鬼の待人・4
五人は賑やかな江戸の街並みを歩いていた。
人々が行き交い、店先には色取り取りの商品が並べられている。耳を擽るのは、今では聴くことのできない昔の言葉遣い。
それから鼻を突くのは、焼き魚の香ばしい匂いや甘味処の餡の甘い香り。目に映るもの全てが、夢月達の知る現代とはまるで違っていた。
「司条寺が何処にあるのか分かるのかい?」
神楽は、外套の袖をふわりと揺らしながら隣を歩く伊吹に視線を向けた。何処か楽しそうに目を細めているものの、その表情には微かな懸念が浮かんでいる。
「うろ覚えだが、幼い頃一度連れて行かれた。この時代なら、まだ残っているはずだ」
「それなら安心だね」
「だが、詳細な場所までははっきり覚えていない」
「結局、分からないんじゃないですか!」
がくっと肩を落とす八雲を余所に、伊吹は瓦屋根の並ぶ街並みを見渡し、何事もなかったかのように静かに腕を組んだ。
「仕方ないだろう。幼い頃の遠い記憶などそんなものだ」
「俺だったら絶対覚えてますけどね! こんな大昔に来られるなんて、二度とないかもしれないんすから!」
八雲は目を輝かせながらキョロキョロと辺りを見回している。初めてのタイムスリップに、まるで遠足に来た少年のように興奮を隠せない様子だ。
「ふふ、本当だね。まさか私達まで過去の江戸に来ることになるなんて」
口を軽く押さえながら、神楽はまるで散歩でも楽しむかのように和やかな笑みを浮かべた。
対する伊吹は、緩むことのない表情で引き締まった口元を横一文字に結び、身を正すように腕を組み直す。
「マスターに指名されたんだ。やるしかない」
伊吹が淡々と言う中、彼らのすぐ後ろを、角のない姿となった鬼女が静かに付いて来ていた。時折懐かしそうに街並みを見つめる彼女の横顔に、夢月はそっと寄り添う。
「懐かしいですか?」
『ええ』
「素敵な街ですよねぇ。昔、この街に住んでいたんですか?」
『住んではいない。でも、よく歩いた』
「誰と?」
『……あの人と』
鬼女は小さく、愛おしそうに微笑んだ。その笑みだけで、彼女が誰のことを思っているのかが分かる。
「あの人っていうのは、大切な人ってことですよね」
『うん』
前を向く鬼女の表情は、異界にいた頃とは比べものにならないほど穏やかだった。
額から伸びていた赤黒くおぞましい角はない。それこそ、黙っていれば、通行人が思わず振り返ってしまうほど美しい見目をしている。
きっと、この世の中で彼女が人ならざる鬼であることを知っているのは、夢月達、彼女に呪われた者達だけだ。
しばらく歩いていると、鬼女がふと一軒の小間物屋の前で足を止めた。店先には美しい簪や漆の櫛が飾られている。
『これ』
鬼女が指差したのは、鮮やかな赤い飾りの付いた簪だった。
「綺麗。この簪を知っているんですか?」
『昔、晋作さんが買おうとしてくれた』
「晋作さん?」
『私の、大切な人。今も、探してる』
鬼女はそう呟くと、愛おしいものに触れるように、鮮やかな赤の飾りを見つめた。
「これなんてどうだい?」
賑やかな街の喧騒の中、ふと立ち止まった男が、木箱に並べられた小物の中から一本の簪をそっと指先で掬い上げた。
陽光を浴びて透き通る、鮮やかな赤の硝子玉が飾り付けられた綺麗な簪だった。
「……簪?」
「うん。きっと君に似合いそうだと思ってね」
男は柔らかく目を細め、手にした簪を彼女の髪元へと添えるように優しくかざしてみせる。
だが、彼女はその飾りの眩しさに気押されるようにして、僅かに後ずさった。そして静かに首を振る。
「……私には、必要ないわ」
「どうしてだい?」
「鬼だからよ」
淡々と落とされた一言に、周囲の空気までが一瞬にして冷え切るかのようだった。
彼女はすっと視線を落とし、男の手元にある美しい硝子玉からわざと目を逸らす。己の胸の内に渦巻く冷たい血の感覚を確かめるように、きつく着物の袖を握りしめた。
「こんな綺麗なもの……鬼の私には、何ひとつ似合わないわ」
自嘲めいた言葉。自分と彼との間を分かつ、決して越えられない残酷な境界線。それをわざと自分に言い聞かせるように、彼女は冷たく語る。
けれど、男は眉を顰めることも、恐れをなして手を引くこともなかった。ただ愛おしそうに彼女を見つめたまま、揺るぎない温かな声で静かに答える。
「そんなことないよ」
「でも、私は――」
「君は」
男は彼女の言葉を静かに遮ると、覗き込むように視線を合わせ、柔らかな眼差しで語りかけた。
「鬼である前に、一人の女性だろう?」
鬼。
人間から恐れられ、忌み嫌われ、暗闇の中でひっそりと生きるべき災いの存在。
そのはずだった。それなのに、目の前の人間は、己のすべてを呑み込んだ上で、ただの「自分」として真っ直ぐに向き合ってくれている。
その差し出された温もりが、堪らなく嬉しかった。
胸の奥が熱くなり、跳ね上がるほどに歓びで満たされていく。
――それと同時に、たまらなく怖かった。
もしも、この優しさに甘えてしまったら。この温かな手に縋り付いてしまったら。いつか自分が鬼であるという現実が、このささやかな幸せを惨たらしい形で引き裂いてしまうのではないか。深く愛されれば愛されるほど、失う時の絶望が怖くてたまらなかった。
様々な感情が胸の中で激しく渦巻き、彼女はただ黙って立ち尽くすことしかできない。
そんな彼女の迷いや葛藤を包み込むように、男はそっと手を伸ばすと、愛おしそうに彼女の繊細な髪をひと撫でし、簪を優しく髪へ挿し入れた。
「……本当に、私に似合うかしら」
恐る恐る、指先で髪に挿された冷たい硝子玉に触れながら、彼女は縋るような瞳で男を見上げた。
「ああ」
男は心の底から嬉しそうに、晴れやかに破顔した。
「とても、綺麗だよ」
そう言って微笑む彼の笑顔が眩しくて、彼女は溢れ出そうになる熱い涙を隠すように、カッと頬を赤らめてそっぽを向いた。
その瞳には、かつて自分に向けられたのであろう温かな眼差しと、その優しさに胸を締め付けられた記憶が鮮明に映っている。
どんなに歳月が流れても褪せることのない、一途で切ない恋心が、彼女の小さな溜息となって零れ落ちた。
「買ってくれなかったんですか?」
『私が、いらないと言ったの』
「どうして?」
鬼女はすっと目を伏せ、胸の前にそっと手を添えた。
本当は、彼が選んでくれたその簪が跳び上がるほど嬉しかった。けれど、自分の内にある血の冷たさや異形さが、その美しい飾りに触れることを躊躇わせたのだ。
大好きな人の隣に並ぶには自分はあまりに不釣り合いだという悲しい思いが、彼女の言葉を途切れ途切れにさせる。
『……鬼、人間の綺麗なもの、似合わない、思ったから』
その言葉に、夢月の胸がギュッと締め付けられる。
「でも、その晋作さんって人はそう思っていなかったんですよね?」
『ええ。だから、余計に怖くなった』
「優しくされるのが、ですか?」
鬼女はそれ以上答えず、寂しげに歩き出した。彼女には夢月達の知らない長い時間がある。晋作という人間と出会い、愛し、苦しみ、逃げ出した時間が。
「おっ、あそこいいんじゃないすか?」
遠くの方で弾けた八雲の声に、夢月は我に返った。視線を向けた少し先に、『蜜富』と書かれた看板を掲げた甘味処が見える。
「ちょうどいい、少し休んで人に道を聞こう」
神楽の提案に一同が同意し、店の前を通ろうとすると、
「何処へ行きたいんだい? 教えてあげるから、お茶くらい寄っていっておくれよ」
愛想のいい若い看板娘に呼び止められた。神楽は伊吹と視線を交わし、苦笑しながら頷く。
「では、甘味を三つ頼みます」
「はいよ、ちょっと待っといで」
愛想のいい看板娘が威勢よく返事をし、パタパタと奥の厨房へかけていく。
香ばしい団子の焦げた匂いが漂う店先で、神楽が注文した数を聞いていた八雲が、不思議そうに自分の指を折って数え始めた。
「三つ? 俺達五人ですよ?」
「鬼女が食べるか分からないし、僕と伊吹は後でいいさ」
長椅子に腰掛けながら神楽が笑う。伊吹は店の奥を見つめながら小さく息を吐いた。
「あの娘⋯⋯俺達がいる時代にある甘味屋の婆さんの、若い頃の母親だな」
「えっ、知り合いなんですか?」
「ああ。あのおばあさんが『昔の母は評判の看板娘だった』と自慢していたんだ」
そうこうするうちに、「おまちどうさん!」と看板娘が名物の団子を運んできた。夢月と八雲、そして鬼女が団子を受け取る。口に運ぶと、もちもちとした甘みが広がり、疲れが吹き飛ぶようだった。
「美味しい……!」
「でしょう? うちの自慢の商品だからね!」
看板娘は、その華奢な体を仰け反らせて胸を張る。
フフンと鼻を鳴らす姿は、何処か華夏に似ているようにも感じた。
「で、何処へ行きたいんだい?」
「司条寺へ行きたいのだけれど」
神楽が尋ねると、さっきまで笑顔だった看板娘がふっと真顔になり、声を顰めた。
「司条寺ねぇ……。教えてやるのは構わないがね、あんまりお勧めはしないよ」
「どうしてだ?」
「良かない噂が立ってるんだよ。あの寺の若旦那さん――優しい人なんだけどね、妙なものを愛しているって噂さ。鬼を愛している、なんてね」
その言葉が出た瞬間、八雲と思わず顔を見合わせてしまった。
すぐ隣に立つ当の鬼女の肩が、びくっと小さく跳ね上がる。彼女はバツが悪そうに目を伏せ、身を縮こまらせるようにしてぷいっと顔を逸らしてしまった。そんな彼女の様子を庇うように、看板娘は手拭いで拭いていた湯呑みを置き、声を一層低くして囁く。
「夜になると寺の裏から、女の泣き声とも笑い声ともつかない不気味な声が聞こえるって話だ。あんまり近寄らない方が身のためだよ」
❁
看板娘から教わった道を辿り、一同は大通りから外れた閑静な道を進む。角を曲がると、そこに重厚な山門を構えた大きな寺が現れた。門柱には確かに『司条寺』と刻まれている。
境内に入ると、広い蔵や池、静かに佇む御神木が見えた。
「ここで間違いないかい?」
神楽の問いに、鬼女はゆったりとした足取りで進み、住居と思われる建物の前で立ち止まった。
『……晋作さん、いる……?』
縋るような声で呟きながら、鬼女は寺の奥へと視線を巡らせた。だが、聞こえてくるのは風に揺れる木の葉の擦れる音と、遠くの鳥の羽音ばかり。彼女の問いかけに応える温かな声は、何処からも返ってこない。
張り詰めていた肩の力が抜かれ、ぽつりと落とされた言葉が寂しく空気に溶けていく。
『……いない』
ぽつりと漏れ出た声は、あまりにも弱々しく風に消えていった。
立ち尽くす彼女の肩が小さく震え、伸ばしかけていた手が力無く下ろされる。
かつての温もりに触れたいと願っていた瞳から光が失われ、深く長い溜息と共に、何処か遠くを見つめるように静かに目を伏せた。
『もう、いい』
すっと息を呑むと、絞り出すような声でポツリと呟いた。その背中はあまりにも小さく、今にも消えてしまいそうなほど儚い。
神楽達に背を向け、ゆっくりと自らの想いを断ち切るように語り始める。
『私は、あの人から逃げた。晋作さんは人間、私は皆から忌み嫌われる鬼。だから怖くなって、逃げ出した。もう十分……この場所を見られただけで……』
俯き、諦めたように背を向けて寺を出ようとする鬼女。夢月達がその背中を悲しく見送ろうとした――その時だった。
「――薫……? 薫なのかい?」
背後から、息を切らした青年の声が響いた。
鬼女の身体が、雷に打たれたように凍りつく。振り向いた山門の傍らに、一人の青年が立っていた。その顔を見た瞬間、鬼女の瞳からポロポロと大きな涙が溢れ出す。
「晋作……さん……」
青年――晋作は、履物も気にせず駆け出すと、去ろうとしていた鬼女を壊れものを扱うように、けれど二度と放さないと言わんばかりに強く抱き締めた。
「やっと、やっと会えた!」
『晋作さん……本当に、晋作さんなの?』
薫は一瞬驚きに目を見開いたものの、伝わってくる懐かしい体温と匂いに、固くなっていた心が解けていくのを感じた。恐る恐る伸ばした手が、晋作の背中に回される。
「そうだよ、僕だ! ずっと待っていたんだ!」
『ごめんなさい……私、逃げ出して……ごめんなさい……!』
「謝らなくていい。君が帰ってきてくれると、信じていたから」
晋作は泣きじゃくる薫の頬を優しく撫で、その温もりを確かめるように微笑んだ。
「どうして……どうして私を待っていたの……? 私は鬼なのよ……? 私のせいで貴方に酷い噂が立って」
「関係ない」
自責の念に胸を掻き乱され、薫は涙で顔をくしゃくしゃにしながら晋作の胸を弱々しく拳で叩いた。
自分と一緒にいるだけで、彼がどれほど周囲から異端として見られ、傷つけられてきたか。その痛みが全て自分の存在のせいだと思えてならなかった。
だが、晋作はそんな彼女の手を優しく包み込むと、首を横に振って言葉を遮った。その瞳には一切の迷いも恐れもなく、ただ薫だけが映っている。
「誰が何を言おうと、僕にとって君はただの薫だ。人間だろうが鬼だろうが関係ない。僕は、薫のことが好きなんだ」
その力強く温かな言葉に、薫は晋作の胸に顔を埋めて激しく泣きじゃくる。夢月はその二人を見つめながら、胸の奥が熱くなるのを覚えていた。
二人は手をつなぎ、思い出の境内を歩き始める。神楽達は二人だけの時間を作ろうと、少し離れた場所から静かに見守っていた。
二人は寺の奥にある小さな部屋へと入っていった。部屋の隅には、すっかり干からびて枯れ果てた一本の薔薇が、花瓶に飾られている。
「これ、覚えているかい?」
「……ええ。私が、初めて貴方に贈った花」
「枯れてしまっても、捨てられなかった。君がくれた大切なものだから」
晋作の掌には、すっかり色褪せ、乾いた花が大事そうに包まれていた。月日が流れてもなお、大切に守られ続けていたその小さな証。自分との思い出を片時も忘れずにいてくれた彼の深い愛に触れ、薫の胸の奥で固く結ばれていた葛藤の糸が、音を立てて解けていく。
涙で潤んだ瞳を揺らしながら、彼女は押し殺していた胸の内の暗い感情を吐き出した。
「私、ずっと怖かった。貴方が私を嫌いになるんじゃないかって」
「ならないよ」
「私が鬼だったとしても?」
「ならない」
「私が逃げ出しても?」
「ずっと待つよ」
二人は顔を見合わせ、涙を流しながら小さく笑い合った。
夕刻。境内が茜色に染まる頃、二人は大きな御神木の下で肩を寄せ合っていた。風が吹き抜け、御神木の葉が祝福の合唱のようにサラサラと鳴り響く。
「ねえ、晋作さん。これからも……私と一緒にいてくれる?」
「もちろんだよ。ずっと傍にいる」
薫は鬼としてではなく、一人の恋する女性として、晋作の手を固く握り返した。
その奇跡のような瞬間、夢月の視界が急激に歪み、眩い白光に包まれた。
❁
「……え?」
気がつくと、夢月は再び『夢幻喫茶』のソファーに座っていた。珈琲の香ばしい匂いと、慣れ親しんだ琥珀色の店内。
「戻って……きた?」
八雲が隣で目をパチクリさせる。神楽と伊吹も元の席に戻っていた。そしてカウンターの上では、珠吉がじっと窓の外を見つめている。
「珠吉?」
『鬼女の禍々しい気配が消えたぞ』
「えっ! どういうこと?」
『鬼女はもう、として生きることを完全に手放したのだ』
夢幻喫茶の静かな店内に、珠吉の重厚な声が響き渡る。カウンター越しに佇むマスターや、固唾を呑んで見守っていた八雲達の視線が一斉に珠吉へと集まった。
それまでの緊迫した空気が、まるで潮が引くようにすうっと澄み渡っていく。
『鬼女というのは、単に角が生えた妖ではない。強い想い――愛執、執着、孤独が積もり積もって変化した存在だ。人間なら『会いたい』『愛している』と言葉で言える。だが、鬼女となったあいつには、言葉の紡ぎ方が分からなくなっていた。だから膨れ上がった想いを『呪い』という形でしか差し出せなかったのだ』
あの異界で聞こえた『愛しているか、知りたい』という悲しい叫び。あれは害意などではなく、不器用すぎる愛の乞いだったのだと、夢月は痛感した。
『薫は晋作に逢うため、自らの命脈を削ってあの小箱(呪具)を作り出し、神楽の神社へ届くように仕組んだ。そして……最後は自分自身を呪うことで、二度と鬼女へ戻れぬよう力を破棄し、人として生きる道を選んだのだ』
「自分を呪ってまで……」
『そうだ。鬼女の力を捨てた以上、あいつはこれから一人の人間として歳をとり、自らが侵した罪や過去とも向き合って生きていくことになる。だが、あいつはそれを選んだのだ。愛する者の隣で生きるためにな』
珠吉の言葉が夢幻喫茶の柔らかな空気の中に溶け込んでいく。
カウンターに並べられたアンティークのカップから昇る湯気が、何処か遠い時代の切ない追憶をなぞるように揺れていた。
八んは手元のお茶を見つめたまま、一途すぎた鬼女の決意の重さに胸を締め付けられている。
その横で、マスターが静かに珈琲豆を挽く手を止め、深く温かい眼差しで店内にいる皆を見やった。
「誰かを愛することを最後まで諦めなかった……それは、鬼も人も変わらないのかもしれません」
「……ああ。愛とは時に自分や相手を縛る呪いとなるが、それを幸せと呼べるなら、それもまた尊い愛の形なのだろう」
カウンターの奥で言葉が途切れると、夢幻喫茶の店内にはただ柱時計の規則正しい刻印だけが静かに響いた。誰もがそれぞれの胸の中で、時を超えて結ばれた二人の絆と愛の重さに思いを馳せている。
やがて神楽さんは満足そうに小さく頷くと、残っていたお茶を飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。
「さあ、今日はもう遅い。帰るとしようか」
神楽が立ち上がり、伊吹、八雲、夢月もそれに続いた。店の扉を開け、夜の街へと踏み出す。かつて巡った江戸の街も、司条寺の御神木も、今はもう目に見える場所にはない。
けれど、時を超えて結ばれた薫と晋作の強い絆の温もりだけは、今も夢月達の胸の中に、消えない光となって確かに灯り続けていた。
❁
家に帰ると、いつもより静かに感じた。
玄関で靴を脱ぎ、鞄を置く。
いつもなら、そのままベッドへ向かって倒れ込んでしまうところだったが、夢月は何処か茫然としたまま立ち尽くしていた。
「……愛、か」
ぽつりと呟いた言葉が、誰もいない部屋の空気に寂しく溶けていく。
今日一日、ずっと頭の片隅から離れなかった言葉。
鬼女――薫と、晋作。
二人が時を超えて再会した瞬間の表情が、今でも鮮明に瞼の裏に浮かんでくる。
長い間離れ離れになっていた二人。
それでも、時や境遇を超えて互いを求める想いは、何ひとつ消えてはいなかった。
人間と鬼。
種族の違い、世間の冷たい目。二人の間には、到底越えられないほど高く分厚い壁があったはずだ。
それなのに晋作は決して諦めず、ずっと薫を探し続けていた。
薫もまた、己の存在を呪いながらも、ただ一筋に彼を想い続けていたのだ。
互いに会えずにいた孤独な時間さえも、二人にとっては絆を確かに深める愛の一部だったのかもしれない。
「すごいな」
夢月はゆっくりと歩み寄り、ベッドの端に腰を下ろした。
自分には、そんな風に思える存在はない。
誰かを心の底から愛したことも。誰かに、命を懸けるほど愛されたことも。
夢月の周りには、八雲やマスター、珠吉達がいる。決して孤独ではないし、居場所もある。
それは重々分かっているはずだった。
けれど、誰かと心と心を繋ぐ「愛」という意味において、自分はずっと独りぼっちだったのだと思い知らされる。
「愛って、どんなものなんだろう」
問いかけても、静まり返った部屋から答えが返ってくるはずもない。
ふと、夢月は以前の出来事を思い出していた。
四枚の写真を持って『夢幻喫茶』を訪れた、あの男性のことだ。
大切な誰かが写った写真を、まるで壊れ物を扱うように、何度も何度も愛おしそうに見つめていたあの瞳。
あの人が胸に抱えていた想いの深さも、当時の夢月には理解しきれないものだった。
写真の中にしかいない大切な人。
届かない距離、触れられない場所にいる相手を、それでも想い続ける切ない気持ち。
あの時の自分は、ただ何処か他人事のように「不思議だな」と思っているだけだった。
どうしてそこまでして、たった一人の人に執着できるのだろう、と。
でも、今日、薫と晋作の姿をその目で確かめて、ほんの少しだけ分かった気がした。
愛とは、ただ相手が目の前にいることだけを指すのではない。
どれほど遠く離れていても。
二度と会えないとしても。
それでも、相手の面影を追いかけてしまうこと。
自分がどれほど傷つき、擦り減ろうとも、ただその人の幸せを祈り続けることなのだと。
「……でも、やっぱり分からないや」
夢月は自嘲気味に、小さく苦笑した。
自分自身には、まだそんな特別な誰かとの出会いなど訪れていない。
だからきっと、頭で理解したつもりになっていても、本当の意味では分からないのだ。
いつか自分にも、薫のように何年経っても色褪せない、忘れられない人ができるのだろうか。
「私には、そんな人……できないのかな」
ぽつりと漏れた呟きとともに、夢月は静かに天井を見上げた。
ほんの少しだけ胸が小さく痛む。けれど、不思議と嫌な気持ちではなかった。
今日、二人の誓いのような再会を見届けたからだろうか。
誰かを深く想うという営みが、今まで以上に少しだけ美しく見えた。
そして同時に、とても怖ろしいものにも見えた。
薫は愛する人を守りたい一心で、彼の前から姿を消した。
晋作は、そんな彼女がいつか戻ると信じて、来る日も来る日も待ち続けた。
愛しているからこそ、引き裂かれた。
愛しているからこそ、諦めずに追いかけた。
「……愛って、難しいな」
夢月はゆっくりと体を横たえ、吸い込まれるように布団の中へ潜り込んだ。
すっと目を閉じると、記憶の残像として最後に目にした二人の姿が浮かび上がってくる。
茜色に染まる夕暮れの中。
そっと寄り添い合う二人。
長い途方もない時間を越えて、ようやく一つに繋がった二人の心。
今の夢月からは、まだ遥か遠くにある世界。
きっと今の自分には、あんな風に誰か一人へ全てを捧げるような愛し方はできない。
「いつか、分かるのかな」
誰かを心の底から愛すること。
誰かに、かけがえのない存在として愛されること。
その答えを抱きしめられる日が、いつか自分にも訪れるのだろうか。
途切れない思索を胸の中で静かに紡ぎながら、夢月は深い眠りの底へとゆっくりと落ちていった。




