もう一つの縁・4
願いがあり、夢を見て、縁がある者だけが辿り着くという『夢幻喫茶』の重厚な扉を抜けた瞬間、世界からあらゆる『音』が削ぎ落とされた。
走る車のエンジン音も、夕暮れの街を包む雑踏のざわめきも、風が街路樹を揺らす音さえも。
夢月が異変に気づいて足を止めた時、そこに広がる光景は彼女の知る現代の街並みではなかった。
袴姿の女性が、夢月の目の前を静かに通り過ぎていく。その後ろを、シックな着物を身に纏った男がゆったりとした足取りで歩いていた。
足元を見れば、アスファルトではなく、舗装されたばかりのような少し粗い道。軒を連ねる店々には、右から左へと書かれた旧字体の看板が並び、何処かノスタルジックでありながらも、今まで一度も見たことのない街並みが広がっていた。
すれ違う人々が纏う服装も、結い上げられた髪型も、空気の匂いすらも何もかもが違う。
「……大正時代、みたい」
夢月の唇から、ぽつりと小さな呟きが漏れ出た。
もちろん、そんなはずがない。さっきまで夢月は、学校の同級生である八雲と共に夢幻喫茶を出たばかりだったのだ。マスターや猫の珠吉に挨拶をし、扉を開けて、いつもの夕暮れの帰り道へ戻るはずだった。
それなのに。どうしてこんなことになっているのだろうか。
「……え、どういうこと……?」
夢月は困惑に目を泳がせ、周囲を見渡した。けれど、どれだけ目を凝らしても見覚えのある建物は一つとして存在しない。
見たこともない木造の建造物。着物や洋装を乱れなく着こなす人々。漂ってくる炭の煙と雨を含んだ土の匂い。
そして――何より重要な存在が欠けていた。
「八雲、くん?」
夢月は慌てて隣を見た。
そこにいるはずだった少年——八雲の姿は、何処にもなかった。
「八雲君!」
今度は声を張り上げて呼んだ。けれど、返事は返ってこない。
胸の奥で、いやな鐘がゴーンと鳴り響くような錯覚を覚える。
人混みの中に彼が紛れてしまったのではないか。急な変化に驚いて、少し離れた柱の影で立ち止まっているのではないか。そう思って何度も通行人の顔を確かめる。けれど、何処を探しても八雲の姿は見つからなかった。
「何処に行ったの?」
そう呟いた直後、夢月の頭の中に一つの恐怖が降り立ってきた。
「……違う」
八雲がいなくなったのではない。
「私が、いなくなったんだ」
その瞬間、背筋をぞくりと冷たい悪寒が駆け抜けた。
『夢幻喫茶』という異質な空間。あの店の扉を開けて一歩を踏み出した瞬間に、世界が切り替わってしまったのだ。
(戻らないと……! 夢幻喫茶へ戻れば、きっとマスター達がなんとかしてくれるはず)
夢月は縋り付くような思いで、今出てきたはずの来た道を振り返った。
けれど、そこには喫茶店の扉など存在しない。あるのは古びた木造の商家と、薄暗い路地。そしてその先に続く、果てしのない見知らぬ街並みだけだった。
「嘘……でしょ……」
夢月の脚が、ガタガタと恐怖で震え始める。
これは悪夢なのかもしれない。そう思って、夢月は自分の頬を痛いほどに強く捻った。
「っ……痛い……」
夢ではない。少なくとも、この指先に伝わる皮膚の感覚と鋭い痛みは紛れもない現実だった。
どうすればいいのだろう。何処へ向かえばいいのだろう。そもそも、ここは本当に大正時代なのだろうか。
果てのない問いが頭の中を巡り、夢月はパニックで息が荒くなる。
その時、ぽつ、と頬に冷たい感覚が走った。
「雨?」
夢月が空を見上げると、いつの間にかどんよりとした灰色の雲が上空を覆い尽くしていた。
ぽつ、ぽつ、と落ちてくる雨粒。それは瞬く間に数を増やし、やがてしとしとと降り注ぐ細かな雨となって街を濡らし始めた。
「ちょっと、最悪っ」
夢月は焦って鞄のファスナーを開け、中を引っかき回した。しかし、いつも入れているはずの折りたたみ傘が見当たらない。今日に限って持ってくるのを忘れてしまったのだ。
「なんで、今日に限って」
夢月は仕方なく鞄を頭の上に掲げ、雨宿りできる場所を求めて走り出した。
けれど、見知らぬ街で何処へ向かえばいいのかなど分かるはずもない。水溜まりを跳ね飛ばしながら夢中になって走り、夢月は目についた建物の大きな軒下へと滑り込んだ。
そこはどうやら使われていない大店の跡地らしく、人の気配はなかった。
夢月は湿った壁に背中を預けると、緊張と疲労が一気に押し寄せ、その場にへたり込んでしまった。
「ほんと、どこなの、ここ……」
制服の生地はすっかり雨を含んで重くなり、髪の毛の先からも滴が滴り落ちていた。
冷たい雨粒が肌を刺激し、身体から急速に体温が奪われていく。
「……寒……っ」
夢月は自分の両腕を抱き締めるようにして擦った。
自分を置いて消えてしまった八雲は、今何処でどうしているのだろう。彼も同じようにこの見知らぬ街の何処かで彷徨っているのだろうか。それとも、彼だけは元の現代に残されたのだろうか。
……いや、考えたくない。考えたところで答えは出ないし、今は自分の恐怖を抑え込むことだけで精一杯だった。
いつもなら、困ったことがあっても『夢幻喫茶』へ行きさえすれば良かった。軽口を叩く猫の珠吉がいて、温かい飲み物を淹れてくれるマスターがいて。
どうしても解決できない謎があれば、底知れない笑みを浮かべた神楽や、その隣で苦労性を発揮している伊吹に尋ねることだってできた。
けれど今、夢月の周りには誰もいない。寄り添ってくれる八雲も、頼れる大人達も。
「……帰りたい……っ」
小さな絞り出すような呟きは、絶え間なく降り続く雨音の中へと静かに消えていった。
その時だった。
「あら」
不意に、頭上から鈴を転がすような透明感のある声が響いた。
「どうなさったのですか?」
「……え?」
夢月は弾かれたように顔を上げた。
雨のカーテンの向こう側に、一人の少女が立っている。
鮮やかな朱色の袴に、今で言うハーフアップに整えられた赤み掛かった茶髪。手には大きな赤い蛇の目傘を差している。
年齢は夢月と同じくらいか、あるいは少し下だろうか。けれど、その佇まいはあまりにも洗練されていた。背筋が凛と伸び、傘を抱く仕草一つをとっても目を見張るほど上品で、夢月よりもずっと大人びて見える。
少女は膝を突き、雨に濡れて震える夢月の姿を見ると、大きな瞳を丸くした。
「まあ、すっかりずぶ濡れではありませんか」
「……あ」
「こんなところで凍えていては、風邪を引いてしまいます」
そう言うと、少女は手に持っていた赤い傘を夢月の上へと差し伸べ、もう片方の白く小さな手を夢月に向かって差し出した。
「よろしければ、私の家へいらしてくださいな」
「え……?」
突然の申し出に、夢月は思わず言葉を詰まらせた。
知らない時代、知らない街。そんな孤立無尽の状況で、出会ったばかりの少女に手を差し伸べられている。
警戒すべきかもしれない。親戚の家で嫌というほど教え込まれてきた『身を守るための警戒心』を働かせるべき場面なのかもしれない。
けれど――少女の瞳には、見知らぬ不審者に向けるような疑念も、気味悪がるような色も一切なかった。そこにあるのは、純粋で温かな他人への気遣いだけだった。
「……」
ほんの少しの逡巡の後、夢月は恐る恐る差し出されたその手を握り返した。
「あ、ありがとうございます」
「いいえ。さあ、立ち上がって」
少女は夢月の手をしっかりと握り締め、ゆっくりと引いて立ち上がらせる。
赤い傘の下、夢月は少女と肩を並べて歩き出した。
冷たい雨が打ちつける街を歩きながら、夢月は周囲の景色に目を配る。けれど、どれだけ歩いても見覚えのある風景には辿り着かない。
見慣れたコンビニも、赤や青に光る信号機も、喉を潤してくれる自動販売機もない。たまに道を横切る車は、現代の流線型のものとは全く異なる、箱型でレトロな形をしていた。
すれ違う人々は、雨の中で変な洋服(制服)を着て濡れている夢月のことを、珍しそうに、あるいは不審そうに振り返っていた。無理もない。この時代の感覚からすれば、夢月の着ているブレザーやミニスカート風の制服は異彩を放ちすぎている。
やがて、少女が足を止めた。
「こちらですわ」
「……神社?」
夢月が顔を上げると、目の前には苔むした重厚な朱塗りの鳥居が聳え立っていた。
雨に濡れて黒々と光る石段。その奥へと続く緑豊かな参道。鳥居の向こうには、立派な瓦屋根を持った古い社殿が見えていた。
「ええ」
少女は鳥居を潜る手前で傘を少し傾け、夢月を振り返った。
「さあ、どうぞ入ってくださいな」
二人は鳥居を潜り、参道を抜けて社殿の脇にある立派な木造の母屋へと向かった。
少女が一つの引き戸を開け、夢月を中に促す。
「どうぞ」
「あの、本当にお邪魔してしまっていいんですか?」
「構いませんとも。まずはお身体を温めましょう」
少女に促されるまま、夢月は靴を脱いで上がる。
途端に、懐かしい畳と香木の匂いが鼻腔を擽った。雨に濡れたブレザーの裾から、ぽたり、ぽたりと畳に水滴が落ちる。それを見て焦る夢月に、奥へ引っ込んだ少女がすぐに手ぬぐいを何枚も持って戻ってきた。
「こちらでお身体を拭いてくださいな」
「あ、ありがとうございますっt!」
夢月は手ぬぐいを受け取り、髪や顔、制服に染み込んだ水気を丁寧に拭き取っていった。
少女は夢月が落ち着くのを待つようにして、再び部屋を出て行く。
しばらくして戻ってきた彼女の手には、小さなお盆が載せられていた。そこには、湯気を立てる二つの陶器の湯呑みが置かれている。
「こちらをどうぞ」
「これは……?」
「生姜湯ですわ。お砂糖を少し入れてありますので、飲みやすいかと思います」
湯呑みを手渡され、夢月はそれを両手で包み込んだ。
陶器越しに伝わってくるじんわりとした熱が、冷え切っていた指先へ染み渡っていく。
夢月は恐る恐る、お湯を一口含んだ。
「……あったかい……」
ぴりりとした生姜の風味が鼻に抜け、優しい甘みが広がる。喉を通って胃の中に落ちていくと、凍えていた身体の芯から温かな熱が広がっていくのが分かった。
夢月は思わず、ホッと深く長い息を吐き出した。
「よかったです」
向かいに座った少女が、ふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。
その笑顔を見つめていると、夢月の中で張り詰めていた緊張の糸が、解けていくのが分かった。
(誰か分からないけど、悪い子じゃ⋯⋯なさそう)
根拠など何処にもない。けれど、夢月にはそう確信できた。
人の顔色ばかりを伺って生きてきた夢月だからこそ分かる、この少女の根底にある圧倒的な善意と気品だった。
「貴方は」
少女が湯呑みに手を添えながら、静かに尋ねる。
「どちらからいらしたのですか? お召し物も、言葉遣いも、この辺りの方とは少し違うようですけれど」
湯呑に口を付けていた夢月は、ぐっと言葉に詰まった。
どう答えればいいのだろう。『私は未来の令和という時代から来ました』などと言って、誰が信じるというのか。きっと狂人扱いされるか、気味が悪いと追い出されるのが関の山だ。
けれど、命の恩人とも言えるこの少女に、嘘を吐くことは夢月にはできなかった。
「……信じてもらえないかもしれないんですけど」
「はい」
「私……多分、未来から来たんだと思います」
「未来、ですか?」
外で降り続く雨の音が、静かな室内を満たす。夢月は自分の言葉の現実味の無さに息を呑み、逃げ出すように手元の湯呑みへと視線を落とした。
「はい。さっきまで、もっと先の時代の街にいたんです。それが、不思議な喫茶店を出たら、急にここにいて……」
夢月はギュッと湯呑みを握り締め、俯いた。
説明すればするほど現実離れしていき、自分自身の声すら遠くの出来事のように思えてしまう。
「……変な話ですよね。すみません、こんなの信じられるわけ――」
「信じますよ」
「え?」
夢月は思わず勢いよく顔を上げた。
少女は微塵の疑いもなく、穏やかな笑みをたたえて夢月を見つめる。
「どうして? こんな突拍子もない話なのに」
「そのお召し物」
少女は夢月の湿った制服に視線を落とした。
「そのような仕立ての洋服、いくら横浜や東京のハイカラなお店を探してもございませんもの。生地も、縫製も、私の見たことのない技術で作られていますわ」
「……あ」
「それに」
少女はふふっと小さく微笑むと、夢月の不安を解きほぐすように柔らかく目を細めた。
その目元には、初対面の夢月に対する親愛と、揺るぎない包容力が溢れている。
「貴方のような可愛らしい女の子が、雨の中で嘘を吐いてまで私を騙そうとしているようには見えません。私は、貴方の言葉を信じます」
夢月の胸の奥が、熱いものでじんと満たされていくのが分かった。
見知らぬ時代に一人放り出され、絶望しかけていた心に、少女の優しさが何よりの救いとなって染み込んでいく。
「何から何まで、本当にありがとうございます……っ」
夢月は畳に両手をつき、深々と頭を下げた。
幼い頃から身につけさせられていた、嫌になるほど厳しい作法。それがこんな形で役に立つとは思わなかったが、感謝を伝えるには十分だった。
「まあ、そんなに堅くならずに頭を上げてくださいな」
少女に促され、夢月は顔を上げた。
すると、少女は膝を進め、夢月の目の前まで近づいてくる。そして、夢月の少し湿った両手を、そっと自分の小さな手で包み込んだ。
「貴方のお名前を、お伺いしてもよろしいかしら?」
「は、はい」
急接近されて一瞬身構えた夢月だったが、少女の掌から伝わる温もりに心が安らいだ。
「如月、夢月です」
その瞬間、少女の瞳が大きく見開かれた。握られた手の力が微かに強まる。
「……え?」
少女は一瞬だけ何かを激しく思考するように視線を彷徨わせた。けれど次の瞬間、彼女の表情は晴れやかになり、可愛らしく「ふふっ」と笑声を漏らす。
「そうですか」
「……?」
「貴方が、夢月さんだったのですね」
「え?」
夢月は首を傾げ、目の前の少女の顔をじっと見つめ返した。
初対面のはずなのに、まるで昔からの知り合いをずっと待っていたかのような眼差しを向けられ、背中に不思議なざわめきを覚える。
「私のこと、知っているんですか?」
「いいえ」
少女は優しく目を細め、静かに首を横に振った。
「そういう意味ではありませんわ」
益々意味が分からない。けれど、少女の眼差しには何か重大な確信が宿っているようだった。
「私は、この神社の巫女をしております」
少女はすっと背筋を伸ばし、清々しい所作で自己紹介をした。
「神楽左夜子と申します」
「……かぐら?」
その苗字を聞いた瞬間、夢月の喉から裏返った声が出た。
「神楽!?」
少女——左夜子はきょとんとして目を丸くし、ポカンと夢月を見つめた。
自分の名を明かした途端に叫ばれるとは思っていなかったようで、抱えていたお盆の上で湯呑みがカチリと小さな音を立てる。
「はい。神楽ですが、何か?」
「神楽って……」
夢月の頭の中で、いくつものピースが凄まじい速度で繋がり始める。
いや、まさか。そんな偶然があるわけがない。
同じ苗字など、探せばいくらでもある。けれど、目の前にいる『左夜子』という少女の顔立ちをよく見れば見るほど――。
その整った目元。少しクセのある、赤みのある茶髪。
何処か人を食ったような、けれど上品さを崩さない口元の笑み。
そして何より、纏っている空気の何処か掴みどころのない、底知れない雰囲気。
夢月の知る『あの人』に、あまりにも似すぎていた。
「どうかなさいましたか? 顔色がお悪いようですけれど……」
「……あの」
夢月はゴクリと唾を飲み込んだ。
聞くべきか、迷う。もし違っていたら、ただの変人と思われるだけだ。けれど、確かめずにはいられない。
「神楽さんって」
「はい?」
「右京っていう人、知っていますか?」
その名前を出した瞬間、左夜子の表情がパッと花が開くように華やいだ。
「ええ!」
彼女はとても誇らしそうに、胸を張って答えた。
「知っているも何も、私のお兄様ですっ」
夢月は息を吸うことすら忘れ、石のように硬直した。
誇らしげに微笑む左夜子の姿が、まるで遠い世界の出来事のように掠れて見える。
「お兄……様……?」
「はい。自慢の、とても優しいお兄様ですよ」
頭の中が真っ白になり、思考の全てがピタリと停止する。
神楽右京。
夢幻喫茶で、時代錯誤な軍服を優雅に纏い、いつも特等席で飄々と佇んでいるあの男。
人を食ったような不敵な笑みを浮かべ、何を考えているのか全く読めないくせに、こちらの心の裏側まで恐ろしいほどに見透かしてくる、あの食えない男だ。
その人の——妹。
途方もない時空の隔たりを超えた先で、見知らぬ雨の街で立ち尽くす自分に傘を差し伸べ、こうして温かい生姜湯を淹れてくれた命の恩人。
それが、あの男の肉親だったなんて。運命のあまりの悪戯に、背筋を冷たいものが駆け抜けていく。
「い、妹……さん……」
夢月は思わず左夜子の顔をマジマジと見つめてしまった。
言われてみれば、似ている。あまりにも似ている。目元の涼しげなラインや、笑った時に眉が描くアーチの角度など、血の繋がりを否定しようがないほど酷似していた。
「あの」
夢月は喉の奥を締め付けられるような感覚に耐えながら、震える声で尋ねた。
「右京さんがお兄さんってことは……ここは……」
左夜子は夢月の問いに答えるように、こくんと可愛らしく頷いてみせた。
「ええ。ここは、代々続く神楽家の神社です」
窓の外では、細かな雨がしとしとと静かに降り続いている。
夢月はただ呆然と、目の前の少女を見つめ続けることしかできないでいた。
現代にいたはずの自分が、どういうわけか大正時代らしき過去へとタイムスリップしてしまった。そして、宛もなく彷徨った先で自分を救ってくれたのが、現代で出会った不可解な男・神楽右京の妹だったのだ。
「……なんで……」
小さく呟いた夢月の声は、雨音に吸い込まれて消えた。
何故自分がこの時代に飛ばされたのか。
何故神楽の妹と巡り合ったのか。その答えを知る者は、この部屋の何処にもいなかった。
❁
左夜子は生姜湯の入った湯呑みを置くと、夢月の着ている制服をもう一度心配そうに見つめた。
「夢月さん。そのお召し物、まだ少し湿っていますね。生姜湯で温まっても、服が冷たければ身体に毒です。私の着物をお貸ししますから、着替えましょう」
「えっ、そんな! 申し訳ないです!」
「遠慮なさらないで。さあ、こちらへ」
左夜子は夢月の手を引いて立ち上がらせ、奥の部屋へと案内した。
そこは箪笥や文机が綺麗に整頓された、左夜子の自室のようだった。彼女は箪笥の引き出しを開け、丁寧に畳まれた着物と帯を取り出した。
「これなら、夢月さんの背丈にも合うと思いますよ」
差し出されたのは、落ち着いた紺地に可愛らしい小花柄が散りばめられた着物だった。
「着方、お分かりになりますか?」
「あ……着物、自分一人では着たことがなくて」
「大丈夫です。私がお手伝いしますから」
左夜子は手際よく夢月の手伝いを始めてくれた。
夢月はブレザーとブラウスを脱ぎ、貸してもらった肌着と着物に袖を通す。左夜子の手つきは非常に慣れており、あっという間に帯が締め上げられていった。
「まあ、とてもお似合いです!」
ぱちんと小さな音を立てて、左夜子が嬉しそうに手を叩いて喜んだ。
鏡を見ると、そこには現代の女子高生ではなく、すっかり『大正時代の女学生』のような装いになった自分が映っていた。
「ありがとうございます、左夜子さん。なんだか、不思議な感じ」
「ふふ、でも本当によくお似合いですよ。さあ、あちらの部屋に戻ってお話ししましょう」
再び居間へと戻ると、左夜子はお茶を淹れてくれた。
温かいお茶を飲みながら、夢月は少し落ち着きを取り戻し、ずっと気になっていた疑問を口にした。
「あの、左夜子さん」
「なんでしょう?」
「さっき、私が名乗った時、すごく驚いていましたよね? 私のこと、本当に知らなかったんですか?」
左夜子は湯呑みに添えた手を止め、少しだけ思案するように目を細めた。その表情は、一瞬だけ兄である神楽右京の雰囲気に酷く似ていた。
「ええ。本当に、面識はありませんでしたわ」
「じゃあ、どうしてあの時、私を知っているような言い方をしたんですか?」
左夜子はふわりと静かに微笑むと、視線を外の雨へと移した。
遠い未来を見据えるかのように目を細めるその横顔は、不気味なほど勘が鋭い兄・右京の面影を驚くほど色濃く宿していた。
「実は……お兄様が、前々からおっしゃっていたのです」
「右京さんが?」
「ええ。『いつか、未来から如月夢月という少女がやってくる』と」
夢月は大きく息を呑み、呆然と左夜子の顔を見つめ返した。
何でもない世間話でもするように穏やかに話す左夜子とは対照的に、夢月の頭の中では恐ろしいほどの衝撃と疑問が渦を巻いていた。
「お兄様は昔から、不思議な力を持っていらっしゃる方でした。見えないものをご覧になったり、これから起きる出来事を予言なさったり……。私にはよく分かりませんが、お兄様には『未来の景色』が見えることがあるらしいのです」
「未来の景色……」
「ええ。だから、お兄様から聞いていたのです。『いつか雨の日に、未来から不思議な服を着た女の子がやってくる。その子の名前は如月夢月というんだ』って」
夢月は背筋がゾクゾクとするのを感じた。
あの神楽右京という男は、現代の夢幻喫茶で出会う前から、この大正時代において自分がここに来ることを知っていたというのだろうか。
「右京さんは……今、何処にいるんですか?」
夢月が尋ねると、左夜子の表情が少し陰った。
「お兄様は、家にいらっしゃいません」
「え?」
「軍のお仕事で、遠出なさっているのです。もう数日は戻られない予定で」
「そう、なんですか……」
夢月は落胆した。もし神楽右京がここにいれば、自分が何故この時代に飛ばされたのか、どうすれば元の令和の時代に戻れるのか、手がかりが得られると思ったのだ。
落胆する夢月の様子を見て、左夜子は申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさいね。お兄様がいらっしゃれば、もっと力になれたかもしれないのに……」
「ううん! 左夜子さんが謝ることなんて何もないです! 私を助けてくれて、服まで貸してくれて……本当に感謝しかありません」
「夢月さん……」
左夜子は夢月の顔をじっと見つめ、優しく微笑んだ。
「お兄様はおっしゃっていましたわ。『もしその子が来たら、温かく迎えてやってくれ。彼女は大切な客人の一人になるから』って」
「大切な客人?」
「ええ。ですから夢月さん、お兄様が戻られるまで、どうぞここにいてくださいな。雨も酷いですし、行く宛てもないでしょう?」
「いいんですか? ご迷惑じゃないですか?」
「迷惑だなんて、とんでもない! 私、ずっと同世代のお友達が欲しかったんです。こうしてお話しできて、本当に嬉しいんですよ」
左夜子の純粋な言葉に、夢月は目頭が熱くなった。
「……ありがとうございます、左夜子さん。お言葉に甘えさせてください」
「ええ、喜んで!」
二人は顔を見合わせて笑い合う。
外界の冷たい雨音とは対照的に、部屋の中には温かな空気が流れていた。




