鬼の待人・3
「……さん…………ぎさん……!」
「如月さんっ……!!」
泥の底から引っ張り上げられるような感覚の中、遠くから必死に己を呼ぶ声が響いていた。
その切実な音に引き寄せられるようにして、夢月は緩慢に瞼を開いた。
「……ん……っ」
鉛のように重い身体をどうにか起こす。
すぐ隣には、顔を蒼白にした八雲が膝をついていた。
「如月さん! よかったっ」
「八雲、君……?」
「気がついたらこんなところにいたんすよ。一体、ここは何処なんすかね」
二人は互いの無事を確認しながらゆっくりと立ち上がり、身を寄せ合うようにして周囲を見渡した。
周囲が闇に閉ざされているわけではない。互いの輪郭も、着ている服の皺さえもはっきりと見えている。
それなのに、視界の果てまで広がる空間は、何処までも絶望的な黒に染まっていた。
その「黒」は単なる闇ではなく、まるで蠢く巨大な生き物の臓腑のように、滑らかに波打っている。
「うわ……」
八雲が思わず腕を抱え、ひゅっと身震いした。
「ものすごい湿気だし、とにかく寒いっすね」
八雲はそう言いながら、制服の上から腕をゴシゴシと擦る。
言われてみれば、夢月も全く同じ感覚を覚えていた。
冷たい空気が肌を直接撫でているというよりも、骨の芯から少しずつ体温を奪われていくような、不気味な底冷えだった。
「私達、ここで何をしたらいいんだろう」
夢月は神楽から託された一枚の札に視線を落とした。
そこには赤い朱砂で、見たこともない複雑な怪異の呪符が走っている。
「さあ……」
八雲も己の札を覗き込み、困惑気味に眉を顰めた。
「手がかりも何もないんじゃ、動きようが――」
『あなたたちは……だぁれ……?』
「……っ!?」
突然、頭上からとも足元からともつかぬ場所から、妖艶で可憐な女の声が静寂を切り裂いた。
八雲が弾かれたように周囲を警戒する。しかし、広大な黒の中に人影らしきものは何処にも存在しない。
やがて八雲は恐怖を殺し、夢月の顔を見つめた。
「今の声……」
「私じゃないよ」
「じゃあ、誰か、いるのか?」
『ふふふ……あははは……』
返事の代わりに、空間そのものが震えるような女の濡れた笑い声が響き渡った。
音の発生源が特定できない。まるで、この黒い空間そのものが口を開けて嗤っているかのようだ。
見られている。
全身の産毛が逆立つような強い視線を感じ、夢月は自然と八雲のすぐ傍へと身を寄せた。
『おかしいわ……とてもおかしい……』
女の声は、幼子を弄ぶかのように楽しげに響く。
『ただの子供……何故、ここ、居られる? 何処、迷い込んだ?』
「貴方は誰!?」
夢月は声を張り上げて問いかけた。
しばらくの間、返事はなく、不気味な静寂だけが二人を包み込む。
やがて、何処からともなく生暖かい風が吹き抜け、耳元を撫でた。
『願い……叶えてくれたら、教えてあげる』
「願い?」
それだけを言い残し、気配はふっと消え去った。
再び訪れたのは、冷たく重い静寂だけ。どうすることもできず、夢月と八雲は顔を見合わせた。
「願いって、俺達が叶えないといけないってことですかね」
「でも……その願いが何なのかさえ分からないよ」
二人で頭を抱えていると、夢月の手からすうっと力が抜け、神楽の札が滑り落ちた。
「あ……」
拾おうと慌てて手を伸ばす。
しかし、札は床へと落ちることはなく、重力を無視してふわリと宙に浮かび上がった。
「な、なんで!?」
夢月が息を呑むと同時に、宙に浮いた札が激しく震え出した。
朱色で書かれていたはずの呪文が、まるで生きた虫のように蠢いている。
「どういうことですか、これ?」
「分かんない……分かんないよ……っ!」
夢月は狼狽しながら首を振った。
札は二人の目の前で、意志を持っているかのようにゆらゆらと宙を漂っている。
「あ、ちょっと!?」
直後、今度は八雲が固く握り締めていた札までもが手元を離れ、ふわりと舞い上がった。
二枚の札は宙で優雅に旋回すると、やがて、示し合わせたかのように別々の方向へと向かって飛んでいく。
「ついてこい、ってことですかね」
「一人になるのは、すごく不安だけど」
夢月は離れていく己の札を見つめ、意を決したように息を吐いた。
「行くしかないよね」
二人は互いに意を固めると、別々の札を追ってそれぞれの闇の道を歩み始めた。
❁
どれほど歩いただろうか。時間の感覚すら掠れていく中、夢月の前を進んでいた札が、宙でピタリと動きを止めた。
「……鳩……?」
札が淡い光を放ちながら、ゆっくりとその姿を変えていく。
ただの紙であったはずのものが、羽を羽ばたかせる一羽の美しい白鳩へと変化したのだ。
バサバサと凛とした羽音を立て、鳩は闇の奥へと飛び立っていく。
「待ってっ!」
夢月は制服のスカートの裾を翻し、慌てて後を追った。
何処へ導かれているのかは分からない。だが、今の自分にはこの光を信じてついていく道導しかなかった。
静まり返った黒の世界に、鳩の羽音と、夢月の切迫した足音だけが空虚に響く。
やがて鳩は緩やかに高度を下げ、ある構造物の前へと舞い降りた。
「……ここ……?」
駆け寄った夢月の視界に飛び込んできたのは、ポツンと鎮座する古びた小さな木造の祠だった。
鳩は再び元の符へと姿を変え、祠の前に静かに落ちる。
夢月は膝をついて札を拾い上げると、引き寄せられるように祠へ近づいた。
固く閉ざされた小さな扉。
その隙間から、肌が泡立つような不吉な気配が漏れ出している。
夢月は震える指先を伸ばし、扉に触れた。
――カタン。
意外なほど呆気なく、扉は吸い込まれるように開いた。
『……待っていたわ……ずっと、待っていた……』
「――っ!」
背後から直接耳元へ吹きかけられた声に、夢月は全身の血が凍りつくのを感じて弾かれたように振り返った。
そこには、一人の女が立っていた。
何枚もの絢爛な着物を幾重にも重ね着し、その上から白無垢のような布を纏っている。
けれど、その顔には、目も、鼻も、口も存在しない。ただの平坦な皮膚の塊だった。
「貴方は、誰?」
夢月は背後の祠に背を打つほど後ずさった。
「いつの間に……っ」
『この……呪いを……解いて……』
顔のない女は、じっと夢月を凝視しているかのようだった。
『こんな普通の娘……何故ここへ入ってこられる? おかしい……狂っている……』
女の着物が、激しい風を孕んで大きく翻った。
次の瞬間、空間を跳躍したかのように、女の「顔」が夢月の目の前まで迫っていた。
触れ合いそうなほど至近距離に迫る、何もない平坦な顔面。
「――っく……!」
夢月は恐怖の極限で、咄嗟に神楽から託されていた札を女の顔面へ向けて突き出した。
『―――っ!!??』
眼前に札が迫るなり、女の動きが凍りついた。
朱砂の札が眩い光を放った瞬間、女の身体は激しい黒煙へと分解され、苦悶の叫びを残して霧散していった。
「はぁ……はぁ……っ、な、なんだったの?」
夢月は乱れた息をどうにか整えながら、恐る恐る祠の奥へ視線を戻した。
開かれた小さな扉の中。そこには、恐ろしい怨念を纏った一体の藁人形が鎮座していた。
「ここにも、人形が」
頭部と胸部には、禍々しい五寸釘が深々と打ち込まれている。
その凄惨な光景に、夢月は思わず口元を手で覆った。
「うぐっ!」
その瞬間、右腕に焼き鏝を押し当てられたかのような激痛が走った。
「まさか……っ!」
夢月は慌てて袖を捲り上げた。
そこには、神楽や伊吹と同じ薔薇の棘のような傷跡が、血管のように浮かび上がっていた。
しかも、先ほど見たものよりも明らかに深く、太くなっている。
「……あっ、痛い……っ!」
傷跡が生き物のように蠢き、赤紫の血が滲み出す。
あまりの激痛に視界が歪み、夢月はその場に倒れ込むように膝をついた。
荒い息と共に、右腕からポタポタと流れ落ちた血が、黒い地表に赤い斑点を作っていく。
「如月さんっ……!」
遠くから、必死な八雲の声が響いた。
夢月が痛みに耐えながら顔を上げると、同じように右腕を押さえた八雲が、息を切らして駆けてくるところだった。その顔は完全に血の気が引いている。
「ここに長居しちゃダメだ!」
八雲は夢月の肩を支え、叫ぶように告げた。
「俺達の身体じゃ、これ以上は持たない!」
その切迫した声で、夢月の朦朧としていた意識がハッと覚醒した。
――自分達が何のために、この危険な深淵へと足を踏み入れたのか。
神楽達の傷を癒やし、仲間を守るためにここへ来たのだ。
夢月の脳裏に、あの時の神楽の力強い微笑みが蘇る。
『やるからには最後まで、だよ』
「……っ」
夢月は痛みに震える右腕を無理やり持ち上げ、指先で握りしめた札を固く握り直した。
「もう……こんな悲しいこと、やめて……っ!」
祈るような叫びと共に、夢月は渾身の力で藁人形の胸元へ札を貼り付けた。
――ガタガタガタガタッ……!
小祠の中で、藁人形が異様な音を立てて激しく震動する。
そして次の瞬間――。
パラパラパラッ……! と、人形は乾いた音を立てて崩壊し、黒い塵となって跡形もなく消え去った。
『終わり……全て、終わり……』
「……!」
耳にこびりつくあの声が再び脳内で響く。
夢月は弾かれたように振り返り、宵闇の先を睨みつけた。
少し離れた闇の中に、先ほどの着物を纏った女が佇んでいる。
『呪い……解かれた……』
女は、何処か寂しげにくすくすと笑った。
『終わり……これで、終わり……』
「貴方は一体、誰なの!?」
神楽神社に呪われた藁人形を置き去りにし、神楽達の腕に痛々しい傷を刻んだ目的は。
この場に夢月と八雲を連れ込み、こうして姿を現している理由は。
一体、この女の正体は何なのだ。目的は何なのだ。
『鬼女』
女の額から、禍々しくも美しい赤黒い角が二本、生え伸びていった。
『人々、忌み嫌われ、恐れられる鬼』
「鬼女?」
「鬼が人に呪いをかけたっていうのか?」
八雲が信じられないといった表情で鬼女を見つめる。
『呪いなど……理さえ知れば、容易いこと……』
角を生やした女の顔は相変わらず不鮮明なままだが、その声には皮肉めいた響きが混ざっていた。
『嫌い……大嫌い……。人間など、心底大嫌い……』
風もない空間で、着物の裾がゆらゆらと揺らめく。
『鬼、悪い存在……? いいえ、本当に身勝手で悪いのは……いつだって人間の方……』
「どういう意味だよ……っ!」
八雲が痛む腕に耐えながら女を睨みつける。
すると女は、ゆっくりと首を傾げ、八雲の方へと「顔」を向けた。
ギロリ、と、見えないはずの瞳に見つめられた。
そう直感した瞬間、女の平坦な顔の口元と思われる部分が、耳元まで引き裂かれたように異様に吊り上がる。
『ふふふ……あははは……』
着物を靡かせながら、女は狂気的な舞を舞うようにくねりと身体を揺らす。
『人間に害をなすから、鬼は悪……。言葉を交わさず、姿が違うから、鬼は悪……』
まるで芸者のように。
まるで女優のように。
女、否、鬼女は着物の裾を広げてくるりと舞い始めた。
『けれど、それは本当に鬼が悪いの?』
ぴたり、と、鬼女は唐突に動きを止めた。
『鬼の側から見れば、人間の方がよっぽど残酷で、浅ましく、悪に満ちている』
俯いていた鬼女はゆっくりと顔を上げると、目の前で怯える夢月と八雲を睨み付ける。
その目は獲物を見つけた獣ではなく、相手を憎む一人の女にしか見えない。
『どちらが悪かなんて、ただの勝者の決めつけに過ぎないわ』
背筋を凍りつかせる冷徹な声が脳内で痛いほど響き渡る。
『ねえ、貴方達は、どちらが正義だと思うかしら?』
答えられるはずもなかった。
その沈黙の間にも、夢月の右腕の傷痕は毒を撒き散らすように深くなっていく。
「っ……うぁ……!」
激痛に意識が朦朧としていく夢月。隣の八雲も右腕を強く抱え込んでおり、その指の隙間から鮮血がぽたぽたと地面へ滴っていた。
「そ、そんな哲学みたいなこと、俺達に聞いてどうしようってんだよ……っ!」
限界に近い焦燥と恐怖から、八雲が声を荒らげる。
鬼女は着物の袖から鮮やかな塗りの扇子を取り出すと、パッと華やかに開いて口元を覆った。
『気になっただけよ……』
「はぁっ?」
「その答えを私達に尋ねて、貴方は、本当はどうしたいの!?」
夢月が薄れゆく意識を繋ぎ止めながら問いかける。
鬼女の表情は見えない。けれど、扇子の陰から漏れ出た声は、あまりにも儚く、悲痛な色を帯びていた。
『……知りたいの……』
喉の奥から無理矢理絞り出した小さな声が、この場に似つかわしくないほど悲しげに揺れる。
『あの人の……本当の気持ちが……』
握り締めていた扇子が微かに震える。
感情の起伏に合わせて、鬼女の額から伸びた二本の角が淡く光ったり消えたりした。
『私を……愛して欲しかった……』
その言葉は、鬼でも人としてでもなく。
ただ、誰かを愛する想いが言葉として零れ落ちたのだ。
『呪いは……すでに消え去ったわ……』
くるりと向けられた鬼女の背中は、あまりにも悲しげで見ていられなかった。
『もう、おしまい』
ピキッと、空間にヒビが入る。
鬼女の呼吸に合わせてそのヒビは徐々に広がっていき、最後には鬼女の姿すらも覆い隠してしまう。
夢月は咄嗟に手を伸ばした。
ここで見て見ぬふりをすれば、きっと届かなくなってしまう。
後悔、罪悪感。そんなものに似た感情が後ろ髪を引いた。
『また会えるわね』
その姿が、煙のように掻き消えていく。
『あの店で』
同時に、夢月達の右腕を苛んでいた激痛と酷い傷痕が、嘘のように引いて消えていく。
急激に全身の力が抜け落ち、夢月の視界は深い暗闇へと落ちていった。
❁
芳しい、挽きたての珈琲の香りが鼻腔を擽る。
「……ん……?」
聞き慣れた、温かな声が頭上から降ってきた。
「目が覚めたかい、二人とも」
夢月はゆっくりと瞼を開いた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた『夢幻喫茶』の温もりある木目の天井だった。
自分はテーブル席のソファーに横たわっていたらしい。
身体を起こし、カウンターへと視線を向ける。
そこには、右腕の包帯をすでに外した神楽と伊吹が並んで座っていた。
そして隣を見れば、八雲が自分の通学鞄を枕代わりにして、すやすやと間抜けな寝顔を晒している。
「急に二人して意識を失って倒れたのだが……」
伊吹が低い声で問いかけてくる。
「眠っている間、一体何があった?」
自分の身体には、神楽の羽織がそっと掛けられていた。
夢月はその温もりに感謝しながら羽織を抱え直し、伊吹の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……呪いをかけた本人に会いました」
「何だと?」
そのピリッとした緊張感に弾かれ、八雲がもぞもぞと身体を揺らした。
「……んぁ……むぅ……」
皆して彼の方を見れば、冬眠から目覚めた熊のようにのそりと起き上がる。
ほとんど開いていない目で辺りを見渡す姿は、なんとも情けない。
「……あれ……俺、いつの間に寝て……」
そしてカウンターの二人を見た瞬間、ハッと飛び起きた。
「あっ! き、傷!! お二人とも、もう大丈夫なんですか!?」
「ああ」
神楽が滑らかな肌の戻った自身の右腕を見せて微笑む。
「ご覧の通り、痕形もなく消え去ったよ」
「よかったぁぁ……!」
八雲は脱力したように胸を撫で下ろした。
その横で、夢月も思わず深く息を吐き出す。ずっと強張っていた身体から力が抜け落ち、ぐったりと背もたれに身を預けた。
「それで」
カウンターの向こうにいたマスターがコーヒーカップを置き、静かに尋ねる。
「呪いをかけたご本人というのは、どんなお方だったのですか?」
その問いによって、次に注目されるのは夢月となった。
八雲と顔を見合わせた夢月は、顎に手を添えて深く考え込む。
夢月は、あの異界で対峙した女の言葉を鮮明に思い返した。
『鬼女。忌み嫌われる鬼』
「……自分のことを『鬼女』って言っていました」
「鬼女、か」
鬼女自身があの藁人形を作り出したのか。
それとも鬼女は呪いを司る存在で、藁人形はその媒介をするための道具でしかなかったのか。
どちらにせよ、ただの人間でしかない夢月達には浮世離れしすぎた話だった。
「珠吉、何か心当たりはあるかい?」
『あるも何も』
珠吉がカウンターの陰からひょこりと顔を出した。
『鬼女と言えば、あやかしの世界じゃ随分と有名な存在だぞ』
ひらりとカウンターから飛び降りると、夢月たちのテーブルの上へ軽やかに乗る。
『強い執念と怨念で人を呪い殺す、恐ろしい鬼としてな』
「ええっ!」
八雲が思わず珠吉をガバッと持ち上げる。
ぷらんぷらんと身体を揺らしながら抵抗する素振りを見せない珠吉は、半ば呆れた様子で八雲の目を見つめた。
「俺達、まだ呪われてるんすか!?」
「『呪われていた』、だ」
溜息混じりに言った珠吉は八雲の手から滑り落ちると、テーブルの上に着地する。
小さな足取りで八雲に近づくと、前足で右腕を指し示した。
「あの傷が、お前達の腕にも浮き上がったろう。それはお前達が危険を冒して藁人形の呪いを解いてくれたから、鬼女の呪縛もろとも消滅したのだ』
「はぁぁ……」
八雲は生きた心地がしなかったようにドカッと椅子へ深く座り直した。
「呪いとか。本当にもう勘弁してくださいよ」
「しかし」
やけに含みのある呟きが聞こえて顔を向けると、外套がない分華奢になった神楽が天井を見上げて考え込んでいる。
「どうして、また私達の元へ持ち込まれたんだろうね」
「右京さん……?」
夢月が問い掛けても、神楽は曖昧な表情のまま視線を下げる。
顎に手を当てたままの神楽は、深く複雑な陰りを帯びた表情を浮かべていた。
「何故その鬼女は、わざわざ私や左夜子のいる神社へ、あのような人形を置いていったのだろう」
『知りたいの』
「――っ!?」
誰もいないはずの店の入口から、鈴を転がすような澄んだ声が響き渡った。
一同が一斉にドアの方へと振り返る。
そこに――一人の女が佇んでいた。
額に角はない。先ほどのような禍々しい異界の気配もなく、何処か寂しげで儚げな面持ちでそこに立っている。
『知りたい……?』
珠吉がテーブルから飛び降り、警戒しながらも鬼女の目の前でふわりと宙に浮かんだ。
鬼女は珠吉を見つめ、それから店内にいる一同へと視線を巡らせると、消え入りそうな声で語りかけた。
『私の……愛する人……』
その声には、異界で感じた狂気は一切混ざっていなかった。
『私……人間、愛した……』
着物の胸元へ、愛おしそうにそっと手を添える。
伏せられた表情は、ただ純粋に一人の人間を愛する女でしかない。
本の少し前まで目にしていた禍々しい雰囲気を纏った鬼とは思えないほど、落ち着いている。
『今も、ずっと愛している』
人であろうと妖であろうと、何かを愛し想うのは同じ。
少し前、この店を一人の男が訪れた。
彼は最愛の妻を愛しているがゆえに信じられなくなり、罪を犯して全てを失った。
それでも妻の愛が消えることはなく、二人はもう一度互いの想いを伝え合うことができた。
愛というものはどうにも他者が踏み入れるには深すぎる。彼らには彼らでしか渡り合うことのできない船があるのだから。
『あの人……私を、愛してくれているかしら』
消えてしまいそうなほど小さな、愛を乞う声が店内に響く。
『それが、知りたくて』
人を愛した。
ダメなこと。
そんなことは、分かっていた。
鬼と人間。
本来なら、決して交わることのない存在。
それでも離れたくなかった。
だって、あの人は鬼である私を愛してくれたから。
鬼女と人間の出会いは、本来ならあるはずのないことだった。
雨の降る、とある日のこと。
鬼女は一人の人間として、ある寺の前に小さな箱を置いた。
箱の中には、一体の藁人形。鬼女が作った、呪いの人形だった。
「どちら様?」
不意に、寺の中から若い男の声が聞こえた。
『――!』
鬼女はびくりと身体を震わせ、ゆっくりと後ろへ下がる。
やがて、寺の中から一人の若い男が姿を現した。
手には一本の傘。
男は寺の前に立つ鬼女を見つけると、目を丸くした。
「おや、お客さんでしたか」
男は、怯えた様子の鬼女へ優しく微笑みかける。
本人は決して怯えること無く、穏やかな笑みを浮かべたまま躊躇なく鬼女に近づいた。
鬼女は何の警戒心も見せずに近づいてくる男に警戒心を剥き出しにする。
それでも、男は顔色一つ変えずに笑った。
「雨の中、嬢さんが傘を差さずにいては、身体を冷やしてしまいますよ」
そう言って、男は自分の傘を鬼女の方へ傾けた。
鬼女は、雨を遮る傘と、その向こうにいる男を見上げる。
「怯えなくて大丈夫ですよ」
自身が抜けることなど意に返さず、鬼女が濡れないようにとだけ考えて傘を向けている。
眼鏡の奥の目が何を考えているのか読み取れない。
「何もしませんから」
その声には、一切の棘も偽りもなかった。
あまりにも柔らかく、心地の良い響き。雨の音に掻き消されそうなほど穏やかな声だというのに、不思議と胸の奥深くまで真っ直ぐに届いてくる。
(こいつ……私に、気づいてる……?)
鬼女は警戒を露わにし、息を詰まらせながら男の顔をじっと見つめた。
人間は愚かで、移り気で、妖の自分達とは相容れない存在のはずだった。何か裏があるに違いにない。そう思って全身の神経を尖らせていた、まさにその時だった。
男がそっと、彼女の冷え切った手に自分の温かな手を重ねてきた。
『ひっ……!』
突然の肌の温もりに驚き、鬼女は小さく悲鳴を上げた。
激しい動揺が胸を押し流し、抑え込んでいた霊力が乱れ跳ねる。
その瞬間、額の皮膚を押し破るようにして、二人が並ぶ薄暗闇に、赤黒い一本の角が禍々しく伸びた。
白く滑らかだった肌には不気味な鬼の紋様が浮かび上がり、可憐だった人間の姿がみるみるうちに崩れて、異形の鬼としての本性が露わになっていく。
気を抜くと、すぐにこのおぞましい姿へと戻ってしまう。それは、人里に紛れて生きるにはあまりにも致命的な、鬼女の悪い癖だった。
(見られた……! 殺される、討たれる……!)
爪を立て、男の手を振り払おうとした。けれど、男は逃げなかった。
「……鬼か」
男は驚いたように呟いた。だが、そこに恐れや蔑み、あるいは忌み嫌う排斥の眼差しは一切なかった。まるで道端に咲く見たこともない珍しい花を見つけたかのように、ただ優しく、愛おしむような眼差しで鬼女の異形の姿をじっと見つめている。
「初めて見たな」
言葉が出なかった。人間なら誰もが狂乱し、刀を抜くか逃げ惑うはずの姿。それなのに、この男の瞳に映っている自分は、まるでただの迷い子のように見えた。
鬼女は恐怖と混乱の混ざり合いました感情に苛まれ、じりじりと後ろへ足をもつれさせながら下がっていく。
「きゃあっ!」
不意に足元の濡れた石に爪先を躓かせ、体制を崩した身体が後ろへと大きく倒れ込んだ。
視界がグラリと揺れ、雨空が迫る。
「あらら、大丈夫ですか」
男が慌てた様子で差し出してきたのは、先ほどまで自分を包み込んでいた、あの温かい手だった。
鬼女は尻餅をついたまま、その大きな手を見つめた。
今すぐに立ち上がり、跳躍して闇の中へ逃げ去ることだってできた。鬼の力をもってすれば、こんな人間など容易く振り切れる。
それなのに、何故か目の前に差し出されたその手を拒むことがどうしてもできなかった。
震える指先。恐る恐る、自分から手を伸ばす。
そして、男の温かな手を、きゅっと握り返した。
それが、雨の日の寺の境内で起きたこんな些細な出来事が。
永い刻をただ孤独に生きてきた鬼女の心を、自分でも二度と元には戻せないほど、大きく揺さぶったのだった。
❁
『あの人……寺、住職? だった』
夢幻喫茶の静まり返った店内で、鬼女が遠い目をしてぽつりと呟いた。
古びた柱時計がチクタクと刻む音だけが響く中、その言葉は何処か儚く漂う。
「何処の寺だ」
カウンターの端で腕を組み、背を預けていた伊吹が、静かだが厳格な声で尋ねる。
鬼女は言葉を探すように「……たしか……」としばらく首を傾げ、記憶の糸を深く手繰り寄せていた。そして、何か大切なものを思い出したかのようにハッと顔を上げる。
『司条寺』
その名前が空気中に落ちた瞬間、伊吹の眉が微かに跳ね、瞳の奥に鋭い光が宿った。
「伊吹、知っているかい?」
向かいの席で優雅に扇子を弄んでいた神楽が、興味深そうに視線を向ける。
「知っている、というほどではないが……」
伊吹は視線を少し落とし、記憶の引き出しを調べるように語り始めた。
「昔、父が語っているのを一度だけ聞いたことがある。……しかし、司条寺はもうこの世には残っていないはずだ」
「それって、伊吹さんたちが生きてる(大正の)時代で……ですか?」
八雲が思わず身を乗り出し、机に身を乗り出すようにして尋ねる。
「ああ」
重々しく頷いた伊吹は、もたれていた壁から背を離し、前傾姿勢で鬼女を睨み付ける。
二人の間に目に見えて火花が散り始めた。
「恐らく父……いや、それよりもさらに古い世代の時に、何らかの理由で途絶えたと聞いている。寺も火災で焼け落ち、今は跡形もなく、歴史の表舞台から消え去っているはずだ」
その残酷な事実を耳にした鬼女は、力なく視線を落とし、深く深く俯いた。
『仕方ない』
ぽつり、と雫を水面に落とすように呟く。
『仕方ない』
震える声で何度も何度も繰り返す。
もう会えるはずもない。その場所すら残っていないのだと、自分自身に激しい痛みを伴って言い聞かせるように。
『おい、鬼女』
その時、カウンターの上からしなやかな動作で飛び降りた珠吉が、静かに鬼女の正面へと歩み寄り、ちょこんと座り込んだ。
いつもの軽薄で冗談めかした調子は微塵もない。低く、真剣な声だった。
『お前は、一体なんの願いがあって、この夢幻喫茶へ辿り着いたんだ』
『さっきも言った』
鬼女がゆっくりと顔を上げる。その瞳には、溢れ出んばかりの切なさと哀愁が満ちていた。
『あの人が、私を本当に愛してくれていたのかどうか。それを知りたい』
『何故知りたい?』
珠吉の黄色い瞳が、逃げ場を塞ぐように深く問う。
『どうすれば、お前にとって『愛している』と証明されるんだ?』
鬼女はすぐには答えなかった。ただ無言のまま、着物の胸元、その懐深くへと細い手を入れた。
そして、そっと取り出したのは――深く濃密な赤色を湛えた、一輪の薔薇の花だった。
『この花』
鬼女は、まるで壊れ物を扱うかのように、その薔薇を宝物のように愛おしく見つめた。
『私、あの人と初めて出会って……心を通わせた時、これを贈った』
たった一輪でありながら、店内に満ちるコーヒーの匂いを遮って薔薇の匂いが漂う。
『もし……あの人が本当に私を愛してくれていたなら……この花は、今も大切に残されているはずだから』
鬼女のその絞り出すような声が、静まり返った店内に切なく響き渡る。
一輪の薔薇に注がれる眼差しはあまりにも無垢で、そして壊れそうなほどに切実だった。
「……っ!?」
夢月の右腕に、まるで冷たい針を刺されたかのような、鋭い痛みが走った。
思わず低く息を呑み、反射的に左手で右腕を固く押さえる。
鬼女が手に持つ、一輪の薔薇を見る。
見た目はただの美しい、けれど何処か古めかしい花に過ぎない。痛みの理由も、何が起きているのかも分からない。
ただ、その薔薇を視界に収めた瞬間、心臓が跳ね上がり、全身の毛穴が開くほどの説明のつかない強い恐怖が脳裏を支配した。
『何処に残っているか、分かるのか?』
夢月の異変に気づく間もなく、珠吉が問答を続ける。
『寺の中』
珠吉の問いに、鬼女は迷いなく答えた。
『あの人の……あの部屋の中に、あるはず』
「それって」
八雲が困惑したように鬼女を見つめる。
彼の声に反応した鬼女が、虚ろな目を向けた。
「自分達で、そこへ探しに行くってことですか? でも、もう焼けて存在しないお寺なんですよね?」
「そうだね」
「でも、どうやって。そんなの、どうしよう」
『マスター』
珠吉がくるりと身体を翻し、カウンターの奥へと視線を向けた。
それまで二人の会話を、影のように静かに見守っていたマスターが、穏やかな笑みをたたえて顔を上げた。
「過去に行く方法なら、ありますよ」
そう静かに告げると、マスターはカウンターの横からゆっくりと出てきた。
足元にいた珠吉をひょいと両手で抱え上げると、そのまま流れるような足取りで、店の古い木製の扉へと向かって歩いていく。
「夢月さん」
「えっ。私、ですか?」
「ええ。貴方の出番です」
マスターが扉の前で足を止め、振り返って夢月を見つめた。
『ほら。こっちに来い』
マスターの腕の中で、珠吉がちょいちょいと前足で手招きをする。
夢月は右腕に残る不可解な痺れと痛みを押し殺しながら、吸い寄せられるように、一歩、また一歩と入口の扉の前へ歩み寄っていった。
「取っ手に手を掛けて。そして、ゆっくり目を瞑ってください」
言われた通り、夢月は使い込まれてしっとりと冷たい真鍮の取っ手に手を掛けた。金属の冷気が掌から伝わってくる。
そして、そっと瞼を閉じた。
「そして、強く思い描くのです」
マスターの低く澄んだ声が、耳元で心地よい重奏のように響き渡る。
「過去へ。あの場所へと、連れていくように」
夢月は深く静かに息を吸い込んだ。胸の奥で、カチリと何かの鍵が回る感覚がある。
(過去にあの人が生きていて、お寺があった時間へ。私達を連れていってください)
心の中で、強く、深く願う。
そして、躊躇うことなく、扉を内側から外へと押し開いた。
カラン、と、現実のものとは思えないほど美しく澄んだ鈴の音が、遠い世界から響いた。
「……わぁ……」
そっと目を開け、夢月は一歩、外の空気へと足を踏み出す。
そこに広がっていたのは、見慣れた現代の路地裏でも、夢幻喫茶の静かな敷地でもない、見たこともない雄大な景色だった。
以前、不思議な縁で訪れた大正時代の街並みよりも、さらに途方もなく古い時代。
目の前には、軒を連ねる重厚な木造建築、舗装されていない湿った土の街道、そして色とりどりの着物や合羽を身に纏った人々が平然と行き交っている。
まるで、歴史の教科書で見た江戸時代そのものの空気と匂いが、肌を撫でていった。
「ここからは、皆さんの番ですよ」
マスターが背後から静かに声をかける。
「神楽さん」
神楽が軍帽を被り直し、口元に笑みを浮かべる。
「伊吹さん」
伊吹が腰の長刀の位置を確かめるように、深く頷く。
「拓さん」
八雲がゴクリと唾を呑み込み、意を決して踏み出す。
「そして――貴方」
最後にマスターは、鬼女へと温かくも深い視線を向けた。
鬼女は何も言わないまま、夢幻喫茶の開かれた扉から、夢月のすぐ横を通り抜けて街道へと降り立った。
数歩進んだところで、彼女はぴたりと足を止める。そして、ゆっくりと振り返った。
『…………』
夢月達を見つめる鬼女の瞳は、まるで今にも砕け散ってしまいそうなほど、不安と恐れに揺れていた。
自分が追い求めた真実が、どれほど残酷なものかもしれないという恐怖。
それでも、彼女は唇を強く噛み締め、意を決したように再び前を向いた。
『ついてきて』
鬼女はそう絞り出すように呟くと、かつて自分が確かに愛し、そして愛されたと信じたい人が生きていた、遠い時代の風の中へと力強く歩き出したのだった。




