もう一つの縁・5
外へ一歩踏み出すと、冷ややかな空気がすうっと頬を撫でる。
先ほどまで瓦庇を烈しく叩いていた激しい雨は、いつの間にかすっかり止んでいた。
見上げれば、重たく垂れ込め、街を灰色に染めていた雨雲の切れ間から、薄く可憐な月がそっと覗いている。
濡れた黒い石畳は、まるで鏡のようにその淡い月光を照らし返し、夜の闇の中にぼんやりとした光の道を浮かび上がらせていた。
雨上がりの匂いがする。湿った土と、濡れた木の葉、そして何処か遠くの煙の匂いが混ざり合った、現代の街角では決して味わったことのない、静けさを帯びた匂いだ。
「あ、雨が止んでる」
夢月は小さく息を吐き出しながら、ぽつりと呟いた。
「ええ。どうやら、日頃の行いが良かったようです」
隣に並んだ少女——左夜子が、袂にそっと手を添え、くすりと鈴を転がすような声で笑った。その声音には、雨上がりの澄んだ空気によく似合う、透き通った響きがある。
「日頃の行いって……」
夢月が苦笑いを浮かべると、左夜子は黒真珠のような瞳を輝かせ、首を少しだけかしげて夢月を振り返った。
「私ではなく、夢月さんの、ですよ」
「私?」
「ええ。だって、このような見知らぬ場所で、冷たい雨に降られ続けていたら大変でしょう? 神様もきっと、夢月さんを憐れんで雨を止めてくださったんです」
そう言って、左夜子は本当に嬉しそうに、花が綻ぶような笑みを浮かべた。
(なんだか……不思議な子だな)
夢月は、歩調を合わせながら少女の横顔を盗み見た。
大正時代という、自分にとっては教科書の中にしか存在しなかった世界。そこで偶然出会い、雨宿りをさせてくれた少女。
初対面であるはずなのに、不思議と警戒心が削がれていく。それどころか、まるでずっと前から知っていたかのような、おかしな懐かしささえ覚えるのだ。
「折角雨がやんだんですし、一緒に境内でお散歩しましょう!」
「あ、はいっ」
左夜子の後ろを、着物の裾を踏まないよう気をつけながらついて歩く。
改めて周囲を見渡してみると、ここがただの街外れの神社ではないことが、ひしひしと伝わってきた。
深く鬱蒼とした鎮守の森に囲まれた広い境内。頭上にそびえ立つ、重厚で立派な朱塗りの鳥居。雨に濡れて青々と輝く、完璧に手入れの行き届いた植木や苔。
少し離れた場所には、社務所や神主さんが儀式の準備などで使うのだろう木造の厳かな建物も見えた。
そして、そのさらに奥——森の静寂に抱かれるようにして、圧倒的な存在感を放つ大きな屋敷が腰を据えていた。
「大きい……」
思わず、感嘆の声が漏れ出していた。現代で言えば、ちょっとした歴史的建造物か文化財指定を受けている旅館のような規模だ。
「そうですか? 毎日ここにいると、あまり実感がないのですが」
「うん。だって、ここって……全部神楽家の敷地なんですよね?」
「はい。こちらが私どものお祀りしている神社の境内で、あちらの奥に見えますのが、私達が暮らす家」
左夜子が細い指先で示した先には、重厚な瓦屋根と立派な格子戸を持つ、古風で格式高い木造建築が佇んでいた。
(ここが……右京さんの実家……)
そう思うと、なんだか背筋のあたりがムズムズとするような、妙な気分になってくる。
現代の『夢幻喫茶』で、いつも時代錯誤な軍服を優雅に纏い、特等席のソファで飄々と佇んでいるあの男。人を食ったような不敵な笑みを浮かべ、何を考えているのか読めず、けれどこちらの心の裏側まで恐ろしいほどに見透かしてくる、あの食えない男——神楽右京。
あの人が、こんな格式高く静謐な場所で育ったのだろうか。
「右京さんも、ここで?」
夢月は半信半疑のまま、尋ねていた。
「もちろん。お兄様も私も、生まれた時からずっと、この場所で暮らしております」
「へえ……」
夢月は脳内で、神楽の幼少期を想像しようと試みた。
小さな軍服を着ているわけもないから、きっと左夜子ちゃんのように綺麗な和服を着て、この広い境内を駆け回ったり、境内の木に登ったりしていたのだろうか。
……いや、待て。
あの神楽が子供らしく泥だらけになって走り回る姿なんて、どうしても想像がつかない。幼い頃から、あの人を食ったような笑みを浮かべて、大人を煙に巻いていたんじゃないだろうか。
想像しようとすればするほど、脳裏に浮かぶのは「軍服姿で不敵に笑う今の神楽右京」の姿ばかりだった。
「ふふっ」
「?」
不意に隣から小さな笑い声が聞こえ、夢月は我に返った。
左夜子が口元に袖を当て、楽しそうにこちらを見つめている。
「お兄様のことを考えておられますでしょう?」
「えっ!?」
完璧に図星を突かれ、夢月は跳ね起きるように顔を上げた。頬にすっと熱が昇っていくのが自分でも分かる。
「な、なんで分かったの!?」
「ふふ、お顔にしっかりと『お兄様』と書いてありますもの」
「そんなに分かりやすい!?」
「はい、とても」
左夜子は、悪戯が成功した子供のように悪戯っぽく微笑んだ。
(……あ)
夢月はハッとして、その笑顔に目を奪われた。
やっぱり似ている。人を揶揄う時の、この絶妙な間と、何処か全てを見透かしているような瞳の輝き。この可憐な少女の血の中には、間違いなくあの男と同じものが流れているのだと痛感させられる。
二人が境内の砂利道を踏みしめながら歩いていると、やがて木々に囲まれた少し開けた場所に出た。
そこには、月光を浴びて静かに横たわる、大きな池があった。
「わあ……」
夢月は思わず池の縁に駆け寄った。
静まり返った水面には、先ほどまでの激しい雨粒が残した波紋が、微かに、揺らめく光の輪を描いている。
覗き込んでみると、黒や赤、白と橙の鮮やかな模様を散らした大きな錦鯉たちが、ゆったりと優雅にヒレを揺らして泳いでいた。
「綺麗」
「餌をあげてみます?」
「え、いいんですか?」
「ええ、もちろんです」
左夜子は着物の袂から、小さな巾着袋を取り出した。中には、香ばしい匂いのする鯉の餌が入っている。
「どうぞ」
「ありがとう」
夢月は差し出された袋から、小さな餌の粒をいくつか手に取り、そっと水面へ放り投げた。
すると——ぽちゃん、という静かな水音と共に。
「わっ!」
さっきまで池の底で優雅に泳いでいたはずの鯉達が、一斉に身を翻し、猛烈な勢いで水面へと集まってきたのだ。バシャバシャと大きな水音を立て、口をパクパクと開けて餌を奪い合う。
穏やかだった水面が、一瞬にして激しく揺れ動いた。
「すごい……! 皆一気に来たっ!」
「ふふ。今日の雨で、少しお腹が空いていたのでしょうね」
夢月は思わず笑ってしまい、もう一度餌を小さく投げ入れた。
再び群がる鯉達。水飛沫が月光を反射して、まるで小さな宝石のようにキラキラと輝く。
ただ鯉に餌をあげているだけ。現代の日常であれば、わざわざ立ち止まってやろうとも思わないような、なんてことのない時間。
けれど今の夢月にとって、それは涙が出るほど愛おしく、楽しい時間だった。
見知らぬ時代。見知らぬ場所。
携帯電話も繋がらず、自分が何処にいるのかさえ定かではない恐怖。
知っている人間など、この世界には一人もいないはずだった。
そんな孤独な状況の中で、こうして誰かと笑い合い、穏やかな時間を共有できている。その事実が、凍えそうだった夢月の心を温かく包み込んでくれた。
「……それにしても」
ふと、左夜子が袂を窄め、夜空を見上げた。
「雨上がりというのは、やはり冷えますね」
「そうですね。少し風が出てきたし」
「では、一度お屋敷の中へ入りましょうか。温かいお茶を淹れ直しますね」
「はい、ありがとうございます」
それから二人は、月明かりに照らされた境内を少しだけ巡り、再び重厚な神楽家の屋敷へと戻った。
通されたのは、先ほどまで雨宿りをさせてもらっていた、凛とした空気の漂う和室。
青畳の清々しい匂いが部屋を満たしている。
左夜子が手際よく用意してくれたお茶とお煎餅を前に、二人は座卓を挟んで向かい合って座った。
夢月は両手で包み込むように湯呑みを手に取る。
立ち上る白い湯気。じんわりと手に伝わってくる熱が、雨で冷え切っていた指先と心を、焦らすようにゆっくりと温めていく。
一口、含んでみると、香ばしいお茶の香りが口いっぱいに広がった。
「……美味しい」
「ふふ、よかったです」
左夜子も嬉しそうに目を細め、自分の湯呑みに手を添えた。
その素朴でいて上品な笑顔を見ていると、現代から飛ばされてきたという異常な状況に対する緊張が、少しずつ解れていくのを感じる。
けれど、ふと、左夜子ちゃんがお茶の湯気を視線で追いながら、何気ない調子で口を開いた。
「もしかして、夢月ちゃんは『夢幻喫茶』から来られたのですか?」
カチャン。
湯呑みが、添えていた指から滑り、小さな音を立てて皿に当たった。
夢月の動きが完全に止まる。
「……え?」
喉の奥から、掠れた声が出た。
「どうして、それを?」
「お兄様が、よくお話ししてくださるんです」
「右京さんが?」
「はい」
頭の中が一瞬、真っ白になった。
意外だった。あの謎めいていて、何事も煙に巻くような神楽が、自分の家で……この大正時代の家で、現代にある『夢幻喫茶』のことを話しているなんて。
「私も、いつか行ってみたいなと思っているんですよ。お兄様がいつも楽しそうにお話しされるので、どんなに素敵な場所なのだろうって」
夢月は呆然としながら、手元の茶碗を見つめた。
(なんだ……。普通に話してるじゃん……)
夢月自身、あの『夢幻喫茶』という場所の異常性を理解していた。
時空が歪み、様々な時代の人間が訪れる不思議な店。そんな場所のことを他人に話したところで、「頭がおかしくなった」と思われるのがオチだと思っていた。だからこそ、八雲やマスター以外の「あっちの世界」の人間には、必要以上に話さないよう固く口を閉ざしていたのだ。
なのに、当の神楽は、この時代の実家で妹にオープンに話していたらしい。
「あ、それから」
左夜子が、悪戯っぽく微笑んだ。
「お兄様、夢月ちゃんのお話もよくされますよ」
「えっ!?」
「『また変わった娘が店に来た』と、初めの頃はよく仰っていました」
夢月は思わず絶句し、なんとも言えない複雑な表情になる。
変わった娘。
よりによって、あの時代錯誤な軍服を着て喫茶店に居座っている一番変わった男にだけは言われたくない言葉だ。
「他にも、いろいろと」
「い、いろいろって……何を?」
「ええ。夢月ちゃんがどんな方なのか、何をしている方なのか。時々、とても愛おしそうに、楽しそうにお話ししておられます」
「……そう、なんですか……」
急に顔が熱くなり、夢月は視線を泳がせた。
なんだか酷く気恥ずかしい。自分の与知らぬところで、あの神楽に自分のことを観察され、評されていたなんて。本人のいない場所で噂話をされているというのは、妙に落ち着かないものだ。
「……あの」
「はい?」
左夜子が急に姿勢を正し、膝の上で細い指を綺麗に揃えた。
それから、少しだけ照れくさそうに、長いまつ毛を伏せる。
「もし、よろしければ……夢月ちゃん、とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「……え?」
夢月はパチパチと何度か大きく目を瞬かせ、思考を巡らせた。
予想もしなかった角度から投げかけられた言葉に、一瞬だけ返答に詰まり、困惑と驚きが混ざり合ったような視線を左夜子へと向ける。
「もちろん! もちろんだよ、好きに呼んで!」
「本当ですか?」
「うん、全然気にしないで!」
「よかった……!」
ぽっと花が咲くように、左夜子の表情が明るくなった。年相応の、胸を踊らせる少女の顔だ。
「それでは……改めまして、夢月ちゃん」
「……ふふ、なんだか擽ったいね」
夢月は照れくさそうに笑った。現代の友達とはまた違う、甘酸っぱくも心地よい距離感がある。
「私も、左夜子ちゃんって呼んでもいい?」
「はい! ぜひそう呼んでくださいな!」
嬉しそうに何度も頷く左夜子。その仕草一つひとつが可憐で、見ていて飽きない。
「それでは、改めてよろしくお願いしますね。夢月ちゃん」
「こちらこそ、よろしくね。左夜子ちゃん」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく同時に吹き出した。
「ふふっ」
「あはは!」
知らない時代。知らない場所。
どうやって現代へ帰ればいいのか、その方法さえ分からない恐怖。
それなのに、今この瞬間だけは、そんな重たい不安を完全に忘れていられた。
「私、こうして同世代の女の子とお話しすることなんて、普段はほとんどないんです」
「えっ、そうなの?」
「はい。神社のお仕事もありますし、お稽古ごとや家の手伝いもございますので……普段は神社にお勤めの方々と過ごすことがほとんどで」
「そっか……じゃあ、お友達と遊びに行ったりも?」
「滅多にありません。ですから今、夢月ちゃんとこうしてお話しできているのが、夢のように楽しいのです」
真っ直ぐな瞳でそう言われ、夢月の胸の奥がキュッと締め付けられるような温かさに満たされた。
(この子となら……もっとずっと、話していたいな)
本気でそう思ってしまった、その時だった。
ガタゴト、と静まり返った屋敷の玄関の方から、重厚な引き戸が開く音が響いた。
続いて、足袋が板張りの廊下をトントンと踏み鳴らす、規則正しい足音が続く。
左夜子がぴくりと耳を澄ませ、顔を上げた。
「あっ」
「どうしたの?」
「帰ってきたみたいです」
「誰が……?」
夢月が尋ねた、まさにその瞬間、部屋のすぐ外まで近づいてきていた足音が、ピタリと止まった。
スッと、静かに襖が開け放たれる。
「……え」
「……え」
夢月の声と、部屋の入口に立った人物の声が、綺麗に重なった。
そこに立っていたのは——。
「おかえりなさいませ、お兄様!」
左夜子が弾け飛ぶような勢いで立ち上がった。
「おっと」
左夜子はそのままの勢いで、その軍服の男——神楽の胸へと飛び込んでいった。
神楽は驚く様子もなく、むしろ慣れた手つきで妹の肩をしっかりと受け止めると、その頭を優しく撫でた。
「ただいま、左夜子。良い子にしていたかお?」
「ええ、もちろん!」
その微笑ましい兄妹の遣り取りを前にして、夢月は開いた口が塞がらないまま完全に石化していた。
(えええええええええええええええええええええええ!?)
心の中で、声にならない悲鳴が吹き荒れる。
まさか。まさか本当に。
さっきまで「あの食えない男」だの「人を食ったような奴」だのと心の中で散々言っていたあの神楽が、本当に左夜子の兄だったなんて!
しかも、まさか今、このタイミングで帰ってくるなんて!
「……どうして、夢月がここに?」
神楽が、妹の頭を撫でる手を止め、ゆっくりと視線を夢月へと向けた。
その瞳には、現代の喫茶店で見せる飄々とした色の中に、微かな驚きが混ざっている。
「それは……その……」
夢月はしどろもどろになりながら、必死に状況を説明した。
喫茶店の扉を出たら、何故か知らない雨の街に出てしまっていたこと。
路頭に迷っていたところを、左夜子に親切に助けてもらったこと。
着物を貸してもらい、生姜湯をご馳走になっていたこと。
夢月の拙い説明を、神楽は軍服の襟元に手を当て、顎を擦りながら静かに聞いていた。
一通り話し終えると、彼は深く息を吐き出し、ふっと不敵な笑みを漏らした。
「なるほど……それはまた、随分と珍しい不具合が起きたものだね。『扉』の結界が時空の歪みに引っ掛かったか……」
「わ、私……無事に現代へ帰れますかね?」
夢月にとって、一番の懸念はそこだった。
今頃、現代では八雲がパニックになっている頃だろう。「如月さんが消えた!」と大騒ぎしている姿が目に浮かぶ。
「そうだね……こちらから夢幻喫茶の『扉』へ向かえば、現代へ帰れる可能性はあるだろう」
「本当ですか!? よかった……!」
夢月は心から胸を撫で下ろし、へたり込みそうになった。良かった、永遠にこの時代に取り残されるわけではないらしい。
けれど、神楽はそこで言葉を切り、少しだけ困ったように眉を顰めた。
「しかし、一つ大きな問題がある」
「……え? 問題……ですか?」
夢月の背中に、スーッと冷たい嫌な汗が伝い落ちた。
「私、今日は店へ行く予定がない」
「…………」
「…………」
「…………」
和室の空気がピタリと凍りつき、しんと重苦しい静寂が満ちていく。
外の庭から時折聞こえてくる涼やかな虫の声だけが虚しく響き、誰も言葉を発しようとしない沈黙の時間を残酷なまでに際立たせていた。
「えっと。それなら、私一人で夢幻喫茶に行ければ、帰れるんじゃ……」
「駄目です!」
バン、と畳を叩かんばかりの勢いで即答したのは、神楽ではなく左夜子だった。
「ひゃい!?」
「女の子一人で、こんな夜遅くに出歩くなど危険すぎます! 絶対にいけません!」
「で、でも……」
「もう外は完全に日が落ちて暗くなっています。それに夢月ちゃんは、この時代の地理も、街の様子も何もご存じないのでしょう?」
「……はい」
「でしたら尚更です! 万が一、迷子になったり良からぬ者に絡まれたりしたらどうするのですか!」
普段はおっとりとして優しい左夜子が、今までにない剣幕で詰め寄ってくる。その瞳には、夢月を本気で心配する熱が宿っていた。
完璧な正論だった。夢月はぐうの音も出ない。
窓の外を見やると、月明かりはあるものの、街灯などない大正の夜は現代とは比べものにならないほど暗い。右も左も分からない異世界のような街を一人で歩くなど、自殺行為に等しかった。
「……分かりました。我慢します……」
夢月がしゅんとして頷くと、神が間に入るようにポンと手を打った。
「では、今日は我が家に泊まっていくといい。明日、私が店へ向かう際、一緒に行こう。それでどうだい?」
「えっ、いいんですか? 見知らぬ人間を泊めるなんて、迷惑じゃ……」
「迷惑だなんてとんでもない!」
左夜子はパッと顔を輝かせると、鈴を転がすような嬉しそうな声で語気を弾ませた。
「むしろ、そうしてください! 夢月ちゃんとお泊まり会ができるなんて、私、とっても嬉しいです!」
「……ありがとうございます。本当にお世話になります」
夢月は畳に両手を突き、深々と頭を下げるのだった。
❁
「そんなに畏まらなくてもいい、夢月」
神楽が、軍服の上着を脱ぎながら穏やかな声で言った。
「でも、見ず知らずの私にここまで良くしてもらっちゃって……」
「困った時はお互い様と言うだろう。それに、君は同じ夢幻喫茶に通う者であり、妹の大切な友達なのだからね」
神楽の言葉に、夢月はハッとして顔を上げた。
いつもの煙に巻くような雰囲気とは違う、何処か兄としての優しさが滲み出る笑顔。
すると、左夜子が何か重大なことを思い出したかのように、ポンと拳を手に当てた。
「あっ!」
「どうしたんだい、左夜子」
「夢月ちゃんのお部屋を用意しないと! 客間の布団を敷いて、新しい湯浴みの準備もして……!」
「そうだね。手伝おうか?」
「いえ! お兄様はお疲れでしょうから、私が準備してきます! 夢月ちゃん、少し待っていてください!」
そう言うなり、左夜子は着物の裾を靡かせながら、パタパタと忙しなく部屋を飛び出していった。
遠ざかっていく足音を聞きながら、夢月は思わず口元を緩める。
「……元気だな、左夜子ちゃん」
「君が来て嬉しいんだろう。昔から、あの子は寂しい思いをさせていたから」
神楽は苦笑しながら、脱いだ軍服を丁寧に折りたたんで脇に置いた。
部屋の中に、再び静寂が戻ってくる。
「二人は本当に仲の良い兄妹なんですね」
「そう見えるかい?」
「はい。すごく」
夢月は手の中にある茶碗の滑らかな磁器の質感をそっと指先で撫でながら、小さく口元を緩めた。
「左夜子ちゃん、右京さんのことを話している時、すごく誇らしそうで、嬉しそうでしたよ。『自慢のお兄様』だって、顔に書いてありました」
「……そうか」
神楽は、ふっと優しく目を細める。
その横顔には、夢月が現代の『夢幻喫茶』で一度も見せたことのない、柔らかく、深い慈愛を帯びた表情が浮かんでいた。
「私にとっても……左夜子はこの世でたった一人の大切な自慢の妹だ」
ぽつりと漏らされたその言葉には、途方もない重みと温もりが宿っていた。
いつもの飄々とした態度が嘘のような、真摯な声音。夢月の心に、その言葉が妙に深く染み込んでいく。
この男にも、守るべき大切な家族があり、こうして帰るべき温かな家があるのだと、初めて実感した瞬間だった。
「お兄様ー! 夢月ちゃんー!」
廊下の奥から、左夜子の弾んだ声が響いてきた。
「お部屋の用意が整いました」
「あ、今行くっ!」
夢月は立ち上がり、神楽に向かって軽く頭を下げた。
仲良く並んで廊下を歩いていく二人の少女。
その小さくなっていく背中を、神楽は部屋の入口から静かに見送っていた。
廊下の角を曲がり、二人の気配が完全に消えた後。
神楽は一人、誰もいなくなった部屋の中で、先ほどまで二人が座っていた場所を見つめた。
空になった二つの湯呑み。ほんのりと残る、少女達の賑やかな空気の余韻。
「夢月ちゃん、左夜子ちゃん……か」
ポツリと呟いた彼の脳裏に、先ほどまで楽しそうに笑い合っていた二人の声が鮮やかに蘇る。
いつも店で困ったような、けれど真っ直ぐな瞳を見せる現代の少女と、この家で大切に育ててきた妹。時空を隔てた二人が、今こうして出会い、微笑み合っている。
「……ふはっ」
誰に見せるためでもなく。
神楽は何処か本当に嬉しそうに、小さく、満足げに微笑むのだった。




