夢の始まり・1
扉を開けると、香り豊かなコーヒーの匂いが鼻腔を擽る。そして、そのすぐ後に追いかけてくるのは、甘く香ばしいケーキの匂い。
ここはあの世とこの世、天国と地獄、そして過去と未来、現世までもを繋ぐ小さな喫茶店。
時空の狭間に建つその店は、なんとも不思議で、何処か頼りなく不安定な存在だ。温かな暖色の照明に包まれた店内もまた、輪郭がほのかにぼやけていて曖昧である。
そんな摩訶不思議な場所は、「訪れる人々の心の拠り所になるように」という店主の願いのもと、日々しがなく経営されていた。
そして、ここを訪れる客達は皆、揃ってこう口にするのだ。
「この店を愛している」と。
客人達から深く愛され、客足の途絶えることのないこの喫茶店には、一つだけ不思議な掟がある。
それは、『対価は願い』というもの。
見た目も提供されるメニューも、誰しもが想像する普通の喫茶店と大差はない。しかし、提供された商品への「対価」だけが、決定的に異なっていた。
この喫茶店が見返りに求めるのは、ただ一つ。
――『願い』。
己が胸に抱く願いを、ただ一言口にするだけでいい。それだけで支払いはおしまいだ。
願いを聞くだけでどうして経営が成り立っているのか。そもそも、この喫茶店は一体何処から現れたのか。その謎は、長年通い詰める常連客すら知らないという。
謎に包まれたその店は、強い願いを抱く者の前にしか現れない。決して現世の日常に姿を現すことはなく、何の前触れもなく夢に現れては、招かれた者だけを客として迎え入れるのだ。
「マスター、いつものをもらえるかい?」
「ええ、少々お待ちください」
けれど、そんな店の謎に対して無粋な疑問を口にする者はいない。
何故なら――この喫茶店を訪れ、願いを叶えた客人は、二度と店に現れることはないのだから。
❁
人間は、日中に使い続けた脳と身体を休ませるために『睡眠』をとる。
眠っている間に細胞は修復され、記憶は整理され、心身のメンテナンスが行われるのだという。勉強の暗記ものは寝る前にするのがいいと言われるのも、眠っている間に脳内が整理整頓されるからだ。
睡眠には、脳が活発に動いて夢を見る『レム睡眠』と、脳も身体も深く休まる『ノンレム睡眠』がある。夢を見ずに深く熟睡できているときは、ノンレム睡眠の状態なのだそうだ。
生きる上で欠かせない、眠るという行為。
けれど、人はただ疲労を回復させるためだけに眠るのではないのかもしれない。
眠ることによって、人は時に――夢の中で、あり得ないはずの不思議な出会いを果たすのだから。
❁
もともと、夢を見ることは少なかった。見たとしても朝起きたら忘れてしまうし、これまで気に留めたこともない。毎日夢をはっきりと覚えている人間なんて、世界中を探してもごく少数だろう。
けれど、時に説明のつかない、浮世離れした不思議な夢を見ることがある。
それも、ただの夢ではない。見た夢がそのまま現実になるという『正夢』だ。
夢が現実になるなんて馬鹿馬鹿しい。誰だってそう笑うだろう。
けれど、実際にそれを経験してしまったら、笑い飛ばすわけにもいかない。まともに夢なんて見ないとしても、あんな夢を見て、それが現実になってしまうなんて――。
その始まりの夢は、唐突に訪れた。
――肌寒さと息苦しさを感じ、助けを求めようとした瞬間、不意に身体の動きが止まった。
その時になって初めて、自分が何処かに向かって歩いていたのだと気づく。けれど、何処を目指しているのかなど分かるはずもない。
右も左も分からない暗闇の中を、宛てもなく歩き続ける。自分の周りが暗いのか、それとも自分が目を瞑っているだけなのか。それすら分からぬまま、恐怖すら麻痺した暗闇をひたすら進んだ。
どれほど歩いたろうか。ふと目の前に、小さな明かりが現れた。
ゆらり、ゆらりと揺蕩うその光。まるで誘われるように勝手に足が動き出し、徐々に速度を増していく。
考えることも、逃げ出すこともできない。ただひたすらに、光を目指して歩みを進めた。
点だった明かりは近づくにつれて大きくなり、気がつけば視界いっぱいに溢れ返るほどの強い光となっていた。
不思議と怖くはなかった。本能が「進め」と叫んでいる。その声に従って光の中へと飛び込むと、自然と足が止まった。
眩しさに慣れた目で前を見つめると、そこにあったのは――闇の中にぽつんと佇む、場違いなほど温かな佇まいの喫茶店だった。
『おいでませ、夢幻喫茶へ』
その声が聞こえた瞬間、視界がふっと暗転する。
身体全体を包み込むような抱擁感と、余裕のある優しい声。声質からして男性のものだろうか。けれど、もう思考する力など残っていなかった。
意識が闇に沈み込み、全てを委ねようとしたその時、男の声が頭の中で心地よく反響した。
――視界が白く染まっていく。
朝の陽光に照らされ、重い瞼を開けると、そこにあったのは見慣れた真っ白な天井だった。
やけに暑苦しいと思ったら、掛け布団を鼻先まで被っていたらしい。布団を押し退け、ゆっくりと身体を起こす。
「う……」
ズキズキと頭が痛み、視界がぐらりと歪んだ。痛む頭を押さえながら、ベッドの上で呆然とする。
これほど鮮明な夢を見たのはいつ以来だろうか。
暗闇の中に佇む喫茶店。そして、あの謎めいた男の声。目覚めた今もなお、耳の奥にその余韻が残っているようだった。
❁
「へー、不思議な夢だねぇ」
昼休みの教室。向かいの席で弁当箱を抱え、身を乗り出してきたクラスメイトの華夏は、能天気な声を上げた。
宝石を初めて目にした子供のように目を輝かせる華夏に対し、向ける場所を失った視線を膝の上の弁当箱に落とす。
あの夢を見てからというもの、どうにも気になって物事に集中できないのだ。
朝の身支度中も、通学路を歩いている間も、読経のような朝礼中も、授業中も。頭の中はあの喫茶店のことでいっぱいだった。
このままでは頭がおかしくなりそうだと思い、試しに華夏へ話してみたのだが……「見ず知らずの喫茶店が夢に出てきた」なんて、我ながら馬鹿げた話だと苦笑してしまう。
しかし、そんな心配は杞憂だった。オカルトや怪談が大好きな華夏は、窓からの陽光を浴びながら興味津々で食いついてきたのだ。
「見ず知らずの喫茶店が夢に現れた……うーん、夢と言えばやっぱり『正夢』かな! もしかしたらそれ、正夢になるかもよ?」
ニッコリと笑い、口元に人差し指を当てる華夏。あざといまでの仕草だが、本人は無意識なのが恐ろしい。華夏は箸で摘んだ黄色い卵焼きを、ひょいと口に放り込んだ。
「正夢……?」
「知らない? 夢で見たことが、そのまま現実になっちゃう夢のことだよ」
無邪気に笑う華夏は、高校生にしてはやけに幼く見える。
今しがた話した内容も、彼女にしてみれば大好物のオカルトジャンルに分類されたらしい。だが、第三者としてオカルト話を聞いている分には楽しめても、いざ自分の体験となると話は別だ。途端に現実味が薄れ、無意識の内に拒絶反応が芽生えてしまう。
「ないない。だって夢だよ? 現実じゃあるまいし」
「えー、私は正夢ってあると思うなぁ。幸せな夢なら、現実になった方が嬉しいじゃん」
「それはそうだけど……じゃあ、怖い夢が正夢になったらどうするの?」
その問いに、ぴたりと間が空いた。
真っ直ぐこちらを見ていた華夏は、気まずそうに視線を右手の窓の外へと逸らす。その分かりやすい逃げ腰の仕草に、思わず笑いが零れる。
「あ、逃げた」
「もうっ! そうやっていきなり難しいこと言うんだから! 私に難しいことは分かんないの!」
華夏は乱暴にお弁当の蓋を閉め、巾着袋に仕舞うと勢いよく立ち上がった。数歩進んでから振り返り、「べーっ」と舌を出して悪態をつく。そうして逃げるように自分の席へと戻っていった。
❁
夕焼けが街を茜色に染める頃。
賑やかな商店街を歩きながら、ふと昼間に華夏と話した『正夢』に思いを馳せる。
夢が現実になる。そんなこと、本当に起こり得るのだろうか。
どれだけ考えてもフィクションにしか思えないが、あの時の華夏はやけに確信めいた顔をしていた。
(……私にしてみれば、ただの夢物語だけど)
歩道に落ちる自分の影を見つめながら、溜息を吐く。
――カラン。
その時。静かな鈴のような、小さな鐘の音が耳を掠めた。
繊細で、何処か澄んだ音色。立ち止まって辺りを見回すが、音の鳴りそうなものは見当たらない。
「気のせい、か……」
言い聞かせるように声に出し、再び前を向く。
背中に纏わり付く謎の不安から逃れるように、大袈裟に歩幅を広げて歩き出した。
――カラン、カラン。
今度は、早めた足取りに合わせるようにして、二回連続で音が鳴った。
幻聴ではない。ハッキリと、すぐ近くで聞こえた。
ぞわリと鳥肌が立ち、恐る恐る後ろを振り返る。
けれど、そこには夕暮れの商店街が続いているだけだ。通り過ぎる買い物客たちは鐘の音など聞こえていない様子で、平然と歩いている。
「ふぅ……良かった……」
強張っていた肩から力が抜け、胸を撫で下ろす。
やっぱり気のせいだったのだと自分に言い聞かせ、前を向いて踏み出した瞬間――ふわりと、一風変わった温かい風が肌を掠めた。
コーヒーの香ばしい匂いと、甘いケーキの匂い。
「え……っ?」
あり得ない。こんなこと、あり得るはずがない。
「なに、これ……」
目の前に、さっきまで影も形もなかったはずの喫茶店が、堂々と建っていた。
重厚な木製の扉。アンティークな佇まい。見覚えなんて、あるはずもないのに――知っている。
「夢で見た……喫茶店……?」
『――もしかしたら、正夢になるかもね――』
昼間の華夏の声が脳裏を過る。
本当になってしまった。夢が、現実になってしまったのだ。
恐怖と激しい好奇心で、心臓がうるさいほどドクドクと脈打ち始める。異世界に一人放り出されたかのような錯覚。立ち尽くす夢月の背中を、不意に優しく背中を押すような風が吹いた。
「あっ――!?」
誰かに押されたようにたたらを踏み、半ば強制的に店内へと踏み込んでしまう。自動ドアでもないのに、入口の木製扉がひとりでに開いていた。
――カラン、カラン。
先ほど聞こえた鐘の音が、店内いっぱいに響き渡る。
もう逃げ出すことはできない。観念して、恐る恐る店内へと視線を巡らせた。
そこは、橙色のモダンな照明が全体を温かく包み込む、落ち着いた空間だった。
(なんだ……すごく綺麗な、普通の喫茶店じゃん)
安堵しかけた、その時。
「おやおや、お客様ですか」
突然声を掛けられて、夢月は飛び上がるほど跳ね起きた。
声のした方――カウンターの中を見ると、背の高い男性と目が合った。
「おいでませ、夢幻喫茶へ」
「あ、あの! 私、客っていうか、間違えて入っちゃって――!」
夢で聞いたものと全く同じ言葉。
慌てて手を振り弁明しようとするのも構わず、男性は穏やかな微笑みを絶やさない。
「こちらの席へどうぞ」
拒絶する隙すら与えられず、吸い寄せられるように足が動き、カウンター席へと着席させられていた。
目の前に立った男性を見て、思わず息を呑む。
背中で一つに束ねられた長い銀白の髪。通った鼻筋に、何処か浮世離れした色白の肌。整いすぎた顔立ちは外国人のようにも見えたが、纏う雰囲気には何処か和の情趣があった。思わず目を奪われてしまうほど綺麗な男の人だ。
「何にいたしましょう」
「え、えっと……」
ふいに男の美しい瞳がこちらを捉え、視線が交差する。トクン、と胸が跳ねた。
気恥ずかしさを誤魔化すように、テーブルのメニュー表へと視線を落とす。
店の雰囲気に反して、メニューは上質な和紙で作られており、美しい毛筆でメニュー名が書かれていた。
しかし、目を凝らしてみても達筆すぎる横文字ばかりで、何が書かれているのかさっぱり分からない。その中で唯一読めた『カフェラテ』の文字を指差し、夢月は逃げるように注文した。
「じゃ、じゃあ、カフェラテをお願いします」
「かしこまりました」
男は深々と一礼すると、奥の調理場へと戻っていった。
一人残され、そわそわと辺りを見回す。緊張を解そうと深呼吸を繰り返すが、全く落ち着かない。
間違いなく、ここは夢に出てきた店だ。けれど、夢の中では店内まで見えなかった。
ここが現実なのか、それともまだ夢の中にいるのか。
だとしたら――何故。
(店の中に……妖怪がいるの……!?)
思わず目を疑った。
店内にいる客達は、どこからどう見ても人間ではない。
絵本やアニメでしか見たことがないような『人外』達が、当たり前のように席に座り、コーヒーを飲んだりケーキを味わったりしているのだ。
着ている服も、コスプレにしてはあまりにもリアルで、時代錯誤なものばかり。あまりジロジロ見ては失礼だと自分に言い聞かせ、急いで視線を外そうとした――その時。
『おや、見ない顔だねぇ』
「ひゃいっ!?」
『何だい、ろくろ首を見るのは初めてかい?』
ぬんと、顔のすぐ横から女の顔が生えてきた。
首がぐにゃりと二周ほど輪を描いて伸びており、女は夢月の耳元で「ふふ」と妖しく笑う。
『若いお娘さんかい。また珍しいこともあるもんだ』
爪先から頭のてっぺんまで、品定めするように舐め回してくるろくろ首。恐怖を通り越して「早く終わってくれ」と心の中で祈るしかない。
『見るからに女子高生だねぇ。普通の人間がどうしてここに』
「そこらへんにしておいたらどうだい」
凛とした男の声が、ろくろ首の発言を遮った。
声のした方を見ると、そこにはひらひらとした外套に身を包み、旧時代の軍服を着た若い男が立っていた。
カウンターの端に座っていたその男は、ゆっくりとコーヒーカップをソーサーに置く。大正時代を思わせるモダンな軍装。大日本帝国の軍人のようにも見えるが、雰囲気はどこか柔らかく、紳士的だ。
「軍人……さん?」
『つれないねぇ、あんたも。そんなんだから誰にも相手にされないんだよ。現にそんな端っこで一人寂しく飲んでさぁ』
男は立ち上がると、隣の席へと移動してきた。足を組み、頬杖をつきながら、ろくろ首――梢を軽やかに受け流す。
「それは君の方だろう。首を伸ばして客を怖がらせるのが君の趣味かい?」
『なっ……! あんたに言われたくないよ!』
ろくろ首途端に顔を真っ赤にし、キーッと声を上げると、そそくさと首を縮めて自分のケーキを食べ始めた。
軍人はろくろ首からあっさりと興味を失うと、優しく目を細めた。
「君は、初めてのお客さんだね。ここに辿り着いたということは……」
「『縁』がある、ということですね」
タイミングよく、マスターが白いカップを手に戻ってきた。軍人の言葉を引き継ぐようにして、目の前にそっとカップを置く。
「カフェラテでございます」
『あーッ! ずるいぞ! 我にもそれを越こせ!』
突然、右側から丸っこい黒い塊が飛び出してきた。
カップに頭から突っ込みそうな勢いで身を乗り出してきたのは、三角耳と、先端がふたつに分かれた尻尾を持つ黒猫だった。毛並みは生まれたての子猫のようにパヤパヤと逆立っている。
「な、何これ……ぬいぐるみ……?」
『ぬいぐるみとは不敬な! 我はれっきとした猫又様だぞ!』
「ね、猫又ぁ!?」
思わず叫んでしまったが、責めないでほしい。黒猫が仁王立ちになり、人語を喋って「ふふん」と鼻を鳴らしているのだ。叫ばない方が無理というものだ。
「ダメですよ、珠吉。貴方はすぐ零すのですからこちらへ」
不機嫌そうに威嚇する猫又――珠吉を、マスターはひょいと持ち上げた。
珠吉は空中で四肢をばたばたさせながら暴れ回る。
『ふにゃあああーっ! 離せぇぇええ! 離すのだマスター!』
シャアッと牙を剥く姿は完全に普通の猫だが、二股に分かれた尻尾だけが、彼が妖怪であることを主張していた。
「本当に、尻尾が二つある……」
『猫又だから当たり前だろ!』
指先でつんつんと尻尾を突くと、珠吉は甲高い声で怒鳴った。
人語を話し、二股の尻尾を持つ黒猫。……いや、そもそも猫又が当たり前な世界なんて分からない。
「人間のお嬢さんに『猫又』と言って、すぐに信じてもらえると思うかい?」
『む……それは、まあ……』
混乱しているところを見かねて、軍人が助け舟を出してくれた。彼にバッサリ切られた珠吉は、マスターの手の中でチーズのようにびよーんと伸びたまま、しゅんと落ち込む。
店内からは、常連客達のクスクスとした温かな笑い声が漏れていた。
「失礼、まだ名乗っていなかったね」
軍人は紳士的な動作で軍帽を脱いだ。癖のある茶髪がハラリと額に落ちる。
帽子で隠れていた顔は思いのほか若く、二十歳前後に見えた。落ち着いた瞳には、大人びた知性と凛とした佇まいが宿っている。
「神楽右京。よろしくね、お嬢さん」
「私はこの『夢幻喫茶』の店主で、アルと申します。以後お見知りおきを」
アル、という名前。やはり外国人なのだろうか。しかし日本語はあまりにも滑らかで、所作には日本の伝統的な美しさが宿っている。
『我は猫又の珠吉様だ! 崇めるが良い!』
カウンターに着地した珠吉が、威張って胸を張る。首輪についた小さな青い鈴がカランと鳴った。
「で、そっちの素直じゃないのが」
『梢よ。失礼な言い方はやめてちょうだい』
梢は横目で神楽を睨みつけると、プイと横を向いてショートケーキを頬張った。完全に「話しかけるな」のオーラを出している。
「あ、私は……如月夢月です」
「夢月さんですね。良いお名前だ。どうぞ、ゆっくりしていってください」
この出会いが、自分の人生を大きく変える始まりになるとは、この時の夢月はまだ知る由もなかった。
❁
「夢幻喫茶」に来てしばらくが経ち、最初の混乱からは少し落ち着いてきたものの、疑問は深まるばかりだった。
妖怪に、昔の軍人。そして、誰よりも浮世離れしているマスター。
マスターからは、生きている人間が持つような「生気」のようなものが感じられない。かといって、不気味な妖怪とも違う。
(不思議な人……)
夢月がじっと見つめていると、マスターはカップを拭く手を止め、優しく微笑みかけてきた。あまりの美形ぶりに、思わずドキリとして視線を泳がせてしまう。
「どうされましたか?」
「あ、えっと……色んなお客様がいるんだなって思って。猫又に、ろくろ首に、軍人さん……」
普通なら、パニックになって逃げ出してもおかしくない状況だ。なのに、店内にいる誰もがこの異様な空間を当たり前のように受け入れ、穏やかな時間を共有している。
「この店は、様々な『縁』を繋ぐ場所なのです」
マスターは慈しむような声で言った。
「縁……。私がここに来たのも、縁なんですか?」
「ええ。縁とは自分の意思で選ぶものではなく、全ては最初から決まっているのですよ。夢月さんがあの夢を見られたことも、本日ここへ足を運ばれたことも」
マスターの言葉に、神楽が静かに頷いた。
「ここにいる者は皆、少なからずこの店に救われている。そして、この店を愛しているのさ」
『まあ、ふん……居心地だけは悪くないわね』
梢が照れ隠しのように呟き、珠吉も「我もここが大好きだぞ!」と胸を張る。
温かく、何処か懐かしい空間。ここにいると、日々の悩みや孤独が綺麗に溶けていくような気がした。
(ずっとここにいられたら、どんなにいいだろう……)
ふと、夢月は重大なことに気がついた。
「あっ! お金……! 私、お財布持ってきてないです! どうしよう食い逃げになっちゃう……!」
「ふふ、大丈夫ですよ。当店ではお金はいただきません」
「えっ? でも……」
「代わりに、『対価』をいただきます」
マスターはそっと人差し指を口元に当てた。
「この店の対価は、お客様の『願い』です。貴方が胸に秘めた願いを一つ、口にしていただくだけで、お支払いは完了いたします」
願い。
将来の夢、あるいは神様に祈るような、切実な想い。
「ここに辿り着いたということは、夢月さんにも叶えたい『願い』があるはずです」
マスターにそう問いかけられ、夢月は自分の胸に手を当てた。
神楽、梢、珠吉、そしてマスター。皆、それぞれの想いを抱えてここにいる。なら、自分にある願いとは何だろう?
けれど――どれだけ考えても、何も浮かんでこなかった。
「すみません……私、自分の願いが……思いつかなくて」
「いきなり問われて答えられるものではありませんよね。配慮が足りず、申し訳ありません」
申し訳なさそうに謝るマスターに、夢月は慌てて手を振った。
「あ、謝らないでください! ええと……対価になるか分かりませんけど……」
夢月は、意を決してマスターの目を見つめた。
「『明日もまた、ここに来たい』……じゃ、ダメですか?」
店内に、静寂が訪れた。
マスターも、神楽も、梢も、珠吉も。一斉いきょとんとした顔で夢月を見つめている。
(やっぱり、こんなの願いにならないよね……怒られたり、妖怪のご飯にされたりするのかな)
不安で縮こまりそうになったその時。
マスターの驚いたような目が、これまでで一番温かな、満面の笑みへと変わった。
「ええ、もちろんです。いつでもお越しください。それが、貴方の立派な『願い』です」
「本当ですか……!? やったぁ!」
子供のように喜んでから、夢月は恥ずかしくなって立ち上がった。鞄をしっかり抱え直し、扉の前で振り返る。
「私、また絶対来ますね!」
「ええ。いつでもお待ちしております」
カラン、カラン、と澄んだ鈴の音を残して扉を開けると――そこには、見慣れた夕暮れの商店街が広がっていた。
振り返ると、そこには喫茶店などなく、張り紙の貼られた古い空き家があるだけ。
けれど、手にはまだカフェラテの温もりが残っている気がした。鼻腔には、あの香ばしいコーヒーの匂い。
(また、明日も会える)
夢月は胸に小さな灯火を宿しながら、軽やかな足取りで家路へとついたのだった。
❁
『まったく……変わった娘ね』
静まり返った店内で、梢が呆れたように息を吐いた。
『分かっていないわ、あの子は。自分がどんな『願い』を抱えてここに来たのかも……』
「あの子には、まだ時間が必要なのさ」
神楽が帽子を被り直しながら、静かに立ち上がる。
「マスター。あの子はまた来るよ。……いや、あの子にはここが必要なんだ」
「ええ。彼女がご自身の『本当の願い』と向き合うその日まで、私はここでコーヒーを淹れ続けるだけです」
客達が一人、また一人と背景の闇へと溶けて消えていく。
最後に残った神楽は、扉に手をかけ、振り返って不敵に微笑んだ。
「扉の向こうの世界は、相変わらず生きづらいものだよ。……だが、だからこそ愛おしい」
神楽が扉を開けると、激しい茜色の夕光が店内へと差し込み、彼の姿を呑み込んでいった。
パチン、と照明が落ち、店内は静かな宵闇に包まれる。
「さて……明日も、あのお客様を迎える準備をしましょうか」
夢幻喫茶の夜が、静かに更けていく。
次に訪れる客が、どのような願いを抱えているのか――それはまだ、誰も知らない。




