明鏡止水・2
『明鏡止水』
邪念や蟠りが一切無く、澄みきった落ち着いた心を意味する。
❁
あいつは、いつも鏡に向かって自分の姿を見ていた。
時間があろうがなかろうが、私の前に立つのなら必ずそうした。
何故、そんなにも自分の見目を気にする。
私がそう問うと、あいつはこう返した。
「貴方が私に初めて贈ってくださった物を覚えていますか?」
何度も問われすぎて、初めは思い出せずにいた私でも忘れられなくなった。
「鏡だろう。それに何の関係がある」
「私は、一分一秒でも醜い姿を貴方に見せたくないのです。貴方の前でだけは、いつだって美しい自分でありたい」
そう言って微笑んだ妻は、この世の何よりも美しかった。
❁
その日、夢幻喫茶には雨の匂いが静かに残っていた。
昼間に降り続いていた雨はすでに上がっている。店の外では濡れたアスファルトが街灯の光を柔らかく反射し、時折通り過ぎる車のタイヤが水溜まりをシャッと小さく揺らしていた。
水滴を弾くゴムの音、遠くで鳴る信号機の僅かな機械音。そうした外界の音は、まるで分厚い水の中を通してきたかのように酷く遠く、何処か非現実的に響いている。
けれど、店内の空気はいつもと変わらない。
天井から吊り下げられた橙色の淡い照明。
時空の狭間に漂う店特有の、静けさを溶かすような温かな管弦楽の音楽。
カウンターの奥では、洗練された無駄のない動作でマスターが紅茶を淹れていた。銀の湯沸かしから立ち上る真っ白な蒸気が、柔らかい光を浴びてゆらゆらと揺らぎ、消えていく。
そして、窓際のボックス席に向かい合って座る夢月と八雲。
「最近、ここに来るのにも少しだけ慣れてきた気がする」
夢月が湯気の立つ磁器のカップに両手を添え、ふっと表情を緩めて呟くと、向かいに座っていた八雲が、喉を鳴らして苦笑いを漏らした。八雲は自分のカップに手を付けようともせず、肩を竦めている。
「俺は、まだちっとも慣れないっすけどね」
「そう?」
「だって、何処をどう見たって普通の喫茶店じゃないんすもん」
八雲は少し身体を縮め、気味が悪いものでも見るように店内をぐるりと見回した。その視線は、店内の装飾や他の客達の姿を一つ一つ確かめるように彷徨う。
「猫が普通に喋るし、大正時代の軍服を着た人が寛いでるし……正直、ここにいる人が全員何歳なのかすら、考えるのが怖いくらいっすよ。時間の感覚が狂いそうっていうか、自分が今どの時代にいるのか分からなくなるんす」
「それは、確かにね」
夢月も苦笑しながら頷く。
少し離れたカウンター席では、伊吹が無言のまま深煎りの珈琲を口に運んでいる。その立ち姿は質実剛健そのもので、大正の軍服が恐ろしいほど絵になっていた。その隣では、神楽が珠吉の頭を撫で回したり、毛を逆に撫で立てたりして無邪気に遊んでいる。
そして、当の珠吉は白目を剝いて威嚇していた。毛並みの整った美しい黒猫——見た目だけなら何処にでもいる愛くるしい小動物だ。
ただし、その口から低く渋い人間の言葉が吐き出されなければ、の話だが。
『失礼な奴だな』
突然、神楽の手によって好き勝手に弄ばれたままの珠吉の低い声が、静寂を破った。
「うわっ! 聞こえてたの!?」
『この狭い店内で話していれば、嫌でも耳に入る』
「す、すみませんっ」
八雲は首を竦め、素直に頭を下げる。
珠吉はフンと髭をぴくつかせ、鼻を鳴らした。そして神楽の手を前足で払い退けると、ゆっくりと毛並みを整え始める。
『まあいい。それよりお前』
「何、珠吉?」
『少し手を貸してほしいことがある』
そう言い残すと、珠吉はしなやかな動作でカウンターの奥の暗がりへと消えていった。暗闇の中に吸い込まれる黒猫の背中を見送りながら、夢月は首を傾げる。
「何だろう?」
「……俺、嫌な予感しかしないっす」
八雲は指先を少し浮かせ、気味が悪いとでも言いたげに眉を顰めて首を傾げた。
「どうして?」
「この店で『頼みたいことがある』なんて言われて、まともな内容だと思います? 絶対に碌なことじゃないっすよ。怪異とか、幽霊とか、絶対そういうのですって」
「確かに、むしろそういう内容の方がこの店らしいかも」
二人が顔を見合わせた、まさにその直後。
カウンターの奥の暗がりから、静かな足音と共に珠吉が戻ってきた。その口には、小さな木箱が大事そうに咥えられている。
擦り切れた古びた木肌。時代の重みを感じさせる濃い茶色。そして、その周囲をぐるぐると宥め賺すように頑なに縛り上げる、深く鮮やかな赤い絹紐——あの一品だった。
「……っ」
夢月の表情が瞬時に強張る。掌にじんわりと冷や汗が滲むのを感じた。
八雲も息を呑み、怯えたように目を細めて身を引いた。
「あれって……」
「この間のお客さんが預けていったものだよね」
八雲の呟きに夢月が掠れた声で答える。
数日前、命からがらこの店へ逃げ込むようにやってきた、あの袴姿の男性。青ざめた顔で、何かに怯えるように周囲を気にしていた。
何枚かの古い写真が入った箱を置き去りにし、彼は震える唇で言っていたのだ。
『私は……これのせいで、不幸になる』
と。
珠吉は二人の座るテーブルへトコトコと近づくと、木箱をトン、と静かに置いた。箱がテーブルの木面とぶつかる乾いた音が、やけに重く店内に響く。
『覚えているな』
「う、うん」
『今日は、これの検分に付き合ってもらう』
「……また、写真を見るんですか?」
『そうだ』
珠吉は器用に前足と爪を使い、固く結ばれた赤い紐を解き始めた。さらり、さらりと紐が解かれる音が微かに届く。強く巻き付けられていた結び目が、するりと外れていく。
そして、パカリと音を立てて蓋が開いた。
中にはセピア色に褪せた四枚の写真が仕舞われたままだ。
前回と何一つ変わらない。
表面に細かい亀裂が網の目のように入った、一世紀近く前の古い印画紙。
そして、そこに写し出されているのは一人の女性。
長い黒髪、和洋折衷の優美な衣装——けれど、どの写真も決して彼女の顔を捉えてはおらず、悲しいほどに後ろ姿ばかりだった。
彼女の視線が何処を向いているのか、どのような表情をしているのか、写真からは一切伺い知ることができない。
「これがどうしたんすか? やっぱり、ただの古い写真にしか思えないっすけど」
八雲が恐る恐る尋ねる。自分から遠ざけるように、身を僅かに後ろへ引いていた。
『昨日までは、何も起きなかった』
「昨日までは……?」
『我も神楽も伊吹も、それぞれこの写真に触れてみたが、何の変化も観察できなかった。ただの古い紙切れに過ぎんかった』
珠吉はそこで言葉を切り、黄色い澄んだ瞳をじっと夢月へ向けた。
『だが……お前が触れた時だけ、気配が動いたのだ』
夢月の伸ばしかけていた指先が、ピタリと止まった。空気の重みが一気に増したような感覚に襲われる。
「え? 私が触った時だけ? 私触ったりなんてしたっけ?」
『あの時、我だその場にいた誰よりも写真の近くにいた。そして、お前が近づき、触れようとした時に気配の揺れを感じた』
「気配の、揺れ?」
『そうだ。この店に来る者、そしてこの店の品々には相性というものがある。お前の持つ特異な感受性が、この写真に残された強い念を引き寄せる回路になっているのだ』
珠吉は前足で、一枚目の写真をテーブルの中央へ押し出した。
『だから、次はその手でしっかりと触れてみろ』
「私が?」
『嫌なら無理強いはせん。だが、この写真に宿る『執念』の正体を解き明かすには、お前の感受性が必要なのだ』
珠吉の口調は重々しく、その目は本気だった。冷やかしや好奇心ではなく、この怪異に向き合おうとする覚悟が滲み出ている。
夢月はテーブルの上の写真を見つめた。
そこに佇む女性の後ろ姿。
艶やかな長い黒髪。華奢で何処か儚げな肩。
ただ静かに、時間の止まったセピア色の画面の奥で背中を向けて立っている。見た目だけなら、大正や明治の時代に撮影された、何処にでもある静穏な記念写真だ。
「分かった。やってみる」
夢月は深く息を吐き出し、胸の動悸を鎮めるように呼吸を整えてから、ゆっくりと手を伸ばした。
人差し指が、カサリと乾いた写真の表面に触れる。
その瞬間――ぞくっと背筋を氷でなで上げられたかのような冷たい戦慄が走った。全身の毛穴が開き、皮膚が粟立つ。
「……っ!」
夢月は弾かれたように指を引っ込んだ。呼吸が乱れ、肩が上下する。
「どうしたかい?」
奥の席から、神楽が静かに声をかけてくる。いつの間にか神楽も伊吹も、手元のものを置き、こちらのテーブルに深い関心を寄せていた。
「いえ……何でも……ただ、すごく冷たくて……」
夢月は視線を写真に釘付けにしたまま答えた。
写真は変わらない。女性は背を向けたまま、風景も静止したままだ。
「何も起きてないっすよね?」
八雲が少し身を乗り出し、不安そうに覗き込む。
「……みたい。気のせいだったのかな」
「じゃあ、前回珠吉が感じたの何かも、たまたまの偶然だったんじゃないっすか?」
八雲が安堵したように胸を撫でおろし、そう言ったまさにその瞬間だった。
写真の中で、明確に「何か」が動いた。
「……え?」
夢月はハッと息を呑み、写真を睨み付けた。
写真の中の背景は動いていない。しかし、女性の長い黒髪が、ふわりと横に靡いたのだ。
風など吹いていないはず。写真の中の背景にある大樹も、遠くに見える日本家屋の屋根も微動だにしていない。
それなのに——女性の髪だけが、まるで生きているかのように滑らかに揺れていた。
「今、動いたっすよね!?」
八雲が喉をひくつかせ、恐怖に顔を引き攣らせた。
写真の中で、女性の右腕がゆっくりと持ち上がる。何かを前に突き出し、持ち上げるような仕草。
「あ……」
女性の手の中に、いつの間にか「赤い傘」が握られていた。
女性がそれをしなやかに押し開く。
ぱっと、モノクロの世界の中に鮮やかな大輪の花が咲くように、赤い傘が開かれた。色彩を持たないはずの写真の中に、確かな「赤」の幻影が見える。
「写真の中で、傘を差した?」
八雲が上擦った声を漏らすが、誰もその問いには答えなかった。店内の全員の視線が、テーブルの上の小さな紙切れに注がれている。
女性は赤い傘を差したまま、佇んでいる。
晴れているように見える紙面の中。なのに、何故傘を差すのか。
「これは……」
それまで彫像のように固まっていた伊吹が、重い沈黙を破って低い声を零した。
「動き出したね」
神楽が静かに目の前の事実を告げる。夢月は唇を強く噛みしめた。
恐ろしい。けれど、どうしても視線を逸らすことができなかった。写真の中に宿る凄まじい密度の記憶が、夢月の精神を捉えて離さない。
女性が赤い傘を傾けたその直後、写真の画面の中に細い雨が降り始めた。
地面が湿った黒に染まり、傘の表面を微細な雨粒が打ち跳ねる。静寂の店内に、幻聴のように微かな雨音が「しとしと」と響いてくる気すらした。
「雨だ」
「写真の中だけで、時間と天気が動いてる」
写真の中の女性は一歩も動かない。ただ赤い傘を差して、移りゆく時間の中に見を投じている。
「誰かを待っているのかな」
現実世界ではないからか、写真の中の世界は瞬く間に時間が過ぎていった。
夜になったかと思えば朝になり、頭上に太陽が登ったかと思えば夕方になる。それでも、雨は降り続いたまま。
「かもしれないね」
神楽がそう呟いた時、不意に女性が動き出した。
顔は見えない。けれど覚束ない足取りは何かに操られているのか、それとも想いが先走って身体が追いついていないのか。
「この女性は、雨の中で一途に『誰か』の到来を待っている。……ただひたすらにね」
女性は歩みを進め、写真の端の樹木の下で足を止めた。
赤い傘を少しだけ傾け、顔の見えない頭部を左右に巡らせる。誰かを探すように、必死に周囲の気配を探っている動作。
けれど、通りには誰も現れない。静寂と雨だけがそこにあった。
「……来ない」
夢月が呟く。胸がぎゅっと締め付けられるような切なさが襲いかかる。
女性はその場で、ただじっと待ち続けていた。
雨だけが絶え間なく降り注ぐ。
やがて……フッと糸が切れたように、写真の中の動きがピタリと止まった。雨の波紋も、揺れる着物の裾も、全てが再び静止画へと戻る。
「終わったっす?」
八雲が喉をゴクリと鳴らし、上目遣いに珠吉を見た。
珠吉は黄色い瞳を鋭く光らせたまま、写真を睨みつけている。
『いや、まだだ』
珠吉は前足で、二枚目の写真を押し出した。
『次を触れ』
「私が、また?」
『そうだ。お前の指先が、この写真に閉じ込められた『記憶』を呼び覚ます鍵になっている』
大層な言い方をされて、夢月は一瞬躊躇した。
怖い。さっきの現象は決して見間違いではない。ここにいる全員が目撃した怪異の類だ。
それでも——あの雨の中で傘を差し、ポツンと佇んでいた女性の背中から伝わってきた、あまりにも悲痛で切ない気配が、夢月の胸を離さなかった。
「分かった」
夢月は意を決し、二枚目の写真にそっと指先を滑らせた。
――ぱち。
静電気のような小さな感触と共に、二枚目の写真は即座に反応した。
画面の中の女性が、弾かれたように後ろを振り返る。
「……!」
夢月の肩が跳ねた。
女性はこちらを向いた。しかし、やはり顔は見えない。揺れる黒髪と項の影、そして角度が絶妙に顔の造形を隠している。
女性の右手が大きく上がった。遠くにいる誰かに向かって、必死に手を振る仕草のように見える。
「呼んでる?」
「誰をっすかねぇ」
八雲が引き攣らせた声を上ずらせて尋ねる。
「分からない……でも、誰かを呼んでる。来てくれたんだって信じて」
女性は何度も、何度も手を振り続けた。
その視線の先には誰も写っていない。それでも彼女は、相手がそこにいると信じて疑わないように手を振り、そして、着物の裾を乱しながら走り出した。
画面の奥から、こちら側――カメラを構えている人物に向かって一心不乱に駆けてくる。
けれど、途中で女性の足が縺れ、視線があらぬ方向へ泳いだ。まるで目の前にあるはずの相手の姿が「見えていない」かのように、明らかな違和感をもって視線が彷徨う。
そのまま女性は、カメラの横を通り過ぎるように、写真のフレームの端へと消え去った。
「なんなんだ、これは」
伊吹が深い眉間に皺を寄せ、低く唸った。
「写真の中で何かが起きている、というレベルではありませんね」
「時間軸が存在しているんだよ」
神楽が箱を縛っていた紐を指で弄りながら言う。
「ただ切り取られた一瞬ではない。撮影された前後に存在する、連続した『出来事』と『強い想い』が、この紙切れの中に物理的な像として再生されている」
やけに納得できるその言葉に、夢月も深く頷いた。
一枚目では、雨の中で待ちわびていた。
二枚目では、待ち人の気配を感じ取って、嬉しそうに駆け寄ろうとした。
まるでこの四枚の写真全体が、彼女の記憶の断片を綴った一つの物語であるかのように。
「なら、三枚目も同じ構造のはずだ」
神楽の言葉に促され、夢月は三枚目の写真へ手を伸ばした。
人差し指が紙面に触れる。
今度は、最初から女性が大きく動いていた。
女性は振り返り、両手を前へと差し伸べている。まるで、目の前に立つ愛しい人の手を取ろうとするかのように。
そして、彼女の胸元——その手の中には、小さな丸い物体が大切そうに抱えられていた。
「あ、あれは?」
夢月が写真を持ち上げると、一同が顔を覗き込ませた。皆で女性が持っているものを目を細めて見る。
淡い赤褐色の光の中で、女性の手の中にあるものが淡く光を反射した。
それは、細緻な銀細工が施された手鏡だった。掌に収まるほどの、上質な小鏡。女性はその鏡を両手で包み込むように持ち、慈しむように胸へと引き寄せていた。
「なんで鏡を持ってるんすか?」
夢月の頭の中に、一瞬、温かな風景の断片が流れ込んできた。写真に触れている指先を通じて、過去の情景が意識に直接流れ込んでくる感覚。
「……プレゼントだ」
夢月は呟いていた。自分の声ではないような、何処か遠い声で。
「あの袴の男性……旦那さんが、彼女に贈ったんだ。大切な鏡を。彼女はそれを、飛び上がるほど喜んで、肌身離さず大切にしていた」
「旦那さんからの贈り物」
低く落ち着かせた声で、八雲が呆然と漏らす。
写真の中の女性は、その手鏡を大切そうに撫でながらも口元を激しく動かしていた。
「何か、話してる?」
写真を見ていた八雲が身を乗り出す。
音は聞こえない。けれど女性の唇は、必死に、何度も、同じ言葉を繰り返し紡いでいた。
「読めない。顔が逆光になってて、はっきり見えないよ……」
どれだけ目を凝らしても何と言っているか分からず、夢月は悔しくなって吐き捨てた。
太陽が女性の真後ろに位置しており、その顔全体が暗い影の中に没していた。
それでも女性は手鏡を抱え直すと、再び前に手を伸ばし必死に口を動かし続けている。
「まるで、『私に気づいて』って叫んでるみたいだ」
夢月が呟いた瞬間、写真の中の光景が変化した。
窓の外の景色ではなく、写真の枠内だけで、傾いていた太陽が急速に沈み始めたのだ。
逆光が弱まり、影が薄れていく。
女性の横顔のシルエット、鼻筋、そして激しく動く口元の輪郭が少しずつ鮮明になっていく。
「顔が……!」
女性は何かを叫んでいる。何度も、何度も。
「声は聞こえない。でも、確かに何か言ってる」
写真を睨み付ける夢月の横で、伊吹が写真を凝視したまま低い声で言った。
「これだけはっきりと見ていたら口の動きで何と言っているか分かるかもしれない」
「口の動きって、伊吹さん分かるんですか?」
「『読話』という方法がある。短い言葉なら、あるいはな」
「読話……!?」
「口元の形と開き方から、言葉を特定する」
伊吹の鋭い視線が、女性の唇の動きを完全に捕獲した。
一度、二度、三度。
女性が繰り返す、たったひとつのフレーズ。それを見逃さまいと凝視した。
「……き」
伊吹が呟く。
「き……?」
「……づ」
「き、づ……」
次の瞬間、女性の唇が大きく縦に開いた。
「……いて」
言葉が線と線でつながった時、店内を冷たい静寂が支配した。
読話とやらで女性が何と言っているのか読み取ったらしい伊吹が呟く。
「『気づいて』」
店内を包み込む重苦しい静寂を破るように、八雲の口から掠れた呟きが漏れ出た。
「『気づいて』って、言ってるんですか?」
「そうだ」
伊吹は声を出さず、ただ目元に暗い影を落としながら重々しく頷いた。その沈黙の肯定が、店内にある全員の確信を重く裏付ける。
写真の狭い画面の中、幾年月もの時間を越えて閉じ込められた女性は、今も尚声なき悲鳴を上げ続けていた。音を奪われた世界で、喉を痛めつけるかのように何度も、何度も、同じ言葉を吐き出しながら。
——気づいて。
——どうか気づいて
溢れ出る涙で歪む瞳。
焦燥に震える唇の動き一つひとつに、狂おしいほどの愛おしさと、暗闇に置き去りにされる絶望の淵がくっきりと刻み込まれていた。
「誰に」
夢月の胸が、締め付けられるように痛んだ。
「誰に、気づいてほしいの?」
その問いに応えるかのように、写真の中の女性が不意に顔を上げ——真っ直ぐに夢月達の方を見つめた。
「……っ!?」
顔はまだ影の中で、目元すらハッキリとは見えない。
それでも、間違いなかった。
彼女の視線は写真のレンズ越しに、カメラを構えている『誰か』を射抜いていた。
けれど、よく見ると、彼女の瞳はカメラのレンズそのものを捉えていない。
焦点が何処か遠くへ泳ぎ、必死にシャッター音や足音のする「気配の方向」を探すように、狼狽えながら揺れていたのだ。
「今、こっち見ましたよね!?」
「ううん、違う」
八雲の恐怖が入り混じった声に、夢月は写真を持つ手を震わせて掠れた声で答えた。
「見てるんじゃない……探してるんだ。目が、見えていないんだよ」
その言葉に、店内が息を呑んだ。
影に包まれていた女性の口元が、焦燥に震え、そしてポロポロと涙を零し始める。
視力を失いつつある病の恐怖。愛おしい人の姿がぼやけ、世界が暗闇に消えていく恐怖と戦いながら、それでも必死にカメラを構える夫へ向けて、言葉を投げかけていたのだ。
夫が自分を映してくれている。そのシャッター音だけを頼りに。
「段々、見えてきたね」
徐に神楽が呟き、皆の表情が引き締まる。
珠吉が最後の一枚——四枚目の写真を琥珀色の瞳で見つめた。
『最後だ』
その声に、夢月はゴクリと唾を呑み込んだ。
これで最後。聞かずとも何かが判明する。そんな緊張を誰もが感じていた。
「如月さん、無理しないでくださいね」
八雲が心配そうに夢月の顔を覗き込む。夢月は深く頷き、四枚目の写真へと指先を伸ばした。
触れた瞬間——今までのどの写真よりも、苛烈な「冷たさ」が指先から脳腔へと駆け抜けた。まるで氷の針を刺されたかのような感覚。
「……っ」
写真が、歪むように動き始める。
女性が立っている。長い黒髪、美しい佇まい。
そして、ゆっくりと、こちらへ向かって身体を捻り振り返ろうとする。
カメラのシャッター音が響いた瞬間のカット。
女性は夫の声がした方へ、見えない瞳を必死に向け、振り向こうとしている。
けれど、靡いた黒髪が顔を覆い隠し、結局素顔を見せることはできない。
夫は「妻が自分を見てくれない」「自分から目を背けている」という恐ろしい錯覚と絶望に耐えきれず、ここでシャッターを切るのをやめ、逃げ出したのだ。
妻の心が離れてしまったと思い込み、その恐怖から妻を置いて逃げ去った。
夢月は吸い寄せられるように、写真の中の女性の頬へそっと指先を重ねた。
その瞬間、頭の中でガラスが割れるような甲高い音が弾けた。
冷たい風が吹き抜け、脳裏に直接、哀しい女性の声が鮮明に響き渡る。
『待って、行かないで』
「……っ!!」
夢月が目を開けると、そこは変わらぬ夢幻喫茶の店内だった。
神楽も、伊吹も、八雲も、珠吉も、息を呑んで夢月を見つめている。
「夢月、無事かい?」
「あ、はい。大丈夫です……」
心配と困惑が滲む神楽の目から、夢月は手元へと視線を移した。
写真の中の女性は、両手で抱えていた「手鏡」を、去っていく夫の背中へ向けて高く掲げている。
その鏡の表面が、セピア色の世界の中で奇跡のように澄み切った光を反射した。
水面のように波一つ立たない、清らかで美しい鏡の面。
曇りのない、透き通るような光。
「明鏡止水」
写真を覗いていた伊吹がぽつりと零すように呟いた。
皆の写真に向けられていた意識が伊吹へと向けられる。皆の視線を一身に受けながらも、伊吹は表情を変えない。
「いきなりだね」
「何故か、ふと浮かんだ。鏡を向けて、やけに落ち着いた目をしているからな」
「君ってそんな感性持ってたっけ」
「揶揄うな」
「ううん。その通りですよ」
夢月は涙を浮かべながら、写真の中の女性を見つめた。
「私、一瞬この女の人の声が聞こえたんです。何度も『待って』って、『行かないで』って叫んでた。でも、旦那さんは遠く離れていってしまった。目が見えなくなって、旦那さんが何処にいるか分からなくて、それでも探していたのに。勘違いが、こんなことになっちゃったんだ」
夫は妻が自分を拒絶し、冷たい態度をとっていると思い込んでいた。
しかし真実は逆だった。
妻は病によって急速に光を失っていき、夫の顔すら見えなくなっていたのだ。
見えなくなる恐怖の中で、彼女が縋ったのは、夫が昔自分に贈ってくれた一つの手鏡だった。
自分を映すためではない。夫の愛の証であるその鏡を胸に抱き、夫の気配のする方へ向け、『私の心は何も変わっていない、明鏡止水のまま貴方を愛している』と必死に証明しようとしていたのだ。
写真の中の女性は、髪の間から覗く涙に濡れた瞳で、届かない夫の背中を追うように手を伸ばしていた。
手鏡が、澄んだ光を放ち続ける。
そして——最後の一瞬、彼女の唇が優しく動いた。
『私は……今でも、貴方を愛しています。どうか、恐れないで……』
――ぱきん。
写真の表面に、微かな亀裂が入る。
女性の姿は、手鏡が放つ温かな光の余韻を残しながら、静かに樹木の暗がりへと消えていった。
後に残されたのは、完全に動きを止めた、ただの四枚の古い写真。
「今度こそ、終わったんすかね」
八雲が息を吐き出すように呟く。その声は微かに震えていた。
夢月は胸を押さえ、四枚の写真を見つめた。
「たぶん、この写真を持ってきた男の人が、この人の旦那さんなんだと思う。この写真は私を不幸にするって、何か勘違いをしているんじゃないかな」
神楽が静かに歩み寄り、写真を一枚ずつ並べ直した。
雨の中で夫の帰りを待ち続けた一枚目。
夫の足音に気づいて喜び駆け寄ろうとした二枚目。
視力を失いながらも「私に気づいて」と訴え続けた三枚目。
そして、贈られた鏡を掲げ、明鏡止水の愛を告げながら去っていく夫を見送った四枚目。
「夫は『妻が自分を見なくなった』と狂気に囚われ、妻を置いて逃げ出した。だが妻は、ただ目を病み、見えなくなる暗闇の恐怖と戦いながら、それでも夫のくれた鏡を抱き締め、夫の気配を必死に探していたんだね」
神楽の言葉に、八雲は参ったように目元を袖で拭った。
「そんなの、あまりにも悲しすぎるじゃないすか……。すれ違ったまま逃げ出すなんて」
『ああ』
珠吉が黒漆塗りの棚を見上げる。その声には、深い悲哀が籠もっていた。
『男は、自分が見捨てられたという妄執と恐れのまま世を去り、死してなお『妻の執念』から逃げ回っていた。……だが、真実はここにある。彼女の心は怨念などではなく、明鏡止水の如く澄み切った純愛だったのだ』
夢月は四枚の写真を見つめ、静かに、けれど強い決意を込めて呟いた。
「あの男の人に……伝えなきゃ。この写真をもう一度見てもらって、奥さんがどれだけ旦那さんを愛していたか、どれほど澄んだ心で待っていたかを……絶対に届けなきゃいけない」
誰一人として、夢月の言葉を否定する者は誰もいなかった。
時空の狭間に佇む夢幻喫茶の中で、四枚の写真が、いつか訪れる魂の救済と再会の時を静かに待ち続けているのだった。




