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おいでませ夢幻喫茶へ  作者: 榊原蓮華草
時代を越えた縁、歪んだ愛
PR
17/44

もう一つの縁・2




 キーンコーンカーンコーン――。

 終礼を告げるチャイムが校内に響き渡ると同時に、教室全体に放課後の解放感が満ちあふれた。

 椅子を引く音、鞄のジッパーを開閉する金属音、部活動へと向かう生徒達の威勢の良い声。それぞれがそれぞれの目的地へと向かって移動を始める。

 夢月は静かに教科書を鞄に仕舞い、チャックを閉めた。


「夢ちゃーん!  今日この後、駅前のカフェ寄っていかない?」


 パタパタと軽やかな足取りで近寄ってきた華夏が、鞄を抱えて嬉しそうに声をかけてきた。


「あ……ごめん、華夏。今日はこの後、ちょっと用事があって」

「えー、そうなの?  珍しいね、夢月が放課後に用事なんて。何?  買い物?」

「うん。まあ、そんな感じ。ごめんね、また今度誘って」

「そっか!  じゃあまた明日ね!」


 華夏は疑う様子もなく明るく手を振り、他の友達のもとへと駆けていった。

 その元気な後姿を見送りながら、夢月は密かに安堵の息を吐き出した。華夏に余計な心配をかけたくないし、何よりこの件に巻き込むわけにはいかない。

 視線を巡らせると、教室の入り口付近で八雲が一人、鞄を肩に掛けて待っていた。

 クラスメイトから「八雲、部活行かないのか?」と声をかけられ、「今日ちょっと用事あってさ」と軽く受け流している。

 夢月が鞄を持って近づくと、八雲は気づいて小さく頷いた。


「行こっか」

「はい、よろしくお願いします」


 互いに頷き合うと、二人は並んで教室を出た。

 夕暮れ時の廊下は、西日に照らされて橙色に染まっている。窓の外を見やれば、巨大な夕陽がビル群の向こう側へとゆっくり落ちていこうとしていた。

 校門を抜け、見慣れた通学路を二人で歩く。

 街灯がぽつぽつと点灯し始める時間帯。住宅街の路地は、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。


「……如月さん」


 隣を歩く八雲が、静寂を破るように話しかけてきた。


「何?」

「その喫茶店って、ここから近いんすか?」

「うん。学校から歩いて十分くらいのところにある……んだけど」


 夢月はそこで、言葉を濁した。

 視線を微かに泳がせ、どう説明すれば八雲に正しく伝わるだろうかと、慎重に言葉を選びあぐねる。 


「んだけど?」

「あの店はね、『行こう』と思って行ける場所じゃない時もあるの」

「え?  どういうことっすか?」

「……強い想いがあったり、店に呼ばれていたりしないと、扉が存在しないことがあるの。普通の行き止まりの壁になってたりして」

「へえ……」


 八雲は感心したように感嘆声を漏らした。


「なんか、ホントにファンタジーみたいな店なんすね」

「笑い事じゃないよ」


 夢月は足を止め、少し真面目な顔をして釘を刺した。

 西日に照らされた夢月の瞳が、真っ直ぐに八雲を見つめる。そこに冗談や冷やかしのの色はなく、何処かひやりとするほどの真剣みが宿っていた。


「あの店にいるのは、優しい人達だけじゃないから。人間じゃない存在も普通に出入りしてるし……気を抜くと危険なこともあるんだから」

「……了解っす。冗談っぽく言ってすみません」


 八雲は表情を引き締め、姿勢を正した。

 住宅街を抜け、雑居ビルが立ち並ぶエリアへと足を踏み入れる。表通りの喧騒から一本折れ、暗い路地裏へと進んでいく。

 湿った空気と、古いコンクリートの匂い。

 夢月は先頭に立ち、慣れた足取りで奥へと進んでいった。

 そして、突き当たりの角を曲がった――その瞬間。


 ――カラン。


 耳にする度に安心するあの音が二人の鼓膜を揺らした。

 突如として自身の脳内で響き始めた音に、隣りにいる八雲は周囲を警戒する。


 ――カラン、カラン。


 その音は、店が営業していることを告げる。


「あ……」


 夢月の口から、小さな呟きが漏れた。

 薄暗い路地裏の行き止まり。普段なら殺風景な灰色のコンクリート壁があるはずの場所に、ポツンと温かな橙色の光を放つ古いランプが掲げられていた。

 その下には、重厚な木製の扉。

「夢幻喫茶」の看板が、夕暮れの陰影の中に静かに浮かび上がっていた。


「……マジで、あった」


 隣にいた八雲が、息を呑む音が聞こえた。

 彼の瞳は、目の前に出現した現実離れした光景に釘付けになっている。夢の中で見たものと寸分違わぬ、あの古い喫茶店の佇まいが、確かにそこに存在していたのだ。


「八雲君」


 夢月は振り返り、彼の顔をまっすぐに見つめた。


「ここから先は、本当の『あちら側』の世界だよ。本当に、入る?」


 八雲はゴクリと唾を飲み込んだ。

 彼の額に、微かな汗が浮かんでいる。恐怖がないわけではないはずだ。目の前にあるのは、現代の都市には到底そぐわない、異界への入り口なのだから。

 けれど、八雲の瞳からは逃げ腰の気配は消えていた。


「はい。行きます」


 八雲は力強く頷いた。

 その表情から軽薄さは完全に消え去り、腹を括った男の顔になっていた。

 喉を大きく鳴らして緊張を飲み込み、視線を真っ直ぐ前へと向ける。


「俺の夢に出てきたあの声が何だったのか、確かめたいっす」

「……分かった」


 夢月は深く息を吸い込み、木製の扉へと手を伸ばした。

 冷たい金属のドアノブを握り締め、ゆっくりと回す。


 ――カラン、カラン。


 澄んだ真鍮のベルの音が、静寂な路地裏に涼やかに響き渡った。

 扉を開けた瞬間、豊かな珈琲の香気と古い木材の匂いが、温かな空気と共に二人を包み込む。

 店内を照らすのは、柔らかい橙色のランプの光。

 カウンターの奥では、ベストを着たマスターが静かに布でグラスを磨いていた。

 そしてカウンターの上には、二股の尾を優雅に揺らす黒猫――猫又の珠吉が丸くなっている。


「おや……おいでませ、夢幻喫茶へ。今日はお二人でご来店ですね」


 マスターが顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。


『ふん、今日も来たのか。……む?』


 カウンターの珠吉が顔を上げ、夢月の背後に立つ八雲を見た瞬間、その金の瞳を鋭く細めた。


『おいおい……妙な連れを連れてきたものだな』


 ぴくぴくと動く漆黒の髭と、露骨に不快感を示すように逆立った背中の毛。二本に分かれた長い尾が、イライラと床を叩くように激しく揺れていた。


「夢月さん。そちらの方は?」

「マスター、珠吉」


 夢月は初めて座るボックス席に八雲と向かい合って座りながら、カウンター側にいる一人と一匹に向かって説明する。


「この人は八雲拓君。私のクラスメイトなの。……彼、今朝の夢でこのお店を見たらしくて」

「夢……だと?」


 珠吉は、カウンターの上で前脚を突き出し、金色に輝く瞳孔をぎゅっと細めて八雲を凝視する。

 マスターはグラスを置くと、その深い温もりを湛えた瞳で八雲を静かに見つめた。


「なるほど……夢に導かれて、ここへ辿り着いたというわけですね」


 八雲は店内の異常な光景――言葉を喋る二股の尾を持った猫や、浮世離れした雰囲気を持つマスターを目の当たりにして、完全に固まっていた。


「ね、ねねねねねね猫が喋ったぁ!?」

『誰がただの猫だ無礼者め!  我は猫又の珠吉様だ!』


 威嚇するようにシャーッと声を上げる珠吉に、八雲は「ヒッ」と短い悲鳴を上げて一歩後退した。


「珠吉、お客様を脅かすものではありませんよ」


 マスターが窘めるように言うと、八雲へと視線を戻し、優しく微笑んだ。


「ようこそ、夢幻喫茶へ。私はこの店の店主、アルと申します。どうぞ、ごゆるりとお寛ぎくださいね」

「あ、はい。失礼します」


 ボックス席から八雲が小さく頭を下げると、マスターは実に穏やかに微笑む。

 それから静かな動作で二人分の温かいお茶を淹れ、テーブルへと運んできた。


「どうぞ」

「ありがとうございます⋯⋯」


 目の前に置かれたお茶にすら警戒する様子を見せるものだから、夢月は思わず笑ってしまった。


「な、なんすか」

「い、いやっ。警戒しすぎだって、もっとリラックスしなよ。喫茶店だよ?」


 珠吉のような妖怪がいようと、ここは喫茶店。少し不思議な縁を持つだけの喫茶店なのだ。


「それもそうっすね」


 夢月の言葉に少しばかり安心したのか、ふっと笑った八雲はお茶を啜る。

 その仕草を見て、夢月もまたお茶を啜った。


 ――カラン、カラン。


 その時、店内に誰から来店したことを告げる鐘の音が鳴り響いた。


「やあ、マスター」

「邪魔する」

「おいでませ、夢幻喫茶へ」


 聞き慣れた声がして振り返れば、そこには神楽と伊吹の二人がいた。

 二人はカウンター席に座るとそれぞれ注文する。その間、八雲はこれまた驚いた様子で彼らを見ていた。

 やがて、ふと夢月達の方に振り返った神楽が目を丸くする。


「あれ、今日は一人じゃないのかい?」

「え、あっ、そうなんです」


 振り返った神楽はカウンターに頬杖を着いて八雲を興味深げに見つめる。


「如月さん、この人って⋯⋯?」

「えーっと、右側の人が伊吹さん、左側が神楽さん」

「どうもー」

「よろしく」

「や、八雲拓です⋯⋯よろしくお願いしまっす!」


 ガバッと頭を下げる八雲を見て、神楽はやけに楽しげに笑った。伊吹もまた会釈して変わらずの無表情で珈琲を啜る。


「さて……拓さん、とおっしゃいましたね」


 マスターはカウンターの向こうから八雲を真っ直ぐに見つめ、話を切り出した。 


「この店は、人々の『願い』を対価に心安らぐお時間を提供する場。拓さんの願いを聞かせていただけますか?」


 願い。

 そう言われても、すぐに思いつくようなものはなかった。

 金が欲しいわけでもない。

 誰かと付き合いたいわけでもない。

 叶えたい夢がないわけではないが、それをわざわざこんな場所で願うほど切羽詰まっているわけでもない。

 ならば、どうして自分はここへ来たのだろう。


「……願いっていうより」


 八雲は、ぽつりと呟いた。

 日常の会話では決して見せない、何処か遠くを見つめるような虚ろな目。その瞳の奥には、彼がずっと一人で抱え込んできた深い孤独の影が落ちていた。


「悩みなら、あります」


 その瞬間、夢月の表情が僅かに変わった。

 普段の軽快で爽やかな同級生としての彼と、今目の前で絞り出すように言葉を紡ごうとしている彼のギャップに、胸を突かれたような感覚を覚える。


「悩み?」

「はい」


 八雲は椅子の背もたれに深く身体を預けた。

 天井を仰ぎ、何かを諦めたような、あるいは長年抱えてきた重荷をほんの少しだけ降ろす決意をしたような顔で、ゆっくりと口を開く。


「俺、昔から……変なものが見えるんすよ」


 夢月は何も言わなかった。

 言葉を挟むことすらためらわれるほどの静寂が二人の間を包み込む。ただ静かに、八雲の唇から零れ落ちる言葉の先を待っていた。


「幼稚園くらいの頃からかな」


 八雲は視線を外し、夢幻喫茶の窓の外へ目を向けた。

 境界の狭間に位置するこの場所の窓の外には、現世の街並みではなく、果てのない薄闇と琥珀色の光が混ざり合う不思議な景色が広範囲に広がっている。


「最初は、ただの見間違いだと思ってました」


 幼い頃の記憶を辿るように、彼の声は少しずつ低く、静かになっていく。


 夕方の帰り道。

 オレンジ色に染まる住宅街の街道。

 電信柱の陰。

 誰もいないはずの場所に、ぬっと立ち尽くす人影がある。

 子供心に不気味さを感じ、家へ帰ろうと足を早めれば、その影も同じ速度で一緒に動く。

 足音が追ってくる。呼吸が近づいてくる。

 けれど、意を決して振り返った瞬間には、そこには風に揺れる街頭の影以外、何もいない。


「小学校に上がってからも、ずっと見えてた」


 八雲の手が、微かに膝の上で強張った。


 体育館。

 部活動や体育の授業で汗を流している最中、ふと高い天井近くの窓の外を見る。

 校庭には他のクラスもおらず、誰もいない。

 それなのに、太陽の光を反射する窓ガラスの曇りの中に、こちらを無感情に見つめる歪んだ「顔」のようなものが張り付いている。


「授業中にも見えたし、帰り道にも見えた。家に帰れば安心できると思ってたんすけど……」


 八雲の声が、ほんの少しだけ低く沈んだ。

 その声の震えに、彼が子供時代に味わってきた抗いがたい恐怖の重みが滲み出ていた。


「自分の部屋の窓の外にもいました」


 月は思わず息を呑んだ。

 自分の部屋。本来であれば、世界で一番安全で、心を休められるはずのパーソナルな空間。そこにまで「それら」の視線が侵入してきていたという絶望は計り知れない。


「カーテンを閉めても、見えるんすよ」


 八雲は自嘲気味に笑おうとした。

 口元を歪め、いつもの飄々とした態度を取り戻そうと試みる。

 けれど、上手く笑えなかった。引き攣った表情のまま、その瞳だけが暗い過去の恐怖に囚われている。


「だから昔から、窓が嫌いでした」


 その言葉だけが、妙に静かな店内へポツリと落ちた。

 窓。光を取り込み、外の世界と繋がるはずの透明な境界。彼にとってそれは、遮ることのできない異形たちの覗き窓でしかなかったのだ。

 夢月は何も言えない。ただ、悲しげな目をする八雲を見ていることしかできない。

 胸の奥が、冷たい手でぎゅっと締め付けられるような痛みに苛まれる。


 怪異。

 妖。

 人ならざるもの。


 夢幻喫茶に通うようになってから、そうした非日常の存在を知る機会は増えた。マスターや神楽、珠吉との出会いを通して、世界の裏側に潜む闇の深さを知ってきた。


 けれど、それらが「見える」ということが、決してアニメや小説のような特別な才能や英雄的な力になるわけではないということを、夢月は理解していた。

 現に、夢月は日常生活の中で妖の類を目にしたことはない。

 初めて目にしたのは、この夢幻喫茶にやってきて珠吉や梢達に出会ってから。あの踊り場の姿見の怪異も、それだけ多くの者が巻き込まれていたからに他ならない。


 見たくなくても見えてしまう。

 耳を塞いでも声が響いてくる。

 逃げたくても、何処へ逃げてもそれらはそこにいる。


 それが自我も確立していない幼い頃から、日常の背景として当たり前のように続いていたのなら。

 言葉も通じない不気味な存在に、四六時中見張られ続けていたのだとしたら。

 それはきっと――地獄のような孤独だったはずだ。


「……怖かった?」


 気づけば、夢月はそう尋ねていた。

 押し殺した声に、万感の痛切な想いが滲む。

 八雲は少しだけ目を伏せた。長い睫毛が、彼の側顔に暗い影を落とす。


「怖かったっすよ」


 あまりにもあっさりとした、飾りのない返答だった。


「めちゃくちゃ怖かった」


 その言葉に、夢月は胸が詰まるような感覚を覚えた。

「怖かった」という言葉の裏側に隠された、何年分もの一人きりの夜の重みが、夢月の心にダイレクトに重くのしかかってくる。


「でも、周りに言っても信じてもらえないんすよ」

「自分達には見えないから、嘘だのまやかしだと言われてかい?」


 静かに押し殺された神楽の問いに、八雲は小さく頷く。きっと彼の言う通りなのだろう。


「友達に話したら、変な奴扱いされる。『八雲は目立ちたがり屋の嘘つきだ』って。先生に言ったら『疲れが溜まってるんじゃないか』とか『目を休めなさい』って苦笑いされる。だから、途中から誰にも言わなくなりました」


 八雲は目の前に置かれた温かいお茶へ手を伸ばした。ソーサーから繊細な持ち手を持つカップを持ち上げる。

 けれど口をつけることはせず、冷え切った己の指先を温めるかのように、そのまま両手で包み込むようにして抱えていた。


「親は……信じてくれましたけどね」

「ご両親は見えるの?」

「いや」


 八雲は静かに首を横に振る。

 その動作はひどくゆっくりで、諦めとも哀しみともつかない不思議な静けさを纏っていた。

 ほんの数センチ首を左右に振るだけの短い仕草の中に、彼がどれほどの年月、ただ独りで抱え込み、納得させようとしてきたかが詰まっているようだった。


「二人とも見えないです。いたって普通の、怪異なんて縁もない人たち」

「じゃあ、どうして……」

「俺が嘘を吐いてないってことだけは、信じてくれたんすよ」


 その言葉に、夢月は黙り込んだ。

 神楽も伊吹も、珠吉だって口を噤んでいる。


「小さい頃、夜中に泣き叫びながら『部屋の外に誰かいる!』ってしがみついたことがあって。親父がバット持って外に見に行ってくれたんすけど、当然そこには何もいない」


 目元に浮かんだ笑みには、幼い頃の自分を愛おしむような温かさと、同時にどうしようもない切なさが同居していた。

 何処か遠い日の記憶を手繰り寄せるように、彼の視線がふっと泳ぐ。


「それでも、俺のことを『嘘つき』だとは絶対に言わなかった。『拓が見えたなら、そこに何かいたんだな。怖かったな』って、抱きしめてくれた」


 それだけは、彼にとって唯一の救いだった。自分の存在そのものを否定されずに済んだ、唯一の安全地帯。


「でも、親にも見えないから」


 白くなるほど強く握り締められた陶器の肌に、彼の爪先がカチリと短い音を立てた。湯気の向こう側で、彼の瞳が激しく揺れている。


「結局、俺一人なんすよ」


 その一言が、鋭く冷たい針のように、夢月の胸の深いところへ刺さった。

 味方がいても、理解者がいても、同じ景色を共有できない絶望。

『信じてくれる』ことと『分かってあげる』ことの間には、決して越えられない巨大な深淵が存在するのだ。どんなに愛されていても、その恐怖と対峙する瞬間、彼はいつだって世界にただ一人の存在だった。


「見えるって言っても、どういうものなのか説明できないし。説明したところで、見えない人には理解できない。ただ気味悪がられるだけ」


 瞼の裏側に焼き付いた、過去の無数の夜を消し去ろうとするかのように。

 暗闇の中で自分を見つめていた無数の冷たい視線や、誰にも届かない悲鳴を喉の奥で押し殺したあの幼い頃の記憶を、必死に振り払うかのように。 

 八雲は静かに、強く目を閉じる。


「だからずっと、自分の中だけにしまってました」


 話してしまえば、きっと余計に怖くなる。人に打ち明けることで、その異形達がよりはっきりと「現実」になってしまうのが恐ろしかった。

 だから、見えないフリをした。気づかないフリをして、笑って、普通の高校生を演じ続けた。けれど、いくら意識から追い出そうとしても、目の端に映る冷たい影は一度だって消えてはくれなかったのだ。


「見えること自体が嫌だった」


 八雲は、ゆっくりと目を開いた。

 その澄んだ瞳が、真っ直ぐに夢月を捉える。そこには、怪異と出会う前の、ごく普通の高校生としての切実な願いだけが宿っていた。


「普通に生きたかったんすよ」


 その言葉は、ひどく普通だった。誰しもが当たり前に享受している、平穏という名の日常。

 だからこそ、夢月は何も返せなかった。

「私だってそうだった」と安易に同調することも、「可哀想に」と慰めることも、彼の前ではあまりにも軽薄で嘘くさく思えてしまったからだ。


「帰り道に後ろを振り返っても何もいない。窓の外を見ても何もいない。体育館の隅を見ても何もいない」


 八雲は諦めたように苦笑する。ただ「そういうものだった」と自分を納得させるために浮かべた、あまりにも静かで、だからこそ胸を刺すような苦笑い。


「そういう普通が、欲しかった」


 店内に、重厚な柱時計の音が静かに響く。


 チク、タク。

 チク、タク。


 時間を刻むその一定の音だけが、二人の間に流れる重く、けれど何処か温かい沈黙を優しく埋めていた。

 カウンターの奥ではマスターが静かに彼らを見守り、珠吉もまた、珍しく一切茶化すことなく、耳を澄ませて八雲の言葉をその金の瞳に受け止めていた。


「なるほど。よく分かりました」

「あの……マスター」


 沈んでいた空気を断ち切るように、小さく手を上げながら八雲が問う。


「俺は、どうしてここに来れたんですか?  もしかして怪異に狙われているんですか……?」


 八雲は怪訝そうに眉を寄せ、店内にいる面子を見渡した。

 すると、それまで少し離れた席で黙って話を聞いていた神楽が、カチャリと静かな音を立てて紅茶のカップをソーサーへ戻した。


「夢幻喫茶はね、誰でも辿り着ける場所ではないんだよ」

「そうなんすか?」

「少なくとも、ただの偶然で迷い込めるほど単純な場所ではないね」


 神楽はいつもの穏やかな笑みを浮かべている。けれど、その透き通った瞳には何処か意味深な光が宿っていた。


「この店に導かれる者には、それぞれ何かしらの『縁』があるんだ」

「縁……」

「人との縁。場所との縁。あるいは、時代をも越えた深い縁」


 神楽が優しく指先でテーブルをトントンと軽く叩く。その規則正しい音に合わせて、店内の空気が僅かに澄んでいく気がした。


「そして――その縁の根底には、必ずと言っていいほど強い『願い』が存在する」

「でも俺、そんな大層なもの願ってないですよ」

「自覚している必要はないのさ」

「……え?」

「人間というのはね、自分自身の本当の願いを、いつだって正確に理解しているわけではないからね」


 八雲は言葉を詰まらせ、沈黙した。

 自分の本当の願い。

 そんなもの、深く考えたことすら目まぐるしい日常の中では一度もなかった。


 ただ毎日を過ごして。

 朝起きて学校へ行って。

 友達とくだらないことで笑い合って。

 部活動で汗を流して。

 夕暮れ時に家へ帰る。


 ただ、それだけだ。

 けれど、その何気ない平穏な日常の裏側で、自分が心の奥底から乾望し、叫び続けていたものなどあっただろうか。


「……難しいっすね。ピンとこないというか」


 八雲が何処か誤魔化すように苦笑すると、カウンターの上で丸くなっていた珠吉が、煩わしそうに二股の尻尾をゆらりと揺らした。


『何も難しくなどないぞ』

「珠吉?」

『貴様はさっき、己が何に苛まれ、何に困り果てているのかを話したばかりだろう』

「……ああ」

『ならば、その裏返しこそが願いに繋がっているとは思わんか』


 八雲は手元のカップを見つめ、少しの間考え込んだ。


「……俺の見える体質を、どうにかしたいってことっすか?」

『そうだ』

「でも……それを消してほしいなんて、直接誰かに願ったわけじゃないですし」

『願いとは、必ずしも言葉にして神仏に祈るようなものばかりではない』


 珠吉の金の琥珀色の瞳が、射ぬくような鋭さでじっと八雲を見つめる。


『誰にも言えず、心の底で何度も、何千度と思い続けてきた想い……それだけで引き寄せるには十分だ。お前はずっと、ただ“普通”に生きたいと願っていたのではないのか?』


 八雲は答えなかった。いや、言葉が喉に引っ掛かって出なかったのだ。

 けれど、否定することなんて口が裂けてもできなかった。


 窓の外を見ても、不気味な影が映らない日常。

 帰り道の暗がりを歩いても、誰かの視線に怯えなくていい日々。

 夜、自分の部屋で眠りにつく時も、カーテンの向こう側を気にせず目を閉じられる夜。


 世界中の誰もが当たり前に持っているその平穏を、彼は幼い頃からずっと、喉から手が出るほど求めていたのだから。


「……そう、かもしれないっす」


 ぽつりと漏れた八雲の声には、もう自分を偽るような迷いはなかった。

 八雲はまだ狐につままれたような顔をしていたが、マスターが淹れてくれた温かいお茶を一口飲むと、ホッと深く息を吐き出した。


「ですが、夢幻喫茶が必ずしも、その願いを叶えるためだけの場所とは限りません」

「……どういうことっすか?」


 ポツリと落ちたマスターの言葉に弾かれたように、八雲はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、思いもよらない答えを前にした驚きと戸惑いが色濃く揺らめいている。


「ここは、願いそのものを単純に叶える場所ではありません」


 マスターは深い温もりを湛えた瞳で八雲を見つめ、柔らかく微笑んだ。


「お客様自身が、心の奥底で本当に何を望んでいるのか……それを見つけるための場所でもあるのです」


 その言葉を聞いて、八雲はしばらく黙り込んだ。手元にある紅茶のカップを見つめたまま、思考を巡らせる。

 やがて、少し離れたテーブルで話を聞いていた伊吹が真顔のまま口を挟んだ。


「簡単に言うと」


 カップを口に近づけながら、決して夢月達の方を見ないまま続ける。


「『何かを叶えたいから来る』というより、『何かを求めているから、この店に辿り着いてしまう』ということではないか?」

「何かを、求めてる……」

「そうだ」


 手にしていたカップをソーサーの上に置くと、伊吹はちらりと八雲を見る。

 その目には、警戒も苛立ちも何も無い。本当に、何を考えているのか分からない、澄んだ瞳を向けていた。


「本人がそれに自覚的とは限らないが、無意識の 救済と呼べるだろう」

「……じゃあ、俺が今日ここへ来たのも?」

「何かを求めていたからではないか?」


 あまりにもあっさりと告げられ、八雲は再び深く考え込んだ。

 自分が求めていたもの。恐怖からの解放か、それとも理解者か。

 すると、マスターが静かで重みのある声で続けた。


「そして、もう一つ」

「まだあるんすか?」

「ええ」


 マスターの眼差しが、八雲の存在そのものを包み込むように深くなる。


「夢幻喫茶との『縁』です」

「縁……」

「この店は、必要な時に、必要な方の前へだけ姿を現します」

「じゃあ俺にも……何か縁があるってことですか?」

「はい」


 八雲は思わず息を呑み、ゆっくりと店内を見回した。


 使い込まれた重厚な木製の家具。

 橙色の優しい光を投げかけるアンティークな照明。

 何処か浮世離れしていながら、不思議なほど心を落ち着かせる静かな空気。

 そして、自分をここへ導き、隣で心配そうに見つめてくれている夢月。


 何故だろう。

 初めて訪れたはずの場所なのに。

 怪異の気配が漂う、本来なら恐怖すべき異空間のはずなのに。

 何処か懐かしく、幼い頃に忘れてきた温もりの中に身を置いているような気がする。


「……俺、ここに来るの、本当に初めてですよね?」

「もちろんです」

「なのに、なんか変な感じがするんすよ。懐かしいような、ほっとするような」

『ふん』


 カウンターの上で、珠吉が短く鼻を鳴らした。


『そういうものだ』

「どういうものっすか?」

『縁というのはな、目に見える形や記憶ばかりではないのだ』


 珠吉は二本に分かれた尾をゆったりと揺らし、琥珀色の瞳を細めた。


『お前がまだ気づいていないだけで、この店とお前は……以前から、何処かで深く繋がっていたのかもしれん』


 八雲は珠吉のつぶらな琥珀色の瞳を見つめたまま黙り込んだ。

 以前からなんて、そんなはずはない。

 少なくとも、自分にはこの奇怪な喫茶店に足を踏み入れた記憶など一度もない。

 それなのに、珠吉のその言葉だけが、胸の奥の琴線に妙に引っ掛かり、静かに燻り続けていた。


「もしかして」


 夢月が、八雲の顔を覗き込むようにして恐る恐る口を開く。


「八雲君が見たあの夢も、その『縁』の一つなのかな」

「……夢?」


 八雲はハッとしたように視線を動かし、隣に座る夢月の顔をじっと見つめた。


「うん。暗闇の中を歩いていったら、この夢幻喫茶の扉に辿り着いたっていう……私も同じ夢を見て、ここに来たから」

「夢とは時として、人の意識が日常の狭間を抜け出し、普段では触れられない深い領域へ繋がることがありますから」

「じゃあ、俺は夢の中で……この店に呼ばれてた?」

「そう考えるのは個人の自由ですね」


 八雲は何とも言えない、驚きと戸惑いの混ざった顔をした。

 夢の中で見つけた、不思議な扉の先の喫茶店。

 それを現実でわざわざ探していたわけではない。ただ、どうしても気になって頭から離れなかった。そして今日、意を決して夢月に打ち明けた。

 もし夢幻喫茶が、誰かに必要とされることで現世に姿を現すのだとしたら。

 己の知らない深い意識の底で、何かが自分をここへ導いたことになる。


「……不思議っすね」

「ええ」

「俺、今までこういうの……全部怖いものだと思って生きてきたんすよ」

「こういうもの?」

「怪異とか、妖とか……人ならざるもの」


 八雲は自嘲するように口元を歪め、力なく鼻で笑った。


「だって、俺に見えるものって、大抵碌なもんじゃなかったし。俺を脅かすだけの気味悪い存在だったから」


 その言葉に、伊吹がふっと少しだけ目を細め、静かな眼差しを向けた。


「……そうか」

「でも」


 八雲は、逃げ出したいほどの緊張が消えていることに気づき、改めて店内へとゆっくり視線を巡らせた。


「ここにいるのは、怖くないっす」


 喋る猫又の珠吉がいる。

 全てを見通すようなマスターがいる。

 優雅に佇む神楽がいる。

 何処か掴めない伊吹がいる。

 そして、隣には自分を心配して寄り添ってくれる夢月がいる。


 ここには、人間ではないものも普通に存在している。

 そして、自分には見えない世界の理を当たり前のように受け入れ、共存している人達がいる。


 幼い頃から「変な奴」と弾かれ、一人で暗闇と戦ってきた自分を、誰も気味悪がらない。誰も「嘘つき」だと否定しない。

 それが、何故だか泣きたくなるほど心地良かった。


「だから……」


 八雲は自分の鼻の頭を掻き、少し照れくさそうに笑った。


「もう少しだけ、ここにいてもいいっすか?」

「もちろんです」


 マスターは、温かいスープを出すような優しさで微笑んだ。


「夢幻喫茶は、いつでも……貴方のようなお客様をお待ちしております」

「そっすか」


 八雲は再びお茶へ口を付ける。

 今度は先ほどのような緊張や寒気は完全に消え去り、その表情には年相応の穏やかさが戻っていた。

 その温かな光景を離れた席から眺めながら、神楽が静かに息を吐く。


「なるほどね」

「何がですか?」


 夢月が不思議そに思って尋ねると、神楽はすぐには答えず、ただ意味ありげな視線を八雲の背中に向けた。


「……いや。随分と面白く、そして重い縁を連れてきたものだと思ってね」


 夢月には、その言葉の本当の意味までは分からなかった。

 けれど、夢幻喫茶という境界の場所に、また一人、大切な仲間であり客が加わった。

 そのことだけは、確かな事実だった。


「なんか……よく分からないっすけど、すごく落ち着きますね、ここ」

『ふん、当たり前だ。この我がいるのだからな!』


 珠吉が再び威風堂々と胸を張ってみせる。

 その愛らしい遣り取りを見て、夢月の口元から自然な笑みが零れた。

 夢月は自分の胸の奥が、冷たい痛みから解き放たれ、じんわりと温かな光で満たされていくのを心地良く感じていた。



 ❁



 それから小一時間ほど、彼らは夢幻喫茶で静かな時間を過ごした。

 八雲は最初は緊張していたものの、マスターの淹れる美味しい珈琲と、珠吉の口の悪い(けれど何処か愛嬌のある)毒舌にすっかり打ち解け、楽しそうに笑っていた。


「いやー、マジで驚きましたよ。まさか学校の近くにこんな凄い店があったなんて」

『ふん、誰にでも見つかる店ではないからな。感謝しろ』

「はいはい、珠吉様のおかげっすね」

『様をつければ良いというものじゃない!』


 怒る珠吉と笑う八雲。その光景を、マスター達が穏やかな眼差しで見守っている。

 夢月もまた、自分の隣で笑う八雲を見ながら、心から安堵していた。

 やがて、外の太陽が完全に沈み、夜の帳が降りる頃。


「そろそろ帰らないと、親が心配するっすね」

「そうですね。夜道は危険ですから、気を付けて帰りなさい」


 八雲が立ち上がると、マスターがカウンター越しに深々と一礼した。


「マスター、神楽さん、伊吹さん、珠吉。ありがとうございました」


 夢月も立ち上がり、皆にお礼を言った。

 これだけ種族も時代も違う人々が目の前にいるというのに、もう終わってしまうのかという寂しさがある。


『騒がしいのは好まんが、まあ⋯⋯来たら歓迎くらいしてやる』


 珠吉はプイとそっぽを向くと、照れ隠しを誤魔化すように短く鼻を鳴らした。


「あはは、ありがとう!  また来るよ、珠吉!」


 照れくささと嬉しさが混ざったような笑みを浮かべ、八雲がひらひらと手を振る。

 夢月も温かい微笑みを返し、二人は夢幻喫茶の重い木製の扉を開けて、ゆっくりと外の空気の中へ足を踏み出した。








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