすか、あの人」
八雲が力なく脱力し、カウンターに手をついた。
「あながち、彼の言っていることも出鱈目ではなさそうです」
ミキトが去り、カランと鳴ったドアの鈴の余韻が消え去った店内。静寂を破ったのは、いつもと変わらぬ穏やかで、けれど何処か重みを含んだマスターの声だった。
その言葉は、夢月の淡い淡い期待――あの男の言葉がただの悪質な悪戯であってほしいという願いを、容赦なく打ち砕く。
「時空の歪み、ですか」
『ああ』
必死に平穏を保とうとする八雲の声に、重々しく答えたのは珠吉だった。
「この店の理が変質している。その引き金がお前にあるというのも、否定はできん』
「そんな……」
自分の背負った罪の重さに打ちのめされ、夢月の身体が大きく震えた。
この店を狂わせ、大切なみんなを危険に巻き込んでしまったのは自分なのだという現実が、冷たい毒のように全身に回っていく。
「ですが、夢月さん」
マスターが夢月の顔を真っ直ぐに見つめ、優しく諭すように語り掛けた。
「彼の言葉を全て鵜呑みにする必要はありません。『時空を破壊した』などというのは、彼独特の誇張表現でしょう。貴方がされたのは、過去へ赴き、誰かを想った……それだけです。全てをご自分の責任だと追い詰める必要はありませんよ」
「マスター……」
『そうだな』
珠吉の琥珀色の瞳から厳しさが消え、静かな理知の光が戻る。
『奴の言う通り、この歪みはこの店の周囲や、お前達に関わる限られた範囲でしか発生しておらん。普段の生活まで侵食されているわけではないのだ』
「……一先ずは、安心しても大丈夫……なんすかね?」
八雲が確認するように尋ねると、珠吉は力強く頷いた。
マスターや皆の温かい言葉に、少しだけ胸のつかえが下りる。
けれど、一度胸の奥に芽生えた冷たい澱は、どうしても完全には消えてはくれなかった。
ミキトが残していった不吉な言葉の数々。去り際に見せた神楽の何処か諦めたような悲しげな横顔。そして、夢月を安心させようと語りかけつつも、何処か核心を避けるようなマスターの歯切れの悪い庇い方――。
差し伸べられた優しさの裏側に透けて見えるそれら全てが、夢月の心に拭い去れない暗い影を落としていた。
「あの、マスター」
八雲が思い切ったように口を開いた。
「あの人……ミキトって人は、本当は何者なんですか?」
マスターは少しだけ目元を緩め、遠くを見るような目をした。
「あの方は、未来と呼ばれる遥か先の時代から、この夢幻喫茶の『扉』を引き寄せてやってきた、お客様のお一人です。お名前は『ミキト』としか名乗られておりませんが……」
「ミキト……」
その名前を口の中で呟いてみる。
未来人、ミキト。
彼はどうして今日、あのタイミングで目の前に現れたのだろう。
ただの気まぐれ?
それとも、彼は最初から、夢月がケーキを落とすことも、今日ここに来ることも知っていて、『警告』をしに来たのだろうか。
『……もう、行ったかい?』
不意に、店の奥の影からひそやかな声がした。
振り返ると、そこには梢が立っている。
普段の凛とした佇まいは影を潜め、着物の短い袖で顔の下半分を隠しながら、恐る恐る入口の扉を窺っている。
『随分と静かだったな、梢。ずっと隠れていたのか』
珠吉が呆れたように言うと、梢は『くっ……』と顔を歪めた。
『……うるさいわね。悪かったわよ』
「何故、姿をお隠しになっていたのですか?」
マスターが尋ねると、梢は気まずそうに視線を泳がせ、それからポツリと漏らした。
『……あの男よ』
『ミキトとかいう未来人か?』
『ええ。あの人間……うちら妖には見向きもしないくせに、存在そのものが気味が悪いのよ』
梢は自分の腕を抱き締めるようにして、小さく身震いした。
『まるで、こっちの寿命や運命の終わりまで全て見透かしているような……品定めするみたいな目つきで、ずっとこちらを見ていたのよ。気味が悪くて、とてもじゃないけど同じ空間にいられなかったわ』
そう言って、梢は力なく席に腰を下ろした。
まさか、百年以上を生き、普段なら誰よりも気高く、人間など歯中に一顧だにしない梢が。
あの未来人の存在に、ここまで露骨な不快感と恐怖を抱いていたなんて。
ミキトはもう店にはいない。けれど、彼が残していった異質な空気は、今も重く店内に澱んでいるようだった。
夢月は無意識に、先ほどまで彼が座っていたカウンターの席を見つめる。
そこには、使い古された木製の椅子があるだけだ。
それなのに、胸の奥の不穏な予感は、消えるどころか静かに膨らんでいく。
未来人。
時空の歪み。
そして、「お前の仕業だ」という言葉。
今はまだ、何一つとして答えは見えない。けれど、夢月は予感していた。
この夢幻喫茶で起きている「ありえないこと」の本当の意味を夢月が知ることになる日は、そう遠くないのだと。




