鬼の待人・2
翌日の放課後。夢幻喫茶の店内。
『……嫌な予感がするぞ』
店のカウンターの上で、珠吉がピクピクと鼻をひくつかせていた。
「何か感じますか? 珠吉」
カウンターの奥でグラスを磨いていたマスターが、穏やかな声で尋ねる。
『感じるどころではない』
珠吉は機嫌悪そうに太い尻尾をパタパタと揺らした。
激しく動かしても埃一つも舞い上がらない。流石はマスターが念入りに掃除してるだけのことはある。
『昨日から、妙なものがこの店に刻一刻と近づいている』
「妙なもの?」
『妖気だ』
珠吉はフワフワの毛を逆立て、黄色い目をギラリと細める。
『それも、生半可な妖怪のそれじゃない。何百年もかけて熟成されたような、恐ろしく重くて古い気配だ』
マスターは何も答えず、ただ静かにグラスを磨く手を止めた。
*
神楽家の境界を抜け、店へと向かうため二人は昼下がりの街中を歩いていた。
神楽は先ほど蔵の暗がりで見つけた例の小箱を自身の羽織で厳重に包み、まるで壊れものを扱うかのように、胸元で大切そうに抱え込んでいる。
「……その箱をあの店に持っていって、どうする気だ」
隣を歩く伊吹が、羽織の隙間から覗く黒漆の輪郭に厳しい視線を落としながら尋ねる。
「俺だけじゃ手に余る怪異だからね。一度、マスターや珠吉達に話してみようと思ってね」
「そうか」
短く重い返事を返しつつも、伊吹の鋭い目線は、神楽が腕の中で庇うように抱く小箱から片刻も離れようとはしなかった。
やがて、賑やかな表通りから一本折れた路地の奥。
現世と異界の狭間にひっそりと佇む、見慣れた『夢幻喫茶』の扉の前へと辿り着く。
神楽が静かに真鍮のドアノブを回し、扉を押し開けた――その瞬間だった。
『ふぎゃっ!?』
「うおっ!?」
店の奥の暗がりから、黒い塊が弾丸のような勢いで飛来した。
神楽が反応するよりも疾く、それは一直線に伊吹の顔面へと鋭く直撃する。
――べたり。
鼻腔を突く香ばしい毛並みの匂い。
伊吹の顔面を覆い尽くすように張り付いたのは、ふわふわの毛並みが愛らしい珠吉だった。
伊吹は無言のまま、己の顔面に貼り付いて爪を立てている珠吉の首根っこを、大きな手でむんずと掴む。
『ふぎゃあああっ!?』
容赦なく引き剥がされ、珠吉は伊吹の腕からぶらんとぶら下がる格好となった。
琥珀色の大きな目をぐるぐると回し、呆然としている。
「伊吹さん、すみません」
「ああ、いや……俺は一向に構わないが」
神楽が苦笑混じりに心配そうな視線を珠吉へ送る。
「珠吉、いきなり飛び出してきてどうしたんだい?」
問いかけられた珠吉は、ぶら下がり、空中をあがきながらゆっくりと顔を上げた。
そして神楽たちと視線が合うと、途端に気まずそうに耳を伏せ、明後日の方向へと目を逸らす。
『ひ、暇だったからだぞ』
「暇?」
『お前達が、この路地へ入ってくる気配がしたから』
そこまで言うと、珠吉はプイッと横を向き、小さな口を尖らせた。
『気配がして、思わず飛んで行ってしまっただけだ」
「ふふっ」
落ち着いたカウンターの向こう側から、マスターが布巾でグラスを拭きながら穏やかに微笑んだ。
「嬉しくて自ら飛んで行かれたのですね、珠吉」
『な、何を言うんだマスター! 戯れ言を吐くでない!』
「そうだったのかい? 可愛い奴だなぁ、珠吉ー」
神楽まで楽しそうに目を細め、ぶら下がる珠吉の柔らかい頬を指先で優しく突く。
『ふなぁぁぁあ! やめろおぉぉぉぉ! 我を子供扱いするなー!』
珠吉の甲高い悲鳴と暴れる足音が店内に賑やかに響き渡った。
ひとしきりドタバタと騒いだあと、二人はいつものカウンター席へ腰を下ろした。
すっと差し出されたマスターの手により、神楽達の前へ芳しい湯気の立つ煎茶が静かに置かれる。
「本日は、何やら重々しいお品をお持ちになられたようで」
マスターの琥珀色の瞳が、神楽の膝の上にある羽織の包みを見つめていた。
「ああ、そうなんだ」
神楽は包んでいた羽織を解き、小箱を慎重に取り出した。
使い込まれた木製カウンターの上へそっと置き、黒ずんだ木箱を露わにする。
そして、神楽がその蓋へゆっくりと手を掛けようとした――その瞬間だった。
「……開けるな」
先ほどまでふざけていた珠吉の声が、地底から響くように低く、鋭く落ちた。
神楽の手が、蓋の上でぴたりと止まる。
「そうかい」
神楽は素直に蓋から手を離した。代わりに、箱の表面に刻まれた無数の傷跡を指先でトントンと軽く叩く。
「これがね、昨日の朝にうちの神社の鳥居の前に落ちていたんだよ」
『これが、か……?』
珠吉が毛を逆立て、大きな目を丸くする。
『お前の家にこんなものを置き去っていくとは……正気の沙汰ではないな。悪趣味極まる輩がいたものだ』
「まったく、困ったものだねぇ」
神楽はいつものように飄々と苦笑してみせる。
しかし、その箱をじっと凝視していたマスターの表情は、刻一刻と影を帯び、深く曇っていった。
「……言葉を失うほど、相当に質の悪い呪いですね」
マスターは冷めたお茶の湯気越しに、沈痛な面持ちで木箱を見つめる。
「代々、神職を務められる神楽さんの血筋をもってしても……触れ続けるのはあまりにも危険です」
「ああ、それは重々承知しているさ」
神楽は眉を下げて苦笑した。
「左夜子もね、この箱の気配に怯えて、半泣きで私を叩き起こしたくらいだから」
『……神楽、お前達自身の身体に異変はないのか?』
珠吉がひげをピクピクと揺らし、神楽の顔を覗き込む。
「いいや。特にこれといった症状は……」
『本当か?』
珠吉の問い詰めるような声に続いて、隣に座る伊吹も低く口を挟んだ。
神楽は二人と一匹の真剣な顔を見比べ、困ったように視線を泳がせる。
しばらく思案するように沈黙した後、やがて観念したように息を吐き、重い口を開いた。
「……昨晩から、かな」
『何かあるのか』
「どうもね……左夜子も私も、腕が痛むんだよ。ただの気のせいなら良いのだが」
「どちらの腕だ」
「……右だよ」
その答えを聞いた、まさにその瞬間。
神楽の右隣に座っていた伊吹の手が電光石火の速さで伸び、神楽の右腕を強く掴み上げた。
「……っ! どうしたんだい、伊吹」
突如として拘束され、神楽が反射的に腕を引こうと力を込める。
しかし、伊吹の鉄の如き握力は微動だにせず、神楽の腕を離さない。
「大丈夫だよ、本当に大したことは――」
「黙っていろ」
伊吹は神楽の弁明を、氷のように冷ややかな声で遮った。
そして神楽の着物と軍服の袖口へ容赦なく手を掛ける。
「……?」
神楽が困惑の表情を浮かべる中、伊吹はゆっくりと、慎重にその袖を肘の上まで捲り上げた。
「は……?」
神楽の喉から、掠れた息が漏れた。
露わになった、神楽の白皙の右腕。
そこには――皮膚を切り裂き、肉を苛むような凶々しい傷が深く刻み込まれていた。
まるで、不吉な薔薇の棘がつるを伸ばして絡みつくかのように、手の甲から肘にかけて禍々しい赤紫の線が這い上がっている。
ところどころから生々しい血が滲み出し、その傷口は、今この瞬間も微かに蠢いて広がっているようにさえ見えた。
「……隠していたのか」
「…………」
神楽はかける言葉を見失い、言葉を失って口をつぐむ。
「『気のせい』などで済む傷ではないだろう」
伊吹の声が一層低く、抑えきれない怒りと焦燥を孕んで沈む。
「これの……この箱のせいか?」
神楽の腕を掴んで離さぬまま、伊吹はもう片方の手でカウンターの上の小箱を鋭く指し示した。
「私ほどではないが……左夜子にも、同じような棘の傷が入っていたんだ」
神楽は諦めたように静かに目を伏せ、小箱を見つめた。
思い返してみれば、今朝の左夜子は竹箒を左手だけで持ち、右腕を不自然なほどダラリと下げて庇っていた。
そして神楽自身もまた、この小箱を抱える際、無意識に左手だけを使い、右腕をかばうように身体を丸めていたのだ。
「……痛むのだろう?」
伊吹の指先が、滲む赤紫の傷口へ、壊れ物に触れるようにそっと触れた。
「っ……」
神楽の肩が、激痛に微かに跳ね上がる。
表情も微かに歪み、それだけでただ事ではないことが分かる。
「昨晩からだとすれば……丸一日、この痛みを隠して我慢していたのか」
伊吹の声には、隠しきれない苛立ちと、神楽の身勝手な自己犠牲に対する痛烈な責苦が混ざり合っていた。
「何故、これが見つかった時点で、すぐに俺を呼ばなかった」
「俺は、呼ぼうとしたさ」
神楽は気まずそうに目元を緩め、弱々しく笑った。
「でもね、左夜子が必死に止めたんだよ」
「どうして左夜子が……」
「伊吹やマスター、夢月達……大切な人々にまで、この不吉な呪いが伝染して影響が及ぶかもしれないから、とね」
神楽は捲り上げられた自分の惨たらしい腕を、静かに見つめ直した。
「だから丸一日様子を見て、これ以上悪化するようなら伊吹を呼ぼう……という結論になってね」
そして、力なく苦笑する。
「でも……私の判断は、少々遅すぎたのかもしれないね」
「……そんなことはない」
伊吹は短く断言するように答えた。
「とにかく、今すぐ手当をする。血が滲んでいる」
「はい。こちらをお使いください」
マスターが素早い動作でカウンターの下から古い救急箱を取り出し、恭しく差し出す。
伊吹はそれを受け取ると、手慣れた手つきで薬を塗り、神楽の右腕へ手際よく清潔な包帯を巻いていった。
やがて、肘から手の甲までが真っ白な包帯によって覆い隠された。
神楽は痛みの引き始めた己の腕を、しばらくの間、複雑な眼差しで見つめていた。
「左夜子は無事か?」
「あちらは傷が浅かった。私がすでに同様の手当を施してある」
それを聞いて伊吹は一瞬安心したように表情を綻ばせる。
しかし、すぐに引き締めて神楽の目を見つめた。
「それと……神社からこの箱を持ち出し、この店へ運んだのだろう」
「ああ」
「なら、あの土地に留めておくよりは、呪いの拡散も効力も幾分かは薄れているはずだ」
「そうか……なら、良かった」
神楽はホッと胸を撫で下ろし、小さく息を吐いた。
けれど――カウンターの中央に鎮座する古びた小箱からは、未だ止むことのない冷ややかで禍々しい気配が、黒い霧のように静かに立ち昇り続けている。
その場にいる誰もが、これから訪れるであろう更なる災厄の予感から、目を背けることはできなかった。
❁
静寂を破って、入口の鈴の音が心地よく響いた。
「おいでませ、夢幻喫茶へ」
「こんにちはー!」
放課後のチャイムが終わると同時に駆け込んできたような、明るい声と共に夢月が入ってくる。そのすぐ後ろから、鞄を肩に掛けた八雲も顔を覗かせた。
「今日も来ました、 マスター。いつものください」
「おいでませ。どうぞお好きな席へ」
マスターがいつもの温かい微笑みを向ける。
夢月が鞄を置き、いつものカウンター横のテーブル席へ向かおうとした。
その時、カウンター席に座っていた神楽と伊吹が夢月達の方を振り返る。
「おや」
「あ、神楽さん! 」
「夢月、八雲。ちょうどいいところに来たね」
神楽がいつもの優雅な動作で微笑む。しかし、その腕の中にしっかりと抱えられているものを見て、夢月は首を傾げた。
それは、古い小さな木箱だった。
「何ですか、それ? また骨董品でも買ってきたんですか?」
「面白いものだよ。私が持ってきたんじゃない、あちらから『来た』んだ」
そう言って、神楽は静かに箱の蓋に美しい手指を掛ける。
ゆっくりと。滑らかに。引き摺るような音と共に蓋を開けた。
中から現れたものを見て――。
「……うわっ!?」
八雲が思わず短い悲鳴を上げて一歩後退った。
「何これ……グロいっていうか、不気味すぎるだろ……」
夢月も「ひっ」と息を飲み、思わず胸元を押さえて身を引く。
箱の中に横たわっていたのは、紛れもなく一体の藁人形だった。
しかし、神社などの御神木に打ち付けられているような単純な呪詛の道具とは、明らかに異なっていた。
黒ずんだ藁、歪んだ顔の墨線、そして全体を絞め殺すようにぐるぐる巻きにされた、血のように赤い糸。
「神楽さん、これ……本当に何なんですか?」
「昨日、家の前に置いてあったらしい。妹の左夜子が見つけたんだ」
神楽は他人事のように淡々と言う。
「誰が置いたのか、何のために置いたのかも分からない」
「だから、マスターのところに持ち込んだんですか」
「そういうこと。私一人で調べるよりも、ここに持ち込んだ方が手っ取り早いと思ってね」
珠吉がカウンターから飛び降り、しなやかな動作でテーブルの上に乗ると、箱の中をじっと覗き込んだ。
『……これは』
普段は軽口ばかり叩いている珠吉の顔から、完全に余裕が消えていた。
「どうしたの、珠吉?」
カウンターの上に座って箱を覗き込む珠吉に、夢月が恐る恐る尋ねる。
珠吉は箱の中を睨みつけたまま、淡々とした調子で答えた。
『妖怪だ』
「え!?」
夢月と八雲が同時に驚愕の声を上げた。
「これが妖怪!? ただの藁人形でしょ?」
『いや』
珠吉は探るように鼻を近づけながら、首を横に振った。
『正確にはまだ妖怪ではない。……妖怪になりかけている』
「なりかけ……?」
『こいつは長年にわたって、人間の凄まじく強い『想い』を吸い続けているんだ』
珠吉の声が、低く重く店内に響く。
夢月と八雲はただ息を殺し、湧き上がる恐怖に必死に堪える。
『だが、一般的な呪いの道具のような『恨み』や『憎しみ』ではない』
「恨みじゃないなら……じゃあ、何なんなの?」
夢月が喉を鳴らして問い掛ける。
珠吉はしばらく固まったように黙り込み、藁人形の胸の赤い糸を見つめてから答えた。
『歪んだ感情――愛、とでも言うべきか』
店内が、静まり返った。
喫茶店の時計が刻むチクタクという音だけが、やけに大きく聞こえる。
「愛……? これが……?」
八雲が信じられないといった様子で藁人形を二度見する。
『そうだ。誰かを激しく想う力が、あまりにも強すぎたんだ』
珠吉は藁人形から決して目を離さない。
魂など当然宿っているはずもない物体の藁人形が、生きて呼吸しているように思えてくる。
それくらい、箱に収められた藁人形からは不気味なまでの生気が感じられた。
『普通なら、人間が作ったただの藁人形にこれほどの霊力が宿ることはない。だが、こいつに込められた想いは狂気と言っていいほど深い』
歪んだ顔。
古びて乾いた藁。
そして、何重にも、解けぬように固く巻かれた赤い糸。
『何かを探している』
「誰かを……ですか?」
『そうだ』
何かを、ではなく。
誰かを。
『この人形の中に凝縮されている意思は、何十年、あるいは何百年もの間、ずっと何かを探し続けている』
夢月は吸い寄せられるように、恐る恐る箱の中を覗き込んだ。
見た目はただの古くて不気味な藁人形だ。それなのに、何故だろう。
視線を合わせていると、胸の奥が締め付けられるように妙にざわつき、悲しいような、恐ろしいような感情が込み上げてくる。
「誰を探してるんすかね……」
顎に手を添えた八雲が深く考える素振りを見せる。
近頃はこんなことばかりだ。
いつだって心の拠り所として落ち着いた時間を欲して夢幻喫茶に来るはずなのに、今ではこうして厄介事に巻き込まれている。
八雲の適応能力に、夢月は驚かされてばかりだった。
『それは分からん、だが……』
珠吉が言葉を濁そうとした、その瞬間だった。
ピク……。
箱の中に横たわっていた藁人形の首が、誰の手も加わっていないのにほんの僅かに、動いた。
「――っ!?」
夢月が息を呑み、口を手で覆う。八雲も目を見開いたまま凍りついた。
誰も動いていない。風も吹いていない。
それなのに、藁人形の歪んだ顔がギシギシと音を立てるようにして、ほんの少しだけ夢月達の立っている方向へと向けられたのだ。
珠吉が喉の奥で低く唸り声を上げる。
『……始まったな』
その呟きにマスターは何も言わない。ただ、静かに、そして悲しげな瞳で藁人形を見つめていた。
そして、箱の中で固く絡み合っていた胸元の赤い糸が、誰かに引っ張られたわけでもないのに、一人でに。
――ぷつり。
一本、静かに切れた。
誰かを探している。ただそれだけの、執念に近い想いだけをこの場に残して。
神楽の包帯を巻き終えた、その瞬間だった。
「――っ……!!」
伊吹の右腕に、まるで焼けた鉄を押し当てられたかのような激痛が走った。
(っ……俺にまで……!)
伊吹は咄嗟に左手で右腕を強く押さえ込み、絶句した。
「伊吹さん……?」
夢月が異変を察し、心配そうにその名を呼ぶ。
「……大丈夫だ」
低く掠れた声でそう答えながらも、伊吹は荒い息を吐きながら右腕の軍服の袖を勢いよく捲り上げた。
そして、そこに刻まれていたのは、神楽と全く同じ禍々しい傷痕だった。
手の甲から伸びた赤黒い棘の傷が、生き物のように皮膚を這い、肩口の奥深くへ向かって伸びている。
「え……」
夢月の顔から、すっと血の気が引いていった。
「神楽さん……この箱には、一体何が入っているんですか?」
震える声で尋ねる夢月に神楽は即座には答えず、ただ悲痛な面持ちで静かに自身の袖を下ろした。
その沈黙を破るように、カウンターの上に置かれていた漆黒の小箱へ、珠吉がひらりと飛び乗った。
「……人形だ」
「人形……?」
「藁人形だよ」
珠吉は毛を逆立て、不吉な箱を見下ろしながら言葉を続ける。
『強烈な恨みや怨念を抱いた者が、相手を呪い殺すために用いる呪具だ。元々は子供の無邪気な玩具や病除けとして作られた起源もあるらしいが……いつしか、人の命を苛み、呪うための陰惨な道具として知られるようになった』
「あ、それなら……俺も知ってます!」
八雲がハッとしたようにぽんと手を叩いた。
「藁人形の中に、呪いたい相手の髪の毛や爪を入れて、深夜に神社の大木に釘で打ち付けたり、腕を折ったりすると……対象の人間にもまったく同じ災いが起きるっていう……アレですよね」
カウンターの上に置かれた、何処にでもある古びた小箱。
けれど、その狭い内部に封じられているものが、単なる伝承上の道具などではないことを、ここにいる全員が肌で感じ取っていた。
「現状、この箱の中身を直接目にしたのは私と伊吹、そして左夜子の三人だけだ」
いつになく張り詰めた顔つきをする神楽は、淡々と言う。
「そして……右腕に不可解な傷が浮かび上がったのも、その三人だけ。何らかの明らかな因果関係がある」
『……箱の中身を視た者にだけ、選択の余地なく呪いを派生させる……というのか?』
珠吉が喉を鳴らし、低く呟いた。
伊吹は無言のまま、己の右腕へ容赦なく深く包帯を巻きつけていく。
「じゃ、じゃあ……」
夢月が恐る恐る箱を見つめ、言葉を紡ぐ。
「これを境内に置いていった人は……誰かを呪いたかったんですか……?」
「相当に強い意図を持って、誰かを苛みたかったんだろうね」
神楽の答えに、夢月の表情が暗く沈み込む。
その、直後だった。
夢月はすっと息を呑むと、意を決したようにテーブルの上へ素早く手を伸ばした。
「……!?」
そして、迷いなく小箱を両手で持ち上げる。
「――っ! お、おい!!」
伊吹が弾かれたように勢いよく立ち上がった。
「何をしてるんすかっ!」
八雲も顔色を変えて慌てて夢月の腕を掴む。
「如月さん! どうして!?」
「なんで止めるの」
振り返った夢月は、恐怖と決意が入り混じる表情を八雲に向けた。
「どう考えたって危険すぎます! 呪われたらどうするんですか!? 右京さんや伊吹さんと同じ目になっちまうかもしれないんですよ?」
「でも……! 確認しなきゃ進まないよ!」
「……っ」
「本当にこれのせいなのか……誰かがリスクを冒して確かめなきゃ、何も分からないよ!」
夢月は箱を胸元で強く抱きかかえたまま、八雲の目を真っ直ぐに見つめ返す。
「このままずっと手がかりが掴めなかったら、右京さん達の傷だって治らないかもしれない……! 腕どころか、命だって……!」
「如月さん……」
「私は、確かめたいの」
夢月の声は、恐怖で繊細に震えていた。
それでも、瞳の奥に宿る揺るぎない強い光だけは、決して逸らされなかった。
「誰が、どんな悲しい想いや恨みからこんなことをしたのか……。そして、これ以上皆の傷が酷くならないために……私がこの呪いを解かなきゃ!」
夢月の揺らぎない決意の言葉に八雲は言葉を失った。
しばらくの間、夢月の真っ直ぐな瞳を見つめていた八雲は、やがて諦めたように大きく息を吐き出した。
そして、パシッと両手で己の頬を強く叩き、気合いを入れた。
「……分かりました!」
八雲は覚悟を決めた顔で、夢月のすぐ隣へと足を踏み出す。
「如月さん一人じゃ、何が起きるか分からなくて危なっかしいですからね! 俺も腹括って協力します!」
「八雲君……!」
夢月の顔に、パッと安堵と喜びの笑みが咲いた。
その遣り取りを間近で見ていた大人達と一匹は、ただ呆気に取られて二人を見つめていた。
「二人とも、何を言っているのですか……!」
マスターが普段の穏やかさを捨て、慌てて二人を制止しようと身を乗り出す。
「相手は解明されていない呪具です。下手をすれば、命に関わる事態になりかねないんですよ!」
「それでも、これを置いていった人を見つけ出して……右京さん達をこんな酷い目に遭わせたことを、ちゃんと謝ってもらわなきゃいけません」
「そのためなら、呪われようが何だろうが、俺が手がかりを引っ張り出してやりますよ!」
「ですが……!」
マスターがなおも止めに入ろうとした、その時。
「……分かった」
それまで沈黙を守っていた神楽が、二人へ向かって静かに身体を向けた。
神楽は軍服の懐から、密かに用意していた二枚の古びた符を取り出す。
「これは……?」
「身代わりの札だよ」
神楽は二人へ一枚ずつ、丁寧に手渡した。
二人は困惑した様子ながらも受け取り、まじまじと見つめる。
「念のため、肌身離さず持っていなさい」
「ってことは……」
「やるからには最後まで、見届けておいで」
神楽が静かに、けれど心強い笑みを浮かべた。
空いたテーブルの中央へ、再び小箱が置かれる。
その周囲を夢月と八雲、神楽、伊吹、珠吉、そしてマスターが固唾を呑んで囲んだ。
マスターと伊吹は未だに痛ましいほどの心配を瞳に宿している。
けれど神楽だけは、真剣な眼差しで若き二人を見守っていた。
「……開けますよ……」
八雲がゴクリと喉を鳴らし、恐る恐る箱の蓋へと細い指を伸ばす。
もう片方の手は、神楽から託された札を潰れんばかりに握り締めていた。
隣の夢月も、深く息を殺してそれを見つめる。
そして、カチリ、静寂を破り、蓋が持ち上がった。
「――っ!」
次の瞬間、箱の狭い隙間から、まるで生き物のような漆黒の煙が怒涛の勢いで噴き出した。
「なっ……!?」
「煙?」
黒い煙は意志を持っているかのように溢れ出し、瞬く間に夢月と八雲の身体を丸ごと呑み込んで包み込んでいく。
「なに……これ……」
濃厚な黒煙の向こう側。
視界が混濁する中で、ぼんやりと何かのシルエットが浮かび上がっていた。
「……人形……?」
八雲の掠れた呟きが遠くで聞こえる。
渦巻く煙の奥底に、ポツンと佇む一体の凄惨な藁人形があった。
「――え……?」
夢月の視界が急激に歪み、回転を始めた。全身から急速に感覚と力が抜け落ちていく。
「如月さん……っ!?」
八雲の叫び声が、まるで水底から聞くように遠ざかっていく。
何かが根底から狂っている。単なる睡魔や貧血などではない。
己の意識と魂そのものが、未知の深淵へと強烈に引きずり込まれていく感覚――。
「……八雲……君……」
最後に途切れゆく夢月の視界に残されたのは、黒煙の中で冷たく鎮座する藁人形。
そして……その痛々しい胸元に、固く、固く結ばれていた――血のように赤い糸だった。




