明鏡止水・3
神楽家の一室には、いくつもの古びた書物が重厚な影を落として積み上げられていた。
畳の上に長く伸びるように広げられた古い巻物。
表紙の擦り切れた年代物の文献。
怪力乱神や陰陽の理、異形の怪異について記された奇談集。
さらには、何処で手に入れたのか子供向けの昔話を一冊にまとめた薄い冊子まである。
その中央で神楽は膝を折り、黙々とページを捲っていた。指先が擦り切れた和紙を一枚ずつ、一定の拍子で送っていく。
「……違う」
一冊を閉じる。ぱたん、と埃を含んだ乾いた音が静寂に落ちた。
すぐ隣に積み重ねられていた別の書物を無造作に手に取る。
「これも違うな」
紙を捲る衣擦れのような音だけが、深夜の静かな部屋に深く響いていた。
行燈の灯線が気怠げに揺れ、神楽の影を壁へ大きく引き伸ばす。
しばらくして、障子の向こうから控えめな絹の擦れる音がし、声が響いた。
「お兄様、入ってもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ、いいよ」
咄嗟に返事すると、すっと静かに障子が開く。
そこから顔を覗かせたのは、妹の左夜子だった。羽織の裾を小さく整え、目元に心配の色を滲ませている。
「まだ起きていらしたのですか?」
「ああ。少し調べものをね」
左夜子は薄暗い部屋の中を、驚きを含んだ瞳で見渡した。
普段なら文房や調度品が幾帳面に整えられている兄の私室が、今日はまるで老舗の古い書庫を取り壊したかのように雑然としていた。
「まあ……」
思わず声を漏らし、左夜子は目を丸くする。
「随分とたくさんの本をお広げになっていますね」
「必要になったんだ」
「何をお調べになっているのですか?」
左夜子が裾を踏まないよう気を配りながら、足音を殺して近くまで歩いてくる。
神楽は手にしていた書物をそっと閉じ、少し考えるように顎へ指を添えた。
「写真の中の人間が動く、という話についてだよ」
「……写真が、動く?」
「ああ」
摩訶不思議な話に、左夜子の表情が僅かに強張る。
神楽は、昼間、あの現実から切り離された夢幻喫茶の店内で起きた出来事を左夜子に説明した。
写真の中にいた女性。
セピア色に褪せ、静止しているはずの一枚の写真が、夢月がその表面に触れた瞬間にまるで息を吹き返したかのように動き出した。
それだけではない。
赤い紐で固く縛られていた箱から出された残りの三枚までもが、まるで時を巻き戻したかのように連続して動きを見せたのだ。
雨の中で傘を差す。
駆け寄りながら振り返る。
届かない相手へ両手を伸ばす。
そして最後には、カメラのレンズ越しにこちら側へ向かって、声なき絶叫で必死に何かを訴えかける。
あまりにも現実離れした、けれど生々しく恐ろしい光景だった。
「それで、何か見つかりましたか?」
「まだ何とも言えない」
神楽は手元にあった一冊の古書を再び開いた。
「ただ、似たような話ならいくつかある」
「似たような話……?」
「例えば、絵の中から何かが抜け出してくる話だとか」
左夜子は興味深そうに、けれど少し身を縮めながら兄の隣へ腰を下ろす。
「絵から?」
「昔話の類いだけどね。画工が魂を込めて描いたものが夜になるとぬらりと動き出したり、壁の絵の中から仔馬が飛び出して夜道を駆けたという話がある」
「まあ」
「他にも、絵や掛け軸に描かれた人物が振り返ったとか、声を上げて泣いたという話もある。もちろん、どれも巷説や伝承の域を出ないけれど」
神楽の指先が、流れるような動作で古びたページを繰っていく。
「一休さんの虎退治の話にも、似たようなものがあったはずだ。描かれたものがただの塗料ではなく、そこに何らかの『想念』や『意思』が宿るという考え方は、古来より絶えず存在している」
「では、今回の写真も……」
「可能性はある」
神楽はそこでぴたりと言葉を止めた。
写真。
それは絵画とは決定的に違う。
人間の刷毛や筆の手によって創られた偶像ではなく、その一瞬に確かに存在した『時間と光の残像』そのものを機械で強引に切り取った媒体だ。
ならば、そこに単なる絵画以上の何かが宿ったのだとしたら。
「……少し厄介だね」
神楽がぽつりと掠れた声で呟く。その声を拾うのは、当然左夜子しかいない。
「厄介、ですか?」
「絵ならば、そこに描かれた虚構が動くというだけで済むかもしれない」
神楽は、あの店内で写真を見つめたときの感覚を思い出していた。
女性は動いた。だが、それはからくり人形のようにただ写真の中を歩いていたわけではない。
何かを切実に探していた。
何かを伝えるために、暗闇の中で足掻いていた。
最後の一枚では、まるで写真の向こう側にいる夫へ助けを求めるように、唇を震わせて必死に口を動かしていた。
「今回のものには、強い『意思』があるように見える」
「意思……」
「あの女性は、ただ怪異として蠢いていたわけではない」
神楽は膝の上の書物へ暗い視線を落とす。
この中のどれにも、あの写真が引き起こした夢のような出来事を証明できるものはない。
「何かを、必死に伝えようとしていた」
左夜子は黙って兄の精悍な横顔を見つめた。
「夢月がね、写真の中の女性は私達に何かを伝えようとしているのだと気づいたんだ」
ほんの数日前にぽっと現れ、この家で一晩だけ過ごした少女。
まさか彼女の名前をここで聞くことになるとは思わず、左夜子は膝の上で華奢な手を固く重ね合わせた。
「夢月ちゃんは何と?」
「写真に写る女性と、店に持ち込んだ男性は夫婦で⋯⋯旦那側が勘違いを引き起こしているのだと」
「勘違いとは一体」
「それをずっと考えている」
神楽は再び、別の書物の頁を開いた。
達筆な文字で綴られている話に目を通していくが、やはりこれと言った事象は記録されていない。
「怪異や怨霊が人間に何かを伝えようとする例は山ほどある。だが、それが必ずしも残された者への善意とは限らない。怨念や呪いという可能性も十分にある」
「……怖いですね」
「そうだね」
純粋で真っ直ぐな左夜子のつぶやきを神楽は否定しなかった。
普段の彼なら、どのような奇怪な事象が起きても軽く笑い飛ばし、余裕を感じさせる道化の態度を崩さない。
しかし、今夜の彼は違っていた。
あの写真に指先が触れた瞬間、女性が影の中から振り返った。
その一瞬の残像を脳裏に浮かべるだけで、胸の奥に冷たい針を刺されたような妙な引っ掛かりが残るのだ。
まるで、あの女性は写真越しにこちらを見ていたのではなく。
こちらの背後に佇む、見えない『誰か』の面影を必死に追っていたような。
「……お兄様?」
「ん?」
「どうかなさいましたか?」
「いや」
神楽は唇の端を吊り上げ、小さく笑った。
「何でもないよ」
いつもの柔和な笑顔だが、左夜子は、それが兄の真意を隠すための無難な仮面に過ぎないことに即座に気づいていた。
「また、無理をなさっていますね」
「無理?」
「ええ」
左夜子は眉を八の字にして、少しだけ困ったように笑ってみせる。
「お兄様は昔から、本当に怖いことや割り切れないことがあると、決まって余計に楽しそうに笑いますもの」
「……よく見ているね」
「妹ですから」
そう言って、左夜子は兄の膝元に散らばる書物へと視線を落とした。
しばらく見つめてから、そっと割れ物を扱うように手に取る。
「夢幻喫茶で、また不可解なことがあったのですね」
「ああ」
神楽は即座には答えず、呼吸を一度深く整えるように僅かな沈黙を挟んだ。
「何とも言えない……胸に引っ掛かった出来事だったよ」
「怖かったのですか?」
「怖い、というよりは」
神楽は言葉を慎重に選ぶように、ゆっくりと天井を仰いだ。
「後味が悪い」
「後味が……」
「うん」
それだけを静かに言い残すと、神楽は妹の視線から逃れるように再び視線を伏せた。
「怪異が起きたこと自体が嫌なんじゃない。むしろ……何が起きているのか、その哀しい真実が薄っすらと分かりかけていることの方が嫌なんだ」
「……どういうことでしょう?」
「恐らく、あの写真は怨念で呪いを撒き散らそうとしているわけじゃない」
神楽の指先が、一枚の古書の古い破れ目をゆっくりとなぞる。
「誰かに、隠された本当の真実を見せようとしている」
左夜子は息を殺し、黙って兄の言葉に耳を傾けていた。
「そして、その真実を知れば……きっと、あの写真を『呪いの箱だ』と言って逃げ込んできた袴姿の男にも直結する」
「では、あの男性が……何か真実をご存じなのですね」
「恐らくね」
神楽は開いていた書物を静かに閉じた。
ぱたん、と乾いた音が部屋の隅々にまで波紋のように広がる。
「だから、こうして古文書を捲って調べる必要は、もう最初からないのかもしれない」
「え?」
「答えは、あの男自身が胸の奥に隠し持っている」
神楽は部屋の中に積み上げられた無数の書物を見渡した。
結局、どれだけ古い伝承や怪異の記録を探したところで、今回の出来事そのものを説明する答えなど見つかるはずもなかったのだ。
当然だ。
写真の中に閉じ込められた時間。
そこに刻まれた女性の切痛な想い。
そして、動き出した彼女の影。
これは昔話や怪談の再現などではない。
誰か一人の人間が辿った悲劇の人生が、写真という小さな紙切れの中にそのまま閉じ込められているに過ぎないのだから。
「明日、もう一度あの男性に来てもらおう」
「はい」
「今度こそ、逃げずに全てを話してもらう」
そう言った神楽の声には、いつもの飄々とした軽さは一切なかった。
左夜子も兄の覚悟を感じ取り、静かに頷く。
「きっと、その願いを持つ方も何か深い罪悪感に苦しておられるのでしょうね」
「……そうかもしれない」
神楽は閉め切られた障子の向こう側へ視線を向けた。
夜は何処までも深い。
庭の池を照らす薄明るい月の光が、格子状の影を作って静かに部屋の畳へ差し込んでいる。
「だからこそ」
胸の奥に押し込めた重い葛藤を吐き捨てるように、神楽は掠れた声で静かに呟いた。
「真実を知らなければならない」
それが、あの男を救う救済になるのか。
それとも、忘れていた真実によって、彼をさらに酷い絶望へと突き落とすことになるのか。
その答えを知る者は、今のところまだ誰もいなかった。
❁
入口の扉が開かれ、カラン、と乾いた鐘の音が静かな店内に甲高く響き渡った。
その無機質な音に弾かれたように、店内にいた全員が一斉に視線を入口へ向ける。
そこに立っていたのは、先日、四枚の写真が納められた古びた木箱を縋り付くように預けていった、あの男性だった。
時代錯誤な袴姿に身を包み、外の雨に濡れてもいないはずなのに、凍える寒さに耐えるように痛々しく肩を縮めている。
以前訪れた際と何一つ変わらない服装。けれど、その顔色は土気色に沈み、数日前には見られなかった切迫した焦燥と怯えが、落ち窪んだ目元に色濃く浮かんでいた。
「どうですか」
男性は店内を見回す余裕すらなく、落ちくぼんだ瞳を真っ直ぐにマスターへ向け、掠れた声で問いかけた。
マスターはカウンターの奥で静かに作業の手を止め、ゆっくりと顔を上げる。その眼差しは何処までも凪いでいた。
「動きました」
マスターが発したたった一言、それを耳にした瞬間だった。
男性の顔からみるみる血の気が引き、紙のように白くなった。
「……動いた……?」
「はい。写真の中に閉じ込められていた女性が」
男性の呼吸が、目に見えて荒く乱れていく。
己の胸元を爪が食い込むほど固く押さえ、何度も何度も浅く短い息を吸い込んだ。
「何故、何故だ。どうして動く……!」
誰に問いかけているのかも分からない。男性は両手で頭を強く抱え込み、床へ向かって深く俯いた。
「お前が……お前が悪いというのに……!」
ブツブツと意味をなさない怨嗟を呟きながら、狂暴な手つきで指を髪に絡める。
「何故私を責める。私は何も間違っていない。私は……!」
異様な迫気と衰弱を見せるその様子に、夢月は恐怖で息を呑み、思わず隣にいた八雲の制服の袖を固く掴んだ。
先日この店を訪れた際の、静かで落ち着いた佇まいの男性とはまるで別人だった。
あの時は、木箱をまるで壊れ物でも扱うかのように愛おしそうに抱えていた。
それなのに今の彼は、その写真の存在そのものに酷く怯え、拒絶している。
「この写真のこと。そして、ここに写っている女性のこと」
マスターが穏やかだが、一切の逃げを許さない静かな通告のような声で言った。
「当喫茶にお預けになるのでしたら、隠さず全てをお話しいただけますか」
男性は答えず、歯の根が合わない音だけを響かせた。
マスターは彼を急かすことなく、無言でカウンターの最前列の席を静かに指し示す。
男性は幽霊のようにふらつく足取りでそこへ歩み寄り、崩れ落ちるように腰を下ろした。
俯いたまま、浅い息と共に何度も何かを呪文のように呟き続けている。
やがて、ずっと沈黙を守っていた神楽が、腕を組んだまま低く重い口を開いた。
「この写真の女性は、一体誰だ」
男性は長い間、言葉を呑み込んだまま黙りこくっていた。
やがて、錆びついたネジを回すかのような音を立てて、喉の奥から絞り出すように声を漏らす。
「……妻だ」
そのたった一言に、夢月ははっと息を呑んだ。
写真に写っていた女性。
四枚とも俯いていたり、髪が掛かっていたりと、顔立ちははっきりと確認できなかった。
それでも、動き出した写真の中で彼女が必死に、痛々しいほど何かを伝えようとしていたことだけは鮮明に覚えている。
「奥様は、今?」
マスターが静かに、試すような色を挟まずに尋ねる。
男性は周囲から、現実から逃げるように固く目を伏せた。
「……死んだ」
短い、乾いた言葉だった。
「二年前に」
その瞬間、店内の空気が凍りついたようにしんと静まり返った。
――二年前。
その言葉の重みを、神楽と伊吹はそれぞれの胸の内だけで静かに反芻していた。
「この写真を見ていただけますか」
マスターが、最後の一枚――女性が画面のこちら側を向き、必死に口を動かしている写真を男の前へ静かに差し出した。
写真の中では、女性が暗闇の向こう側にいる誰かへ向かって、今も声なき悲鳴を上げ続けている。
男性はその写真を目にした瞬間、弾かれたように目を見開いた。
「……っ!」
全身がガタガタと大きく痙攣するように震える。
「あ……」
悲鳴にも似た漏れ声と共に、男性は力任せに写真から目を逸らした。
しかし、視線を外してもなお、脳裏に焼き付いた妻の姿が離れないのか、両手で顔を覆って激しく頭を振る。
「やめろ……!」
それは、絞り出すような小さな声だった。
「もう、やめてくれっ!」
その怯えきった言葉を聞いて、神楽は鋭く目を細めた。
「何をそこまで恐れている?」
「あ、あぁ⋯⋯」
「この写真に、一体何が写っているというんだ」
怒りを含んだ神楽の問いに、男性は答えない。
その代わり、理性を失ったかのように突然、カウンターの上の写真へ向かってガバッと手を伸ばした。
「消えろっ!」
写真を強引に掴み、破り捨てようと指に力を込める。
その手を、神楽が目にも留まらぬ速さで咄嗟に掴み上げた。
「何をする」
「離せ! 離せぇっ!」
「お前はこの人に何をしたんだ」
神楽の放った一言に、男の動きがぴたりと止まった。
その一瞬の弛緩の隙に、手から離れた写真がひらりと宙を舞い、床へ落ちる。
すかさず伊吹が歩み寄り、それを静かに拾い上げた。
そして、そこに写る女性の口動きと、男性の態度の全てを脳内で繋ぎ合わせた瞬間、伊吹の厳格な表情が一変した。
「……お前が」
低く、地の底から響くような声だった。
普段の冷静で厳格な伊吹からは考えられないほど、凍てつくような冷気と憤怒を孕んだ声音。
「お前が、この人を殺したのか」
男性の顔が恐ろしい形相で引き攣る。
「……違う!」
「では、何故それほどまでに怯え、罪を隠すような顔をする」
「違う、違うっ!」
神楽に手首を掴まれたまま、男性が狂ったように叫んだ。
次の瞬間、着物の懐からギラリと光る小刀を取り出す。
「っ!」
白刃が描く鋭い軌道が、神楽の首元に向かって一直線に振り下ろされる。
神楽は最小限の動作で身体を捻り、刃先を躱した。
そのまま間髪入れずに男性の腕を取り、関節を極めて畳の上へ一気に押さえ込んだ。
「神楽!」
伊吹もすぐさま踏み込み、押さえつけられた男性の手首を固く捻り上げて、小刀を床へ弾き飛ばす。
「離せ! 離せぇぇっ!」
男性は床に顔を押し付けられながらも、半狂乱になって抵抗を続けた。
けれど、神楽と伊吹の完璧な制圧から逃れられるはずもない。
「落ち着け!」
「私は悪くない!」
男性の悲痛な叫びが、店内に空虚に響き渡った。
「私は、私は何も悪くないんだ!」
あまりの凄惨な光景に、夢月と八雲は思わず数歩後ろへ下がった。
カウンターの上にいた珠吉も珍しく軽口を叩かず、黄金の瞳を細めてじっと男性を見つめている。
「妻が、妻が私を見なくなったから!」
床に伏せたまま放たれた男性の声は、掠れ、途切れ、見る影もなく惨めに震えていた。
「以前は……昔はいつも私を見て笑ってくれた! 私が家に帰れば笑顔で迎えてくれた! 私が話しかければ、愛おしそうにこちらを見つめてくれたんだ!」
男性は床に伏せたまま、悔しさに拳を握り締める。
「それなのに……いつからか、あいつは私の顔をまったく見なくなった!」
夢月は胸を突かれたように息を呑んだ。
写真に写る女性の姿が脳裏に蘇る。たしかにこちらを見ているはずなのに、何故か交わらない視線。
「話しかけても返事すらしない! 外へ出ても、私の隣を歩こうとすらしない! 何度理由を聞いても、何も言わずにただ伏せ目になるだけだ!」
男性の落ち窪んだ目から、ぼろぼろと大粒の涙が落ちて畳を濡らす。
「私は……私は捨てられたのだと思った! 愛想を尽かされたのだと!」
「違う」
神楽が男性の背を押さえたまま、低く冷ややかな声で言った。
「何が違うというんだ!」
「まだ話の途中だ」
神楽は男性の腕を固定したまま、淡々と、しかし核心を突くように静かに続ける。
「君は、妻が自分を嫌ったと思い込んだ」
「そうだ!」
「妻の心が自分から離れていく恐怖に耐えかねた」
「そうだと言っている!」
「だから、返事のない妻を激しく問い詰めた!」
人が変わったように叫んだ神楽の声に男性は身を震わせ、しゅんと縮こまる。
小さく息を吐いた神楽は、冷静な態度を取り戻し問うた。
「何も答えてくれない妻に、君は逆上し、腹を立てた」
「……そうだ」
「そして――」
神楽の声が一段と低く、重くなる。
「取り返しのつかないことをした」
その言葉を聞く頃には、男性は完全に黙り込んでいた。
やがて、床に擦り付けた口元から小さく呟く。
「……あいつが、私を見てくれなかったからだ……あいつが悪いんだ……」
その身勝手な言葉に、夢月の胸が締め付けられるように痛んだ。
写真の中の女性は、あれほど必死に、涙を流すような思いで何かを伝えようとしていた。
なのに、この人はその叫びすら「自分を責めている」と歪めて受け取っている。
何かが、決定的に狂っている。
「違います」
気づけば、夢月は自分でも驚くほどはっきりとした声を張っていた。
男性がゆっくりと顔を上げ、夢月を見上げる。その目にはもう何の感情が滲んでいるのかも分からない。
「奥さんは、貴方を責めているんじゃないと思います」
「……何を知ったようなことを言っている」
「写真の中の人は、ずっと『気づいて』って言っていました!」
「何を」
「貴方を恨むためじゃない……貴方に、どうしても気づいてほしいことがあったんです!」
夢月は床に落ちた写真を真っ直ぐに見つめた。
「だったら、どうして私を見てくれなかったんだ!」
男性の悲痛な叫びが店内の静寂に溶け込んでいく。
返ってくるはずのない問いを空中に投げかけ、男性の肩が激しく上下していた。
「どうして……何も言わずに去っていった……」
誰もすぐには答えられなかった。
その時、神楽がふと男性の青ざめた顔を間近で見つめた。そして、彼の首元へ鋭い視線を落とす。
「……その首」
耳の間近で呟かれたその言葉を聞いて、男性が僅かに身を強張らせる。
神楽はゆっくりと片手を伸ばし、男性の首元に厳重に巻かれていた薄汚れたスカーフへ触れた。
「少し見せてもらえるかい」
「何を――」
「首だ」
男性は拒否する気力すら失ったように黙った。
神楽がスカーフの端を掴み、解く。するりと布が解け落ち、その下から現れたものを見て、夢月は息を呑んだ。
首元には、肉が引き千切られたような痛々しい古い傷跡がぐるりと残っていた。
黒ずみ、壊死しかけたようなその痕は、かなりの時間が経っていることを物語っている。
伊吹もそれを見た瞬間、目を見開いた。
「……まさか」
「覚えているか、伊吹」
男性の体を床に押さえつけていた伊吹の顔を見つめる神楽が静かに言った。
「二年前の、あの未解決事件だ」
店の中の空気がピンと張り詰め、伊吹の厳格な顔から血の気が引いていく。
「ああ」
「夫婦心中として処理されかかった、あの事件」
「……忘れるわけがない」
八雲が恐る恐る、二人の顔を見比べながら尋ねた。
ことの成り行きを分かっているのは、この場では神楽と伊吹だけ。それ以外に知る者など誰もいない。
「何があったんすか……?」
伊吹はしばらく沈黙を守っていた。やがて、重い口を開く。
「二年前。俺たちは警察の要請で、ある一軒家へ向かった」
「夫婦が悲惨な状態で亡くなったという通報を受けてね」
その言葉に重なるように、夢月の脳裏に会ったこともない古い家の光景が鮮明に浮かび上がった。
荒れ果てた屋敷。
破壊された障子や扉。
壁に飛び散った血痕と残された爪痕。
そして、全てが終わった後の重苦しい静寂。
「家の中には、首を深く傷つけられた女性の遺体だけがあった。だが、現場にいるはずの夫の姿がどこにもなかった」
「なのに、どうして夫婦心中だって分かったんですか?」
「女性の遺体のすぐ近くに、もう一人分の大量の血痕が残されていたからだ」
伊吹は固く拳を握り締めた。初めて見せる彼の苦痛の表情に、もう見ていられなかった。
「それだけじゃない。現場の状況からして、男性側も即死に至るほどの致命傷を負い、死んだことを示す決定的な痕跡が残っていた」
「つまり……」
八雲が言葉を詰まらせながら呟く。
「男の人も、その場所で死んでいた……?」
「ああ。だが、どれだけ捜索しても夫の遺体だけが影も形も見つからなかった」
夢月は、神楽に押さえつけられている目の前の男を見る。
時代外れの古びた袴。
血の通っていない青ざめた顔。
そして、首に残る致命的な傷跡。
それらが示すものなど、嫌でも分かってしまう。
「……まさか」
荒い息を吐く男を見下ろし、神楽は静かに、けれど逃げ場を塞ぐような冷厳な響きを湛えて問いかけた。
「君は二年前、妻を亡くしたと言ったね」
「ああ」
「そして――君自身も、二年前に死んでいるんだ」
男性の瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
「何を、言っているんだ?」
「君の首にある傷は、あの惨劇の現場に残されていた血痕の主の負傷と完全に一致する。それに」
神楽はカウンターへ置かれていた木箱へ目を向けた。
「その箱に刻まれている名前がある」
マスターがそっと木箱を持ち上げ、蓋の裏側を男に見せるように示し置く。
そこには、時を経て掠れた文字が彫り込まれていた。
――小川倫哉。
――小川紫乃。
マスターがわざとらしくその名前が見えるように差し出すと、男性の肩が激しく震えた。
「……私の……名前……」
それが初めて、男性自身の口から明かされた本名だった。
「小川倫哉」
静まり返った店内の空気をつらぬくように、神楽が静かにその名を呼ぶ。
「そうだ、私だ。私の名だ」
その瞬間、店内の空気が一変する。
男性は自分がすでにこの世の者ではないという事実を、ついに認めた。
けれど、それでもまだ何かを受け入れられないように、何度も何度も首を振る。
「私は」
喉の奥を固く締め付けられたような掠れ声が、泣きじゃくるたびに弱々しく乱れて震えた。
「私は、あいつに捨てられたと思い込んだんだ……」
涙で潤んだ瞳を激しく動かし、男性は床の上に落ちた写真へ向けて、耐えがたい絶望の滲む視線を落とした。
「急に目を合わせてくれなくなった。話しかけても、以前のように優しく返事をしてくれない。外へ出れば、私の腕を掴むことすら拒むように離れていく……」
己の愚かさと取り返しのつかない罪の重さに耐えかねたように、男性は固く握りしめた拳で力任せに強く床を叩いた。
「だから……私を嫌いになり、忘れようとしているのだと思ったんだ!」
「違ったんでしょうね」
哀切の念を乗せたマスターの落ち着いた声が、張り詰めた店内の静寂を優しく包み込む。
その問いかけに背中を大きく揺らした男性は、涙と埃で汚れた顔を、重い枷を嵌められたかのような痛々しく持ち上げた。
「奥様は、重い目の病を患っていた。違いますか?」
己の愚かさを突きつけられた男性は完全に絶句する。唇の端を硬直させ、乾いた蒼白な唇を震わせるのが精一杯だった。
店内にしんと静まり返る静寂を破るように、神楽は男性の顔を覗き込み、淡々と逃れようのない確信を込めて言葉を重ねていく。
「奥様の視力は失われつつあった。だから、君の顔を見たくても見ることができなかったんだ」
神楽の言葉が静まり返った店内に深く染み渡っていく。
「君の声が聞こえなかったわけでも、愛情が潰えたわけでもない。ただ、世界が暗闇に包まれていたんだよ」
突きつけられた過ちの重さに、男性の目から堰を切ったように涙が溢れ出した。
「……そうだった。そうだった。私は、本当は知っていたんだ」
男性が自分の愚かさを噛み締めるように呟く。
「医者からも言われていた……あいつの目が、少しずつ侵されていることを……」
落ち窪んだ瞳には、かつて愛しい妻の温もりを拒み、取り返しのつかない過ちを犯してしまった罪の爪痕が痛々しく映し出されていた。
「それなのに、日に日に何も見えなくなっていくあいつを傍で見ている内に、私は怖くなったんだ」
溢れ出る涙で視界を歪ませながら、男は畳の上に残された写真の中の妻の姿を貪るように見つめた。
そこには自分を拒絶していた影などではなく、見えなくなりゆく世界の中で必死に夫を買い求め、変わらぬ愛を訴え続けていた健気な面影が痛々しく浮かび上がっていた。
「あいつの世界から私が消えていくのが怖かった。自分がもう必要とされない存在になるのが、恐ろしいほど怖かったんだっ!」
妻が自分の顔を見られなくなる。
その残酷な現実を、彼は「自分への愛情が失われた」のだと身勝手にすり替え、逃避してしまったのだ。
「だから、私は勝手に思い込んだ……」
突きつけられた残酷な真実から逃れようとするかのように、男は両手で勢いよく顔を覆い隠した。
「私を嫌いになったのだと、そう思い込まなければ、怖くて狂いそうだったんだ!」
夢月は吸い寄せられるように、床に落ちた写真へ痛痛しい眼差しを注いだ。
四枚目の写真。セピア色の紙面の奥で、女性は今も変わらず、悲痛なほどの情熱を込めて必死に口元を動かし続けている。
男の身勝手な不信によって歪められていたその言葉が、真実の光に照らされた今、まるで静かな水面に波紋が広がるように、ゆっくりと、けれど明確な形を結び始めていく。
――気づいて。
その声なき叫びの真意を確信した夢月は、震える手で優しくその写真を拾い上げると、膝を突き合わせて絶望に沈む男の眼前へ、そっと静かに差し出した。
「見てください」
「……何を……」
「奥さんが、本当は何をしていたのかを」
写真の中で、セピア色の風景が鮮やかに動き出した。
女性が赤い傘を差し、激しい雨の中でじっと誰かを待ち続けている。
やがて、遠くから走ってくる一人の人影が現れた。
女性は顔を輝かせ、嬉しそうに振り返る。そして、目が見えづらいはずの足取りで、その人物へ向かって必死に駆け出した。
そこにいたのは、若い頃の男性――小川倫哉だった。
「……っ!」
女性は夫の姿を見つけると、愛おしさに満ちた手で両手を伸ばした。
そして、力いっぱい彼を抱き締める。
夫もまた、溢れんばかりの愛おしさで女性を強く抱き締め返していた。
二人とも、この世の誰よりも幸せそうに笑っている。何一つ失われていなかった、あの眩しい頃のように。
「これは……いつの……写真だ……」
夢月は直接は答えず、ただ、その温かな光景を見つめながら言った。
女性は夫を捨てたわけではなかった。
嫌いになったわけでも、拒絶したわけでもなかった。
目が見えなくなっていく恐怖の中で、それでもずっと、誰よりも夫を愛していたのだ。
だからこそ。
写真の中に残された彼女の魂は、最期まで夫へ訴え続けていたのだ。
――気づいて。私が貴方を愛していることに、気づいて。
「奥さんは、貴方に気づいてほしかったんだと思います」
夢月が静かに、けれど力強く言った。
「自分が貴方を嫌いになったんじゃないって……ずっと愛していたんだって」
突きつけられた残酷な真実と、溢れ出す感情の奔流に耐えかねたように、男性の蒼白な唇が激しく震えた。
「……私を……愛していた……?」
「はい」
男性の惑う瞳を真っ直ぐに見つめ返し、夢月は一度しっかりと頷いた。
「写真を見る限り、それ以外にあり得ません」
男性は吸い寄せられるように写真を見つめ直した。
写真の中の妻が、もう一度穏やかに笑う。その表情は、どんなに時が流れても変わらない、澄み切った愛に満ちていた。
「……そうか」
男性の頬を、幾筋もの涙が伝い落ちる。
「私は……忘れていたのか⋯⋯妻が、私をどれほど愛してくれていたかという、一番大切なことを」
その声には、もう先ほどまでの醜い怒りや怯えはなかった。
ただ、胸を掻きむしるような深い後悔と愛おしさだけが残されていた。
「私は捨てられたと思い込み、目を合わせてくれないことも、言葉が少なくなったことも……全部、私を拒絶しているからだと被害妄想に逃げたんだ」
男性は震える指先で、写真の中の妻の頬をそっと撫でた。
「本当は……何も見えなくなっていたのは、あいつの目じゃなかったんだな」
写真の中で、女性が夫の手を包み込むように握り締める。
男性の目から、またポロポロと涙が零れ落ちた。
「何も見えなくなっていたのは、あいつじゃない」
突きつけられた真実の重みに耐えかねた男性は、自嘲するように口元を歪め、惨めに笑った。
「私の方だったんだ」
その言葉を聞いた伊吹は静かに目を伏せると、男性の体を押さえつける力を緩める。
「君は、自分がどれほど深く愛されていたかに気づけなかった」
突きつけられた残酷な真実を前に全ての抵抗を捨て去ったように、男性は糸が切れた人形のように力なく首を縦に振った。
「そして、その己の愚かな誤解のまま……一番守るべき妻を傷つけた」
「ああ」
男性は震える両手で写真を大切そうに持ち上げた。
「すまない」
写真の中の妻は、責める言葉を何一つ口にしない。ただ、優しく微笑んでいる。
「すまない、紫乃……」
初めて、男性は愛する妻の名前を愛おしそうに呼んだ。
写真、いや、写真に写る妻を見る目は慈愛に満ち、ただ幸せそうだった。
「私は、お前が私を捨てたのだと思っていた……」
写真を自分の胸元へ強く抱き締める。
「違ったんだな……お前は……ずっと私を見ていてくれたんだな……」
店内には、ただ男性の嗚咽と静寂だけが流れていた。
やがて、伊吹が完全に男性から手を離し、立ち上がった。
「もう、分かっただろう」
「……何が」
「あんたは、もうこの世の人間ではないんだ」
男性は静かに顔を上げた。今度はその事実を否定しない。
「……そうだな」
神楽も男性から一歩距離を取り、静かに佇む。
「二年前のあの現場で、俺達はどうしてもお前の遺体だけを見つけられなかった」
「だから私は……」
男性が自分の手元を見つめる。その指先から、少しずつ輪郭が透明に透け始めていた。
「自分が死んだことにも気づかず、この執着と後悔だけで……ここまで彷徨ってきたのか」
男性の口から漏れた悲痛な告白を最後の一音まで聞き届けると、マスターは慈しむような眼差しを向けたまま、静かに頷いた。
「強い未練と誤解が、貴方を留め続けていたのでしょう」
「未練……」
「奥様に本当の気持ちを伝えられなかったこと。そして何より……自分が最後まで愛されていたという真実に気づけなかったこと」
神楽の言葉に誘われるように、男性は古びたカウンターの上に鎮座する木箱へ、吸い寄せられるような眼差しを向けた。
「だから、私は理由も分からず、この写真をここへ預けに来たのか」
「ええ」
「自分でも、何故この箱を肌身離さず持ち歩き、人に預けようとしたのか分からなかったんだ」
男性は涙に濡れた顔で、小さく微笑んだ。
「ただ、これだけは絶対に捨てることができなかった」
箱の中には、妻との愛の記憶の全てが残されていたのだ。
雨の中で傘を差して待っていた日。
振り返って無邪気に笑った日。
おしそうに手を伸ばしてくれた日。
そして最後に、愚かな夫へ向かって何かを訴え続けた日。
「きっと、魂の何処かでは分かっていたんだろうな」
長年その心を苛み続けていた憎悪と妄執が綺麗に落ちたような顔でポツリと呟いた。
「妻が私を恨んでいるわけではないことも、私が大きな間違いを犯していることも」
珠吉がカウンターの上から、静かに男を見下ろした。
『気づいたのなら、あとは己の魂で向き合うことだ』
「……ああ」
『犯した罪から逃げ続けることは、決してできぬぞ』
「分かっている」
突きつけられた罪を背負い、愛の真実を胸に刻んだ男は、導かれるように静かに目を閉じた。
「もう、逃げるつもりはない」
その身体の輪郭が、さらに淡く透けていく。
「……あいつには、会えるだろうか」
珠吉は言葉を挟むことなく、しばらくの間重苦しい沈黙を守りながら、覚悟を決めて目を閉じる男の姿をじっと見つめ続けた。
『それは我にも分からぬ。お前が背負った罪は重い』
男の顔に、一瞬だけ哀愁が浮かぶ。けれど、珠吉は言葉を続けた。
『だが、罪を背負ったままであっても、真実に向き合い続けることはできる』
その言葉は、罪の深さに打ちひしがれていた男の胸の奥底へ、静かな光のように落ちていった。
『お前がその愛と後悔を誓って忘れなければ、いつか果てしない刻の果てに、辿り着けるやもしれぬ』
男が吐き出した絶望と安堵の余韻を噛み締めるように、珠吉はしばらく沈黙し、目の前の男を見つめ続けた。
愚かな過ちへの呆れと、愛に狂った末の哀れさ——交錯する感情を秘めたその無言の視線は、立ち去ろうとする男への静かな餞のようでもあった。
「そうか……ありがとう」
男性は胸の中の写真を見た。
最後の一枚。
妻が、真っ直ぐこちらへ手を伸ばしている。その口元が、光の中で最後に一度だけ、はっきりと動いた。
――気づいて。
男はボロボロと涙を流しながら、清々しく笑った。
「……気づいたよ、紫乃」
その言葉を最後に、男の姿は一陣の淡い光の粒となって、夜の空気の中へ静かにほどけて消えていった。
あとに残されたのは、古びた木箱と、床に散らばる四枚の写真だけ。
しばらくの間、誰も言葉を発することができなかった。
やがて伊吹が歩み寄り、床に落ちていた一枚を静かに拾い上げる。
「終わったか」
「ええ。解けるべき未練が、ようやくほどけたのでしょう」
夢月は伊吹の手元にある写真を見つめた。
さっきまで生々しく動いていたセピア色の女性は、もう動かない。何処にでもある、ただの古い写真へと戻っている。
けれど、不思議と恐ろしさは微塵も感じなかった。
写真の中にいる女性は、安堵したように穏やかに微笑んでいる。まるで、ようやく届けたかった言葉を全て伝え終えたかのように。
❁
その日の帰り道。
夢月と八雲は、夜の静けさに包まれた道を並んで歩いていた。
街灯の光がポツポツと落ちる路地は、人が生きている気配など感じられないほど静かだ。
しばらく歩いたところで、夢月がふと足を止める。
「どうしたんすか?」
八雲も立ち止まり、夢月の視線の先を追いかけた。そこには、路地の奥にひっそりと佇む一軒の古い屋敷があった。
長い間、誰も手入れをしていないのだろう。
土壁は所々剥がれ落ち、荒れ果てた庭には雑草が生い茂っている。
腐ちかけた門柱に残された古い木製の表札だけが、かろうじて家の主の名を伝えていた。
――小川。
「ここ……もしかして、伊吹さんが言っていたあの二年前の……」
八雲も表札を見つめ、静かに息を吐いた。
「どうでしょうね」
確かなことは誰にも分からない。
二年前の惨劇の舞台がここなのか、それともただの同姓の家なのか。
ただ、夢月はその静まり返った屋敷を見つめながら、そっと胸の前で手を合わせ、心の中で深く願った。
今度こそ。
もし二人が出会い、生まれ変わることがあるのなら。
今度はどうか、互いの言葉を真っ直ぐに交わすことができますように。
相手の溢れる気持ちを、疑わずに信じ合えますように。
そして、今度こそ最期まで慈しみ合い、愛し合えますように。
そんな夢月の切ない願いが、夜の冷たい静寂の中へ静かに溶けていった。
翌日。
夢幻喫茶の奥深くにある保管庫には、あの小川夫妻の木箱が静かに収められていた。
四枚の写真からはすでに妖気も気配も消え、ピクリとも動かない。
マスターが最後に、写真の一枚へ指先でそっと触れる。すると、古びた紙片の表面に、目に見えるほどの細かな亀裂がスーッと走った。
「……?」
異変に気づいた夢月が振り返ると同時に、ぱき、と繊細なガラスが割れるような小さな音が響いた。
写真は端の方からゆっくりと崩れていく。
まるで春の終わりを告げる淡雪のように、細かな紙の粉となってマスターの掌の上から零れ落ちていった。
そこにはもう、何も残らない。
悲しい妻の姿も。
愚かな夫の姿も。
かつて止まり、そして動き出した悲劇の時間すらも。
全てが役割を終え、虚空へと消えていった。
けれど、二人を繋いでいたあの木箱だけは、崩れることなくそこに残り続けた。
マスターはそれを愛おしそうに撫でると、棚の奥へと大切に戻す。
「この店には、これまでにも様々な想いが込められた品が預けられてきました」
八雲がカウンター越しに振り返る。
「強い未練の残ったもの、っすか?」
「ええ」
マスターは静かに、深みのある笑みを浮かべた。
「人は誰しも、自分が本当は何に縛られ、何を恐れているのかを正しく理解しているわけではありません」
夢月は、先ほどまで写真が置かれていた誰もいない空間を見つめた。
あの姿見に捉えられた少女が大切にしていたブローチ。
そして今回の木箱。
それらはこの店で大切に保管されている。彼らの願いと共に。
「気づかなければ、何も変えられないし、進めない」
その言葉に、マスターは深く静かに頷いた。
「だからこそ、この店がこうして存在しているのですから」
夢月はまだ知らない。
自分自身もまた、これから訪れる時の流れの中で。
この夢幻喫茶という場所で、いくつもの切なくも美しい「気づき」に出会うことになるということを。
そして、その一つ一つの出会いと気づきが。
彼女自身の止まっていた未来を、少しずつ、けれど確実に変えていくことになるのだということを。
紫乃、紫乃、聞こえるかい。
ええ、聞こえていますよ。
今、私は何色のスカーフを首に巻いていると思う?
そうですねぇ、紫ですか?
⋯⋯ああ、そうだ。紫だ。
貴方って、紫が好きでしたっけ? 色にこだわりがあるような人ではなかったはずですが。
色にこだわりがあると言うより、君の名の紫が好きなんだ。
君は知らないだろう。私が贈った手鏡の色。
それはね、紫だ。君の名前と同じ、紫なんだよ。
君は、いつだって鏡として私を映す。
何も見えなくたって、君の瞳は波一つないと待った湖。澄んだ瞳をしていたんだ。




