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おいでませ夢幻喫茶へ  作者: 榊原蓮華草
時代を越えた縁、歪んだ愛
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終章 鬼は人に




 山の奥深く。

 人の足音さえ途絶える場所に、一人の鬼が住んでいた。


 不気味なほどに白い肌に、額から伸びた二本の角。人のものとは違う異形の瞳。

 長い髪を風に揺らしながら、彼女は今日も木の根元に座り込んでいた。

 手には何もなく、隣には誰もいない。ただ、寂寥とした風だけが通り抜けていく。

 何をするでもない。何も考えず、何もせず。

 誰もいない一人の空間でぼんやりと外の景色を眺めるだけ。


 暇を持て余した彼女は立ち上がり、ゆっくりと山を下りた。

 人の住む町が見下ろせる境界まで来て、ふと足を止める。

 遠くに見える家屋の屋根、行交う人々、そこから風に乗って届く笑い声や子供たちの賑やかな歓声。

 彼女はそれを、ただじっと眺めていた。


(――羨ましい)


 ずっと、そう思っていた。

 自分もあの温もりの中へ入ってみたい。誰かと会話を交わし、一緒に笑い合ってみたい。

 そんな淡い願いを抱いたことは、一度や二度ではなかった。

 けれど、現実はあまりにも冷たかった。


「……鬼だ!」


 ある日、町の子供が彼女の姿を見つけて指を差した。

 その瞬間、周囲の人間が一斉に振り返る。


「逃げろ!」

「鬼が出たぞ!」

「こっちへ来るな、あっちへ行け!」


 人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、忌み嫌う視線を投げて投石する者さえいた。

 彼女は何もしていない。ただ、そこに立っていただけだった。

 それでも、頭に角があるから。人間ではない化け物だから。それだけの理由で恐れられ、拒絶される。


「……」


 彼女は何も言わず、静かに山へ戻った。

 諦めることには慣れていた。いや、慣れてしまうしかなかったのだ。

 自分は鬼で、人間とは違う。だから、仕方がない。そう自分に言い聞かせていなければ、孤独の重さに押し潰されて生きていけなかった。


 変化が訪れたのは、強い雨の降る日のこと。


 山奥で人目を避け、孤独に苛まれていた鬼女は、寂しさと人里への恐怖を押し殺し、ある寺の前に小さな箱を置きに現れた。

 箱の中には、自らの想いの残滓を込めた一本の藁人形。


「どちら様?」


 不意に、寺の中から若い男の声が聞こえた。


『――!』


 鬼女はびくりと身体を震わせ、ゆっくりと後ろへ下がる。

 やがて姿を現したのは、一人の若い男だった。

 手には一本の傘。男は寺の前に佇む鬼女を見つけると、驚いたように目を丸くした。


「おや、お客さんでしたか」


 怯える鬼女へ、男は一切の警戒を見せず優しく微笑みかける。そして迷いなく歩み寄ってきた。

 鬼女が全身の神経を尖らせるのも意に介さず、男は柔らかく言った。


「雨の中、嬢さんが傘を差さずにいては、身体を冷やしてしまいますよ」


 そう言って、男は自分が濡れるのも構わず、持っていた傘を鬼女の方へ大きく傾けた。


「怯えなくて大丈夫ですよ。何もしませんから」


 眼鏡の奥の瞳はあまりにも穏やかで、その声には一切の棘も偽りもない。雨音に掻き消されそうなほど静かな声だというのに、不思議と胸の奥深くまで真っ直ぐに届いてくる。


(こいつ……私に、気づいてる……?)


 人間は恐ろしく、移り気で、自分達とは相容れない存在のはずだった。何か裏があるに違いないと警戒を露わにする鬼女の冷え切った手に、男はそっと己の温かな手を重ねてきた。


『ひっ……!』


 肌の温もりに驚き、抑え込んでいた霊力が途端に跳ね上がる。

 額を突き破るように一本の角が伸び、白い肌には鬼の紋様が浮かび上がった。人里に馴染めない鬼女の、致命的な悪癖。


(見られた……!  殺される、討たれる……!)

 

 爪を立て、男の手を振り払おうとした。けれど、男は逃げなかった。


「……鬼か」


 殺されると悟り手を振り払おうとした鬼女に、男は感心したように呟いた。

 そこに恐れも蔑みもない。道端に咲く珍しい花を見つけたかのように、ただ優しく愛おしむような眼差しで鬼女を見つめている。


「初めて見たな」


 恐怖と混乱でじりじりと後退りした鬼女は、足元の濡れた石に躓き、大きく倒れ込んだ。


『きゃあっ!』

「あらら、大丈夫ですか」


 差し出された大きな手。跳躍して逃げることだってできたはずなのに、何故かその手を拒むことがどうしてもできなかった。

 震える指先でその手を取り、きゅっと握り返す。


 雨の日の寺の境内での、些細な出来事。

 永い刻をただ孤独に生きてきた鬼女の心が、二度と元には戻らないほど大きく揺さぶられた瞬間だった。


 あの日を境に、男――晋作は頻繁に彼女のいる山裾へと足を運ぶようになった。


『⋯⋯また来た』

「駄目だったかな」

『人間、そんなに、暇?』

「暇だからここに来てるわけじゃないんだけれどね」


 そんな他愛のない会話を交わす。

 かつて町の人間からは「鬼だ!」と叫ばれ、石を投げられて逃げ出していた彼女にとって、それは生まれて初めて知る温もりだった。


 ある日の夕暮れ、晋作がふと思いたったように尋ねてきた。


「そういえば、君の名前は何というんだい?」

『……鬼女』

「それは種族の名だろう」

『でも、皆そう呼ぶ。鬼、化け物……好きに呼べばいい』


 自嘲気味に微笑む彼女に、晋作はしばらく空を見上げた後、柔らかく微笑んだ。


「じゃあ――ボクが名前をつけよう」

『私に……?』

「ああ。嫌だって言っても聞かないぞ? んー、どんな名前がいいか⋯⋯」


 眼鏡の奥の目を閉じ、うーんと唸りながら考え込む。

 しばらく考えた後、ぱっと目を開けると得意げな顔を近づけた。


「薫っていうのはどうだい?」

『薫?』

「ああ。君からは薔薇の香りがするし、なんとなく、君に似合うと思ったんだ」


 大した理由になっていない。なのに、胸の奥が熱くて涙が零れそうだった。


『……薫』


 初めて自分で口にする、自分だけのための言葉。

 ただ名前を付けられただけだというのに、こんなにも満たされるなど。

 薫は目に涙を浮かべて顔を上げると、そっと彼の胸の中に飛び込んだ。


「うん。すごく似合っているよ」


 その日から、彼女には名前ができた。

 ――薫。

 誰かにその名を呼ばれる度、自分はこの世界に居ていいのだと思えたのだ。

 薫は晋作を通して、甘味処の団子の味や、人々の祭りの賑わいを知っていく。


 ある日、二人は手を繋いで町を歩いていた。


「これなんてどうだい?」


 賑やかな街の喧騒の中、ふと立ち止まった晋作が、木箱に並べられた小物の中から一本の簪をそっと指先で掬い上げた。

 陽光を浴びて透き通る、鮮やかな赤の硝子玉が飾り付けられた綺麗な簪だった。


「……簪?」

「うん。きっと君に似合いそうだと思ってね」


 晋作は柔らかく目を細め、手にした簪を彼女の髪元へと添えるように優しくかざしてみせる。

 だが、彼女はその飾りの眩しさに気押されるようにして、僅かに後ずさった。そして静かに首を振る。


「……私には、必要ないわ」

「どうしてだい?」

「鬼だからよ」


 淡々と落とされた一言に、周囲の空気までが一瞬にして冷え切るかのようだった。

 彼女はすっと視線を落とし、晋作の手元にある美しい硝子玉からわざと目を逸らす。己の胸の内に渦巻く冷たい血の感覚を確かめるように、きつく着物の袖を握りしめた。


「こんな綺麗なもの……鬼の私には、何ひとつ似合わないわ」


 自嘲めいた言葉。自分と彼との間を分かつ、決して越えられない残酷な境界線。それをわざと自分に言い聞かせるように、彼女は冷たく語る。

 けれど、晋作は眉を顰めることも、恐れをなして手を引くこともなかった。ただ愛おしそうに彼女を見つめたまま、揺るぎない温かな声で静かに答える。


「そんなことないよ」

「でも、私は――」

「君は」


 晋作は彼女の言葉を静かに遮ると、覗き込むように視線を合わせ、柔らかな眼差しで語りかけた。


「鬼である前に、一人の女性(ひと)だろう?」


 鬼。

 人間から恐れられ、忌み嫌われ、暗闇の中でひっそりと生きるべき災いの存在。

 そのはずだった。それなのに、目の前の人間は、己のすべてを呑み込んだ上で、ただの「自分」として真っ直ぐに向き合ってくれている。

 その差し出された温もりが、堪らなく嬉しかった。

 胸の奥が熱くなり、跳ね上がるほどに歓びで満たされていく。


 ――それと同時に、たまらなく怖かった。


 もしも、この優しさに甘えてしまったら。この温かな手に縋り付いてしまったら。いつか自分が鬼であるという現実が、このささやかな幸せを惨たらしい形で引き裂いてしまうのではないか。深く愛されれば愛されるほど、失う時の絶望が怖くてたまらなかった。

 様々な感情が胸の中で激しく渦巻き、彼女はただ黙って立ち尽くすことしかできない。

 そんな彼女の迷いや葛藤を包み込むように、晋作はそっと手を伸ばすと、愛おしそうに彼女の繊細な髪をひと撫でし、簪を優しく髪へ挿し入れた。


「……本当に、私に似合うかしら」


 恐る恐る、指先で髪に挿された冷たい硝子玉に触れながら、彼女は縋るような瞳で男を見上げた。


「ああ」


 晋作は心の底から嬉しそうに、晴れやかに破顔した。


「とても、綺麗だよ」


 そう言って微笑む彼の笑顔が眩しくて、彼女は溢れ出そうになる熱い涙を隠すように、カッと頬を赤らめてそっぽを向いた。





 ❁




 けれど、幸福な時間は長くは続かなかった。


『あの司条寺の若旦那、山奥で鬼女と会っているらしい』

『鬼に魅入られたんだ』


 忍び寄る冷たい噂。晋作が町を歩けば人々は距離を置き、冷ややかな視線を向ける。自分の存在のせいで彼が傷ついていく現実に、薫の胸は押し潰されそうだった。


「私と、もう会わない方がいい。私がいるから……私が鬼だから……!」

「薫。俺が誰を愛するかは、俺自身が決めることだ」


 いつだって、晋作は揺るぎない愛の言葉を掛けてくれる。

 嬉しい。狂おしいほど嬉しいのに、だからこそ怖かった。

 自分の存在がいつか晋作の人生を完全に壊してしまうのではないか。その恐怖に耐えきれなくなった薫は、ある夜、誰にも告げずに彼の前から姿を消した。

 再び、一人きりの山奥で身を縮こまらせる日々。

 愛される幸せを知ってしまった後の孤独は、あまりにも残酷だった。


「……晋作さん」


 何度呼んでも、返事はない。逢いたい、でも逢えない。戻りたい、でも戻れない。

 胸の中で渦巻く激しい葛藤と愛執は、時を経て緩やかに歪んでいった。


 忘れないで。私を見つけて。愛して――。

 純粋だった祈りは、やがて漆黒の『呪い』へと変貌を遂げていく。


 再び自らの命脈を削って呪具を作り出し、彼の元へ届くよう仕組んだのも、全ては狂おしいほどの愛ゆえだった。

『逢いたい』と素直に言えなくなってしまった鬼女。膨れ上がった想いを『呪い』という形でしか差し出せなくなった悲しき存在。

 けれど、どれほど怨念に身を委ねても。彼女の心の最奥には、たったひとつ手放せないものがあった。


 ――薫。


 あの日、雨の降る境内で出会い、自分を一人の存在として見つけてくれた人が授けてくれた大切な名前。


 どれほど時が流れても、姿が変わろうとも。

 その名前と彼に愛された記憶だけは、決して消えることはなかったのだ。





『時代を越えた縁、歪んだ愛』・完




第二部完結です。

次は第三部。早い。

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