もう一つの縁・3
いつもと変わらない時間に家を出て、いつもと変わらない道を歩く。
朝日が街の輪郭を薄っすらと白く削り出し、冷たい空気が肺の奥まで澄み渡っていく。角の煙草屋の角を曲がり、緩やかな坂道を上る。足音だけが静かな住宅街に規則正しく響いていた。
校門を潜り、昇降口で靴を履き替え、教室へ向かう。
何も変わっていない。昨日までと同じ朝だった。
けれど、教室の扉を開けたところで、夢月はふと足を止めた。
「おはようございまーす、如月さん」
「おはよう、八雲君」
自分の席へ向かおうとしていた八雲が、こちらを振り返っていた。朝の柔らかい光が窓から差し込み、彼の寝癖がついた黒髪を微かに透かしている。
以前なら、こんなふうに朝から声を掛けられることなんてなかった。
同じクラス。それでも、必要な時以外はそれほど話すこともなかったはずなのに。
夢月は軽く会釈を返すと、自分の席へと向かった。鞄をフックに掛け、椅子を引き、いつものように鞄から一冊の文庫本を取り出してページを開く。
すると、隣の席で鞄を片付けていた八雲が、ひょいと夢月の手元を覗き込んできた。
「朝から本読んでるんすか?」
「うん。昨日の続き」
「へえ。面白いです?」
「まだ途中だから分からない」
「分からないのに読んでるんですか?」
「……八雲君って、たまに失礼だよね」
「すみません」
けれど、そう言いながら八雲は八重歯を覗かせて笑っている。何処か呆れたような、けれど打ち解けた者特有の軽い調子。夢月も自分の口元が緩むのを止められず、小さく笑った。
「なんていう本っすか?」
「えっとね、『深海の楽園』っていう本。昔の演劇の脚本を小説化したやつなんだけど、図書室にあったよ」
「へえ、なんか格好いいタイトルっすね。面白いです?」
「まだ途中だから分からない」
「分からないのに読んでるんですか?」
「……八雲君って、たまに失礼だよね」
「あはは、すみません。でもそれ、俺も気になってたんすよねー。如月さんが読み終わったら、俺も図書室で借りてみようかな」
「読みやすいから、すぐ読み終わると思うよ」
「まじすか! じゃあ返却されたら速攻で借りに行きます」
そう言って八雲は嬉しそうに八重歯を覗かせて笑った。何処か呆れたような、けれど打ち解けた者特有の軽い調子。
夢月も自分の口元が緩むのを止められず、小さく笑った。
八雲は満足したように自分の席へ戻り、やってきた友人に話しかけられて何事もなかったかのように笑い声を上げていく。
たったそれだけのことだった。
それなのに、指先でページを捲りながら、夢月は何となく思う。
(最近、八雲君とよく話すようになったなぁ)
昨日、あの浮世離れした「夢幻喫茶」で彼が明かした孤独な過去。窓の外に立ち続ける異形の存在と、誰にも信じてもらえなかった幼少期の恐怖。その重みを知ったからこそ、こうして目の前で気さくに笑う彼の姿が、以前よりもずっと立体的な温かみを持って胸に迫ってくる。
そんなことを考えている内に、始業を告げるチャイムが校舎に高く響き渡った。
❁
一時間目と二時間目の間の休み時間。
教室の前方では何人かの生徒が集まり、昨日のテレビ番組や週末の予定について賑やかに話している。
夢月は次の授業の教科書を机の上に出し、移動の準備を進めていた。すると、教科書を抱えた八雲が駆け寄ってくる。
「如月さん」
「ん?」
「次って特別棟でしたっけ?」
「そうだよ。理科室」
「危な。俺、普通に本館の講義室行くところでした」
「昨日も間違えてたよね」
「……よく覚えてますね」
何処か恥ずかしそうに視線を泳がせる八雲に、夢月は抱えたノートの端に目を落としながら答えた。
「結構目立ってたから。先生に『八雲、何処行くんだ』って呼び止められてたし」
「それ、全然フォローになってないですよ」
八雲が「勘弁してください」とでも言いたげに眉を下げて苦笑する。
夢月は抱えた教科書とノートを胸にキュッと引き寄せると、楽しそうに笑みを浮かべた。
「行く?」
「はい」
二人で並んで教室を出る。廊下には、同じように移動教室へ向かう生徒達の雑多な足音と話し声が充満していた。
人の流れに逆らわないよう歩調を合わせ、特別棟へ続く渡り廊下を歩く。吹き抜ける秋の風が少しだけ肌寒く、夢月は抱えた教科書に自然と力を込めた。
八雲が視線を前方へ向けたまま、ふと明後日の方向を見るようにしてぽつりと呟く。
「そういえば、昨日の店だけど」
「夢幻喫茶でしったけ?」
「そう、それ」
すれ違う生徒達に聞こえないよう、夢月は少しだけ声を落とした。
「どうだった?」
「何がです?」
「……その、帰ってから。魘されたり、変な感じはしなかった?」
「ああ」
八雲は歩みを緩めることなく、少し考えるように視線を斜め上へ向けた。渡り廊下の屋根の隙間から覗く青空を、何処か眩しそうに見つめる。
「特に何もなかったっすよ。久しぶりに、一度も夜中に目が覚めないで朝までぐっすり眠れました」
「そっか」
「でも」
「うん?」
「変な感じはしました」
「変な感じ?」
尋ねる夢月に、八雲は一瞬だけ口を閉ざした。吹き抜ける風が二人の間を通り過ぎていく。
やがて彼は、何処か諦めたような、けれど憑き物が落ちたような顔で微笑んだ。
「なんか……今までずっと一人で抱えてたものを、初めて人に話したみたいな。父さん達にすら言えなかったことまで、ペラペラ喋っちゃったなって」
八雲は視線を明後日の方向へ泳がせながら、気恥ずかしそうに指先で鼻の頭をかいた。
「変な店ですよね。不思議な雰囲気のあるマスターとか、喋る猫とか。普通なら怯えて逃げ出すような場所なのに、妙に落ち着くというか」
「うん」
夢月も胸の前に抱えた教科書に少し力を込め、静かに、けれど強く頷いた。
「でも、嫌いじゃないんだよね」
「俺もです。……なんか、救われた気がしました」
照れくさそうに、けれど心から溢れ出たようなその言葉を最後に、二人は特別棟の重い扉を押し開けて中へと入っていった。
❁
四方から響く椅子の脚の擦れる音と、色取り取りの弁当箱が開かれる匂いが教室に広がっていく。
部活の大会の話、週末の買い物の予定、小テストの愚痴。様々な喧騒が混ざり合う中、夢月は自分の席で静かに弁当箱の包みを解いていた。
今日は親友の華夏が別のクラスの友人から相談事があると頼まれていて、一緒に食べることができない。だから一人。
けれど、別に珍しいことでも、寂しいことでもなかった。自分のペースでゆっくりと箸を進め、文庫本のページを繰る一人の昼休みも、夢月にとっては嫌いではない大切な時間だった。
小さく作った卵焼きを一口口に運んだ、そんな時だった。
「ここ、いいっすか?」
影が差して顔を上げると、自分の購買で買ってきたであろう焼きそばパンの袋と紙パックのイチゴ牛乳を持った八雲が、夢月の前の席の背もたれに手をかけて立っていた。
「うん、どうぞ」
「じゃあ、お邪魔します」
八雲は椅子をクルリと反対向きにし、跨ぐようにして座った。ガタリと軽い音が響く。購買のビニール袋をシャリシャリと音を立てて破りながら、彼は何処かすがすがしい表情で息を吐いた。
「なんか最近、こうして二人で話すの普通になりましたね」
「そうだね」
「最初はもっと話しにくい人かと思ってました。なんというか、クールで近寄りがたいというか」
焼きそばパンの袋を指先で弄りながら、八雲が面痒そうに言う。
夢月は手にした箸をそっと置き、向かいに座る八雲の顔を改めてじっと見つめた。
光を透かす瞳、寝癖の残る無造作な黒髪、そして親しみやすさを与える八重歯。クラスの誰もが抱く『いつも明るくてノリが良い八雲君』の印象そのものの姿だ。
けれど、こうして至近距離で向かい合っていると、彼が纏う雰囲気の細部が手に取るように伝わってくる。
一見すると適当に腰かけているように見えて、その背筋には常に周囲の気配を伺うような微かな緊張感が残っていること。笑顔の合間に見せる、ほんの僅かな視線の揺らぎ。
誰に対しても壁を作らないように見えて、その実、誰のことも心の奥底へは踏み込ませないように絶妙な距離感を保っていたかつての彼。その「近寄りがたさ」なら、夢月だって同じように感じていたのだ。
あの日、夢幻喫茶の静寂の中で彼が吐き出した、誰にも言えなかった暗い過去。
一人で怯え、誰にも信じてもらえず、心を固く閉ざしていた少年の名残が、目の前で焼きそばパンを頬張る彼の影に今も微かに重なって見えた。
私だけじゃない。貴方もずっと、周りと距離を置いていたじゃない――そんな言葉が喉の奥まで出かかって、夢月はそれを飲み込む。
「それ、私も」
「俺もですか?」
「八雲君って、何考えてるか分からなかったから」
「あー」
八雲は焼きそばパンを口に咥えかけたまま、深く納得したように頷いた。
「確かに、よく言われます。『お前っていつもヘラヘラしてて、本心が何処にあるか分からん』って」
「そうなんだ」
「でも、今は?」
不意に真っ直ぐな瞳で見つめられ、夢月は箸を止めた。
窓から差し込む昼の光が、八雲の瞳の奥を透かしている。
「今?」
「今の俺、何考えてるか分かります?」
夢月は箸を握ったまま、しばし考える素振りを見せた。
八雲はいつも明るい。誰に対しても気さくで、冗談を言って、男子グループの輪の中心で笑っている。周囲からは「ノリが良くて悩みごとのなさそうな奴」として見られているだろう。
けれど、その笑顔の奥に、幼少期から培われた他人との境界線と、決して他者を踏み込ませない深い孤独を抱えていることを、夢月は知っている。
窓の外に立つ異形に怯え、誰にも信じてもらえなかった夜の冷たさを、彼は知っているのだ。そして同時に、彼が本当は誰よりも他人の変化に敏感で、傷つきやすい優しさを持っていることも。
「……ちょっとだけ」
「おお」
「前よりは、なんとなく」
「それ、結構嬉しいですね」
「そう?」
夢月が首を傾げると、八雲は一瞬だけ口を閉ざし、照れ隠しのように髪をくしゃっと掻いた。
本心を明かすことが不慣れな彼が、言葉を選びながら、ゆっくりと噛み締めるように声を紡ぐ。
「はい。自分でも、自分が本当はどうしたいのか分からなくなる時があるんで。如月さんみたいに、ちゃんと隠さず見ててくれる人がいるって分かると、なんかすごく安心します」
八雲は照れくさそうに頭の後ろを掻き、八重歯を覗かせて笑った。その気負いのない笑顔を見て、夢月もつられるように口元を緩める。
「じゃあ、俺も一個聞き返していいですか?」
「何?」
「如月さんって、休み時間いつも本読んでるじゃないですか。文字ばっかり追ってて、楽しいです?」
「楽しいよ。自分が絶対に行けないような世界に行けるし、自分じゃない誰かの気持ちになれるから。……それに、静かになれるし」
「へえ、深いな……」
「八雲君は本読まないの?」
「俺?」
八雲はストローでイチゴ牛乳をズルズルと吸い上げ、天井を仰ぎながら少し考え込んだ。
「読む時は読みますけど、如月さんほどじゃないですね。活字ばっかり延々と続いてると、途中で頭がボウっとして眠くなっちゃうというか。ストーリーは気になるんすけどね」
「じゃあ今度おすすめする。読みやすくて、途中で眠くならない面白いの」
「本当ですか?」
驚いたように少し目を見開いた後、八雲の目がパッと輝いた。
「うん。八雲君が好きそうなやつ、探してみる」
「じゃあ、絶対お願いしますね。楽しみに待ってますから」
それだけの、何気ない昼休みの約束だった。
けれど、その言葉を残して八雲が自分の席へ戻った後も、夢月の胸の奥には何処か心地よい熱が残り続けていた。
机の上に広げた自分の弁当箱を静かに見つめる。
これまでは、一人の昼休みといえば「本を読むための時間」だった。静かで、誰にも邪魔されない自分だけの世界。
それでも、誰かのために本を選ぶという予感が加わっただけで、いつもの教室の空気や、自分が積み重ねてきた文庫本の背表紙達が、まるで違った意味を持って輝き始めたような気がした。
夢月はそっと箸を進めながら、自分の部屋の書棚にある本達の背表紙を思い浮かべる。
八雲の心に寄り添い、暗い夜を少しだけ明るく照らすような、けれど重すぎずに彼が笑顔で読める一冊――。
誰かのことを考えて本を探す時間が、こんなにも心を弾ませるものだなんて知らなかった。
❁
選択科目の授業へ移動する途中、夢月は廊下の窓際で立ち止まっている八雲を見つけた。
午後の西日が窓ガラスをオレンジ色に染め上げ、彼の横顔を強く浮かび上がらせている。
「八雲君?」
声を掛けても返事がない。
彼は窓の外を見つめたまま、微動だにせずじっと佇んでいた。背筋がピンと張り詰め、制服のズボンを硬く握り締める指先が、白くなるほど力んでいる。
「……八雲君」
夢月は少し歩み寄り、彼の制服の袖口を軽く引いた。
「っ!」
弾かれたように肩を跳ねさせ、ようやく八雲が振り返った。その瞳には一瞬だけ、深い暗闇のような怯えが宿っていたが、視界に夢月の姿を捉えた瞬間、ふっと一気に力が抜けた。
「あ、如月さん」
「どうしたの?」
「いや……」
八雲は一瞬だけ躊躇するように、もう一度窓の外へ視線を落とす。
夢月もつられて窓の外を見下ろした。けれど、そこには西日に照らされた誰もいない校庭と、風に揺れる防球ネットがあるだけだ。夢月の目には、何も映らない。
「見えてるの?」
すれ違う生徒に聞こえないよう声を潜め、小さく尋ねる。
八雲が驚いたように目を丸くし、夢月を見つめた。
「分かるんすか?」
「何となく。八雲君、息を止めてたから」
「そっか」
八雲は力なく苦笑した。握り締めていた手を解くと、汗ばんだ指先を少し震わせる。
「大丈夫です。今日はたぶん、何もしないやつだから。校庭の端っこで、ただこっちをじっと見てるだけなんで」
「何もしないやつ?」
「俺にもよく分かんないですけど。害があるやつと、ただそこに存在してるだけのやつがいるんですよ。今いるのは後者です」
「怖くない?」
「慣れてるんで。赤の他人だと思えば、まあ」
そう言った八雲の声は、何処か自分に言い聞かせるようで、そしてひどく寂しそうだった。
「慣れる」という言葉でしか自分を守れなかった無数の夜を乗り越えてきたのだと、夢月には痛いほど伝わってくる。
夢月はもう一度、窓の外を見る。やっぱり何も見えない。
彼が見ている恐怖の景色を、自分は共有してあげることができない。彼を包む恐怖の正体が見えないからこそ、どんな言葉を掛ければ彼を救えるのか分からなかった。
「……なら、よかった」
それでも、祈りを込めるように静かに口にした。
すると、八雲が不思議そうにこちらを見る。
「何がです?」
「怖くないなら。八雲君が傷つかないなら、よかった」
八雲は言葉を失い、少しの間沈黙した。窓から差し込む斜陽の中で、彼の瞳が揺れている。やがて張りつめていた表情が解け、ふっと穏やかに笑った。
「如月さんって、本当変な人ですよね」
「なんで?」
「普通、見えないものの話なんてしたら気味悪がるじゃないですか。『うわ、関わらんとこ』って引くか、『大丈夫? 疲れてるんじゃない?』って病気扱いするか。なのに如月さんは、俺の心配ばっかりする」
「でも八雲君、困ってるんでしょう?」
「まあ……困ってますけど」
「だったら、怖がる必要ないかなって。八雲君が嘘を吐いてないって、私は知ってるし」
八雲は何も言わなかった。ただ、胸の奥から押し寄せる温かな感情を噛み締めるように、ほんの少しだけ目元を緩めて頷いた。
「……やっぱ、如月さんと話してると楽ですね。変に隠さなくていいし」
「そう?」
「はい。めちゃくちゃ救われてます」
その時、廊下に次の授業を告げる予鈴が甲高く響き渡った。
「あ」
夢月は弾かれたようにハッとして、壁の時計を見上げた。
「やばい、次の授業、特別棟の反対側じゃん」
「え、マジすか!?」
二人は顔を見合わせた。重く沈んでいた空気は一瞬で吹き飛び、思わず同時に笑いが零れ出す。
「走るよ!」
「おっしゃ、遅刻したら如月さんのせいにしますからね!」
「なんで私なの!」
二人は同時に廊下を走り出した。オレンジ色に染まる夕暮れの校舎に、弾んだ二つの足音が重なり合い、何処までも遠ざかっていった。
❁
教室を出る準備をしていると、窓の外はすっかり茜色から群青色へと移り変わる夕暮れに染まっていた。
「如月さん」
声をかけられて顔を上げると、鞄を肩に賭けた八雲が立っていた。
「今日、夢幻喫茶行くんすよね?」
「うん」
「俺も一緒に行っていいっすか?」
「もちろん」
「やった。じゃあ、廊下で待ってますね」
八雲はそう言って八重歯を覗かせて笑うと、一足先に教室を出て行った。
夢月は鞄のファスナーを閉めながら、ふと自分の心境の変化に思いを巡らせる。
いつの間にか、八雲と一緒にいることに何の違和感も覚えなくなっていた。
最初はほんの少しだけ距離があった。何を話せばいいのか分からなかったし、八雲の方もクラスでの調子の良い顔とは違う、何処か僅かに身構えるような警戒心を覗かせていたからだ。
けれど、今は違う。
特別な話題がなくても、沈黙が気まずくない。無理に場を繋ごうと焦ることもない。ただ同じ歩調で隣を歩いている。それだけで自然と心が解けていくような、不思議な安心感があった。
「如月さん、行けます?」
教室の入り口で、八雲が壁に背をもたせかけながらこちらを見ていた。
「あ、うん。ごめんね、待たせた」
「全然っすよ」
二人で並んで校舎を出る。校門を潜り、落ち葉の踏み鳴らされる歩道を歩き出した。
途中で立ち寄ったコンビニで、八雲は温かい缶コーヒーを、夢月はミルクティーを買い、缶の温もりを両手で確かめながら今日のくだらない授業の話をした。
そんな取り留めのないやり取りを重ねている内に、気づけば街灯の影にひっそりと佇む『夢幻喫茶』のレトロな看板の前まで辿り着いていた。
――カラン、カラン。
真鍮のドアノブを回すと、澄んだ鐘の音が店内に響いた。
「おいでませ、夢幻喫茶へ」
カウンターの奥から聞こえる、聞き慣れたマスターの穏やかな声。琥珀色のランプに照らされた店内には、相変わらず浮世の喧騒を忘れさせる柔らかな珈琲の香りが満ちていた。
「こんにちは、マスター」
「おや。今日もお二人ですか」
「はい。お邪魔します」
八雲は何処か気恥ずかしそうに、ぺこりと小さく頭を下げた。
「どうぞ、ごゆっくり」
カウンターの影から、ぬうっと二足歩行の猫――珠吉が顔を出した。毛並みを整えながら、八雲をジロジロと見上げる。
『また来たのか、小僧』
「どうも」
『随分ここに慣れた様子だな』
「いや、まだそんなに慣れてないっすよ。ここ、現実感なさすぎるし」
『前回は店の中をキョロキョロ見回して、怪しい壺でも探すみたいにおどおどしてたくせに』
「それは、初めてだったから! 誰だってビビるだろ、喋る猫がいる店なんて」
珠吉はピンと立てたヒゲをニヤニヤと揺らし、喉の奥で喉鳴らしのような含み笑いを漏らした。細められた琥珀色の瞳には、八雲の反応を面白がるような悪戯っぽい光が宿っている。
『我がいるからこそ、この店は繁盛しているんだ。少しは感謝してほしいものだな』
「その言い方、珠吉はずっとのこの店にいるのか?」
『我か? 我は――』
珠吉はふさふさの小さな胸をぐっと張り、大層威張ってみせた。ピンと立てた耳と誇らしげに振られる太い尻尾が、自分の誇らしさを全身で主張している。
『この店の“古株”だからな。マスターの次に偉いと言っても過言ではない』
「へえ」
『……おい、その生温かい目と返事はなんだ。信じてないな』
「ちょっとだけ」
『なんだと!?』
八雲の軽妙な受け答えに、店内に小さな笑い声が広がる。夢月も思わず口元を緩めた。
初めは何処かおっかなびっくりだった八雲が、こうして珠吉と軽口を叩き合っている。この温かな空間に彼が馴染んでいく様子を見るのは、夢月にとっても誇らしく、救われるような心地がした。
ボックス席に腰を下ろし、マスターが淹れてくれた温かい飲み物を口に運んだ時、八雲が店内をさりげなく見回した。
「そういえば」
「うん?」
「今日は、あの人来てないんすか?」
「……あの人?」
「ほら。軍服着た……神楽さん、でしたっけ。あと、隣にいた同じ軍人っぽい人」
「ああ、右京さんと伊吹さんのこと?」
夢月も店内を見渡したが、いつもの奥のカウンターの特等席は空席だった。
「神楽さんなら今日は来ていませんね。伊吹さんも一緒ではないようです」
「……そっか」
マスターの返答に、八雲の肩から、ふっと緊張の糸が切れたように力が抜けた。その微かな変化を、夢月は見逃さない。
「八雲君」
「はい?」
「右京さんのこと、気になるの?」
「え?」
「なんか……今、すごく安心したように見えたから」
「あはは、バレました?」
八雲は参ったなというように苦笑すると、照れ隠しにぼさぼさの頭の後ろをくしゃっと掻いた。夢月の前だと、どうにも恰好をつけるのが難しくなってしまうらしい。
「いや、嫌いとかじゃないんすけど……なんていうか、正直かなり怖いんすよ」
「右京さんが?」
「はい」
その言葉には、不思議な説得力があった。
神楽はいつも人を食ったような笑みを絶やさず、飄々としている。けれどその瞳の奥は何処か底知れず、こちらの考えていることや隠したい本音を、いとも簡単に透かして見破ってしまうような鋭さがあるのだ。
昨日だってそうだった。八雲が長年抱えてきた「見えない恐怖」や境界線の葛藤を、まるで最初から全てを知っていたかのように言い当てて見せた。
「あの人、なんでも見透かしてそうで……それに、ずっと笑ってるじゃないですか」
「右京さんはいつでも笑顔だったね」
「そうなんすよ。でも、たまに笑い方が違うというか……口元だけで笑ってて、目が全然笑ってない瞬間があるっていうか」
夢月は手元のお茶を見つめ、静かに思いを巡らせる。
確かに神楽の笑みには、時にゾッとするほどの冷たさや、果てしない年月を生きてきた者特有の諦念のようなものが滲むことがある。
「……私も、不思議な人だと思う。巫山戯ているように見えて、すごく色んなことを知っていて。いつも冷静で……でも、時々何処か遠くを見ているような変なところがある気がする」
「ですよね。やっぱり如月さんもそう思います?」
二人がヒソヒソと話し込んでいると、カウンターから珠吉が呆れたように声を挟んできた。
『お前ら、さっきから本人がいないことをいいことに好きに話すものだな』
「だって気になるんすよ。珠吉は神楽さんのこと、よく知ってるのか?」
『まあ、それなりには?』
「じゃあ、教えてくださいよ。あの人、一体何者なんですか?」
『嫌だぞ』
「なんでだよっ!」
『面倒だし、下手に喋ると後で神楽にどんな嫌がらせされるか分かったものじゃない』
珠吉はぷいっと横を向いて爪を研ぎ始めた。八雲は「うわぁ……」と引き気味に苦笑いしていた。
「あ、でも伊吹さんは苦労してそうですよね」
八雲はポンと掌を叩き、思い出したように声を上げる。手元のカップをくるくると回しながら、ふと気になっていたことを夢月に問いかけた。
「伊吹さんは、いつも右京さんの隣にいて……右京さんが変なことを言い出すと、静かに止めてくれてるね」
「苦労人……なんすかね」
「たぶんね」
「昨日も、俺が神楽さんに色々突っ込まれてた時、伊吹さんに助けを求めるような目で視線送ったんすよ。そしたら伊吹さん、目を逸らして静かに首を横に振ってて……『俺に関わるな』みたいな顔で」
「ふふ、伊吹さんにも、伊吹さんなりの理由があったんだと思うよ。右京さんを止められるのは伊吹さんだけだし」
「まあ……あの二人の空気感は、俺達みたいなのが踏み込める感じじゃないっすね」
「そうだね」
視線を合わせ、どちらからともなく小さく笑った。
店内には柱時計の規則正しいカチカチという音が響き、芳醇な珈琲の香りが二人を包み込んでいる。窓の外には、すっかり深い夜が降りていた。
学校でも、自宅でもない。けれど世界の何処よりも穏やかで落ち着くこの場所。そして何より、今はその時間を八雲と共有できている。
「……なんか」
八雲は手元にあるカップの温もりに指先を這わせながら、ポツリと溢すように呟いた。
いつものおどけた調子ではなく、胸の奥底にずっと仕舞い込んでいた本音を、一言ずつ確かめるように噛み締める声だった。
「こうしてここで過ごしてると、今まで独りで変なものが見えるって悩んでたのが、急に馬鹿らしくなってくるんですよね」
「八雲君……」
「ここにいると、見えてもいいのかなって。自分が変なんじゃなくて、ただそういう世界もあるんだって思えるんです」
夢月は余計な言葉を挟まず、ただ八雲の瞳を静かに見つめ返し、優しく笑った。
「……それなら、良かった」
その一言に、八雲も救われたような晴れやかな笑みを返した。
「はい」
カチン、と静かな店内に柱時計の澄んだ音色が響き、幾度目かの時を告げた。
橙色のランプが柔らかく二人を照らす中、心地良い静寂と珈琲の残り香が、穏やかな時間の終わりを告げるように優しく揺れる。
「そんじゃ、俺はそろそろ帰りますね。明日も学校だし」
「あ、私も一緒に帰る」
八雲は手元のカップを名残惜しそうに見つめた後、名残を惜しむようにゆっくりと立ち上がった。
夢月も膝の上に置いていた鞄を持ち上げ、すっと立ち上がる。
「お気をつけて。またいつでも羽を休めにいらしてください」
カウンターの奥でグラスを拭いていたマスターが、手を止めて静かに二人へ向き直った。橙色の照明を受けながら、まるで二人を優しく包み込むように、深く一礼を返す。
「ありがとうございました! 」
八雲が丁寧にお辞儀をすると、夢月もその隣でそっと頭を下げた。
「また来ます、マスター、珠吉」
賑やかな遣り取りを背に、二人は店の扉へと向かった。
カラン、と優しくベルが鳴る。
扉を開け、一歩外へ踏み出すと、そこには、見慣れた夜の街並みが広がっている――はずだった。
「今日、結構色んな話しましたね」
「そうだね。右京さんの話だけで半分くらい使っちゃった気もするけど」
「あはは! 確かに。でも、あの本人がいたらもっと引き延ばされてた気がするな」
「それは、間違いないかも」
軽口を叩き合いながら、夢月は隣を歩く八雲の横顔に視線を向けようとした。
「八雲君――」
次の瞬間、世界からあらゆる『音』が消失した。
走る車のエンジン音も。遠くの幹線道路の喧騒も。風が街路樹を揺らす音も。直前まで響いていた二人の足音さえも。
まるで世界の音響だけを削り取られたかのように、唐突な無音が二人を襲った。
「……え?」
夢月は足を止め、目の前の景色に視線を走らせる。
――違う。
そこにあったはずのコンビニの看板も、舗装されたアスファルトも、街灯のオレンジ色の光もない。
代わりに広がっていたのは、見覚えのない古い木造の建物群。静まり返った石畳の道。ゆらゆらと揺れる見たこともない行燈のような灯り。
そして何より、肌を刺す空気の質が決定的に違っていた。
重く、冷たく、息を吸い込むだけで胸の奥がキリキリと痛むような、濃密で古い気配。
「……どこ、ここ……?」
夢月の声だけが、虚無のような静寂の中にポツリと落ちた。
恐怖に背中を撫でられ、慌てて振り返る。
そこにあるはずだった『夢幻喫茶』のドアは――影も形もなく消え去り、ただ古びた土壁が立ちはだかっているだけだった。
「嘘……でしょ……?」
後ずさりした夢月は、ふと強烈な違和感に襲われる。
隣にいるはずの、温もりがない。
「……八雲君?」
問い掛けても、返事はない。
「八雲君……っ!」
声を張り上げて名前を呼ぶ。けれど、いくら周囲を見渡しても、何処にも彼の姿はなかった。夜の静寂が、ただ嘲笑うように静まり返っているだけだった。
❁
一方、その頃。
八雲もまた、夢月とは全く別の場所で、絶望に立ち尽くしていた。
一歩踏み出した途端に消えた気配。
隣で歩いていたはずの少女の姿は何処にもなく、代わりに広がっていたのは、喧騒の広がるいつもの町並みだった。




