鬼の待人・1
賑やかな喧騒が校舎を包む、昼休みの教室。
窓から差し込む春の柔らかな日差しが、机の上に広げられた弁当箱の縁や、開かれたままの教科書を白く照らしていた。
購買のパンを頬張る声や、遠くグラウンドから響く運動部の掛け声。何処にでもある穏やかな日常の一角で、華夏の瞳がこれでもかというほど爛々と輝いていた。
「心霊写真!?」
教室の空気を震わせる大声に、夢月と八雲は思わず同時に肩を跳ねさせた。
「ちょ、華夏、声が大きいって……!」
夢月が慌てて人差し指を口元に立てる。
周囲を見回せば、何人かのクラスメイトが物珍しそうにこちらを振り返っていた。けれど、華夏が突拍子もない大声を出すこと自体は今に始まったことではない。
「また華夏が何か騒いでる」
「いつものことでしょ」
呆れを含んだ声がいくつか聞こえ、やがて興味を失ったように皆それぞれの会話へと戻っていく。どうやら大きな騒ぎにはならずに済んだらしい。夢月はほっと胸を撫で下ろした。
「……もう。びっくりするじゃん」
「だって心霊写真でしょ!」
当の華夏はまったく悪びれた様子もなく、身を乗り出して夢月の机に両手をついた。
「しかも、ただの心霊写真じゃないんでしょ? 写真の中の人が動いたんだよね!?」
「まあ……話だけ聞けば、そうなるかな」
八雲が苦笑しながら後頭部を掻く。
「でも、俺達も実際に見たわけじゃないっすからね」
「え?」
何気なくつぶやかれた八雲の言葉を耳にした華夏の動きがぴたりと止まった。
夢月に向けられていた意識は、すぐさま八雲へと移される。
「見てないの?」
「うん」
「なんで?」
「いや……だから、その……」
夢月は言葉を濁した。
当然だ。昨日、実際にその言葉にならない奇跡と悲哀を目にした場所の名前を、この教室で口にするわけにはいかない。
――夢幻喫茶。
切実な願いや未練を抱えた者の前にだけ現れる、異界と現世の狭間に開く喫茶店。
そこに迷い込む者達は、時にこの世ならざる縁や怪異を連れてくる。昨日のあの哀しい男性も、その一人だった。
けれど、華夏はその店を知らない。夢月も八雲も、彼女をあちら側の世界に巻き込むつもりはなかった。だからこそ、今回の件もあくまで「知り合いから耳にした不思議な噂話」として取り繕うしかなかったのだ。
「ほら、たまたま聞いた噂話なの」
夢月はできるだけ自然な笑顔を作り、声を落とした。
「知り合いから聞いたんだけどね。古い写真を何枚か持っていた男性がいて……その写真に写っている女性が、突然動き出したんだって」
「ほ、本当に!?」
「うん」
「何枚?」
「四枚」
「四枚全部!?」
「そう」
華夏は目を丸くした。それから、まるで珍しい獲物を見つけた猫のように目を輝かせ、さらにぐいっと顔を近づけてくる。
「詳しく!」
「詳しくって言われても……」
「聞いた話でいいから!」
「分かりましたっ」
八雲があきれ顔で苦笑しながら、口を開いた。
「えっと、写真に写っていたのは一人の女性で。四枚とも全部同じ人だったらしいっす」
「ふむふむ」
「一枚目では、雨の中で傘を差していた」
「うん」
「二枚目では、その女性が後ろを振り返っていて」
「誰かを探してたとか?」
「たぶん、そう見えたらしいっすよ」
「三枚目は?」
「誰かに向かって、切実に手を伸ばしていた」
「そして四枚目が……」
華夏がゴクリと息を呑む。
八雲はそこで一度言葉を止めた。昨日、セピア色の写真の中で、あの女性が最後に見せた命を削るような姿が脳裏に焼き付いていたからだ。
声は届かない。それでも、喉を震わせ、必死に何かを訴え続けていた。
「最後の写真では、何かを言葉にして必死に伝えようとしていたらしいんです」
「何て言っていたの?」
「声は聞こえなかったみたいで」
「じゃあ、何を言ってるのか分からないじゃん」
「でも……その口の動きから、言葉を読み取った人がいたんだって」
夢月が静かに言葉を引き継ぐ。
視線を落として思い出すのは、店で初めて見る苦しげな表情をした伊吹の言葉。
苦しみを押し殺すようにして彼が口にした言葉が脳内で反響する。
「……『気づいて』って」
華夏の表情から、先ほどまでの純粋な興奮がすっと引いていった。
「気づいて……?」
「うん」
「誰に?」
「それは分からない」
「何に気づいてほしかったの?」
「それも分からない」
夢月は静かに首を横に振った。
実際にあの場所で立ち会った自分達ですら、その真意の全てを理解できたわけではない。
分かっているのはただ一つ。あの言葉を残した女性が、写真を持っていた男性に届かない想いを叫び続けていたこと。そして、男性自身が自分の抱える罪と真実に気づいていなかったことだけだ。
「その男性は、写真の女性について何か言ってなかったの?」
「自分の妻だったって」
「奥さん……」
消え入りそうな声で、華夏がポツリと呟く。
「その奥さんは、もう亡くなってたんだって」
「……亡くなっていた?」
「うん。二年前に」
「じゃあ、その男性は亡くなった奥さんの写真を持ってたんだ」
「そうみたい」
華夏は腕を組み、視線を上へと向けた。
先ほどまでの「心霊写真だ!」と騒いでいた時の無邪気さとは違う、探求心に満ちた鋭い顔つきになっていた。
「……それで、その男性はどうなったの?」
「写真の真意に気づいた後……自分がもう死んでいるってことに気づいたんだって」
「え?」
「その男性自身も、幽霊だったから」
華夏の綺麗な眉が、難しく寄せられる。
「つまり……その男性は、自分が死んでいることにも気づかずに、ずっと奥さんのことを恨んで彷徨ってたってこと?」
「たぶん」
「でも、写真の中の女性は『気づいて』って言った」
「うん」
「何か、おかしくない?」
華夏がぽつりと零した言葉が、教室のざわめきの中に小さく落ちた。
窓の外では、陽気な春風に吹かれた桜の葉が揺れ、グラウンドから生徒達の快活な声援が響いている。そんな眩しいほどの日常の中で、三人だけが昨日起きた異界の出来事の残像を追っていた。
「ねえ」
やがて華夏が顔を上げた。
「それ、本当に『心霊写真』だったのかな?」
「え?」
夢月は思いがけない問いかけに瞬きをした。
自分で語っていても摩訶不思議な話だったと思う。今でも信じきれていないくらいだ。
だからこそ、自分自身に言い聞かせるためにも、あれは心霊写真だったと思い込んでいたのだが。
「どういう意味?」
「だってさ」
華夏は机の上で細い指を組み、頭の中のパズルを組み立てるようにゆっくりと語り始めた。
「普通の心霊写真って、本来写るはずのない影や手が写り込んでたり、撮った時には気づかなかった不気味なものが浮き出てきたり……そういうものじゃない?」
「まあ、一般的にはそうだね」
「でも今回の話って、全然違うでしょ?」
華夏は一本の指を立てた。
「写真の中にいる女性が動いた」
「うん」
「しかも四枚連続で」
「そうだね」
「さらに、その女性がただ不気味に動くんじゃなくて、ストーリーみたいに順番に意思を持った行動をしてた」
指が二本、三本と増えていく。
「傘を差す。振り返る。手を伸ばす。最後に、必死に言葉を伝える」
「うん」
「これって……偶然起こる怪異にしては、あまりにも出来すぎてない?」
夢月は言葉を詰まらせた。
確かに、華夏の言う通りだった。ただ怨念によって現象が起きたわけではない。一枚目から四枚目へ、まるで閉ざされた時を巻き戻すように、女性は順を追ってメッセージを紡いでいたのだ。
「それにね」
華夏がさらに身を乗り出す。
「その写真を持ってきた男性の様子も気になる。亡くなった奥さんの写真を持っていて、『自分を苛むから』って捨てたがってたんでしょ?」
「……うん、そう聞いた」
「だったら……その写真に残っていたものって、奥さん自身の幽霊じゃなくて――」
華夏はそこで一瞬言葉を切り、夢月と八雲の顔を交互に見つめた。
「その男性自身の『記憶の残骸』だったんじゃないかな」
「記憶……?」
「うん」
華夏は少しだけ首を傾げた。彼女自身も何処か腑に落ちていない、曖昧な表情をしている。
「もちろん、私の勝手な想像だけどね。男性が奥さんとの過去を、あまりにも強く胸に刻み込んでいたから……それが写真という形を借りて、男性の『本当の心』を映し出していたんじゃない?」
夢月は息を呑み、真っ直ぐと華夏の目を見つめ返した。
雨の中で佇んでいた妻。振り返り、夫を探していた姿。手を伸ばし、愛を訴え続けていた表情。
あれは、怨念などではない。男性の歪んだ被害妄想の底に眠っていた、「愛されていた」という真実の記憶そのものだったのかもしれない。
「すごく大切な思い出や後悔って、死んでも忘れられないことがあるかもしれないでしょ? 強い想いが何かをきっかけに形になるとしたら……写真の中に残像として現れても、不思議じゃないと思う」
「じゃあ、どうして最後に写真が消えたの?」
「そこまでは分からないよ」
華夏は参ったと言うように苦笑した。
「私、その写真を見たわけでも、その男性に会ったわけでもないんだから。情報だけでそこまで推理しろって言われたら探偵でも無理!」
「だよね」
「でも……」
華夏は机の上に置かれた自分のスマートフォンへふっと視線を落とした。
「もし、男性が自分の本当の気持ちや愛されていた真実に気づいて写真が消えたんだとしたら、ちょっと分かる気がする。写真って本来、楽しかった思い出や忘れたくない時間を留めておくためのものでしょ?」
「うん」
「でも、その男性にとって写真は、自分を罰するための呪いになっちゃってた。自分の記憶と向き合って、奥さんの本当の愛を思い出せたなら……もう、写真を憑代にして留めておく必要がなくなったんじゃないかな」
夢月の胸の奥が、きゅっと切なく締めつけられた。
昨日の男性の最期が脳裏に蘇る。
狂気と自責に引き攣っていた顔が、真実を知った瞬間に毒気を失い、憑き物が落ちたように穏やかになっていった。あの安らかな顔は、過去の呪縛から解き放たれ、ただ愛しい人のもとへ還る覚悟を決めた者の顔だった。
「だから……あの写真は呪いなんかじゃなくて、届かなかった『願い』だったんじゃないかなって思う」
「願い、か」
「うん。誰かを恨む怨念じゃなくて、大切な人に自分の真実を届けたいっていう、切ない願い」
窓から差し込む春の光の中で、華夏の横顔は珍しいほど静かで、何処か神秘的ですらあった。
「……まあ! 本当のところはぜんっぜん分からないけどね!」
次の瞬間、華夏はパンと弾けたような音で手を叩き、いつもの明るい笑顔に戻った。
「私が現場にいたわけじゃないし、これ以上はただのオカルト好きの妄想! 鵜呑みにして後で霊能者とかに『違います』って怒られても知らないからね!」
「ふふっ、分かってるって」
いつの間にか普段の天真爛漫な華夏に戻っていて、夢月はふっと身体中から力が抜けるのを感じた。
「でも、華夏って本当に鋭いよね。将来、探偵になれるんじゃない?」
「ちょっと、それ馬鹿にしてる!?」
「いや、本当だって。すごいよ」
二人の会話の傍らで、八雲も感心したように頷いている。
こうして三人で話すようになったのはいつからだろう。つい最近のことであるはずなのに、ずっと昔からこうしていたような気もする。
きっと、気のせいなのだろうけど。
「俺なんて『すげー、幽霊だ』で終わってたと思うし」
「だから八雲訓は甘いんだよ! オカルトは背景にある人間ドラマまで考察してこそでしょ!」
「いやいや、そこまで求めます普通!?」
賑やかに口喧嘩を始める二人を眺めながら、夢月は静かに微笑んだ。
華夏には、夢幻喫茶の存在を明かしていない。
それでいいのだと思う。あの場所は、深い孤独や割り切れない想いを抱えた者が辿り着く異界だ。こんな風に光の当たる日常で笑っている華夏を、あの暗がりへと引き込む必要はない。
キーンコーンカーンコーン――。
予鈴のチャイムが校舎に響き渡り、二人の賑やかな言い合いを遮った。
「あ、やば! 次の授業、数学じゃん!」
「私もノート出してない!」
八雲と華夏が慌ただしく自分の席へと駆け戻っていく。夢月も机の上に教科書を広げ、静かに息を吐いた。
教壇に立つ教師の声。黒板に走るチョークの音。クラスメイト達の衣擦れの音。
何処までも平和で、穏やかな学校の日常。
けれど、夢月の胸の奥には、華夏が残していった言葉が静かに波紋を広げていた。
――願い。
夢幻喫茶に集う者達は、皆何かしらの願いを抱えている。
死してなお留まる魂も、現世を生きる人間も、異形のものたちも。
(今日も……誰かが、あの店に来るのかな)
窓の外、青く澄み渡る春の空を見上げながら、夢月はぼんやりと思った。
この時の夢月は、まだ何も知らない。
放課後、扉を潜った先で待ち受けているものが、昨日のような哀しくも温かな記憶の残骸などではないことを。
もっと古く。
もっと深く。
そして――取り返しのつかないほど純粋で執拗な「願い」であることを。
まだ誰も訪れない夢幻喫茶。
その店に近づく縁ある者が確かにいたのだった。
❁
あの写真の喧騒から少し離れた静寂の中に佇む、神楽家の屋敷。その厳かな門前に、人影が立っていた。
いや、正確には、そこには誰の姿もない。
ただ、固く閉ざされた玄関先の石段の上に、小さな箱だけがぽつんと置かれている。
それは両手で軽々と抱えられる程度の、使い込まれた古びた木箱だった。
昨夜の雨に濡れた跡があり、湿気を含んで肌触りは重い。しかし、見渡す限り、周囲の路上に人の気配は一切なかった。
「あら……?」
長箒を手にした左夜子が、打ち水をしようと玄関の引き戸を開けたところで足を止めた。
「これは?」
首を傾げ、着物の裾を軽く押さえながらしゃがみ込み、箱を覗き込む。
古い。ただ古いだけでなく、年月と人手に晒され続けた独特の重みが滲みでている。
表面には爪で引っ掻いたような細かな傷や、角が削れた跡が幾つも刻まれていた。
誰かが長い間、肌身離さず大切に扱ってきたものなのか。それとも、不吉なものとして何度も捨てられ、それでも磁石のように元あった場所へ戻ってきたものなのか。
左夜子の知識では、到底判断がつかなかった。
「どなたかが置いていかれたのでしょうか……」
立ち上がり、辺りをぐるりと見回す。
相変わらず誰もいない。参道の鳥居の向こうにも、通り過ぎる人影すら見当たらなかった。ただ、生温い風が竹林を揺らし、カサカサと不穏な音を立てているだけ。
不思議に思いながらも、左夜子は細い手指でその箱を拾い上げた。
その瞬間。
――ぞくり、と、背筋の真ん中を、氷水を流し込まれたかのような冷たい戦慄が駆け抜けた。
「え?」
全身の毛穴が開き、息が止まる。
思わず箱を落としそうになり、慌てて両手で抱え直した。
心臓がドクドクと嫌な音を立てて波打つ。
しかし、もう一度落ち着いて指先で触れてみても、二度目には何も起こらない。ただの冷たい木箱の感触があるだけだった。
気のせいだったのだろうか。自分の体調が悪かっただけなのだろうか。
「後でお兄様に見てもらいましょう」
左夜子は胸騒ぎを打ち消すように呟くと、しっかりと箱を抱え、薄暗い家の中へと戻っていった。
❁
その日の夜。
月が分厚い雲の奥へと隠れ、深い闇と静寂が神楽家の広大な屋敷を丸ごと呑み込んでいた。
昼間の喧騒が嘘のように消え去った長い廊下を、冷ややかな夜風が細く、忍び足で吹き抜けていく。
障子紙の向こう側では、行灯の淡く頼りない灯火が、揺ら揺らと仄暗い影を踊らせていた。
「お兄様」
静寂を繊細に切り裂くように、引き戸の向こうから左夜子の慎ましやかな声が届く。
「入っておいで」
部屋の奥から、低く落ち着いた声で返事が返ってきた。
「失礼いたします」
左夜子がそっと指先を掛け、引き戸を滑らせるように開けて部屋へ足を踏み入れる。
その瞬間、彼女は思わず息を呑んで目を丸くした。
「……まあ」
普段であれば、几帳面なまでに整然と整えられているはずの兄の私室。しかし今夜ばかりは、その厳格な面影は何処にも残されていなかった。
文机の上には何冊もの古めかしい和書が天井へ届かんばかりに高く積み上げられ、その周囲にも黄ばんだ和綴じの書物や長大な巻物が所狭しと散のばされている。
畳の上にも本。
作り棚にも本。
さらには、いつの時代のかも分からない開かれたままの古い記録帳や目録まで、何冊も床一面を埋め尽くしていた。
まるで、一夜にして怪異の歴史を丸ごと収めた小さな私設図書館でも作り上げたかのような凄絶な有様だった。
「お兄様、一体何をしていらっしゃるのですか?」
「調べものだよ」
文机に向かって墨の匂い漂う書物を繰っていた神楽は、振り返ることなく、視線だけを文字の羅列に走らせたまま答えた。
「調べもの、ですか?」
「ああ」
神楽は手元にあった分厚い書物を、愛おしむようにゆっくりと閉じる。
――ぱたん。
乾いた和紙が合わさる重々しい音が、静まり返った室内へ小さく響き渡った。
「写真の中の人間や物体が自律して動き出す。その手の怪談や奇談についてね」
「写真の?」
左夜子が首を傾げる。そして、少しだけ思考を巡らせてから、「あ」と可憐な声を小さく漏らした。
「もしかして、お兄様が以前お話ししてくださった……あの夢幻喫茶で起こったという、写真の怪異の件ですか?」
「そうだよ」
神楽は左夜子の方へ振り返ると文机に背を向け、疲れたようにゆっくりと身体を預けた。
「よく覚えていたね」
「お兄様が珍しく、随分と心を痛めて気にされていたお話ですから」
左夜子は愛らしく微笑んだ。
彼女は『夢幻喫茶』という異界の狭間に佇む不思議な店の存在を、兄の口から聞いて知っている。
そこには人ならざる妖や幽霊が日々訪れること。
普通の人間には決して見えないような不可解な怪異が起こること。
そして――つい先日、男が持ち込んだ写真の中に写る女性が、意志を持って動いたという痛々しい出来事があったことも。
それらは全て、神楽の口から語られていた。
けれど、左夜子自身が夢幻喫茶へ足を運んだことは一度もない。兄がどれほど熱を込めて語ろうと、彼女にとってそれはあくまで鏡の向こう側の出来事であった。
だからこそ、左夜子は文机に山となされた古書の山を見つめながら、静かに尋ねる。
「それほどまでに調べを深められても……まだ、解せないのですか?」
「残念ながらね」
神楽は自嘲気味に苦笑した。
「俺も伊吹も、これまで数々の怪異や妖異に向き合ってきた自負はある。霊力も知識も、その手の専門家を自称する者達よりは遥かに上だと自負していた」
「はい」
「だが……今回の件には、どうしても決定的な手掛かりが足りなかった」
神楽は山の中から一冊の擦り切れた古書を手に取り、指先でその表紙を撫でた。
「俺や伊吹がいくら触れようと見つめようと、あの写真はただの古い紙片でしかなかった。……それなのに、夢月が触れた途端、写真の奥に封じられていた時間が動き出し、あの女性が感情を持って蠢いた」
「夢月ちゃんが……」
「ああ」
左夜子は以前、この神楽家の屋敷で一晩を共に過ごした少女の面影を思い描く。
人気のない路地裏で雨に打たれながら震えていた少女。
見慣れぬ着物を身に着けて、道行く人々や建物を物珍しい目で見ていた浮世離れした存在。
彼女がここらの人間ではないことくらい、屋敷に連れて行く前から気づいていた。
「お兄様は、その現象と酷似した事例が過去の文献に残されていないかを探していらしたのですね」
「その通り」
神楽は部屋の四方に積み上がった書物の山を指差し、重々しく首を振った。
「一休禅師の屏風の虎退治の逸話から始まり、掛け軸から夜な夜な抜け出して川の水を飲んだという絵馬や仔馬の伝承。あるいは、鏡の裏に魂を閉じ込めたという呪術の記録や、描かれた絵の人物が時を経て年老いていったという西洋の怪異までね」
「そんなに……」
「片端から紐解いたよ」
神楽は一冊を開き、カサついた紙のページをパラパラと繰る。
斜め後ろに座っていた左夜子は、覗き見るように身体を寄せた。
「だが、あの現象と完全に合致する共通項は見つからなかった」
「そうですか」
「伝承や昔話の多くは、あくまで創作や比喩の域を出ないものがほとんどだ。そもそも『写真』という、光を定着させる西洋の技術そのものが歴史的にはまだ真新しいからね」
神楽の白皙の指が、古書の難解な崩し字の上でぴたりと止まった。
「四枚の写真の中で人物が順番に自律して動き、声なき声でこちらへ切切たる訴えを投げかけてくる。……そんな異例の記録は、俺の知る限り何処にも存在しない」
「……夢幻喫茶で起きた出来事は、それほどまでに特殊で、珍しい怪異だったということですね」
「そういうことだ」
思わず神楽は深く、重苦しい息を吐き出した。
普段の彼であれば、解明できない怪異や未知の現象に遭遇した際、少年のような好奇心を瞳に宿して不敵に笑うはずだった。「分からないからこそ面白い」と、興奮を隠そうともしないのが彼の常である。
しかし今夜の神楽の醸し出す空気は、それとは明確に異なっていた。
左夜子は、行灯の影に沈む兄の横顔をじっと見つめる。
「お兄様。気にされているのですね?」
「ん?」
「あの写真の……奥様の決死の姿を」
神楽はしばらくの間、無言を貫いた。
やがて、ゆらゆらと細く揺れる行灯の小さな炎へ、吸い寄せられるように視線を向けた。
「なんとも言えない、苦い後味が残ったよ」
「怖かったのですか?」
「私がかい?」
曇りのない目で見つめられ、神楽がふっと自嘲の笑みを漏らす。
視線を逸らそうと、左夜子が怪訝な顔をしているくらい察せた。
「いや。恐怖ではないよ。……ただ――」
一度言葉を切り、言葉を選ぶように慎重に天を仰いだ。
「ひどく胸が苛まれるような、後味の悪さだった」
「後味が……?」
「あの写真の中で動いていた女性は……文字通り死力を尽くし、魂を削るような情熱で『何か』を必死に訴え続けていた」
神楽の声が、低く沈んだ悲哀を帯びて部屋の隅々へ広がっていく。
「けれど……俺達には最後まで、彼女が命を賭して伝えようとしていた本当の言葉を聞き届けてやることができなかった」
左夜子は黙って兄の言葉に耳を傾けていた。
彼女自身はその四枚の写真を見ていない。そこに写っていたという女性がどんな凄惨で、どんなに美しく切ない顔をしていたのかも知らない。
ただ、兄の口から漏れる言葉の熱量だけが、重く胸に響いていた。
四枚の写真。
その中で生きているかのように動き続ける女性。
そして、届かぬ声で何かを叫び続けていたという真実。
「結局、彼女が何を伝えたかったのか……それは彼女自身と、あの愚かで哀しい男にしか分からない永遠の領域へ去ってしまった」
額を抑えながら俯いた神楽の横顔は、得も言われぬ苦痛に歪んでいる。
「答えの出ない、永遠の謎だよ」
「……でも」
左夜子がすっと背筋を伸ばし、静かに、けれど芯のある声で口を開いた。
「私は、そうは思いません」
「ん?」
「お兄様のお話を聞いただけの私には、真実の全ては分かりません。けれど……」
左夜子は、兄の不安を溶かすような柔らかな笑みを浮かべた。
「きっと、あの女性の本当の想いは……最後にはきちんと旦那様に届いたのだと思います。その男性が自らの過ちに気づき、穏やかな顔で店を去っていかれたのでしたら……彼はきっと、奥様の言葉の意味を胸で受け止められたのです」
神楽は思わず目を見開き、しばらくの間、妹の澄んだ瞳を見つめ返していた。
ぱっちりと視線を合わせた左夜子は、ふうわりと花が咲くように笑ってみせた。
「……そうだと、いいね」
ほんの少しだけ、寂しさと救いが混ざり合ったような複雑な笑みを漏らす。
「俺の考えすぎや、ただの感傷なら……それが一番いい」
「きっと、そうですよ」
本人達の考えは本人達にしか分からない。
今更、神楽達が何を考え何に悩んだところで、小川智也も紫乃もこの世の何処を探してもいないのだ。
考えるだけ無駄だと言い切ってしまう方が、何百倍も楽だった。
「たとえ周りの私達が解き明かせなかったとしても、そのお二人の間にあった本物の想いまでが消えてしまうわけではありませんから」
胸に手を当てて語る左夜子の姿を見て、神楽は何も言えなくなっていた。
「それに、お兄様がこれほどまでに心を痛め、夜を徹して調べてくださったのですもの。きっと、写真の中の奥様も、その優しさを知ったら、とてもお喜びになると思います」
あまりにも真っ直ぐ過ぎる言葉に、神楽の瞳が僅かに揺れた。
やがて彼を包んでいた固く緊張した肩の力が、ふっと解けるように抜け落ちていく。
「……まったく、左夜子には敵わないな」
「そうでしょうか?」
「ああ」
神楽は今度こそ、いつもの彼らしい心からの笑みを浮かべた。
「おかげで、少し胸の仕えが下りたよ。ありがとう」
「それなら良かったです」
左夜子も嬉しそうに胸を撫で下ろし、華奢な肩を揺らした。
張り詰めていた重苦しい空気はすっかりと霧散し、二人の間に温かな沈黙が流れ始める。
和紙の匂いと古書の静寂に包まれた部屋で、行灯の柔らかな炎が、二人の影を優しく揺らしていた。
❁
神楽家の境界を画する境内には、朝露を孕んだ澄み切った空気が満ち満ちていた。
竹箒を手にした左夜子が、清々しい朝日の中で石畳に積もった薄桜の落ち葉や塵を丁寧に掃いていく。
静かな境内に一定のリズムで竹箒の乾いた音が響いていたが、不意に彼女の手がぴたりと止まった。
「……あら?」
朱塗りの鳥居の向こう。
朝靄の残る参道の境界に、一人の男が影のように佇んでいた。
「伊吹様?」
左夜子が首を傾げて声をかけると、男はゆっくりと顔を上げた。
「左夜子か」
「おはようございます。朝早くから、どうされたのですか?」
「神楽に用がある」
「お兄様に?」
「ああ」
伊吹は短く、低音で答えた。
「おそらく部屋にいると思うのですが」
「そうか。入ってもいいか?」
「はい、ご案内いたします」
左夜子は竹箒を鳥居の脇へ立て掛けると、衣擦れの音を立てて伊吹を屋敷の奥へと案内した。
磨き上げられた廊下を静かに進み、神楽の私室の前までやってくる。
「お兄様、伊吹様がお見えです」
返事がない。
「……お兄様?」
左夜子が首を傾げ、そっと引き戸を滑らせる。
その瞬間――。
――ガサっ! ドサドサっ!
「……!」
何かが盛大に雪崩を起こすような、重苦しい音が室内に響き渡った。
「な、何事ですか!?」
左夜子が思わず目を丸くして部屋の中を覗き込む。
そこに広がる光景に、彼女は言葉を失った。
「…………」
畳の上に無造作に寝そべり、古書に顔を埋めている神楽の姿があった。
彼の周囲には、昨夜以上に膨れ上がった大量の古書や巻物。そのうち何塔かが無残に崩れ落ち、神楽はその散乱した書物の真ん中で、何事もなかったかのように平然と崩し字の羅列を追い続けている。
「……神楽」
背後から覗き込んだ伊吹が、心底呆れたような深いため息をついた。
「ん?」
「お前は朝から何をしている」
「見れば分かるだろう?」
神楽は本から一切目を離すことなく、飄々とした口調で返した。
「調べものだよ」
「調べものをするために、本に埋もれて床へ寝そべる必要がどこにある」
「楽だからね」
伊吹は痛む頭を押さえるように、ぐっと額に手を当てた。
「昨夜より輪をかけて酷くなっているではありませんか……」
左夜子も苦笑いを浮かべ、困ったように眉を下げた。
「お兄様、せめてお客人をお通しできるよう、本くらい整理なさってください」
「それは私も切実に思っているんだけどねぇ」
「思っているだけか」
「片付ける暇がないんだよ。目を通したい文献が山積みでね」
「……昨日から一眠りもせずに調べていたのですか?」
「まあ、そんなところかな」
伊吹は足の踏み場もない部屋を見回し、呆れを通り越して肩を竦めた。
最早小言を言う気すらも消えていく。
「それで、そこまでして何か分かったのか?」
「残念ながら、文献の山からはまだ何も」
神楽はぱたんと本を閉じ、ようやく身体を起こした。
「ただ、紙の記録だけではなく、我が家に眠る『別の資料』も確認しておきたいと思ってね」
「別の資料?」
「ああ」
神楽は着物の裾を払いながら立ち上がる。自身で散らかしたというのに歩きづらそうにするものだから、伊吹は再び頭を抱えた。
「この家には、先代達が代々集めてきた由緒不明の雑多な品々があるだろう?」
「……蔵か」
伊吹が即座にその意図を察した。
「そう」
「なら、蔵へ向かう前にまずここを片付けろ」
「……そこからかい?」
「こんな足の踏み場もない状態で蔵へ行ったところで、何を持ち帰り、何を確認したのかすら分からなくなる」
「確かに一理あるね」
神楽は散らかり放題の自分の私室を見回した。
「じゃあ……申し訳ないが、手伝ってくれるかい?」
「最初からそのつもりで来ている」
伊吹は吐き捨てるように言いながらも、足元の分厚い和綴じの本を器用に拾い上げた。
「左夜子、悪いがそっちの巻物を頼めるか」
「はい、お任せください」
こうして、三人による神楽の私室の大掃除が始まった。
昨日から引っ張り出されていた書物を年代や種類ごとに分類し、古い記録帳は棚の元の位置へ戻していく。
神楽が適当に広げた資料を伊吹が乱暴かつ確実にまとめ上げ、左夜子が散らばった本を一冊ずつ丁寧に拭いて積み重ねていく。
「お兄様、これはどうしますか?」
「それは棚の上段、左の奥だね」
「こっちの古い木箱に入った写本は?」
「それは蔵へ持っていこう」
「まだ読む気か?」
「当然だろう。探求心に終わりはないよ」
「……本当に懲りない男だな、お前は」
呆れ交じりの会話を交わしながら、三人は黙々と作業を続けた。
やがて。
「ふう……」
最後の一冊を無事に棚へ納めたところで、左夜子が小さく胸を撫で下ろした。
「ようやく、本来の部屋の姿を取り戻しましたね」
「助かったよ、二人とも」
肩を回しながら笑みを落とした神楽は、二人の傍を通り過ぎて部屋を出ようとする。
そんな彼を見て、伊吹は眉間に皺を寄せた。
「では、行こうか」
「蔵へか?」
「ああ。屋敷の文献にない『現物』や古い因縁を探るなら、あそこを開けるのが一番早い」
「私もご一緒します。昨日からお兄様がこれほど没頭していらっしゃいますし、私も何かのお役に立てるかもしれませんから」
「勿論だとも」
神楽は心強いと言わんばかりに微笑んだ。
くるりと振り返ると、朗らかでありながら腹の底が読めない笑みを浮かべた。
ただ一人、伊吹だけが笑えずにいる。
「では、三人で行くとしよう」
神楽家の広大な敷地の裏手。手入れの行き届いた境内を抜け、鬱蒼とした木立を潜った先に、その古びた土蔵はひっそりと佇んでいた。
長い年月を生き抜いてきた重厚な白壁は、所々黒ずみ、なまこ壁の隙間には青々とした苔が薄くへばりついている。
陽光が降り注ぐ昼間だというのに、蔵の周りだけは外界から隔絶されたような、ひんやりとした近寄りがたい気が漂っていた。
「ここか」
伊吹が重々しい蔵の構えを見上げる。
「ああ」
神楽は重厚な観音扉に掛けられた古い鉄の錠前へ手を伸ばした。
「先代やそれ以前の当主達が遺した、由来の定かでない記録や道具が、未だ整理されずに眠っている」
「相変わらず、碌でもない物持ちの良さだな」
「神楽家の歴史の影そのものだからね」
何処から取り出したのか、神楽が大きな鍵を差し込み捻る。
ガチャリ、と、重い金属音が響き、固く閉ざされていた鍵が外れた。
――ぎいぃぃぃ……。
軋んだ悲鳴のような音を立てて、分厚い扉がゆっくりと内側へ開かれていく。
途端に、長年閉じ込められていた埃と古い木材、そして何処か甘くカビ臭い独特の空気が三人の鼻腔を突いた。
薄暗い内部には、時代を感じさせる古い箪笥や大小様々な木箱、壺や掛け軸などが、整然と隙間なく所狭しと並べられていた。
「……これは、探し物を特定するには少々骨が折れそうですね」
「だからこそ、三人で来たのさ。手分けして探そう」
「具体的に何を探せばいい?」
いち早く蔵の中へと入っていく神楽の背に、伊吹が暗がりを見つめながら尋ねる。
「あの写真の件に繋がりそうな、怪奇な現象を伝える古い伝承。あるいは……直感で『妙だ』と感じるもの全てだよ」
「相変わらず曖昧な指示だな」
「仕方ないだろう?」
神楽は暗がりの中で悪びれもせず笑った。
「俺達自身、あそこから何が飛び出してくるか分かっていないのだから」
三人は薄暗い蔵の中へと足を踏み入れ、それぞれの勘を頼りに古い箱や記録の解読を始めた。
左夜子が埃を払いながら古い帳面を捲り、伊吹は重い木箱のフタを開けて中身の武具や道具を確認していく。
神楽は一際暗い棚の奥深くへと、静かに手を伸ばした。
静寂に包まれた蔵の中に、紙を繰る音と木箱が擦れる音だけが響く。その時だった。
「……あ」
不意に、左夜子が掠れた可声を上げた。
「どうした?」
「左夜子?」
少し離れた場所で書物を検分していた神楽と伊吹が、同時に動きを止めて振り返る。
左夜子はその場に佇んだまま、ある一点を凝視していた。
「これ……」
二人が足音を忍ばせて近づいてくる。
見れば、左夜子は両手で大切に包み込むようにして、一つの古びた木箱を抱えていた。
片手でも軽々と持てそうなほどの小ぶりな箱。
しかし、幾重もの歳月を経たためか、黒ずんだ漆の表面には無数の爪痕のような小さな傷が刻まれていた。
「それは……?」
神楽が漆黒の箱へ視線を注ぎながら尋ねる。
「分かりません。昨日の朝に神社の前で拾って、ここに置いたのをすっかり忘れていました」
「昨日?」
見た目に反して昨日という直近の出来事に、伊吹が怪訝そうに切れ長な眉を寄せる。
暗がりの中でもこれだけ近くにいれば、左夜子から伊吹の顔がはっきりと見えた。
「はい」
左夜子は胸元に抱えた箱を見下ろした。
「昨日、境内の掃除をしているといつの間にか置かれていたんです」
「何処にだ」
「鳥居のすぐ脇です」
「社頭の場所にか?」
「ええ」
今すぐにでもで離したいと震える手を箱を抱えながら、深く頷く。
「朝、箒を手にして外へ出ると、鳥居の根元にこれがぽつんと……誰かが忘れたのかと辺りを探しては見たんですが」
「参拝者が忘れていったのか? それとも、意図して置いていったのか」
「おそらく……後者だと思います」
左夜子は困惑に唇を噛み、申し訳なさそうに眉を下げた。
「けれど、私には何の意味がある箱なのか全く見当もつかなくて……」
「置かれていた時の気配や、周囲の様子はどうだった?」
「特に変わった様子はありませんでした。ただ……まるで最初からそこにあるのが当然であったかのように、あまりにも自然に……」
そこで左夜子は少し言葉を濁し、視線を泳がせた。
言葉にこそしないが、左夜子の異様な怯え様に神楽と伊吹は顔を見合わせる。
「それで、どうしたんだい?」
「一度……お兄様にお見せして、何か分かることがないかと考えたのですが」
「俺に?」
「はい」
恐る恐る顔を上げた左夜子は、神楽の顔を見つめた。
「私は怪異や超常現象についてめっきりですので、お兄様達ならばと」
「なるほどね」
神楽は箱の表面に刻まれた歪な傷跡へ視線を落とした。
傷だらけの箱。こんなものを誰が好んで人の邸宅の前に置くというのだ。
異質な物体に対する恐怖よりも、そんな悪質ないたずらをされたことに腹が立つ。
「……それで、今まで俺に見せなかった理由は?」
「昨日は……お兄様が一日中、あの夢幻喫茶の写真の件で頭を悩ませていたので……」
「ああ」
神楽は己の不覚を恥じるように、苦笑いを漏らした。
「自分のことで手一杯だったものでね、すまない。ずっと気がかりだっただろう」
「いいえ、元はと言えば見つけてすぐに報告すればよかったのです。お気になさらないでください」
昨日の朝見つけたということは、少なくとも一日以上放置されていることになる。
左夜子はもう一度、不安を押し殺すように箱を抱え直した。
「調べれば調べるほど、これが一体何なのか分からなくなってしまいまして」
その声には、隠しきれない困惑と薄寒い怯えが滲んでいた。
自分が拾い上げた品であることは確かだ。けれど、そこに何が秘められているのか。
何故神社の玄関口である鳥居の傍に置かれていたのか。
そして、誰がどんな目的で残していったのか。
解けない問いだけが、彼女の胸を重く押し潰していた。
「なら」
神楽が静かに手を伸ばし、箱の側面に指を掛けようとした。
「三人で、今ここで中身を検分してみようじゃないか」
「そうだな。中に何らかの文や手掛かりが入っているかもしれん」
「はい……お力添えをお願いいたします」
左夜子もうなずき、神楽がその箱を受け取ろうと両手を差し出した――その、まさに直後。
「――待て!」
蔵の静寂を切り裂くような、伊吹の鋭い一声が響き渡った。神楽の手が、空中でぴたりと凍りつく。
「どうしたんだい、伊吹?」
ゆっくりと振り返った神楽に、伊吹は即座には答えなかった。
その視線は鋭利な刃物のように鋭くなり、左夜子の手元にある木箱を射抜いていた。
先ほどまでの冷静な表情は完全に消え去り、額に深い皺を刻み、野性の肉食獣のように警戒を露わにしている。
「伊吹……様……?」
左夜子の声が、恐怖で細く震えた。
伊吹は足音を殺し、じりじりと慎重に箱へ近づいていく。
「……これ」
「何か、視えるのか?」
「ああ」
伊吹は箱に直触れすることなく、その周囲の空気を探るように細く息を吐いた。
「極めて歪で、気色悪い妖気が巻きついている」
「妖気……?」
耳にするだけで良からぬものである言葉を聞かされ、左夜子の顔から血の気が引いていく。
「それだけではない」
伊吹の声が一層低く、地響きのように沈む。
「長年にわたって凝縮された……おぞましい執念と怨念が、この木箱全体にへばりついている」
「念……」
神楽も即座に表情を改め、真剣な眼差しで箱を見つめ直した。
最初は何も感じられなかった。ただの歳月を経た古びた木箱。しかし、伊吹の指摘を受けて意識の焦点を極限まで合わせると――。
箱の継ぎ目から、底知れぬ冷気がじわじわと染み出してくるのが分かった。
ただの冷気ではない。
人間のドロドロとした感情が腐敗し、凝固したかのような、まとわりつくような重苦しい気配。
「……なるほどね」
神楽の喉から、低い呟きが漏れた。
「随分と……厄介な掘り出し物を運んできてくれたね、左夜子」
「わ、私……昨日はこんな恐ろしい気配なんて、何も感じませんでした……!」
左夜子は血の気の引いた顔で箱を見つめ直す。
「そうだろうな」
ドスの利いた苛立ちを感じられる声で呟く。
血色を失った左夜子の箱を抱える手は異様なまでに震えている。そんな彼女の手を押さえるように神楽が触れていた。
「この箱は、ただ落としたわけでも置き忘れたわけでもない。誰かが意図して、何かを残すために置いていったのだろう」
「どうする?」
意地の悪い笑みを浮かべながら、神楽は伊吹に視線を送った。
その視線を受けた伊吹は、表情を歪めて箱を睨み付ける。
「下手に開けるのは危険すぎる。まともな品ではない」
「だが、中を確かめないことには、誰が何の目的で神楽家にこれを持ち込んだのかも解らないままだ」
「それはそうだが……!」
伊吹が制止しようとしたところで、神楽は漆黒の箱を真っ直ぐに見つめた。
数秒の沈黙の後、彼の瞳に揺るぎない覚悟の光が宿る。
「……一人で開けるわけじゃない」
神楽は静かに、けれど力強く告げた。
「何かあってもすぐに対応できるように警戒は怠らないさ」
「お兄様……」
「大丈夫だよ、左夜子」
神楽は妹の恐怖を溶かすように、いつもの穏やかで不敵な笑みを口元に浮かべた。
「何が待ち受けているか分からないからこそ、俺達は確かめなければならない。神楽家の当主としてね」
伊吹はしばらくの間、黙って神楽の横顔を見つめていたが、やがて諦めたように深く息を吐き出した。
「勝手にしろ。ただし、万が一の時は俺が前に出る」
「頼もしいね。……左夜子、少し下がっていなさい」
「はい、お気をつけくださいませ」
左夜子が一歩、また一歩と後方へ下がる。
神楽は慎重な手つきで木箱を受け取り、ひんやりとした蔵の床の上へと静かに置いた。
伊吹がすぐ隣に膝をつき、いつでも対応できるように腰を浮かせる。
二人の緊張した視線が、床の上の古びた木箱へ集中した。
「……開けるよ」
神楽が息を潜め、箱の蓋へと細い指を掛けた。
「警戒を怠るな」
「ああ」
――ぎし……ぎしり。
乾いた木肌が擦れ合い、悲鳴のような悲痛な音を立てて蓋が持ち上がっていく。
蓋の隙間から、溜め込まれていた古びた紙と、かすかな線香のような匂いが溢れ出した。
「…………」
それを目にするなり、三人は言葉を完全に失った。
薄暗い箱の底。
朽ちかけた布の上に鎮座していたのは、五寸釘のように鋭い怨念を全身に纏った、一体の惨たらしい――藁人形だった。




