もう一つの縁・6
「かわいいい……!」
思わず、心躍る声が口から弾け出た。
「ふふっ。気に入っていただけましたか?」
夢月は姿見の前で、裾をふわりと揺らしながらくるりと一回転した。
先ほどまで着ていたしっかりとした重みのある着物とは違い、今身に纏っているのは、お風呂上がりに用意された実に軽やかな浴衣だった。
洗い立ての綿の心地よい匂いが鼻を擽る。白地に淡い撫子模様があしらわれた浴衣に、やわらかな桜色の帯。
左夜子もまた、昼間の凛とした袴姿から、お揃いのような涼しげな浴衣姿へと着替えていた。
現代でいつも着ている味気ない制服や部屋着とはまるで違う、可憐な自分。
鏡に映る自分の姿は、何処か自分であって自分ではない。知らない映画のヒロインを見ているように、夢月は感じた。
「浴衣なんて、普段はほとんど着ないんだよなぁ」
「そうなのですか?」
「うん。夏祭りに行った時に着るのが定番だけど、ワタシは着たことないんだ。お風呂上がりにこんな風に着るなんて、なんだか大人の仲間入りをした気分」
「ふふ、先ほどの着物は雨で冷えたお身体を温めるためのものでしたから少し重かったでしょう? 今夜は我が家にお泊まりいただくんですから、こうしてゆったりとした浴衣で寛いでほしかったんです。私が着せて差し上げられてよかったです」
左夜子は満足そうに頷くと、夢月の背中に回り、帯の結び目を最後にキュッと手際よく整えた。
「すごく似合っていますよ、夢月ちゃん」
「本当?」
「はい。とっても」
「左夜子ちゃん、ありがとう。何から何まで世話になっちゃって……」
「どういたしまして」
鏡に映る自分をもう一度だけ確かめてから、夢月は振り返って左夜子を見つめた。
誰かにこうして髪を整えてもらい、着物を着付けてもらう。そんな時間がこんなにも温かく、楽しいものだとは現代にいた頃は思いもしなかった。
「それじゃあ、行きましょうか」
「え?」
左夜子が夢月の手をそっと取る。握り返しながらも、夢月は不思議に思って首を傾げてみせた。
「何処に?」
「お兄様のところです」
「右京さんのところ?」
「はい。お兄様もお仕事を終えて、寛いでおられますから」
そのまま手を引かれ、しとしとと心地よい足音を立てながら廊下を進んでいく。
昼間とはまったく違う表情を見せる、夜の神楽家。
格子障子の向こうから漏れ出る、行灯の橙色の明かり。濡れた庭の奥から聞こえてくる、夜の訪れを告げる控えめな虫の声。雨上がりの湿った空気には、古い木造建築特有の懐かしい木の匂いと、庭の土の匂いが混ざり合っていた。
いくつかの部屋を通り抜け、奥まった離れへと差し掛かったところで左夜子がぴたりと足を止めた。
そして、呼吸を整えるようにすっと障子を開ける。
「お兄様」
「来たかい」
そこは、広い庭を一望できる開放的な縁側だった。その縁側に、一人の男が浅く腰を掛けている。
いつもの、あの重厚で威厳に満ちた黒い軍服姿ではない。
紺地にシンプルな柄の入った、仕立ての良い浴衣姿。軍帽も脱ぎ捨て、少し湿った茶髪を遊ばせながら、静かに夜空を眺めている。
その佇まいがあまりにも浮世離れしていて、そしてあまりにも普段と違っていたため、夢月は一瞬、息を止めて言葉を失った。
軍服を着ていない神楽は、恐ろしいほどの浮世離れした美形でありながら、何処か儚げな雰囲気を纏っていた。
「夢月、よく似合っているよ」
神楽は夢月に気づくと、ゆっくりと振り返って優しく目を細めた。
「そ、そうですか? 左夜子ちゃんが選んでくれたからかな」
こそばゆくて苦笑しながら夢月が答えると、神楽は穏やかに笑った。その笑顔も、いつもの人を食ったような仮面めいたものではなく、柔らかくて素の温もりが混ざっているように見えた。
「お兄様、ジロジロ見つめて夢月ちゃんを困らせてはいけませんよ」
「困らせたつもりはないんだけどね。素直に褒めただけだよ」
「もう……お兄様はすぐそうやって意地悪を言うのですから」
左夜子が小さく頬を膨らませて怒ってみせる。
そんな二人の仲睦まじい遣り取りを見ていたら、胸の奥から温かいものが込み上げてきて、思わず笑みが零れてしまった。
「ふふっ」
「夢月ちゃん?」
「いや……なんだか、本当に仲がいいんだなって思って」
「そうでしょうか? 昔からこうですので、あまり実感はありませんけれど」
左夜子も照れくさそうに微笑んだ。
「では、夢月ちゃんもこちらへどうぞ」
促されるまま、夢月はひんやりとした木肌の縁側へ腰を下ろした。
左隣に左夜子。右側の少し離れた場所に神楽。三人並んで、静けさに包まれた夜空を見上げた。
雨雲は風に流され、すっかり去ったらしい。
先ほどまで激しく世界を叩きつけていた雨など、最初から存在しなかったかのように、黒漆のような夜空には煌々と月が浮かんでいた。
「……綺麗」
あまりの美しさに、溜息混じりの呟きが漏れる。
「今宵は満月ですか」
左夜子も、胸の前で手を組みながら月を見上げる。
「そうだね。見事な月だ」
ゆったりと団扇を動かしながら、神楽らが答えた。
淡く青白い月明かりが、広く手入れされた庭園を隅々まで照らし出している。濡れた木々の葉や苔がその光を反射して、まるで銀箔を散りばめたようにキラキラと輝いていた。
「雨上がりの月って、こんなに綺麗に見えるんだ……現代じゃ、ビルの明かりで見えにくかったりするから」
「雨が降ったからこそ、塵が落ちて空気が澄んでいるのでしょうね。まるで世界が洗われたかのようです」
「なるほど……」
そんな何気ない会話を交わしていると、ふと右側から視線を感じた。
引き寄せられるように、顔を向ける。
神楽と、真っ直ぐに目が合った。
いつもなら深々と被った軍帽の影に隠れて見えにくい彼の目元が、今日は澄んだ月明かりの下で、はっきりと見えていた。引き込まれそうなほど深く、美しい瞳。
改めて至近距離で見つめられると、妙に心臓がドクンと跳ね跳ねる。
「どうかしたかい?」
「い、いえ!」
夢月はハッと息を呑んで、慌てて視線を誤魔化すように泳がせた。
「ただ……」
「ただ?」
「軍帽を取って、軍服じゃない右京さんを見るの初めてだなって思って。なんだか……新鮮というか」
「そうかい?」
神楽は少し考えるように首を傾げ、浴衣の胸元にそっと手を当てた。
「こちらの方が良いかい?」
「え?」
「あの軍服姿よりも、今の私の方が、君好みかな?」
「え、えっと……! そういう意味じゃなくて……!」
どう答えればいいのか分からず、顔を真っ赤にして固まってしまう。
すると——。
「お兄様」
すっと、左夜子が夢月と神楽の間に割り込んだ。夢月を庇うように抱き寄せるなり、神楽をキッと睨み付ける。
「なんだい?」
「あまり私のお友達を揶揄って虐めないでくださいませ」
「ははは。少し意地悪が過ぎたかな」
「もう、お兄様ったら!」
左夜子に抱き寄せられた夢月は、満月が浮かぶ夜空を見上げて目をパチクリさせた。
「夢月ちゃんは、今日から私の大切なお友達なのですからね!」
「分かっているよ。揶揄い甲斐のある良いお友達だ」
神楽は楽しそうに喉を鳴らして笑った。
いつもの笑顔。夢幻喫茶で見せるものと同じ、何を考えているのか分からないミステリアスな笑顔。
けれど今の夢月には、その笑顔の底にあるものが、先ほどよりも少しだけ穏やかで温かいものに思えた。
「私は温かいお茶を新しく淹れてきますね」
不服そうに頬を膨らませつつも、夢月を解放した左夜子が袂を整えながら立ち上がる。
「夢月ちゃんは、ここで少し待っていてください」
「あ、うん。ありがとう」
左夜子がパタパタと足音を響かせ、部屋の奥へと消えていく。
途端に、静寂が縁線を包み込んだ。
庭の池で跳ねる魚の水音。虫の声。
夢月は膝の上で、浴衣の生地をぎゅっと握り締めた。
聞きたいことがあった。
この神楽家に迷い込んでから、ずっと頭の片隅で渦巻いていた疑問。
現代にいるであろう、八雲のこと。
夢幻喫茶で、神楽が彼に向けて放った言葉達。
あれは単なる勘や偶然ではなかった。まるで八雲が抱えている深い孤独や恐怖、その心の一番奥底まで完全に見透かしているようだった。
「あの、右京さん――」
「あの少年」
神楽は月を見上げたまま、静かな、けれど通る声で言葉を紡ぐ。
「あの少年は、いずれ君の運命に大きな影響を与える存在になると、私は考えている」
「私に、八雲君が?」
「ああ」
神楽がゆっくりと顔を巡らせ、夢月を見つめた。
「そして君自身もまた、あの少年を含めた周りの環境や宿命を、根底から変えてしまう存在になるかもしれない」
「私が……? どういうことですか?」
わけが分からず、夢月は怪訝な顔で首を傾げる。
自分にそんな特別な力や影響力があるなんて、とても思えない。
いつだって周囲の顔色を窺い、波風を立てないように生きてきただけの、ごく普通の高校生だ。自分から何かを変えようなんて、考えたこともなかった。
「どうして、そんな風に思われるんですか?」
「夢月」
静かに団扇を膝の上に置くと、神楽は夢月の顔を見つめた。
「君は、あの少年の反応を覚えているかい?」
「あの少年、八雲君の?」
「そう。彼が人に言えず抱え込んできた『妖や幽霊が見える』という苦悩の中にある苦しみ。嘘やまやかしとして周りに理解されない。そんな苦悩を私が言い当てた時」
「あ……」
人ならざるものが見えると打ち明けて、誰にも理解されず孤独である苦しみ。
それを神楽に言い当てられた時の八雲は、少し悲しげに瞳を揺らしていた。
「……諦めたような、でも少し驚いていたかも」
「うん」
「それに……怖がっていたと思います。自分の境界線の中に踏み込まれたことに」
そう答えた瞬間、神楽の表情がほんの少しだけ陰った。
笑顔が消えたわけではない。いつもの微笑は唇に浮かんだままだ。
けれど、月明かりを映すその瞳の奥に、深く冷たい寂しさが滲んだように見えた。
「怖がらせてしまったね」
「右京さん……」
「私に悪気はなかったんだけど」
神楽は自嘲するように苦笑いを浮かべ、再び団扇を動かした。
「どうにも私は、生まれつき人の心に無遠慮に踏み込みすぎてしまう嫌いがある。相手が隠したがっている傷口ほど、目についてしまうんだ」
「そんな……」
そんなことない、と言いかけて夢月は言葉を呑み込んだ。
実際、神楽さんは底の知れない不思議な人だ。
いつも笑っていて、本心を明かさない。それなのに、ふとした瞬間にこちらの思考や感情を丸裸にしてくる。その鋭さと異質さに、恐怖を感じる人がいてもおかしくはない。
「でも、右京さんは悪い人じゃないと私は思っています」
神楽が少しだけ目を見開いて夢月を見た。
「だって、私が見知らぬ場所で困っていた時、こうして助けてくれたじゃないですか。店にいる時だって、私達が困っていたら、なんだかんだ理由をつけて手を差し伸べてくれる」
「それは、ただの気まぐれだよ」
「気まぐれでも嬉しいです。それに……左夜子ちゃんにとって、こんなに優しくて自慢のお兄さんなんですから」
「……それは、何かの証明になるのかな?」
「なりますよ。すっごく大きな証明です」
夢月がきっぱりと言うと、神楽は一瞬ポカンとした顔をし、それから「ふ……はは」と声を漏らして小さく笑う。
その時、背後の障子が静かに開いた。
「お待たせいたしました」
左夜子ちゃんがお盆に湯呑みを載せて戻ってきた。
「温かいお茶を淹れ直してきましたよ」
「ありがとう、左夜子ちゃん」
手渡された湯呑みを受け取る。湯気がふわりと立ち上り、お茶の香ばしい匂いが広がった。両手で包み込むと、夜風で少し冷えていた指先がじんわりと温まっていく。
「どうぞ召し上がれ」
「いただきます」
一口含み、ほっと長い息を吐き出した。
「……美味しい。すごく落ち着く」
「ふふっ。良かった」
左夜子も夢月の隣に座り、自分の湯呑みを両手で大切そうに持った。
再び三人で、静まり返った庭と月を見上げる。
しばらくの沈黙の後、左夜子がぽつりと呟いた。
「夢月ちゃん」
「ん?」
「明日には、元の時代へ帰られてしまうのですよね」
その声は、悲しみに震えていた。
「……うん」
夢月は手の中の湯呑みの水面を見つめた。茶柱がぽつりと浮かんでいる。
明日になれば、神楽に連れられて夢幻喫茶へ行き、そこから自分のいた現代へ帰る。
八雲も、きっと心配して待ってくれているはずだ。学校に行って、家族と話して、当たり前の日常に戻る。
それなのに、胸の何処かが痛んだ。
「もう、お会いできなくなってしまうのでしょうか」
左夜子ちゃんの悲しげな言葉に、胸がギュッと締め付けられる。大正時代と現代。時間の隔たりは、本来なら二度と超えられない壁だ。
「……大丈夫だよ」
自分でも驚くくらい、はっきりと強い声が出た。
「一度こうして来られたんだもん」
夢月は隣の左夜子を真っ直ぐに見つめた。
「だったら、きっとまた来られるはず。私、絶対にまた左夜子ちゃんに会いに来るよ」
「夢月ちゃん……」
「だから、絶対また会える」
今にも涙が溢れそうだった左夜子ちゃんの瞳に、ぽっと温かな光が灯る。
「……本当ですか?」
「うん!」
「絶対に、約束していただけますか?」
「うん、絶対!」
左夜子ちゃんはしばらく夢月の顔をじっと見つめていたが、やがて視界をパッと明るくするように、ふわりと弾けるような笑顔を見せた。
「なら、私、いつまでもここでお待ちしておりますね」
「うん」
「私達、もうお友達ですものね」
「そうだよ! 友達だから」
二人で顔を見合わせ、声を合わせて笑い合った。
出会ってから、まだ数時間しか経っていない。住む時代も、育った環境も何もかも違う。
それなのに、不思議なくらい自然に心が通じ合っていた。まるで何十年も前から親友だったかのように。
そんな夢月達の遣り取りを神楽は静かに見つめていた。
(大きくなったものだ……)
神楽は心の中で呟く。
幼い頃から神社の中で大切に育ててきた妹。時空の歪みゆえに、外の世界に同年代の友を持てなかった少女が、今、こうして現代から来た少女と心から笑い合っている。
神楽は深く微笑んだ。けれど、その瞳の奥には、妹には見せられない別の感情が渦巻いていた。
「そういえば……!」
夢月はふと思い出したように手を打った。
「もし次またここに来ることができたら、八雲君も連れてきたいな!」
「まあ!」
控えめだった彼女の表情が華やぎ、薄暗い縁側でもはっきりと分かるほど、左夜子は歓喜に満ちた目で瞳を輝かせた。
「夢月ちゃんの大切なお友達なら、大歓迎ですよ。 お屋敷をもっと賑やかになるでしょうね」
「本当? 八雲くん、最初はビックリするかもしれないけど、きっとここを気に入ると思うんだ」
「楽しそうですね! 私、今から楽しみです!」
左夜子の声が嬉しそうに弾む。
夢月はそんな未来の光景を思い浮かべた。
現代の服を着た八雲が、この厳かな神社にやってきて目を丸くする姿。左夜子がそれを笑顔で出迎えて、皆でこの縁側でお茶を飲む時間。
そんな光景を妄想するだけで、自然と口元が緩んでいく。
けれど、神楽だけは笑っていなかった。正確には——口元にはいつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
それでも、その瞳は夜の闇よりも深みのある静寂を湛え、危うく揺れていた。
(夢月……)
神楽は心の中でその名を呼ぶ。
(君が今、この時代に存在していること自体が、本来ならばあってはならない『絶対の禁忌』なんだ)
夢月はまだ知らない。
自分が今立っている場所が、どれほど遥かな過去であり、歴史の因果から外れた場所なのかを。
そして、本来存在するはずのない異物——現代の人間が一人、この過去の時代に留まり続けることで、何が狂い始めているのかを。
(時空の理が、軋みを上げて歪み始めている……)
神楽は、そっと夜空を見上げた。
先ほどまで美しく輝いていた満月。その銀色の輪郭に、いつの間にか一筋の不穏な黒い雲が掛かり始めていた。
(この歪みは、君がこの時代へ引き寄せられた影響なのか……それとも……)
答えは、まだ闇の中。ただ一つだけ確かなことがある。
夢月がこの大正時代に落ちてきたのは、単なる偶然などではないということ。
そして、明日、彼女が何事もなく無事に元の現代へ帰れる保証など何処にもないということ。
「お兄様?」
左夜子に不安そうに揺れる声に、神楽はハッと我に返った。
「……いや」
視線を二人へと戻し、何事もなかったかのようにいつもの柔らかな笑みを深める。
「なんでもないよ。ほら、二人とも。せっかくの綺麗な満月が、雲に隠れてしまうよ」
「あ、本当だ。少し陰ってきちゃった」
「まあ、もう少し見ていたかったのに」
三人で再び空を見上げる。
月を覆い賭けた不穏な雲は、夜風に押されてゆっくりと流れていった。再び青白い月明かりが降り注ぎ、庭の濡れた木々を照らし出す。
夢月と左夜子の未来を語り合う楽しげな声が、静かな夜の神楽家に優しく響き渡っていた。
その明るい声の陰に紛れるように、誰の耳にも届かない神楽の独り言が夜の静寂の中へ静かに溶けていく。
(どうか、この小さな奇跡のような時間が、この穏やかで愛おしい夜が何者にも壊されませんように)
祈るような深い願いだけを夜風に残して、大正時代の静かな夜は更けていった。
❁
「行ってらっしゃいませ」
玄関先で左夜子が袂を美しく揃え、深々と頭を下げた。
朝の澄み切った光が、彼女の可憐な横顔と、丁寧に整えられた髪を優しく照らし出している。
「絶対、絶対ですよ」
ゆっくりと顔を上げた左夜子は、真珠のような瞳で真っ直ぐに夢月を見つめた。その瞳の奥には、ほんの少しの寂しさと、それを押し殺すような強い意志が宿っている。
「また、お会いしましょうね。夢月ちゃん」
「うん。必ず、また会いに来るよ」
夢月がそう答えると、左夜子はようやく胸を撫で下ろすように、ふわりと安心した笑みを浮かべた。
その温かな笑顔を見つめていると、別れの寂しさは不思議と消え去り、「本当にまた近い内に会える」という確信めいた予感が胸の奥から湧き上がってくる。
ほんの数時間前まで、夢月はこの見知らぬ時代に一人置き去りにされたことに、ただ怯えていただけだった。
舗装されていない土の道。
着物や袴を纏い、急ぎ足で行き交う見知らぬ人々。
時代劇の中でしか見たことのない木造の街並み。
何処を切り取っても自分の知っている世界とは違っていて、現代へ帰る術もなく、どうすればいいのか分からず立ち尽くしていた。
けれど、左夜子に出会ってからは、世界が全く違った色で見え始めたのだ。
濡れて怯えている所を庇い、温かい生姜湯を淹れてくれたこと。
境内の大きな池で、二人で笑いながら錦鯉へ餌をあげたこと。
夜のお風呂上がりに、軽やかな浴衣を手際よく着せてくれたこと。
そして、雨上がりの澄んだ満月を眺めながら、お互いのことを語り合ったこと。
たった一晩。時間にしてしまえばほんの十数時間の出来事。
それなのに、夢月の人生にとって忘れることのできない、何ものにも代えがたい大切な時間になっていた。
「夢月ちゃん」
「うん?」
「次来てくださった時は、もっと色々なお話をしましょうね。現代のお話も、もっと聞かせてほしいですから」
「もちろん! いくらでも話すよ」
夢月は差し出された左夜子の小さな手を、両手でそっと包み込むように握り締めた。
その掌は、朝の冷気の中でもほんのりと温かい。そんな温もりを、この時代の匂いを、決して忘れたくない。強く、強くそう思った。
「それじゃあ、行ってきます」
「はい。行ってらっしゃいませ!」
最後にもう一度だけ固く手を握り合ってから解き、夢月は神楽の隣へ並んで歩き始めた。
何度も、何度も後ろを振り返りながら。
神社の大鳥居の下で、左夜子は二人の姿が見えなくなるまで、ずっと小さく手を振り続けていた。
❁
昨日降り注いだ激しい雨の名残が、砂利道の小さな窪みに澄んだ水溜まりとなって残っていた。
見上げれば、昨夜の重々しい雲は影も形もなく、空は透き通るような青さに包まれている。
「お屋敷に泊めてくれて、本当にありがとうございました」
並んで歩く神楽に頭を下げると、彼は「いや」と優しく首を振った。
「こちらこそ、左夜子と仲良くしてくれてありがとう。あの子があんなに無邪気に楽しそうに笑う姿を見たのは、ずいぶんと久しぶりのことだ」
隣を歩く神楽は、いつものように穏やかで読めない笑みを浮かべている。
昨夜は部屋で浴衣姿になり、軍帽も脱いで寛いでいたから、こうして再び凛とした軍服を身に纏って歩く姿を見ると、なんだか少しだけおかしな感じがした。
「左夜子ちゃん、私の前で神楽さんの話をする時、本当に嬉しそうでしたよ」
「そうかい」
「神楽さんのこと、心から尊敬して大切にしてるんだなって伝わってきました」
「……そうだね」
神楽の声が、いつもの煙に巻くようなトーンから、ほんの少しだけ低く、柔らかく変化した気がした。
「私も、左夜子ちゃんと友達になれて本当に嬉しいです」
「そう言ってもらえると、兄としても鼻が高いよ」
そんなとりとめのない会話を交わしながら、静かな住宅街を抜け、幾つかの角を曲がっていく。
やがて、見覚えのある古いレトロなレンガ造りの建物が視界に飛び込んできた。
時空の狭間に佇む、あの不思議な喫茶店——『夢幻喫茶』。
「さあ、着いたね」
「はい」
神楽が重厚な木製の扉を押し開く。
カラン、と、ノスタルジックな鐘が涼やかな音を鳴らした。
「あ! 如月さん!」
店内に踏み込んだ瞬間、破裂するような聞き慣れた叫び声が飛んできた。
「八雲君!?」
驚いて振り返る間もなく、カウンター席から飛び出してきた八雲君が、猛烈な勢いでこちらへ駆け寄ってくる。
「よかったぁぁぁぁ! 無事だったんすね!?」
「え、ちょっと……八雲君、落ち着いて……!」
「落ち着いていられるわけないっすよ! どんだけ心配したと思ってんすか!?」
ガバッと両肩を掴まれそうなほどの熱量で迫られ、夢月は思わず後ずさった。彼の顔は本気で青ざめていて、心底ヒヤヒヤしていたことが痛いほど伝わってくる。
「ご、ごめんね。私自身も何が起きたのか分からなくて……気づいたら知らない街にいて……」
「『なんか』じゃないっすよ! マジでシャレにならないっすからね!?」
八雲は頭を抱え、天を仰いで大きく息を吐き出した。
「店を出たと思ったら一瞬で如月さんの姿が消えて! どれだけ探しても見つからなくて! で、店に戻ってマスター達に相談しても分からないの一点張りって⋯もう、マジで心配したんすから!!」
「私だって、雨の中に一人で放り出された時は本当にパニックで」
「そりゃそうでしょうけど! 無事で……本当に良かったっすよ……」
八雲は脱力したように肩を落とすと、呆れつつもホッとしたように小さく笑った。その顔を見たら、なんだか急におかしくなってしまって、夢月までもが「ふふっ」と笑い声を漏らしてしまう。
「でも、本当にごめんね。心配かけて」
「……まあ、怪我もなく無事に戻ってきたなら、それでいいっすけど」
照れくさそうに頭を掻く八雲。けれど、彼の視線がふと夢月の背後——神楽へと向けられた瞬間、その身体がびくっと強張った。
「やあ、八雲の少年。元気そうだね」
神楽は軍帽の庇に指を掛け、いつもの優雅で美しい笑顔を浮かべている。目元も口元も、完璧な弧を描いた微笑みだ。
けれど八雲にとっては、イマイチ何を考えているのか分からない人という印象が根付いている。
あの時、八雲は自分から悩みを打ち明けたが、神楽にはすべて見透かされているような恐怖が会ったのだろう。
「ど、どうも⋯⋯」
八雲は引き攣った笑みを浮かべ、身を引くように挨拶した。
「ただいま、とでも言えばいいのかな?」
「いや、なんでそんな普通なんすか……時空超えて帰ってきた直後でしょうに」
神楽は八雲の困惑ぶりを楽しそうに眺めながら、喉を鳴らした。
「何はともあれ、無事に君の元へ彼女をお返しできて何よりだよ」
「まあ、ちゃんとここに帰ってきてくれたから安心はしましたけど」
八雲が少しだけ緊張を解いたのを見計らったように、カウンターのテーブルの上から凛とした声が響いた。
『いつまで入り口で突っ立っている気だ。客ならさっさと座れ』
珠吉が、前足で顔を洗いながらこちらを横目で見ている。そのままぴょんと床へ飛び降りると、優雅な足取りで夢月達の足元へ寄ってきた。
『とんだ厄介事に巻き込まれたようだな』
「……厄介?」
八雲が困惑した様子で足元の珠吉へと視線を落とす。
『面倒と言うよりは、本格的に“異変”が始まったと言った方が正しいか』
珠吉が二つの長い尾をフリフリと揺らした。
その言葉を受け、奥のテーブル席で新聞を広げていた伊吹が静かに顔を上げる。
「何があった」
「まあまあ、主役は揃ったんだしゆっくり行こうよ」
神楽が流れるような動作でカウンター席に着く。夢月と八雲も促されるままに、向かい側のボックス席へ腰を下ろした。
「それで?」
伊吹が深い眼差しを夢月と神楽へ交互に向ける。
「一体、何が起きた」
「えっと……」
夢月は一呼吸置き、昨日からの出来事を順を追って話し始めた。
八雲と一緒に夢幻喫茶の扉を出たこと。すると、一人で雨の降る見知らぬ街に立っていたこと。
傘もなく立ち尽くしていたところで、左夜子という少女に声をかけられたこと。
「そこで、左夜子ちゃんに助けてもらって、お家に泊めてもらったんです」
「左夜子……?」
向かいの席でソワソワと辺りを見渡していた八雲が問う。
「右京さんの妹」
「へー、妹がいるんだ」
冗談交じりの空気に流されそうになった雰囲気を引き締めるべく、夢月はわざとらしく小さく咳払いを一つ挟み、全員の視線を自分に集めてから再び口を開いた。
「それで、右京さんのお家に泊めてもらって……今朝、右京さんと一緒にこのお店に戻ってきたんです」
「なるほど」
伊吹は腕を組み、重厚な沈黙を守った。しばらくして、深く息を吐き出しながらぽつりと呟く。
「時代を超えた、か。扉の事故にしては出来過ぎている」
「そうですよ!」
信じられないといった様子で、八雲は居ても立ってもいられないように勢いよく身を乗り出した。
「俺も最初聞いた時は頭がおかしくなりそうだったんすけど! 大正時代って……そんなSFみたいなこと、現実に起こるんすか!?」
「残念ながら、実例が目の前に生まれてしまいましたね」
カウンターの中から、マスターが静かに珈琲を淹れながら答えた。その穏やかな声に、八雲は「うぐっ」と詰まり、振り返る。
「……マスターまでそんな普通に受け止めてるし……」
マスターはカウンター越しに、包み込むような温かな眼差しを夢月に向けた。
「夢月さん。向こうの時代で、何か他に変わったことや、違和感はありませんでしたか?」
「変わったこと……」
夢月は腕を組み、昨夜の出来事を記憶の糸を手繰り寄せるように思い出してみた。
左夜子と浴衣を着て話したこと。
綺麗な満月を眺めたこと。
「特に怪しいこととかは……あ」
「何かありましたか?」
「右京さん……『時空が歪み始めている』って言っていませんでした?」
その言葉が出た瞬間、店内の空気温度が一気に数度下がったかのような静寂が訪れた。
伊吹の鋭い視線が神楽に向けられ、マスターの珈琲を注ぐ手がピタリと止まる。
神楽は、ふっと静かに目を伏せた。
「……ああ。隠す必要もないだろう」
足元で丸くなっていた珠吉が、毛繕いを止めずに口を開く。
『お前も、原因に心当たりがあるんだろう』
「もちろん」
「どういうことなんすか、それ……!?」
八雲が不安を隠しきれない声で尋ねる。
神楽は被っていた軍帽をゆっくりと脱ぎ、膝の上に静かに置いた。軍帽の金章が、店のランプの光を反射して怪しく輝く。
「本来なら、私達にとっての未来という確定した世界で生きる夢月が、大正というまた確定した過去の時代へそのまま肉体を持って移動するなど、あり得ないことだ」
「……ですよね」
「ましてや、夢幻喫茶という『境界』を経由したとはいえ、彼女が過去の人間に接触し、会話をし、寝食を共にする……ここまで明確に過去へ『干渉』してしまうのは、時空の理において明確な異常事態だ」
夢月の胸の奥が、冷たい手で掴まれたようにざわつき始める。
「私が何か、取り返しのつかないことをしてしまったんですか……?」
「君自身に悪意があったわけではない。まだ原因が君自身にあるのかどうかも分からないよ」
神楽は優しい声でフォローを入れたが、続いて放たれた言葉は重く店内に響いた。
「ただ、一つだけ確かなことがある。君があちらの世界へ足を踏み入れたことで、歴史の目盛り……時空の歪みが、確実に広がり始めているということだ」
その言葉の重みに、夢月は固まって息を呑むことしかできなかった。
「……時空が歪むほどの異変を、彼女が意図して起こしたとでも言いたいのか?」
伊吹が、低い声で神楽を牽制するように問う。
その問いに、神楽は視線をカウンターの上に落とした。
「まさか。彼女にそんな力がないことくらい、君が一番よく知っているだろう。だが、お前も感じているはずだ。この店に集まる面子……そして今回の事象。全てが何者かの手によって手繰り寄せられているような気配をね」
「……チッ」
伊吹は忌々しそうに眉間を寄せた。反して神楽は、いつもの読めない笑みを唇に復活させる。
「まあ、今すぐ世界が崩壊するわけではない。しばらくは注意深く観察しておいた方がいいだろうね」
その微笑の奥に、彼が何か底知れない巨大な思考を張り巡らせていることを、夢月は感じ取らずにはいられなかった。
「それにしても」
重苦しい雰囲気を払拭するように、伊吹が突然、鋭い視線を八雲へ向けた。
「お前はさっきから、随分と神楽のことを警戒しているな」
「えっ!?」
「視線がチラチラと神楽の動胴を追っている。何か後ろ暗いことでもあるのか?」
「あー……いや、その……」
八雲は気まずそうに自分の頬をポリポリと掻いた。
「だって……普通に怖くて」
「怖い?」
「だって昨日、俺が周りのどういう目に怯えているのかって言い当ててきたんすよ!」
ガタッと音を立てて身を乗り出す八雲を見て、神楽は喉を鳴らして楽しそうに笑った。
「ははは、そんなに怖がらせてしまったかな? 少し観察眼が鋭すぎたようだね」
「『少し』のレベルじゃないっすよ!」
八雲の即答に、夢月は思わずくすっと笑ってしまった。緊張感が少しだけ解れていく。
そんな緩んだ空気の中で、伊吹は呆れたように神楽を見つめた。
「お前は昔からこうだ」
「何がだい?」
「人の心や秘密を無遠慮に覗きすぎる。だから余計な警戒を買うのだ」
「そうかな? だが君だって、随分と昔から私のことを信用し、こうして付き合ってくれているじゃないか」
「……それは、昔からの腐れ縁だからな」
「ほらごらん」
神楽は軍帽の庇の奥で、嬉しそうに細めた目をさらに深めた。
「私と君は、幼馴染みたいなものだからね」
「やめろ。気安く幼馴染などと括るな」
即座に伊吹が冷たい切って捨てるような返答を返す。その返答に、神楽は唇を尖らして不満を体現した。
「ひどいなあ、伊吹は。昔は私の後ろをついて走っていたくせにー」
「いつの話をしている。斬るぞ」
「……ふふ、お二人って、本当に仲良しなんですね」
思わず口を突いて出た夢月の言葉に、二人は同時にピタリと動きを止め、完璧なシンクロでこちらを振り向いた。
『違う』
綺麗すぎるハモリに、今度こそ店内に大きな笑いが起きた。
口では嫌がりつつも、背中を預け合っているような絶対的な信頼感が、二人の間には確かに漂っている。
そんな賑やかな空気を楽しんでいた時、八雲が「あ」と何かを思い出したように声を漏らした。
「そういえば」
「どうしたんだい、少年?」
「前からずーっと気になってたんすけど……」
八雲は、軍服を着た二人——神楽と伊吹を交互に見比べた。
「お二人って……本当に軍人なんですか? なんか、普通の兵隊さんとは雰囲気が違いすぎるというか……」
——ピキッ。
空間の音が、完全に途絶える音が聞こえた。
「……」
「……」
「……」
神楽、伊吹、夢月の膝の上に座る珠吉。そして、カウンターの奥に立つマスターまでもが、一斉に口を閉ざして完全な沈黙が店内を支配した。
「……え?」
あまりの空気の変貌ぶりに、夢月も思わず息を呑んで周囲を見回す。
「な、なんで急にそんな静まり返るんすか……? 俺、なんかマズいこと言いました……?」
八雲がパニックになりかけながら、困惑した声を上げる。
神楽はしばらく無言で膝の上の軍帽を見つめていたが、やがて「ふぅ」と深く、静かな息を吐き出した。
「……さすがに、もう隠し通すのは無理があるか」
神楽が伊吹へ視線を送る。伊吹もまた、観念したように重く頷いた。
「そうだな。時空の干渉まで起きた以上、これ以上誤魔化すのは危険だ」
伊吹は、ゆっくりと頭の軍帽を脱ぎ、テーブルの上に置いた。
そして、自分の胸元——自身の心臓を覆い隠す外套の上に手を添えた。
先ほどまでの砕けた雰囲気は一瞬にして雲散霧消している。そこにいるのは、数々の修羅場を潜り抜けてきた者だけが纏う、恐ろしいほどの威圧感と眼光を持つ二人の男だった。
「では……改めて名乗ろう」
夢月と八雲は、改められた空気に固唾を呑んだ。
「俺達は——日帝特殊警察隊所属」
一拍の間。落とした針の音すら聞こえそうな静寂の中、伊吹の低い声が響く。
「精鋭部隊の人間だ」
「……え?」
八雲が口を開ぐぐっと開けたまま固まる。
「同じく。神楽右京。同部隊所属」
隣で神楽も、いつもの人を食った笑みを消し、静かに重々しく名乗った。
「日帝……特殊……警察隊……?」
歴史の授業でも聞いたことのない、おどろおどろしい響きを持つ組織の名前。
八雲も同じらしく、眉を顰めて混乱している。
「そんな組織……歴史の教科書にも、ネットにも載ってないっすよ……?」
「表の歴史に知られるはずがないでしょう」
マスターが淡々と、けれど重みのある声で言った。
「彼らは、この世の裏側に蠢く怪異、時空の歪み、そして国家を揺るがす闇の事件を専門に処理する秘密組織です。表の警察や軍隊では対応できない事象を抹消するのが、彼らの役割なのです」
「じゃあ……」
二人が放つ異様な威圧感に気圧されながら、八雲は恐る恐るその顔を見つめ返した。
「どうして、そんなヤバい秘密を俺達みたいな普通の高校生に教えるんすか?」
誰も即答しなかった。
神楽は僅かに目を伏せ、軍帽の縁をなぞる。伊吹も何処か気まずそうに視線を逸らし、軍帽を被り直した。
やがて、伊吹が重い口を開く。
「……お前達には、もう隠しきれないからだ」
「それって、どういう意味っすか?」
「いずれ、分かることだ。お前達がこの『夢幻喫茶』に引き寄せられた理由もな」
それだけ言うと、伊吹は固く口を閉ざしてしまった。神楽も、それ以上は何も語ろうとしない。
夢月にも八雲にも、まだ何も分からなかった。
どうして自分達には隠しきれないのか。
どうして、この喫茶店に集まる人達は、誰一人として「普通の人」ではないのか。
そして——夢月が大正時代へ吹き飛ばされたことと、彼ら「日帝特殊警察隊」の存在に、一体どんな恐ろしい関係があるというのか。
考えれば考えるほど、謎の深淵にはまっていくような感覚に襲われる。
その痛いほどの沈黙を破ったのは、夢月の膝の上で丸まっていた珠吉だった。
ふいに耳をピクピクと動かし、素早く顔を上げる珠吉。その黄色い瞳は、真っ直ぐに店の入り口の扉へと向けられていた。
「……客だ」
全員の視線が、一斉に入り口へと集まる。
——カラン……。
静まり返った店内に、ベルの音が何処か冷ややかに響き渡った。




