夢の始まり・2
朝の通学路を、同じ学校の制服を身に纏った他の生徒達に紛れながら歩く。
友達と登校している生徒達はやけに楽しげで、あちらこちらから賑やかな笑い声が聞こえていた。
そんな笑い声に包まれる街中を歩く夢月は独りである。自身が生活を営んでいる家の近くに同じ学校へ通う生徒がいないのも理由の一つだが、何よりまともな友達が華夏以外にいないのだ。いわゆる、ぼっちである。
毎朝毎朝、見せつけるかのように夢月の脇を二人組やら三人組やらの生徒達が楽しげに通り過ぎていく。今ではもう慣れたものだが、やはりふとした瞬間に寂しさを覚えるのは人間の性だろう。
普段の夢月であれば、こうして独りで登校していることに一抹の寂しさを覚えるはずだった。しかし、今日ばかりはそんな寂しさを感じる暇すらない。
今の夢月の意識を支配しているのは、昨日訪れたあの謎めいた喫茶店のことだ。
突然夢の中に現れ、まるで初めからあつらえられていた台本通りに事態が進んだかのように、華夏の言う通り正夢となったあのアトリエのような空間。
喫茶店を出て家に帰り、ベッドに潜り込んだ後も、店での出来事は脳裏にはっきりと焼き付いていた。
今朝もふと思い返してみたが、やはりあのコーヒーの豊かな香りも、マスターや神楽達の声も、全て鮮明と思い出すことができる。
しかし、それでもなお不思議な感覚は残ったままだ。
昨日のあの喫茶店は、本当に現実だったのだろうか。
店内も、お客の顔も声も、カフェラテの味わいですら全て鮮明に覚えている。だが外に出ると跡形もなく消え去っており、そこにはただの古びた空き家があるだけだった。辺りを見渡そうが、その空き家の周りをどれほど探ろうが、喫茶店は初めから存在していなかったかのようにパタリと姿を消していたのだ。
夢だったのかもしれないと考えもしたが、どうしてもそう自分を納得させることができない。あの店で飲んだラテも、猫又も、ろくろ首も、軍人も。皆この目で見て、確かにその存在を感じ取った。彼らは紛れもなく、夢月の目の前に存在していたのだ。幻でも、何かに映し出された平面的な偽物でもない。彼らは間違いなく、あの場所で生きていた。
ならば、誰が何と言おうとあれは現実だ。夢で見た喫茶店は、本当に夢月の目の前に現れたのだ。華夏の話した通り、正夢になったのである。
(昨日は、楽しかったな)
いつぶりかに、心から何かに対して「楽しい」と感じられた気がする。
毎日同じ通学路を通って帰るだけだったはずの放課後が、あんなにも不思議な出会いと共に充実したものになったのだから。
マスターの語った「縁」というものが、何処まで初めから運命づけられていたものなのかは分からない。けれど、悪くない出会いだったと今では思える。
学校でも家でも独りでいることの多い夢月にとって、気さくに接してくれた彼らの存在は、すでにかけがえのないものになりつつあった。
今はただ、またあの喫茶店に行けますようにと願うばかりだ。一度手繰り寄せた出会いは、そう簡単に途切れるものではないはず。この出会いは、少しずつ夢月にとってかけがえのないものへと移り変わっていくのだろう。
「夢ちゃん、おはよう!」
不意に肩を叩かれ振り返ると、そこには華夏がいた。楽しげに笑う彼女の笑顔は、いつだって花のように明るい。
毎日こうして華夏は背後から夢月の名前を呼び、驚かせようとしてくる。今では慣れてしまったため大きな反応を見せることはなくなったが、彼女は懲りずに毎日夢月の名前を口にするのだ。
それが少し擽ったく、それでいて堪らなく喜ばしい。華夏は今も変わらず、夢月の友人でいてくれている。
「おはよう、華夏」
何度この笑顔に救われてきたのか、もう数え切れないほどだ。どれだけ沈んだ気分でいても、どんな悩みごとがあっても、華夏の笑顔を見ると夢月まで自然と笑顔になれた。
そんな華夏は今日も今日とて朝から元気そうで、夢月の顔を見るなりニヤニヤと笑みを浮かべている。
「なんだか嬉しそうだね。いいことでもあった?」
幼さが残る笑顔を浮かべ、夢月の横にピッタリと寄り添ってきた。肩と肩が触れ合い、互いに少し身体が蹌踉めく。
嬉しいことといえば、この間華夏に話したあの喫茶店のことだろう。
あの話をした日の放課後、夢月の目の前にまさしくその喫茶店が現れたのだ。そしてその店内で、あり得ない存在を目の当たりにした。
現実には存在するはずのない妖怪、過去の時代を生きた人間、突如現れては跡形もなく消え去った喫茶店……。
そんな科学では証明できない不思議な体験を、夢月はつい昨日したばかりだった。
まさか自分自身ですら信じきれずにいた夢が、本当に正夢になったのだと明かしたら、彼女は信じるだろうか。いや、華夏なら信じるかもしれない。
オカルト好きの華夏ならば、いつものように宝石を見つけた子供のように目を輝かせて話に聞き入るはずだ。
非現実的な話にも乗り気で耳を傾けてくれる華夏は、本当に良い友人だと思う。普段から彼女のオカルト話を聞かされるが、そのどれもが新鮮で飽きることがない。夢月は彼女とこうして話している時間が好きなのだ。
でも、あの店だけは自分だけの秘密にしておきたかった。決してあの喫茶店が夢月だけのものである訳ではないし、まだ一回訪れただけなのだから何も分かっていないのが現実である。
それでも、縁があったからこそ夢に喫茶店が現れ、実際に訪れることができたのだ。ただそれだけだとしても、あの喫茶店で過ごしたほんの少しの時間は、何よりも愛おしく楽しかった。
神楽が「この店を愛している」と言った理由が、たった数時間滞在しただけで分かった気がする。
あの喫茶店には、目に見えない不思議な力があるのだ。ただそこにいるだけで、静かに心を満たしてくれる不思議な力が。
だから、今はまだ自分だけの秘密にしていたい。華夏にも縁があってあの店にやってくる日がいつか訪れるのかもしれないが、それまではどうか夢月だけの心の拠り所として胸の奥に秘めていたい。……なんて、身勝手で我が儘な考えかもしれないけれど。
「そうかなあー、特にこれといった出来事はなかったけど」
「本当にー? 何か隠し事してるでしょ」
「本当にないったら。ほら、早くしないと遅刻するよ」
「夢ちゃんのケチ」
華夏は悪態をつきながら、分かりやすく肩を落として見せた。大して気にしていないようにも見えるが、こんな小さな嘘を一つ吐くだけでも、胸の奥がチクリと痛む。
夢幻喫茶の存在がバレそうだとか、そういった懸念からではない。ただ、華夏に対して平然と嘘を吐いてしまった自分自身に対して蔑みを抱いたのだ。この嘘は自分本位な身勝手さに過ぎない。だからこそ、華夏に嘘を吐いたという罪悪感が胸の奥で大きな渦を巻いていた。
きっとこれまでも、たくさんの嘘を吐いて生きてきたのだろう。誰かに対して嘘を吐き、吐かれ、そしてこれからも嘘を吐き続けていく。相手が華夏であろうと、夢幻喫茶の面々であろうと、自分自身であろうと、きっとそれは変わらない。
学校の門を潜るまで、自分で吐いた嘘の苦い後味が頭の中でぐるぐると駆け巡っていた。
❁
近頃、一日の進みがやけに早く感じる。朝起きて学校に行くまでは飽き飽きとするほど長く感じるのに、昼休みを乗り越えるとあっという間に放課後になってしまうのだ。それくらい時間の流れが速い。
ゆっくりと流れてほしいと思いつつ、早く過ぎ去ってほしいとも願ってしまうのだから、なんともままならないものである。
今は放課後。一日の終わりを告げるチャイムと共に終礼が終わり、それまで静かだった教室の中が一気に騒がしくなった。
これから部活動へ向かうのだろう、隣の席の男子生徒が通学鞄ともう一つ大きなスポーツバッグを担いで席を立つ。運動部は集合時間に厳しいと聞いたことがある。彼以外にも、運動部に所属しているであろう生徒達が大きな荷物を抱えて忙しなく教室を出て行った。
そんな彼らを横目で見ながら、特にこの後の予定がない夢月は呑気に荷物をまとめて帰る準備を進めていた。
そんな時、鞄の中に落としていた視界が少しだけ陰る。
顔を上げると、向かいにはすでに帰る支度を終えた華夏が立っていた。
「今日一緒に帰れる?」
「あー、ごめん。今日はこの後寄りたいところがあるから、先帰ってて」
また、嘘が口をついて出た。今朝がた、学校へと向かっている時にも華夏に嘘を吐いたばかりだというのに、また重ねてしまった。
何も隠す必要などないはずなのに、どうして無意識の内に嘘を吐いてまで遠ざけようとしてしまうのだろう。
この後に寄りたい場所なんてあるはずもない。今日も変わらず、真っ直ぐ家までの帰路を辿るだけだ。だから、華夏と一緒に帰ることだってできる。断る理由なんて何処にもないのに。
「そっかあ……。分かった、それじゃまた明日」
何も知らない華夏は、そんな夢月の身勝手な嘘を素直に鵜呑みにして信じる。疑う素振りすら見せず、華夏は小さく夢月に向かって手を振った。それから、教室の入り口の前で待っていたのであろう他の女子生徒のもとへと駆けていく。
華夏が別のクラスメイトのもとへ向かったのを確認すると、夢月は鞄の中を漁り、クッキーの詰め合わせを取り出した。
昨日の晩、無性に何かを作りたくなって焼いてみたクッキーだ。誰にも言ったことはないし、言う必要もないと思っているのだが、実のところ夢月はお菓子を作るのが好きだ。特にクッキーなどの焼き菓子が、群を抜いて得意であり好きだった。
そんな夢月が何故昨日の晩になってお菓子を作ろうと思い立ったのかといえば、それは夢幻喫茶の面々に贈りたいと思ったからである。
まだ一度しか顔を合わせていない彼らだが、夢月にとって彼らと過ごした時間は、生まれて初めて「幸せだ」と感じられたものだった。
その幸せと喜びを何か形にして、彼らに感謝と共に贈りたい。夢月は密かにそう願ったのだ。
久々のお菓子作りだったが、人に渡すことを目標にしたからか、それなりに上手くできたと自分では思っている。チョコペンやカラースプレーで可愛らしくデコレーションしてみたのは、夢月の浮ついた心が前面に表れた結果だった。
わざわざラッピング用の袋で綺麗に包んだのは、あの喫茶店の皆に食べてほしい、喜んでほしい、そして何より同じものを食べて喜びを分かち合いたいと思ったからだ。
誰かに自分の作ったものを口にしてもらい、食べて喜んでいるところを間近で見たい――夢月はそんな小さな夢を、昔から抱いていた。
(喜んでくれるかな……)
まだ出会って間もない彼らに、こうして何かを渡したいと思ってしまうのは気が早いだろうか。
でもあの人たちなら、と期待してしまう。きっと、あの人たちなら喜んでくれるはずだ。出会って間もないというのに、何故かそんな自信が夢月にはあった。
お菓子の包みを丁寧に鞄の中に仕舞い直し、肩に担ぐと逃げるように教室を出る。放課後になったばかりで、廊下には多くの生徒が集まっていた。立ち話をする生徒達の間を縫うようにして下駄箱へと向かい、忙しなく靴を履き替えると、そのまま早足で学校を後にした。
今日も変わらず、昨日と同じ道を、同じ時間帯に歩く。夕方の商店街はまだまだ人通りが多い。夕飯の買い出しをしているのであろう中年の女性と、八百屋の男性が楽しげに話している。彼らの会話を聞き流しながら、夢月は商店街の中を早足で進んだ。
学校帰りの小学生達が精肉店の店主に出来たてのコロッケを貰っている様子を見て、夢月の腹が空腹を訴える。思わず立ち止まって財布を出しそうになったが、一秒でも早くあの喫茶店に行きたいという思いから、ぐっと堪えて歩みを進めた。
そんな長閑で変わらない風景を流し目で見ながら、独り、ある場所を目指して歩き続ける。
一本、商店街の大通りから外れて人通りの少ない路地に入る。時間的に、夢月の脇に建ち並ぶスナックはまだ開店していない。夜の賑やかさは当然今の夕方にはなく、しんと静まり返った路地を夢月は一人歩いた。
───カラン。
遠くで鐘の音が鳴る。昨日も聞いた、あの鐘の音だ。
───カラン、カラン。
その場に立ち止まり、ほっと胸を撫で下ろす。
鏡で見ずとも自分自身で分かるくらい、今の表情は喜びに緩みきっていることだろう。
「良かった」
昨日と全く同じ場所に、あの喫茶店は建っていた。思わず惚けた声が漏れる。
変わらない喫茶店の姿を見て安堵し、今日は自分の手で扉を開けて中に入った。足を踏み入れると、変わらず香り豊かなコーヒーの匂いが立ち込めている。深呼吸をするようにその空気をじっくりと吸い込むと、激しく脈打っていた心臓が少しずつ落ち着いていった。
店内を見渡し、吸い込まれるようにしてカウンターへと目を向ける。すると、昨日と変わらない姿をしたマスターが、入り口に突っ立っている夢月を見るなりふわりと微笑んだ。
「おいでませ、夢幻喫茶へ」
「こんにちは」
夢月がカウンター席に座ると同時に、珠吉がテーブルの上にちょこんと座った。こうして見ると、やはりぬいぐるみにしか見えない。またこんな事を口にすれば威嚇してくるだろうから黙っておくけれど。
そんなことを珠吉と見つめ合いながら考えていると、梢が首をぐにゃりと伸ばして近く寄ってきた。
今になってすっかり妖怪に好かれてしまったなと心の中で呟く。自分が霊感体質という訳でもないし、単純にこの妖怪たちに目をつけられたのだろう。
別段不快に感じるわけでもなく、むしろ心地よく感じるのだから、つくづくこの店は不思議だ。
「何に致しましょう」
「カフェラテをお願いします」
夢月は慣れた調子で、すっかり気に入った昨日と同じメニューであるカフェラテを注文する。微笑みを崩さないマスターは、慣れた手つきでカフェラテを淹れ始めた。待っている間手持ち無沙汰になり、不意にカウンター席の端っこを見ると、昨日はそこにいたはずの人物がいないことに気が付く。
誰も座っていない席を見つめながら、無意識の内にその問いを口にしていた。
「あれ、神楽さんは?」
『あの小僧は……。早く来る日もあれば、遅い日もあるのよ……』
何処か気怠げに梢が答える。呆れているようにも、つまらないと口を尖らせているようにも見える表情で、彼女もカウンター端の席を見た。あれだけ喧嘩腰で接していたが、実際にいないといないでつまらないのだろう。
「喧嘩するほど仲が良い」そんな言葉が頭に浮かんだが、彼女に言えばその首で締め上げられそうである。
一人悶々と呑気に考えていると、店の出入り口である扉が揺れ動いた。
カランカラン。
もう何度聞いたか分からないほど耳に馴染んだ音が店内に響き渡る。
今では特別驚くようなこともなく、心は冷静で落ち着いていた。
『噂をすれば来たわね』
扉が開くと同時に梢が夢月の耳元で呟く。その声に反応して、夢月も入り口の方に目をやった。
店の扉の向こうから二人の軍人が入ってくる。一人は昨日名前を聞いた神楽という男。その隣にもう一人、神楽と同じ服装をしている男がいるが、夢月には面識がない。やけに不機嫌そうな仏頂面で、見るからに近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
隣同士に並んでいるからか、神楽との体格差がはっきりと表れている。昨日は一人の状態の神楽と接していたため大きく見えていたが、謎の仏頂面の男と並んでいる神楽はやけに小柄に見えた。
決して神楽が小さいという訳ではなく、おそらく隣に立っている仏頂面の男が特別高身長なのだろう。
「お、本当に今日も来たんだね」
「こんにちは、神楽さん」
店に入ってくるなり、カウンター席に座っている夢月を見て神楽は目を丸くした。まさか昨日言った通り、夢月が本当にこの店に来るとは思わなかったらしい。
それでも神楽は真っ直ぐと夢月に向かって歩みを進めると、空いている隣の席に腰掛けた。彼がなぜわざわざ夢月の隣に座るのかは変わらず不明である。
そんなやけに距離感の近い神楽とは打って変わって、もう一人の軍人はじっと警戒心を滲ませた目で夢月を見つめていた。
自分よりも圧倒的に背の高い男に見つめられることなど、今までにあっただろうか。顔に傷のある三白眼の強面な男と見つめ合いながら、夢月は微かに恐怖を覚えた。
「この娘は……」
その人物はしばらくその場に立ち止まっていた。優しい神楽の声とは違う、低く冷たい機械のような声でぽつりと呟く。
怯えている夢月に気が付いたらしい神楽が、男を宥めるように微笑みを向けた。
「そう睨みつけるなよ。その娘はびっくりすると固まるから」
そう言われ、無意識に固まってしまっていたことに気付きビクリと身体を震わせた。
男も同時に身体の緊張を解き、夢月と真っ直ぐ目を合わせる。そんな二人の様子を、神楽はクスクスと笑いながら眺めていた。仲介に入ってくれてもいいんじゃないかと心の中で悪態をつきながらも、夢月は強面の男から目を離せないでいた。
「っ! し、失礼」
男は軍帽の庇を摘み、深く被り直した。その仕草は、緩んだ表情を隠すためだったのだろう。
夢月とは反対側の神楽の隣に座ると、神楽と自分との間の机に軍刀を立て掛けた。初めて間近で見る刀は、鞘に入っていても圧倒的な威厳を感じさせる。
『久しいな』
「ああ」
珠吉が神楽ともう一人の軍人の間に座り、三白眼の強面な軍人に向かって言った。
強面の軍人は珠吉とも面識があるらしく、慣れた様子で手を伸ばすと、骨張った手で珠吉の頭を撫でた。満更でもない様子の珠吉は耳を垂らし、うっとりと目を細めながら小さな頭を男の手に擦り付けている。
「最近忙しかったからねぇ。鍛錬もいいがそろそろ身体を壊してしまうよ」
「またそんな事を言いやがって、お前は適当すぎるんだ。もう少し真面目にだな……」
「伊吹さん、初めてのお客様ですよ」
マスターのその言葉を聞いた伊吹と呼ばれた軍人は、そこでようやく気が付いたとばかりに、神楽越しに夢月のことを見た。何度もこうして目が合っているが、どうにも慣れない。それは夢月だけでなくこの男も同様のようで、神楽が間にいなければ目さえ合わせられないのだろう。
だが、案外男は冷静に夢月と目を合わせた。初めの不器用な一面は何処へやら、今はただの少し強面な青年である。
「ああ、申し遅れた。俺は伊吹海以、こいつの同僚だ」
「き、如月夢月です」
ぎこちない自己紹介を終えると、伊吹と名乗った男は一つ頷き、ふいっと顔を背けてしまった。不器用なのか無愛想なのか、はたまたその両方なのか。神楽と同じで何を考えているのか分からない人だ。
出会って間もないというのにそう考えるのもおかしな話だが。
「カフェラテです」
マスターの声が、なんとも言えないぎこちない雰囲気を打ち壊す。目の前に出されたカフェラテには、昨日とは違うアートが施されていた。一体いくつレパートリーがあるのかと期待してしまう。これは何度も通って全デザインを制覇したいものだ。
「マスター、いつもの頂けるかい?」
「はい、少々お待ち下さい。伊吹さんは何に致しましょう」
「コーヒーを頼む」
温かいカフェラテに口を付けながら彼らの会話を隣で聞いていると、そこでようやく手作りのクッキーのことを思い出した。彼らに贈りたいと思って作ったのだから、早く見せなくては。
そう思い立った夢月はカップをソーサーの上に置くと、足元に置いていた鞄を膝の上に乗せ、中身を漁り始める。突然鞄の中を漁り始めた夢月を、神楽は隣で不思議そうに眺めていた。
少ししてから夢月が取り出した包みの中には、多種多様な手作りクッキーが入っている。妖怪や昔の人間である彼らの口に合うのかは分からないが、食べて貰わなければ分かるものも分からない。
「あっ、あの、これ良かったら、食べてください」
意を決してマスターに包みを差し出す。傍らで見守っていた神楽と伊吹が、夢月の差し出す包みを不思議そうに見ていた。やはり彼らからしてみると、チョコペンなどでデコレーションされたクッキーは見慣れないのだろう。
突然夢月に見つめられたマスターは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに微笑んでそっと包みを受け取った。
「これは、クッキーですか。ありがとうございます」
マスターは包みを受け取ると、背後の戸棚から小皿を取り出してクッキーを綺麗に並べた。こうして綺麗に並べると、それなりに洒落て見える。皿のデザインが上質なのも大きな理由だろう。
テーブルに置かれるや否や珠吉が飛びつこうとしたが、伊吹が鷲掴みにしてそれを止めた。ジタバタと暴れる珠吉をものともせず、仏頂面の伊吹は猫又の身体を両手の中にすっぽりと収めた。
「とてもいいものだね。手作りかい?」
「はい」
「夢月さんは菓子作りがお好きなのですか?」
「ま、まあ、簡単なものならそれなりには」
皆が一つずつクッキーに手を伸ばし、口に運び出す。その様子をまじまじと見つめながら、夢月は彼らの反応を待った。
少し経つと、皆は嫌な顔一つせず、表情を柔らかく綻ばせ始めた。一応作った時に味見はしたが、それでも他人に贈るとなると心配になるものだ。
だが、彼らの砕けた反応を見る限り、味は大丈夫なのだろう。大丈夫どころか随分と気に入ってくれた様子でもある。
「美味しいですか?」
恐る恐る聞いてみる。ドクドクと心臓が脈打ち、いつ以来感じたのか分からない緊張が身体を縛り上げた。
だが、そんな緊張など杞憂だったようで、クッキーを頬張った珠吉はぱあっと表情を明るくする。小さいはずの身体が、逆立った毛によって一回り大きく見えた。それもすぐに落ち着き、見慣れた可愛らしいフォルムへと戻る。
『すっごく美味いぞ!』
珠吉がケラケラと笑いながら言う。猫だというのにクッキーを食べて大丈夫なのかと今になって気になったが、妖怪なのだからそこら辺は大丈夫なのだろう。妖怪とはなんとも便利な存在だ。
「昨日の晩に思いつきで作ったのでちょっと心配だったんですけど、喜んでもらえて良かったです」
そんな話をしていると、何者かにスカートの裾を引っ張られている感覚を覚えた。継続的に裾を引かれ、半ば無理やり足元に視線を向ける。
足元を見ると、小さな女の子がこちらを物欲しそうな顔で見つめていた。
「…⋯誰?」
夢月が不信感を隠しきれていない声でそう呟くと、女の子はびっくりしたのかその場から走り出し、真っ直ぐと伊吹の元へ向かって彼の高い膝の上へと登った。当たり前のように膝の上に座った童女の頭を、伊吹は慣れた手つきで撫でている。
誰かの子供だろうか。この中に既婚者らしき人はいないが、まさかこの童女も珠吉や梢と同じ妖怪なのだろうか。
「え、子供? 誰かの子供ですか?」
『座敷童子よ』
「え?」
テーブル席で静かにケーキを食べていた梢が言った。フォークを食器の上に置くと、ちらりと横目で夢月を見てから、伊吹の膝の上でニコニコと笑っている童女を見つめた。
座敷童子って、あの座敷童子か?
漫画やアニメなどで出てきがちな、王道中の王道の妖怪。この小さな女の子が、かの有名な座敷童子だというのか。
おかっぱ頭に桜色の着物を身に纏い、赤色の大きなリボンの帯を巻いている姿は、確かに座敷童子と言われればそう見えなくもない。
猫又やろくろ首を見た後だからか、こうも一目では妖怪と思えない姿をしていると、どうも勘違いを引き起こしてしまう。着物を着た小さな女の子など、いる場所によっては何ら違和感はないだろう。
初見でこの童女が座敷童子であると誰が気付けるだろうか。少なくとも夢月には無理な所業であった。
座敷童子は伊吹の膝の上に行儀よく座り、皿に並べられたクッキーを見て目を輝かせている。
先程の物欲しげな目も、夢月のスカートを引いたのも、このクッキーが欲しかったからなのだろう。座敷童子とはいえ、心は幼子のようである。
「食べますか?」
そんな幼い仕草が可愛らしく思えて、夢月はクッキーを一つ摘んで差し出してみた。突然声を掛けられた座敷童子はビクッと身体を震わせると、恐る恐る夢月の顔を見上げた。
静かに見つめ合ってみるが、どこにでもいる普通の女の子にしか見えない。けれど、その正体は座敷童子であるという。
座敷童子はクッキーと夢月の顔を交互に見つめ、やがてそっとその小さな手で受け取った。
『あ、ありがとうございます。えっと』
「夢月です。如月夢月」
『とこよ、です。これ、ありがとうございます』
舌の回らない口で必死に感謝を伝えようとする。紅潮する頬はぷにぷにとしていて愛らしい。思わず抱きしめたくなるほどの可愛さだ。さすがに初対面でそこまでする訳にはいかないけれど。
店内にいる他の客も彼女を知っているのか、とこよを見守る視線は温かい。この店の居心地の良さというのは、客同士の距離感にあるのだろう。暖かく見守る視線は、近すぎず遠すぎずの関係を守っている。
座敷童子は伊吹の膝の上で、小さな口でせっせとクッキーを頬張る。その姿はなんとも可愛らしいものだった。
「ゆっくり食べなさい。誰も取らないから」
優しく神楽は座敷童子の頭を撫でた。クッキーを食べながら嬉しげに頬を綻ばせる。
神楽の座敷童子を見る目は愛おしげで、自分の妹を見ているようでもある。彼くらいの年ならば、座敷童子ほどの年代の子供はギリギリ娘として見られるかもしれない。さすがに神楽に子供がいるようには見えないし、純粋に座敷童子の可愛さに表情を緩めているだけだろう。
伊吹の膝の上を陣取り、神楽に頭を撫でられている座敷童子自身、ここにいる者たちにはよく懐いているようで警戒心もないようだ。満更でもなさそうな様子が、返って座敷童子としての地位の高さを感じさせる。
「それにしても、ろくろ首に、猫又、座敷童子って。……ここは凄いですね」
当たり前のように会話をしているが、人間と妖怪が関わりを持っているこの店はやはり変わっている。この店に来るのは二回目だが、既に夢月の感覚は麻痺していた。当たり前のように珠吉と触れ合い、大人の女性として梢と関わる。
それがどれほど非現実的なことなのか、こうしてこの店のことを深く考え始めてからやっと実感できることだった。
生きる時代は違えど神楽と伊吹も同じ人間であるはずだ。マスターが“どちら”なのかは今は分からないが、この不思議な店を営んでいるだけあって扱いには慣れているようである。
皆は種族など関係ないというように親しみを持っている。人間と妖怪が楽しげに会話を交わす……夢かもしれないと思った瞬間もあったが、今なら思う。
これは夢ではなく現実である、と。いや、今だからこそ強く思えるのだろう。
「妖怪だろうが人間だろうが、願いというものは誰にだってあるものです。もちろん、とこよさんからも願いはお聞きしましたしね」
そう言い、マスターはポケットから一つの飴を取り出した。それを座敷童子に差し出すと、とこよはにっこりと笑って受け取り、大事そうに懐へとしまった。
座敷童子改め、とこよは神楽達だけでなく、もちろんマスターにも懐いているようだ。皆が親戚のように見えて少し羨ましい。決して伊吹の膝の上に乗りたいだとか、神楽に頭を撫でられたいだとかは思わないが、親しみを持って近い関係でいられる彼らがただただ羨ましいと感じる。
『ありがとうございます。……えへへ』
妖怪の願いとは、一体どのようなものなのだろう。妖怪が願いを抱くことなどあるのかと思うところもあるが、こうして妖怪が存在していることをこの目で見てしまった以上、人間と同じように何かを願うこともあるのだろう。
少なからず、願いと言えど人間とは懸け離れた考えを持っていそうなものだが。
そして何より、この店にいるということは、妖怪だけでなく隣に座っている神楽や伊吹にも願いがあるということだろう。
どんな人にも願いがあり、縁があってここにいる。願いは叶えようとしなければ叶えることはできない。
では、夢月の願いとは何だろう。
(願いなんて、考えたこともなかった……)
夢月だけではない。この店が存在していることすら知らない他の皆は――例えば華夏などは、自分の願いに対してこれほどまでに深く考えたことがあるだろうか。
オカルトなど関係なく、自分の願いに真正面から向き合ったことなどこれまでに一度もなかったと言い切れる。
それくらい自身の願いに無頓着に生きてきた。それが、この店に訪れる前の夢月であった。
「気になりますか?」
他の皆には聞こえないよう、夢月に向かって小さな声でマスターが言う。その表情は優しく、きっと現代にいればモデルなどで引っ張りだこだろう。見た目の華やかさからも、彼がいるだけでその場が明るく華やいでいる気がした。
この店に初めて来た時から思っていたが、マスターの声は不思議だ。聞いているだけで気分を落ち着かせてくれる。マスターの包み込むような優しさには、この店をこれほどまでに賑やかにさせる力があるのだろう。
凛としていて冷たく感じる声だが、よく聞くと柔らかく、かと言って弱くはなく芯を持った声をしている。
「はい。こんなに小さな子供もこのお店に来るものなんですね」
「そうですね。本当にどんな方でもお越しくださいます」
マスターのその言葉は、珠吉のような妖怪から、まったく違う時代を生きる夢月と神楽のような客人のことを指しているのだろう。
普通の人間もいれば、一目見ただけでは分からないほど人間と何ら変わらない見た目をした妖怪、一目見ただけで妖怪だと分かる存在もある。
この夢幻喫茶という存在自体が不思議で、そしてそんな不思議な店に訪れる客人もまた不思議だ。
「妖怪とか、昔の人とかでも皆願いを持っている。やっぱり人によって願いは変わるものなんだ」
「人や妖怪の数だけ願いもありますから。そんな願いの中でも、特にとこよさんの願いは変わっていましたね」
「変わっていた?」
「ええ。とこよさんは『この店にやってくる人々に幸せが訪れますように』と願っていらっしゃいました」
マスターは夢月から視線を動かすと、座敷童子や神楽達の方を幸せそうな笑顔で見つめ始めた。家族以上の強い絆というものが、彼らにはあるのだろうか。縁で巡り合わされただけの関係、それが夢幻喫茶という場所を経て、こんなにも強い絆で結ばれた。
夢月も同じように、マスターの眺める方向へ視線を動かす。一匹の猫又と一人の童女の姿をした妖怪、二人の軍人は楽しげに笑っていた。
目の前に広がる光景はただ不思議であるのに、不審だとは思わない。居心地が良く、ずっと見ていたいとさえ思う。そして叶うならば、あの輪の中に自分も入ることができないだろうか。
店にやってきてまだ日が浅い夢月にとって、そんなこと烏滸がましくて到底できそうにないけれど。
『いっぱい食べろー』
「こら、君が作ったわけじゃないだろう。君は遠慮を知りなさい」
我が物顔でクッキーを咥える珠吉を、神楽が一蹴する。しゅんと項垂れた珠吉を神楽は苦笑を漏らしながら見つめ、渋々クッキーを一枚摘んで差し出した。
切り替えの速さはさすが猫と言える。神楽に差し出されたクッキーに瞬時に飛びつくと、満足げに一口齧っていた。その様子を神楽は呆れた様子で見ている。それでも溢れ出る笑みは隠しきれず、神楽は頬杖を突いて微笑みを浮かべていた。
「美味いか?」
『美味しいですっ』
低くて冷たく聞こえる伊吹の声だが、とこよへ向けられた短い言葉には優しさがありありと滲んでいる。そしてその優しさを感じ取っているとこよもまた、無邪気な笑顔を浮かべて答えた。
三人と一匹はワイワイと楽しげにしながら、夢月の作ったクッキーを楽しく美味しそうに食べていた。
その様子を見て夢月はふと思う。やっぱりこの人たちに贈ってよかった、と。
今まで誰かにこうして作ったものを食べてもらうなんてことがなかったから、無性に嬉しいと感じる。
出会って間もないはずなのに、これほどまでに心を許しているのは、彼らが生きる時代など関係ないと思っているからなのか。それとも、素の性格が人と仲良くなりやすいからなのか。
彼らがどうであれ、店に漂う温かな空気はこの店ならではのものだろう。
「その願いは……もう叶ってますね」
「そのようですね」
『何を話しているんだ?』
珠吉が興味津々の様子でテーブルの上を移動する。その身体を、すかさずマスターが抱き上げた。
小さなふわふわの身体は簡単に持ち上げられ、はらりと毛が舞う。
「いえ、何も。ほらあまり動かないでください。毛が落ちますから」
『ふんなぁぁああああ! 我はただの猫じゃなぁぁぁぁぁあああいいい!』
「猫でないなら、大人しくしてくださいね」
慣れた手つきで珠吉を抱き上げるマスターは、とても幸せそうだ。その反面、不貞腐れた珠吉は何とも情けない声を上げている。
その様子を神楽は頬杖を突きながら笑って見守り、膝の上で座敷童子を抱える伊吹も微かに笑って見ていた。
神楽の言う通り、この店を愛しているからこそ笑顔が絶えないのだろう。
とても居心地の良い店だ。時空の狭間にあるというが、変わった客を除けば普通の喫茶店と変わらない。
人にとって喫茶店という親しみを持ちやすい場所に、彼らの温かさが合わさったから、こんなにも居心地がいいと感じるのだろう。
「ずっと、ここにいたいな……」
「いてくださってかまいませんよ?」
夢月の呟きを聞いたマスターが、なんとも妖しい笑顔を浮かべて言った。そんなに分かりやすく声に出ていただろうか。
見れば、マスター以外にも神楽や伊吹、とこよに珠吉も夢月を見ている。その視線は決して責めている訳でも、獲物を捕らえようとしているものでもなく、優しくて嬉しげで温かい。
やはりこの店に来てよかった。もう何度そう考えたか分からないが、それでも考えずにはいられなかった。
「この店は皆様の心の拠り所となる場所。気が済むまでここにいてくださって構いませんし、何度でも来てくださればいいです」
「……良かった。それなら、安心して明日も来れます。私、これから時間が許す限り毎日通いたいですから」
そう言ってやれば、マスターは穏やかに笑って見せた。
皆の表情が笑顔に変わる。きっと、彼らも同じ思いを抱いているはずだ。だから常連客になるくらい通っているに違いない。
ずっとこの時間が続けば。いつまでもこの時間が続けば。夢月は楽しげな彼らを見て、密かにそう願った。




