明鏡止水・1
「……客だ」
珠吉の低く抑えられた声が、静まり返っていた店内にポツリと落ちた。
店内には再び、時空の狭間に佇む夢幻喫茶特有の、何処か浮世離れした穏やかな空気が満ち始めていた。
カウンターの向こう側では、マスターが何も言わずに澄んだ硝子のグラスを布巾で静かに磨いている。少し離れた奥のカウンター席では、何事もなかったかのように神楽と伊吹が低い声で何かを話し合っていた。
夢月は八雲とボックス席で向き合って座り、先ほど明かされた不可解で衝撃的な事実の余韻に浸りながら、まとまりのない思いを互いに探り合うように話し続けていた。
けれど、珠吉がふいに耳をピクピクと動かし、鋭い眼光を入口の重厚な木製扉へ向けた瞬間。
店の空気の密度が、予話もなく急激に変化した。
——カラン。
古びた扉の上部に取り付けられた鐘が、重たく涼やかな音を立てて揺れる。
押し開かれた扉の隙間から、滑り込むように一人の男性が店内に姿を現した。
仕立ての良い、けれど少し使い込まれた黒紬の羽織に、深く静かな色の袴。
年齢は五十代半ばといったところだろうか。白髪の交じった髪をきちんと整え、背筋はピンと伸び、足取りにも隙や乱れが一切ない。
一見すると、何処かの名家の当主のような威厳を感じさせる佇まいだった。
けれど、その顔には隠しきれない色濃い疲労と、心の奥底を苛む恐怖の影が、まるで病のように滲み出ていた。目の下には深い隈が刻まれ、肌の血色は泥のように悪く灰白色をしている。
男性は店内をゆっくりと、警戒するように見回した。
そして、カウンター越しに立つマスターの姿を捉えると、ほんの少しだけ疲れ切った目を細めた。
「おいでませ、夢幻喫茶へ」
マスターはいつものように、深く柔らかいお辞儀で客を迎え入れる。
「……お邪魔します」
男性の口から漏れたのは、低く、けれど恐ろしいほどによく通る声だった。
男性は迷いのない足取りで進むと、カウンターの端の席へと腰を下ろした。羽織の裾を整える動作すら、身体に染みついた作法を感じさせる。
「何に致しましょうか」
マスターが穏やかな笑みを崩さずに尋ねる。
「紅茶を。熱いものを頼みます」
「かしこまりました」
マスターが静かに、洗練された無駄のない動作で準備を始める。
銅製のケトルから湯気が立ち上り、温められた磁器のポットに茶葉が踊る。やがて、澄んだ琥珀色の液体が白いカップへと静かに注ぎ込まれていった。
ふわりと立ち上る蒸気。
甘く、渋みを含んだ芳醇なアッサムの香りが、店内の張り詰めた空気を優しく解きほぐしていく。
男性は目の前に置かれたカップを、じっと見つめていた。
その視線は、紅茶そのものを見ているのではない。まるで、立ち上る湯気の向こう側にある、ここには存在しない「何か」を遠い目で見つめているようだった。
やがて、震える細い指先でカップの持ち手を掴み、ゆっくりと持ち上げる。
一口。喉を鳴らして呑み込んだ。
「……いいものですね」
「ありがとうございます」
「香りが、とてもいい。心が洗われるようだ」
男性はそう呟くと、絞り出すように息を吐き、もう一度紅茶を口に含んだ。
一口飲むごとに、彼を覆っていた酷い緊張が、ほんの少しだけ弛緩していくのが分かった。
言葉遣いも、背筋を伸ばした姿勢も、茶を嗜む仕草の一つ一つに至るまで、洗練されていて無駄がない。
夢月達のような現代の学生や、街を行き交う人々とは明らかに醸し出す気品が異なっていた。
何処か古い時代をそのまま生きてきたような人。そんな強い印象を抱かせる。
(右京さんや伊吹さんと同じような、過去の時代から迷い込んできた人なのかな)
夢月がそんな疑問を胸の中で膨らませていると、マスターが静かに、けれど芯のある声で問いかけた。
「何か、お悩み事がございますか?」
ピタリ、男性の手が完全に止まった。まさにカップを口元へ運ぼうとしていたその体勢のまま、微動だにしなくなる。
静寂が、再び店内に降り積もる。
やがて男性は、重い大きな岩でも持ち上げるかのような手つきで、カチャリと静かにカップをソーサーへ戻した。
「分かりますか」
「ええ。貴方様の纏う影が、少々重すぎるようですから」
男性はしばらく目を伏せていたが、やがて諦めたように羽織の懐へ深く手を入れた。
引き出されたのは、掌に収まるほどの小さな箱だった。
古びた、黒ずんだ木箱。
角は丸く擦り減り、表面には無数の細かな傷が刻まれている。長い年月、幾人もの手を経て、何度も大切に、あるいは恐る恐る扱われてきたことが一目で分かる代物だった。
男性はそれを、壊れ物を扱うように慎重にカウンターの上に置いた。
箱の周囲には、深く鮮やかな赤い紐が、複雑な結び目でしっかりと巻き付けられている。
男性の指先が紐に触れ、丁寧に結び目を解いていく。
するり、と、滑らかな音を立てて赤い紐が解かれ、黒ずんだ木箱の蓋がゆっくりと持ち上げられた。
箱の中には、何枚かの古い紙切れ——写真が入っていた。
「これを預かっていただきたい」
男性の唇から漏れた声は、微かに震えていた。
マスターは何も言わず、差し出された箱の中へと視線を落とした。
「お写真ですか?」
「ええ」
「お手に取っても?」
「構いません」
マスターは白い手袋をはめた手で、慎重に一枚の写真を取り出した。
古い写真だった。全体がセピア色に褪せ、表面には細かな亀裂が入っている。
そこに写っていたのは、一人の女性の姿だった。
写っているのは後ろ姿。
足元まで伸びそうな艶やかな長い黒髪。
着ている服は、袴のようにも見えるし、明治・大正期の洋装ドレスのようにも見える不思議な裁断の服だった。
女性は何処か遠く、画面の奥にある何かを見つめるように佇んでいる。
けれど——当然ながら後ろ姿であるため、その顔を窺い知ることはできない。
「……」
マスターは何も言わず、写真を光に翳したり、角度を変えたりしながら、丹念にその状態を観察した。
そして、静かに写真を男性の元へ戻す。
「分かりました。お預かりいたしましょう」
男性は胸の底から溜息を吐き出すように、深く、長く息を吐いた。その肩が、急激に重荷を下ろしたかのようにガクリと落ちる。
「ありがとうございます。感謝いたします」
「いつ頃まで、お預かりすればよろしいでしょうか? 期日があればお伺いしますが」
男性の手が、再びピタリと止まった。
「……ずっと、です」
「ずっと、ですか?」
「ええ」
男性は目を固く閉じたまま、絶望を噛み締めるような声で答えた。
「これから先……未来永久、ずっとです」
その言葉の異様さに、夢月の背筋に冷たいものが走った。
夢月は思わず隣の八雲と顔を見合わせる。八雲もまた、眉を顰めて不気味そうに男性を見つめていた。
神楽も、伊吹も。
先ほどまでの雑談の空気は完全に消え去り、鋭い眼光でその男性と木箱を見定めている。全員が、その言葉の裏に潜む「何か異常なもの」を感じ取っていた。
けれど、マスターだけは一切の動揺を見せず、いつもの穏やかな表情を保ち続けていた。
「承知いたしました。大切にお預かりいたします」
男性は無言で木箱の蓋を閉めた。そして、解いたばかりの赤い紐を、再び箱に巻き付けていく。
ぎゅ、と、指先が白くなるほど、必要以上に強く、きつく、固く結び目を作っていく。まるで、中のものが外に逃げ出さないように、あるいは外からの光を完全に遮断するように。
「私は……これのせいで、不幸になる」
ぽつり、男性の唇から、呪詛のような呟きが漏れた。
「……え?」
あまりに突然の言葉に、夢月が思わず小さな声を漏らす。
けれど男性は夢月の声に反応することもなく、それ以上は何も語ろうとしなかった。
ポケットからコインを出し、カウンターへ静かに置くと、ゆっくりと席を立つ。
「ごちそうさでした。素晴らしい紅茶でした」
「こちらこそ。お気をつけてお帰りください」
マスターが深く頭を下げる。
男性は一度も振り返ることなく、引き摺るような足取りで店の出口へ向かった。
——カラン、カラン。
重い扉が閉まり、鐘の音が遠ざかっていく。
去り際、男の背中に纏わりついていた漆黒の影が、店内にほんの少しだけ残滓として残ったような気がした。
静まり返った店内に、重苦しい沈黙が落ちる。
「……何だったんだ、あの人」
八雲が、我慢できなくなったように掠れた声で呟いた。
『さあな』
カウンターの端で、珠吉がゆったりと尻尾を揺らす。
『だが、ただの旅の客ではないことだけは確かだ。あの男の肌からは、濃密な『死』と『執着』の匂いがしていたからな』
「死と執着……」
八雲が気味悪そうに身を縮める。
夢月はカウンターの上に残された、黒ずんだ木箱を見つめた。
たったそれだけの、小さな箱。なのに、そこから発せられる不可視の圧迫感が、気になって気になって仕方がなかった。
「マスター」
カウンターの奥の席から神楽が立ち上がり、静かな足取りでカウンターへと近づいてきた。
「中を改めさせてもらってもいいかい?」
「ええ。検分していただけると助かります」
マスターがカウンターから木箱を持ち上げ、テーブルの上に置く。
神楽は、男性が頑ななまでに強く結んだ赤い紐を、細く美しい指先で器用に解いていった。
パカリ、と静かな音を立てて木箱の蓋が開けられる。
中から取り出されたのは、全部で四枚の写真。神楽はそれらをテーブルの上に綺麗に並べた。
どれも、同じ女性が写っているようだった。
一枚目。
先ほどマスターが見ていた、女性の後ろ姿。長い髪と、和洋折衷の衣装。
二枚目。
少し離れた物陰のような場所から撮影されたもの。樹木の枝が手前に写り込んでおり、女性は佇んでいる。けれど、やはり顔は角度的に隠れて見えない。
三枚目。
女性が何か——古い本のようなものを手に持っている場面。やはり背後、あるいは斜め後方から撮影されており、うなじと髪の毛しか写っていない。
そして、最後の四枚目。
女性が、ふいにこちらを振り返ろうとしている一瞬を切り取ったような写真。
身体が大きく捻られ、髪が靡いている。
あと数ミリ、顔が横を向けば、その素顔が完璧に白日の下に晒されるはずの構図。
けれど、振り返る直前の、長い黒髪の束がバサリと顔全体を覆い隠しており、結局のところ、目も、鼻も、口も、皮膚の質感すらも一切窺い知ることができないようになっていた。
「……顔がないな」
いつの間にか横に立っていた伊吹が、四枚目の写真を指で摘まみ上げ、眉間に皺を寄せた。
「正確には、『顔が写っていない』だろうね」
神楽が横から写真を覗き込み、ぽつりと呟く。
「どの写真も、偶然顔が隠れたのではない。撮影者が意図的に徹底して『顔を避けて』撮影しているように見えるね」
「意図的……? 偶然じゃないってことですか?」
緊張に息を呑んでいた八雲が、恐る恐る口を開いた。
「そうだろうね。見てごらん、この構図。カメラのピントは女性の髪や服の繊維に完璧に合っている。つまり技術のある人間が撮っているんだ。それなのに、四枚全てにおいて顔だけが絶対に写らないアングルを計算して作っている」
神楽は写真を指先で持ち上げ、店のランプの光に透かしてみせた。
「それに……妙だ」
「何がですか、?」
夢月が尋ねると、神楽は写真の表面をじっと見つめた。
「写真そのものの『年代』だよ」
「古い写真だからじゃないんですか?」
八雲は少し身体を引いて写真を遠巻きに覗き込むと、しっくりこないといった風に首を傾げた。
「いや。ただ風化して古いだけなら、ここまで違和感はない。この印画紙の厚み、表面の銀塩の結晶化の度合い、そして使われている現像液の匂いの残滓……」
写真の端を指先で丁寧になぞりながら、神楽は言った。
「これは……かなり昔のものだ。それこそ、数十年……あるいは一世紀近く前の技術で作られた写真だよ」
「一世紀前!? じゃあ、神楽さん達の時代、大正時代とか?」
夢月はハッと息を呑んだ。
年代を数える基準を夢月達に合わせた場合と、写真の技術が発達しだした頃を考えて、八雲の推測は恐らく正しい。
「断定はできない。だが……私達が生きていた時代か、それに極めて近い年代のものだという感触はあるね」
「へえ……」
八雲が恐る恐る写真を覗き込む。
「でも、言われてみれば古くさいけど……見た感じは、ちょっと気味が悪いだけの普通のスナップ写真にしか見えないっすよ?」
『普通、か』
カウンターの上で、珠吉がフンと鼻を鳴らした。
『ならば何故、あの男はあれほど死人のような顔で怯えていた? ただの昔の写真なら、命からがら逃げてきたような顔で『これのせいで不幸になる』などと言うわけがない』
捲し立てるような珠吉の言葉に、反論できなかった。
確かにそうだ。ただの思い出の写真なら、わざわざ異空間の喫茶店に持ち込んで「永久に預かってくれ」などと頼むはずがない。
「これ」
夢月はテーブルの上に転がっている木箱に目を向けた。
「この、赤い紐……」
「どうしたかい?」
「なんであの人、わざわざ指が白くなるくらい、こんなにきつく結んでたんだろう……」
解かれた赤い紐は、太く頑丈な絹糸を編み込んだものだった。
箱の周りを何度も、何重にもぐるぐると固く巻き付けられていた痕跡が、箱の木肌に凹みとなって残っている。
ただの飾り結びではない。
絶対に解けないように。絶対に中身が出ないように。まるで、箱の中に解き放ってはならない「悪意」や「化物」を封じ込めるかのように。
珠吉がトコトコと歩み寄り、箱の匂いをクンクンと嗅いだ。
『赤という色には、古来より強い『魔除け』と『封印』 という意味がある』
「魔除け?」
『ああ。朱砂や赤糸は、邪気や怪異の目を眩まし、その場に留め置くための結界として使われてきた。彼は、知識としてか直感としてか……この紐で『何か』を封じようとしたのかもしれない』
「何を封じようとしたんですか?」
八雲の怯えた問いに、珠吉は直接答えなかった。
代わりに、テーブルに並べられた四枚の写真を、黄色い瞳でじっと見つめた。
『これを、だな』
「えっ。写真を封印?」
『ああ』
珠吉は髭をぴくつかせ、低く唸るような声で呟いた。
『これは……ただの紙切れではない。禍々しい執念が、この像に固着している』
その言葉を聞いた瞬間、夢月の首筋にゾクリと氷を押し当てられたかのような冷たい戦慄が走った。
「じゃあ、それって一体何なの?」
『まだ分からん』
珠吉は四枚目の「振り返りかけた女性」の写真を凝視したまま動かない。
前足で少し触れたかと思えば、泥水に触れてしまったかのように引っ込めてしまう。
『分からんからこそ、迂闊に触れるなと言っている』
「えっ」
写真へ伸ばしかけていた自分の手に気づき、夢月は弾かれたように手を後ろへ引いた。
「そんなに、危険なものなの?」
『分からんと言っただろうが。確証がないんだ』
「じゃあ、なんで危ないなんて」
『勘だ』
「勘って……!」
八雲は瞬きをパチパチと繰り返すと、顔を引き攣らせて参ったように苦笑いを漏らした。
「猫の勘て。それ、一番洒落にならないくらい当たっちゃうやつじゃないかよっ!」
けれど、誰も八雲の軽口に笑わなかった。神楽も、伊吹も、真剣な面持ちで写真を凝視している。
しばらくの沈黙の後、マスターが静かに手袋をはめた手で写真を拾い集め、木箱へと戻した。
「皆様、ご安心ください。しばらくの間、こちらで責任を持ってお預かりいたしましょう」
「大丈夫なんですか、マスター? そんなヤバそうなもの」
目の前の不気味な気配に身を硬くしながらも、八雲はマスターへ向けて心配そうに声をかけた。
「ええ」
マスターはいつもの穏やかで深い微笑みを浮かべる。
「この『夢幻喫茶』には、昔から様々な因縁や、行き場を失った品々が集まります。ここにおる限り、外の世界へ害が及ぶことはございません」
「相変わらず、物騒すぎる店っすね」
「ふふ、今さら驚くようなことかい?」
神楽がくすくすとおかしくなさそうに笑う。
「確かに、もう何が起きても驚かない覚悟はできてますけど」
八雲も参ったように苦笑いを漏らした。夢月もそれにつられて、ほっと息を吐きながら小さく笑った。
けれど、どうしても意識がそこから離れてくれなかった。
カウンターの端に置かれた、あの古い木箱。その中に収められた、顔の写っていない四枚の写真。
特に——最後の一枚。
顔を隠すように黒髪を靡かせ、こちらへ振り返ろうとしていた、あの女性の後ろ姿。
(なんでだろう……)
あの女性は、単に顔を隠して写っていただけじゃない。
あの瞬間、まるで——写真の枠を越えて、こちら側にいる自分に向かって「何か」を訴えかけようとしていたのではないか。
そんな根拠のない、けれど恐ろしい予感が、頭から離れなかった。
「夢月」
ふいに、耳元で優しく名前を呼ばれた。
「……っ! はい!」
振り返ると、神楽がいつの間にか隣に立ち、覗き込むように夢月を見つめていた。その瞳には、揶揄うような色はなく、純粋な懸念が宿っている。
「あまり、あの箱に意識を向けない方がいい」
「右京さん」
「君は感受性が強いからね。怪異の類は、自分を意識している人間を真っ先に『引き摺り込む』性質がある。余計な好奇心は捨てるんだ」
「……はい。すみません」
夢月は小さく頷き、意識してカウンターの木箱から目を逸らした。
マスターが両手で丁寧に木箱を持ち上げる。
そして、カウンターの奥にある、年代物の黒漆塗りの大きな棚へと向かった。棚には様々な古書や、用途の分からない不思議な骨董品が整然と並んでいる。
「こちらの一角へ納めておきましょうか」
『念のため、我も見張っておく』
珠吉がしなやかな動作で棚の上へと跳び上がり、木箱が置かれたすぐ隣にちょこんと座り直した。
『何か少しでも異変や変化があれば、すぐに分かる』
マスターが木箱を棚の奥、一番日当たりの悪い暗がりへと静かに押し込んだ。
その、まさに直後のことだった。
——カタン。
静まり返った店内に、小さく乾いた「硬質的な音」が響いた。
「……っ!?」
全員の身体が、一瞬で強張った。
夢月と八雲は跳び上がるように振り返り、伊吹が即座にカウンターに立て掛けていた刀へ手を伸ばしかける。
「いま……何か音、しなかったっすか……?」
棚の暗がりから目を逸らせないまま、八雲は引き攣った声を上擦らせた。
「……したな」
伊吹が低い声で答え、鋭い視線を棚へと走らせる。その瞳は獲物を狩る狩人の如く光った。
「箱の音か?」
マスターを見通して神楽は棚を睨み付ける。
この場にいる誰もが警戒態勢に入り、音が聞こえた方向へと視線を集中させた。
けれど、棚の奥に置かれた木箱は、ピクリとも動いていなかった。
赤い紐も男性がきつく結んだ通りの形のまま、暗がりの中で怪しく佇んでいる。
「気のせい、かな。木が軋んだだけとか?」
夢月が自分を納得させるように呟くと、棚の上から木箱をじっと見下ろしていた珠吉が、低く言った。
『……そういうことにしておけ』
「え?」
『今は、な』
珠吉はそう言い捨てると、それ以上は何も語らずにカウンターから床へ飛び降りた。
その気味の悪い余韻を残したまま、その日の夢幻喫茶には、それ以上の異常は何も起きなかった。
写真が勝手に動くこともなかった。
赤い紐で固く結ばれた木箱が開くこともなかった。
そして、あの命からがら写真を預けに来た袴姿の男性も、二度とこの店へ姿を現すことはなかった。




