もう一つの縁・1
ここから二部の始まりです。
出会いとは、運命。
出会いとは、縁。
誰も予想打にしない縁が、この日も巡り巡ってやって来る。
❁
昼休みを告げる甲高いチャイムが校内に響き渡ってから、しばらくの時が流れていた。
五限目の授業が始まるまでの僅かな猶予。二階の教室は、それぞれの方法で束の間の休息を享受する生徒達の多層的な声で満たされていた。
友達同士で机を寄せ合い、色鮮やかなお弁当を囲んで歓声を上げる者達。
スマートフォンを片手に、動画を見ながら身を乗り出して談笑する者達。
次の移動教室の準備のために、慌ただしく教材を鞄から取り出す者達。
窓際では、男子生徒のグループが他愛もない冗談を言い合い、机を叩いて大笑いしている。
何処にでもある、ありふれた高校の昼休み。
そんな賑やかで少し騒々しい教室の片隅で、夢月は一人、自分の机に頬杖をつきながら静かに本を開いていた。
指先でページを捲る。
インクで印刷された活字を目で追っていく。
ただそれだけの、静かで穏やかな時間。
窓から差し込む昼下がりの陽光は柔らかく、木製の机の表面を暖かな橙色に染めている。耳を澄ませば、校庭で運動部が声を張り上げる音や、廊下を走る足音が遠く聞こえていた。
ほんの数日前まで、この学校全体を恐怖と狂気で苛んでいた、あの姿見の怪異。
生徒達が相次いで姿を消し、恋の噂という名の暗毒に呑み込まれていったあの異状。
まるでそんな惨劇など最初から存在しなかったかのように、世界は何食わぬ顔で平和な時を刻んでいる。
あの古い本館の踊り場に置かれていた、歪んだ鏡面を持つ大きな姿見も、今はもう何にもない。老朽化という建前のもとで綺麗に撤去され、その痕跡すら白日のもとに晒されることはなかった。
それでも、放課後になり時計の針が十七時を指し示そうとするとき、ふとあの暗い踊り場の静寂を思い出してしまう癖だけが、夢月の胸の奥に薄く残っている。
あの暗闇の中で出会った、顔のない黒い影の少女。
ブローチを抱きしめ、涙を流しながら消えていった、儚い一筋の光。
(……でも、それもきっと時間が経てば忘れていっちゃうんだろうな)
夢月は小さく息を吐き出し、本の上に視線を戻した。
どれほど苛烈な事件であろうと、過ぎ去ってしまえばそれは「過去」になり、日常という濁流の中に呑み込まれて摩耗していく。生きている人間は前を向いて歩き続けなければならず、怪異の残香にいつまでも囚われているわけにはいかないのだから。
そう思い、意識を物語の世界へと戻そうとした、その時だった。
「如月さん、今ちょっといいっすか?」
頭上から、不意に声を掛けられた。
「え?」
夢月は文字を追うのを止め、驚いて本から顔を上げた。
視線の先に立っていたのは――八雲拓だった。
少し癖のある黒髪に、制服の第一ボタンを一つ外した、何処か飄々とした佇まいの同級生。校内でもそれなりに目立つ爽やかな少年が、夢月の机の横に立ち、ごごっと前の空席の椅子を引いてごく自然に腰を下ろした。
断りもなく向かい側に座るその慣れた動作に一瞬驚いたものの、彼の表情にいつもの軽快さが欠けていることに夢月はすぐ気づいた。
「あ、本読んでたんすね。邪魔しちゃいました?」
「ううん、別に大丈夫」
八雲は膝の上で軽く手を組み、机を挟んで向かい合う形になった。
珍しい、と夢月は直感的に思った。
もちろん、八雲拓という人物と面識がないわけではない。同じ学年で同じ学校に通っている以上、教室の中で目が会え会釈くらいはするし、なにより選択授業が同じだった。
移動教室へ向かう廊下で何度か一緒になって他愛もない話をしたり、授業中に席が隣同士になるため、お互いにノートを見せ合ったり雑談を交わす程度の、それなりに悪くない間柄ではあった。
そして何より、あの恋の噂に囚われていた涼風美咲の一件でも、彼とは少し言葉を交わしている。
けれど、そういった選択授業の移動や事件の巻き込まれという理由なしに、八雲の方から夢月の教室の席へとわざわざやって来て向かい合うことなど、今まで一度もなかったのだ。
教室の周りの生徒達が、ちらりとこちらに視線を向け、またすぐに自分の会話へと戻っていく。
普段の移動教室の廊下や、授業中の雑談であれば、夢月も何気なく話すことができたはずだった。しかし、こうして自分の席で静かに向かい合ってみると、なぜだか胸の奥が微かにざわつき、妙な緊張感が背筋を駆け上がった。
八雲はそのまましばらく何も言わない。
視線を落とし、何か重要なことを話そうとしているのに、それをどう言葉の形に切り出せばいいのか迷っている。そんな葛藤が、彼の整った側顔に影を落としていた。
「……?」
夢月が不思議そうに首を傾げると、八雲は覚悟を決めたように小さく息を吐き出し、顔を上げた。
「実は、今朝ちょっと変な夢を見たんすよ」
「夢……?」
「はい」
その言葉を聞いた瞬間、夢月の背筋が目に見えて微かに伸びた。
それは、日常の中で誰もが口にするような、ただの何気ないフレーズだ。昨夜見たくだらない夢の話、あるいは悪夢の愚痴。どこにでもある会話の糸口。
夢。
たった二つの音節で構成されたその言葉。
それなのに、何故だか夢月の胸の奥で、警鐘のような重い振動がドクンと跳ねた。嫌な予感というか、胸騒ぎのようなものが、冷たい波となって皮膚の表面を撫でていく。
八雲はそんな夢月の微小な変化には気づかず、記憶の糸を辿るようにゆっくりと語り始めた。
「なんか、真っ暗な場所に俺がいるんすよ」
「真っ暗な場所?」
「そう。何も見えないくらい真っ暗で。上も下も分からないし、壁があるのかも分からない。何処までも深い闇っていうか。なのに、何故か俺、そこで歩いてるんす」
八雲は夢の光景を脳裏に思い描くように、少しだけ視線を天井の隅へと逸らした。
「別に自分から歩きたいわけじゃないんすよ。どっちかっていうと、不気味だから立ち止まりたい。でも、何故か足が勝手に前へと動く感覚があって……逃げられないっていうか」
「……それで?」
夢月の声は、自分でも驚くほど低く、緊張を孕んでいた。
闇の中をひたすら歩かされる感触。それは、夢月自身も少し前に体験した、あの“夢”の導入と酷似していた。
「ずっと闇の中を歩いてたら、遠くにポツンと小さな明かりが見えてきたんすよ」
そこで八雲は一度言葉を切り、喉を鳴らした。
「最初は街灯か何かかと思ったんすけど。でも、近づいてみたら――」
「喫茶店があった?」
八雲の言葉が、ぴたりと途絶えた。
夢月は、自分が今何を口走ってしまったのかを正しく理解するまでに、数秒の時間を要した。
(あ――)
遅れて、取り返しのつかない失言をしてしまったことに気づく。
目の前に座る八雲は、目を丸く見開き、固まっていた。彼の瞳の中に、困惑と驚愕が色濃く打ち上げられている。
「なんで、分かったんすか?」
「え、いや……それは……」
夢月は言葉に詰まった。喉の奥が急激に干上がったように乾いていく。
言い訳を探そうとして頭の中を回転させるが、上手く言葉がまとまらない。机の上に開かれたままの本の文字が、急に焦点の合わない記号の羅列のように遠く感じられた。
八雲は、逃げようとする夢月の顔を、逸らすことなくじっと見つめていた。
「俺、まだ『喫茶店』なんて一言も言ってないっすよね」
「……うん」
「なのに、如月さんは『喫茶店があった?』って言った」
沈黙が二人の間に重く横たわる。
教室の喧騒――遠くで上がる笑い声や、黒板を叩く粉チョークの音――が、まるで厚いガラスを隔てた向こう側の出来事のように遠のいていく。
どうしよう、と夢月の頭の中で焦燥が渦を巻いた。
――「夢幻喫茶」のことを、他の誰かに軽々しく話していいのか。
その問いに対する明確な答えを、夢月は持っていなかった。
店の主であるマスターは、いつだって訪れる客の秘密を優しく守る人だった。そしてあの店に迷い込む者達も、怪異に関わる者達も、それぞれに人には言えない重い事情や傷を抱えている。
だからこそ、現世と異界の狭間に佇む「夢幻喫茶」という存在を、関係のない一般人に話してはならない。それは教えられたわけではないが、夢月の中でいつの間にか不可侵のルールとして固まっていた暗黙の了解だった。
けれど、目の前にいる八雲拓は、今まさにその「夢幻喫茶」の光景を語っている。
しかも――夢の中でそれを見たというのだ。
夢月は大きく息を吸い込み、乱れる心拍数を抑え込もうと胸に手を当てた。そして、言葉を慎重に選びながら、低い声で問いかけた。
「八雲君」
「はい」
「その、夢に出てきた喫茶店って……」
夢月は相手の反応を探るように、慎重に尋ねる。
「どんなお店だった?」
八雲は少し首を捻り、遠い目をして記憶を掘り起こす作業に入った。
「すごく、古い店っす」
「古い?」
「はい。外観はそんな感じでした。木造っぽくて、渋い色合いで。入口には重たそうな古い木製の扉があって……ランプみたいな灯りが点いてて」
夢月の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
間違いない。その佇まいは、夢月が幾度となくその重い扉を押して中に入った、あの「夢幻喫茶」そのものだった。
「中は、中はどんな感じだったの?」
「中は……カウンターがあって、革張りのテーブル席があって。なんというか、すごく静かで、妙に落ち着く空間っていうか。異世界みたいなんすけど、かと言って変ではない場所でしたね」
夢月の胸の中で、疑惑が確信へと変わっていく。
あの場所だ。マスターがカウンターで静かに珈琲を淹れ、珠吉が不機嫌そうに寝そべっている、あの空間。
「それで、店の中には……誰かいた?」
夢月がそこまで尋ねた瞬間、八雲がふっと口元を緩め、小さく笑った。
「やっぱり、知ってるんすね。如月さん」
「……っ!」
今度は夢月が息を呑んで身を固くした。
八雲の顔から先ほどまでの困惑や警戒心が消え、何処かホッとしたような安堵の表情が浮かんでいた。
「なんとなく、そうじゃないかなとは思ってました」
「どうして……? 私があの店を知ってるって、どうして思ったの?」
「如月さんなら、俺がこんな変な話をしても、笑わずに信じてくれそうだったからっすよ」
「それだけ?」
「それだけっす」
あまりにもあっさりと言われてしまい、夢月は拍子抜けしたように瞬きをした。
「ほら、如月さんって紗鳥さんからよく聞いてるじゃないっすか。学校のオカルトとか、怪談とか」
「まあ、華夏はそういうの好きだからね」
「そうそう。選択授業の移動中とかにも『何処かの階段で変な音がした』とか『夜の公園で白い影を見た』とか、嬉々として話してくるでしょ。如月さん、いつもそれを嫌がりもせずに真面目に聞いてあげてるから」
八雲は肩を竦めて苦笑した。
確かに、華夏はオカルトや都市伝説の類が大好きだ。怪しい噂を聞きつけては夢月を引っ張り回し、興奮気味に怪談を語って聞かせてくる。
その影響もあって、夢月は普通の人よりも怪異という存在に対する抵抗感が薄かった。
……というより。
本物の怪異と対峙し、異界の喫茶店に通っている今の夢月にとっては、オカルトを「信じない」ことの方が不可能なのだが。
「でも、八雲君ってそういう話、あんまり興味なさそうに見えるけど」
「興味がないわけじゃないっすよ。ビビりなんで、怖いものは普通に怖いですけど」
夢月の問いかけに、八雲は一瞬だけ言葉を詰まらせた。それから困ったように眉を下げ、片手で無造作に髪を掻き上げると、自嘲気味に息を吐き出して笑う。
「ただ、今朝見たあの夢は、あまりにも妙にリアルだったんす」
「……リアル?」
彼の声から、軽やかさが消えた。少しだけトーンの落ちた声が、二人の間の僅かな空間に沈み込む。
「夢って普通、起きて少し経ったら急速に内容が薄れて、忘れていくじゃないっすか」
「うん」
「でも、あの夢は起きてから時間が経っても、頭の中に鮮明に残ってるんすよ。……っていうか、五感で覚えてる感じがする」
八雲は自分の右掌を見つめ、指を握ったり開いたりした。
「店の中の『匂い』まで、はっきりと覚えてるんす」
「匂い……?」
「コーヒーの香ばしい匂い。それと、古い家具みたいな木の匂い。それから……何か甘い香煙みたいな、不思議な匂いとか」
夢月の心臓が、再び強く打鐘した。
珈琲の香気と、歴史を重ねた木調の匂い。そして、時折マスターが炊いている不思議な香木や茶葉の香り。
それは、夢幻喫茶に足を踏み入れようとする者、あるいは深く引き寄せられた者だけが知る、あの店の固有の「匂い」だった。ただの妄想や偶然の夢で、そこまで一致するはずがない。
「それに……」
八雲はそこで急に言葉を詰まらせ、言葉を濁した。
言い出そうとしては口を閉じ、喉の奥で呼吸を詰まらせる。その喉仏が、緊張でかくりと大きく揺れた。
「まだ何かあったの?」
「なんか、声が聞こえたんすよ」
「……!」
夢月は思わず机に身を乗り出しそうになった。
「なんて、なんて聞こえたの?」
「それが、ぼんやりとしか覚えてなくて。……うーん、なんて言えばいいのかな。鈴が鳴るような音と一緒に、男性とも女性ともつかない低い声で……『おいでませ』って」
『おいでませ、夢幻喫茶へ――』
夢月の脳裏に、あの店の重厚な扉を開けた時に響く、マスターの穏やかな声が鮮明に再生された。
「それで……それで目が覚めたの?」
「はい」
夢月の言葉に促されるように、八雲は静かに頷いた。
「ハッと目が覚めたら、自分の部屋の天井が見えて、アラームが鳴ってて。普通の朝だったんすけど……」
八雲はそこで言葉を切り、胸の辺りを押さえた。
制服の薄い生地越しに、心臓の鼓動を確かめるかのようにぐっと掌に力を込める。
「何故か……あの店に、もう一度行かないといけないような気がして仕方ないんすよ」
その言葉を聞いた瞬間、夢月の心の中で疑惑は完全な「確信」へと変わった。
この人は――八雲拓、今、夢幻喫茶に呼ばれている。
かつて、怪異に脅かされ、藁にも縋る思いで扉を開けた、あの頃の夢月と同じように。
理由はまだ分からない。彼が何か怪異の引き金を引きかけているのか、あるいは彼自身が知らぬうちに深い未練や縁を抱え込んでいるのか。
けれど、あの「夢幻喫茶」という場所は、何の理由もない人間を気まぐれに夢へと招くような生半可な場所ではないのだ。
「八雲君」
夢月は、真っ直ぐに彼の瞳を見つめて呼びかけた。
「はい」
「その喫茶店……本当に行ってみたい?」
「え?」
「夢の中に出てきた、そのお店に」
八雲は不意を突かれたように目を丸くし、それから少し困ったように眉を下げて考え込んだ。
教室の窓から吹き込む風が、カーテンをふわりと揺らす。外の陽射しは相変わらず明るく、ここが現実の学校であることを主張していた。
数秒の沈黙の後、八雲は照れくさそうに苦笑した。
「正直……行けるなら、行ってみたいっす。なんか、行かないとずっと胸の奥が引っ掛かったままになりそうで」
「……そっか」
夢月は静かに息を吐き出すと、机の上に開いていた本をゆっくりと閉じた。
パタン、と軽い音が響く。
本の表紙を指先で優しく撫で、机の端へとそっと置いた。
「じゃあ、放課後に一緒に行こうか」
「はい?」
八雲は数回、パチパチと目を瞬かせた。夢月の言葉の意味を即座には噛み砕けなかったかのように、呆然と彼女の顔を見つめる。
「……いいんすか?」
「うん」
「でも……あれ、夢の中の場所なんすよ? 何処にあるかも分からないし……」
「夢だけど、幻じゃない。“正夢”だよ」
夢月が迷いなくきっぱりと答えると、八雲の顔から笑みがすっと消えた。
彼の瞳に、真剣な光が宿る。
「本当にあるんすね。あのお店」
「うん」
夢月は小さく、けれど力強く頷いた。
その首肯には一切の迷いも躊躇も含まれていない。
「『夢幻喫茶』っていうお店」
その名前を明確に言葉にして口にした瞬間mふっと、周囲の教室の喧騒が遠のいたような錯覚に襲われた。クラスメイト達の話し声や笑い声が、まるで水中に潜ったかのようにくぐもって聞こえる。
夢幻喫茶。
それは、深い悩みや強い願い、あるいは怪異との深い縁を持つ者の前にだけ、ぬっと姿を現す不思議な場所。
現世と異界。
生者と死者。
過去と未来。
あらゆる境界線が曖昧に溶け合うその狭間で、傷ついた魂や迷い子を静かに受け入れる場所。
夢月はこれまでに、何度もあの店に救われてきた。マスターの淹れる温かいお茶に心を解きほぐされ、毒舌な珠吉や冷徹な神楽の言葉に助けられてきた。
けれど同時に、あの店に関わるということは、日常の裏側に蠢く恐ろしい怪異の世界へと足を踏み入れることと同義だということも、夢月は痛いほど知っていた。
だからこそ、胸の奥で微かな恐怖が芽生えるのを抑えられなかった。
八雲拓という少年が、一体どんな「縁」を持ってあの店に引き寄せられているのか。
何故、彼の夢の中に夢幻喫茶が姿を現したのか。
そして、先ほど八雲が語った夢の光景。
暗闇の向こう、夢幻喫茶へ至る道筋で彼が見たかもしれない「何か」が、一体何を意味しているのか。
「じゃあ、放課後っすね」
八雲はそのまま立ち上がり、椅子を元の位置に戻した。
「如月さん」
「何?」
「一個だけ、聞いてもいいっすか?」
「うん」
八雲は少しだけ周囲を気にするように視線を泳がせ、声を潜めた。
「その、夢幻喫茶って……怖いところじゃないんすか?」
夢月は、すぐには答えなかった。視線を落とし、数秒間考える。
怖いかと問われれば――答えは間違いなく「イエス」だった。
現世の理が通じない場所。一歩間違えれば引き返せなくなるような不気味な怪異や、人の心の深い闇と対峙しなければならない場所。恐ろしくないはずがない。
それでも、夢月の脳裏に浮かんだのは、いつでも変わらない穏やかな笑みを浮かべて出迎えてくれるマスターの顔だった。毒舌を吐きながらも絶対に自分を見捨てない猫又の珠吉。冷静な観察眼で怪異の本質を見抜く神楽。
そして、自分にとってあの場所は、今や恐怖の対象ではなく、温かなもう一つの居場所なのだ。
「怖い時もあるよ」
夢月は誤魔化さず、正直に答えた。
「でも」
「でも?」
「悪い場所じゃないと思う。……すごく、温かくて大切な場所だよ」
八雲はしばらくの間、夢月の真っ直ぐな瞳を見つめていた。
やがて、
「そっすか」
と、彼らしい爽やかで穏やかな笑みを口元に浮かべた。
「じゃあ、安心しました」
そう言い残すと、八雲は軽やかな足取りで自分の席へと戻っていった。
夢月は、クラスメイト達と再び楽しそうに話し始める彼の背中を、じっと見送った。
それから、机の上に置いた本へと視線を戻す。
ページを開き、活字を追おうとする。けれど、もう一度も言葉が頭に入ってこなかった。
(八雲君も……夢幻喫茶を見た)
その事実が、波のように何度も脳裏を巡っていた。
もしも、怪異に関わる前の、普通の女子生徒だった頃の自分なら、きっともっと怖がって狼狽えていただろう。
夢の中に現れた不気味な喫茶店。そこへ誘われたクラスメイト。関われば何が起きるか分からない恐怖に足が竦み、八雲を止めるか、あるいは見て見ぬ振りをしていたかもしれない。
けれど、今の夢月は違う。
人ならざる存在の珠吉や梢、とこよにであった。違う時代を生きる神楽にも出会った。
人かも妖かも分からないマスターのことも、今では信用している。
夢幻喫茶がどのような場所であるかを、ほんの少しだけ知っていたのだ。
だからこそ。
(八雲君を、一人で行かせるわけにはいかない)
彼がどんな事態に巻き込まれようとしているのかは分からない。けれど、怪異の知識もないまま一人であの店に辿り着けば、取り返しのつかない事態になる可能性だってあるのだ。自分が隣についていかなければならない。
チャイムが鳴り、五限目の授業の始まりを告げた。
教員が教室に入ってきて、生徒達が一斉に着席する。
夢月はノートを開きながら、静かに放課後の訪れを待った。
あ重い扉の先で、一体何が自分たちを待っているのか。
八雲拓という少年を招いた「縁」の正体は何なのか。
その時の夢月には、まだ知る由もなかった。




