幕間 珠吉の苦悩
我は誇り高き大妖怪、猫又の珠吉様だ。
長きにわたる紆余曲折の末、今は夢幻喫茶という店の看板猫をしている。
いや、看板猫などという可愛らしい肩書きで、この我を呼ぶのはやめてもらいたい。
我は大妖怪だ。
人間など軽く蹴散らし、妖怪の一匹や二匹、睨みつけるだけで震え上がらせるほどの力を持っている。
その証拠に――。
「珠吉、そこにいると邪魔ですよ」
我の目の前を、マスターが何食わぬ顔で通り過ぎていった。
「珠吉?」
『なんだ』
「どいてください」
『嫌だ』
「そこ、掃除したいのですが」
『嫌だと言っている』
「そうですか」
マスターはそれだけ言うと、我の横に箒を差し入れた。
『うわっ』
床を掃く音と共に視界が横へと動いた。
我の身体が、ずるずると横へ追いやられていく。
『おい! 我を箒で動かすな!』
「掃除の邪魔ですから」
『我は大妖怪だぞ!』
「存じております」
『ならば敬え!』
「はいはい」
『はいは一回でよい!』
まったく。
この店の人間は、大妖怪に対する畏敬の念というものが足りていない。マスターが人間なのか怪しいが、そんな事はどうでもいい。
だが、まあ。
これがいつもの夢幻喫茶だ。
朝の店内には、まだ客もいない。
マスターが開店の準備をしている間、我はカウンターの隅に丸くなって、その様子を眺めている。
珈琲豆を挽く音。
食器を並べる音。
時計の針が進む音。
窓から差し込む光。
何の変哲もない時間だ。
つまらないと言えば、つまらない。
だが――。
「今日も静かですね」
『……そうだな』
マスターの何気ない一言に、我は小さく返事をした。
この時間は嫌いではない。
むしろ、好きだ。本人には言わないが。
「珠吉」
『なんだ』
「珈琲、飲みますか?」
『我は猫だぞ』
「そうでしたね」
『忘れるな!』
シャッと威嚇にも似た声を出せば、マスターがくすりと笑う。
まったく、油断も隙もない。
そんな穏やかな時間を過ごしていると、入口の扉が開いた。
――カランカラン。
「お邪魔するよ、マスター」
聞き慣れた声が聞こえてきて、我は尻尾を一度だけ揺らした。
「おいでませ、夢幻喫茶へ。神楽さんに伊吹さん」
「今日は早いね」
「少し暇だったもので」
入ってきたのは、軍服姿の神楽。その後ろには、相変わらず無愛想な伊吹もいる。
二人は並んでいつものカウンター席に座った。
そして、伊吹が変わらず自身と神楽の間に刀を立て掛ける。本人曰く、いつ何があっても対処できるように、信頼できる人間の間に置いているんだとか。
この店でそんな物騒なことがあって堪るか!
「珈琲を」
「俺も」
「かしこまりました」
慣れた様子の二人の注文をマスターが受ける。
彼らの声を聞き流しながら、我はカウンターの上で毛繕いを始めた。
しばらくすると、神楽がこちらを見た。
「珠吉」
『なんだ』
「今日も可愛いね」
聞き捨てならない声が聞こえて、我はピタリと毛繕いを止めた。
『誰が可愛いだ』
「珠吉」
『我は大妖怪だ』
「そうだったね。大妖怪の珠吉様」
『分かればよい』
こいつはいつも揶揄ってくるが、一応素直に我の話を聞きはする。
するのだが。
「猫じゃらしで遊ぶ?」
神楽が懐から何かを取り出した。
手にしていたのは、一本の猫じゃらし。明らかに何処かで拾ってきたもの。
『誰がそんなものに――』
ふり。
「…………」
ふり、ふり。
「…………」
意思に反して、我の目が勝手に動く。
右。
左。
右。
左。
「ふっ」
『笑うな!』
キッと睨み付けると、伊吹が口元を手で隠している。
普段は無愛想な無表情でいるくせに、こういう時に素を出してくる。
我はわなわなと腹の底が煮えくり返るのを感じでいた。
「神楽。お前、やめろ」
「いや、反応が面白くてね」
『我で遊ぶな!』
猫じゃらしが目の前を横切る。
我は必死に耐えた。
大妖怪たるもの、こんな安物の玩具などに釣られてはいけない。
そう。
絶対に。
絶対に――。
「ほら」
ぴょんっ。
『にゃっ!』
しまった! 身体が勝手に飛びついてしまった!
思わず神楽の手から猫じゃらしを奪い取ってしまい、我は愕然とした。
「…………」
『…………』
「…………」
二人からとてつもなく冷ややかな視線を向けられる。
我は猫じゃらしを咥えたまま固まった。
『…………今のは違う』
「何が?」
『我が遊びたかったわけではない。貴様が落としたから拾ってやっただけだ』
「そうかそうか」
『その顔をやめろ!』
何故、こうもこの男にはまんまとしてやられてしまうのだろう。
我は二人の視線に耐えきれず、前足で猫じゃらしを弄んだ。
そんな我を見て、伊吹が溜息を吐く。
「お前、本当に大妖怪なのか?」
『伊吹!』
「事実だろう」
『我を馬鹿にするな!』
まったく、この二人は我を何だと思っているのだ。
まあ、こうしてくだらないことで騒げる時間も悪くはない。
もちろん、本人達には絶対に言わないがな。
そして、昼を過ぎる頃になると、店には少しずつ客が増えてくる。
人間も来る。
妖怪も来る。
時には、人間なのか妖怪なのか分からない者までやって来る。
夢幻喫茶というのは、そういう場所だ。
『たまきち』
この店には、とある妖怪が我のように住み着いている。住み着いているという表現より、強い縁で結ばれていると言う方が夢幻喫茶らしいか。
『どうした、とこよ』
『え、えっと⋯⋯その⋯⋯』
カウンターの奥からテチテチと音を立てて出てきたのは、赤い着物に帯が特徴的な少女。
彼女の名は『とこよ』。
我と同じく人ならざるものであり、過去に願いがあって店を訪れたきり、看板娘となっている。
その正体は、誰もが知る妖怪『座敷童子』。
『たまきち、いま、ひまですか?』
『暇ではない』
『なにをしていたのですか?』
『大妖怪としての仕事だ』
『なんですかそれー』
『大妖怪には大妖怪の仕事がある』
『へえ』
同じ妖怪と言えど、猫又と座敷童子では価値観も生き方も異なる。
サボっているように見えて、我は立派に役目を果たしているのだ!
それを分かっているのかいないのか、とこよは少し考える素振りを見せた。
『じゃあ、いっしょにおえかきがしたいです』
『話を聞け!』
カウンターの上からずっと目下にいるとこよに向かって牙を向く。
しかし、とこよはもうボックス席へ向かっていた。
『童子とはなんとも自由なものだ』
もう何度目かも分からない溜息が溢れ出す。
我も仕方なく、その後を追った。
ぴょんっとテーブルの上に飛び乗ると、辺りにはすでに紙が広げられる。
『たまきちは、なにをかきますか?』
『我は絵など描かん』
『じゃあ、わたしがかきます』
『勝手にしろ』
とこよは鉛筆を握り、何やら一生懸命に描き始めた。
我はその向かいに行儀よく座る。
別に興味があるわけではない。ただ、暇だからそこにいるだけだ。
座敷童子も十分古い妖怪のはずだが、姿形といい、仕草や言動も童子のようである。
『できましたっ!』
『……どれ』
自信満々に紙を掲げ、とこよは満足そうに笑っている。
我は仕方なくその紙を見つめた。
そこには、丸い顔と、四本の足と、長い尻尾を持った何かが描かれている。
『これは?』
『たまきち』
黒の鉛筆一本で描いたからか、ただの丸が重なり合っているようにしか見えない。
辛うじて耳と思しき三角形はある。
『我はこんなに丸くない』
『たまきちです』
『耳が大きすぎる』
『ねこなので』
『我は普通の猫ではない!』
『じゃあ、かきなおしますか?』
『……いや』
これをこのまま消してしまうのはもったいない。
誰かに自分を描いてもらうというのは、存外悪くないのだな。
『それでよい』
『ほんと?』
『ああ』
軽く咥えて自身に引き寄せれば、とこよが嬉しそうに笑った。
その顔を見ると、何故だか文句を言う気が失せる。
『たまきちもなにかかいてください』
『我が?』
『はい』
『仕方ないな』
猫なのに絵を描けるのか?
今、そう思っただろう。
我はさっき言ったように、誰もが恐れる大妖怪なのだ。
絵の一枚や二枚軽々描いてみせるさ。
我はとこよから受け取った鉛筆を前足で押さえ、新しい紙に向き直る。
絵を描くなど、何年ぶりだろうか。
線を一本。
もう一本。
耳を描いて。
尻尾を描く。
『できた』
『わあ!』
目をキラキラと輝かせながら、とこよは我が書き上げた絵を覗く。
『これ、だれ?』
『我だ』
そう答えるや否やとこよは眉間に皺を寄せる。
随分と見にくいものを見るような目だ。
『なんだ、その顔は』
『たまきちって、えがへたなんですね』
『なんだとぉ!?』
大妖怪に向かって、なんという暴言!
童子の見た目をしているからと言って、我は優しくはせんぞ。
我は何者にも平等に接する。それこそ、大妖怪としての努めだ。
『我の芸術性が分からんとは、まだまだ子供だな!』
『たまきちのえは、ねこがおこっているみたいです』
『怒っているのだ!』
『ふふっ』
どれだけ歴史ある妖怪だとしても、その笑顔は穢れを知らない純粋無垢なもの。
そんな笑顔を見ていると叱る気も失せて、むしろ我もつられて少しだけ笑った。
この時間も我は嫌いではない。
しばらくすると、今度は別の気配が近づいてくる。
『珠吉』
背後にあるボックス席から厭味ったらしい声が飛んできた。
振り返らずともよい。
三秒待てば向こうから寄ってくる。
『何をしてるんだい?』
ほら見ろ。
こいつは梢という、これまた名のある妖怪のろくろ首。
一見、普通の人間と変わりない見た目をしているが、この店では当たり前に首を伸ばして別の客を驚かしている。
我としては、大人しくしていてほしいのだが。
『絵を描いていた』
『へえ。珠吉も?』
『そうだ』
『見せて』
『断る』
『なんで?』
『断ると言ったら断る』
梢は遠く離れた場所から、するするとその細長い首を伸ばしてきた。
ろくろ首である彼女の頭部が、まるで蛇のように空中をしなやかに滑り、我の手元にある紙の真上へと覆い被さってくる。
『見せなさいよ』
『嫌だ』
『一瞬だけ』
『嫌だ』
『お願い』
『嫌だ』
『いいじゃないの、ねぇ珠吉』
『なんだ』
『可愛い』
そんな言葉に絆されるような我ではないのにっ⋯⋯。
『見せて?』
『…………仕方ない』
我は紙を差し出した。伸ばされた首の先で、梢の顔が満足そうに目を細める。
『わあ』
『笑うな』
『上手じゃないかい』
『本当か?』
『うん』
『……そうか』
褒められるというのは、まあ、悪い気はしない。
大妖怪である割れに対する態度であるのかは怪しいが、今は許してやろう。
すると梢は頭だけをさらに近づけ、その額で我の頭を優しく撫でるように擦り寄せてきた。
『よしよし』
『やめろ』
『嫌?』
『嫌ではないが、子供扱いするな』
『はいはい』
まただ。
皆して我を子供扱いする。
大妖怪なのに。
大妖怪なのに。
しかし、こうして誰かに触れられるのも、案外悪くない。
梢も妖怪だ。
だからなのか、人間相手とは少し違う。
余計な言葉はいらない。ただ同じ時間を過ごしているだけで、それなりに心地良いのだ。
そして夕方になると、店の中に聞き慣れた足音が近づいてくる。
「こんにちはー」
「こんにちは」
我はカウンターの上から入口を見る。
そこにいたのは、最近この店に通い詰めるようになった二人の高校生。
夢月と八雲。
『また来たのか』
二人は真っ直ぐとカウンターの上にいる我の方へと向かってくる。
ニヤニヤと笑っていて嫌な予感がしたから、我はぷいっとそっぽを向くことにした。
「珠吉、こんにちは」
『…………』
「無視された」
それすらも楽しむように、八雲が屈託のない笑顔を見せる。
『いつものことだろ』
「それでも挨拶くらいしてくれてもいいじゃないすか」
『我は忙しい』
「何してるんすか?」
『大妖怪としての仕事だ』
「またそれかよ」
夢月やマスターの前では縮こまった態度を取る彼だが、どうにも我の前では素を出しているらしい。
いつも店にやってくるなり我にやたらと絡んでくる。
我を何だと思っているんだ、と問えば、十中八九ペットかマスコットのように思っているのだろう。
「珠吉、今日も元気そうだね」
『当然だ』
「よかった」
夢月が我の頭を撫でようと手を伸ばしてくる。
このまま素直に撫でられるのは大妖怪としてのプライドに傷が付きそうで、我はさっと避けた。
『触るな』
「あ、ごめん」
咄嗟に夢月が手を引っ込める。その顔が少し寂しそうに見えた。
我は一瞬だけ迷った。別にこいつは何もしていない、一抹の罪悪感が生まれたのが正直なところだ。
だが、すぐに顔を背ける。
別に触られたいわけではない。
ただ――。
『……一回だけなら、許してやる』
「え?」
『早くしろ』
「ふふ。ありがとう」
夢月の手が、そっと頭に触れる。割れ物を扱うように、その手つきは優しい。
『ふなぁ⋯⋯』
悪くない。
むしろ落ち着く。
八雲も向かいの席に座り、マスターに飲み物を注文していた。
夢月は今日あったことを我につらつらと語ってきて、八雲はマスターとくだらない話をしている。
いつの間にか神楽と伊吹も来ていて、神楽が我を見た。
「珠吉、随分大人しいね」
『⋯⋯』
「夢月には素直なんだ?」
『黙れ』
「へえ」
『黙れと言っている!』
やはり、何を言ってもこの男には響かないし軽くあしらわれてしまう。
「お前、最近あの二人が来ると機嫌がいいな」
『そんなことはない』
「そうか」
『そうだ』
「ならいい」
伊吹はそれ以上何も言わなかった。
まったく、余計なことを言う男だ。
だが、店の扉が開いて。
夢月が笑って。
八雲が騒いで。
マスターが珈琲を淹れて。
神楽と伊吹がくだらないことを話して。
とこよや梢が時々遊びに来る。
そんな一日が、我は――。
……。
……嫌いではない。
「また明日も来ますね」
自身の願いに気づけずにいるこいつは、いつもそう言って店を出ていく。「明日も店に行く」というのが、今夢月が対価として支払っている願いだ。
「また明日!」
決して軽くはない願いを持つ八雲も手を振り、八重歯を見せて笑う。
そうして忙しない時間が過ぎ去るように、二人が店を出ていく。
扉が閉まり、店の中が少しだけ静かになった。
『ふう⋯⋯』
何をするでもなく、ふと店の入口を見た。
誰もいない静かな店内というのはいつものことだ。
それなのに何故だろう。少しだけ、つまらない。
「珠吉」
背後からマスターの声が聞こえて、入口から視線を外す。
カップを吹く手を止めたマスターは、随分や穏やかな笑みをたたえていた。
『なんだ』
「二人とも、明日も来るそうですよ」
『……そうか』
「嬉しそうですね」
『嬉しくなどない!』
客が増えればそれだけ騒がしくなり、仕事の量も増える。
我は静かな場所で何もしないことが一番好きなのだ。
そして、何より面倒事に巻き込まれるのが一番嫌いだ。だから、店仕舞い前の静かな時間というのは好きなはず。
「そうですか」
『我は大妖怪だぞ。人間どもが来ようが来まいが、そんなことはどうでもいい』
「はい」
『本当だぞ』
「はいはい」
『だから、そのような顔をするな!』
マスターは何も言わず、いつものようにカップの次はカウンターを拭き始めた。
我は入口の扉の向こう側を見透かすように視線を遊ばせる。
もう二人の姿は見えない。
だが、明日も来ると言っていた。ならば、まあ、少しくらいなら待ってやっても――。
(何を言う。我は大妖怪、猫又の珠吉様だ。人間の一人や二人来ようが何を気にする必要がある)
浮かぶ考えを捨て去るように、我は慌てて首を振った。
何を考えている、我は大妖怪だ。
人間どもが来るのを楽しみにするなど。
ましてや、来てほしいなど。
そんなこと――絶対に、絶対に言ってやらん。
まあ、明日も来るなら、少しくらい相手をしてやってもいいがな。ほんの少しだけだ。
決して、楽しみにしているわけではない。
断じてない。
ないったら、ないのだ!




