二十九話:霧の心
セラフィナは最近、風の音が嫌いだった。
風の音が一番はっきり聞こえたのはアスイェがいない午後だった。
セラフィナはただ、庭の影に座っているだけだった。
一枚の葉が彼女の前に落ち、まるで誰かが手を振っているように揺れた。
彼女は無視しようとしたが、見えない手に胸を押さえつけられるような息苦しさを感じた。
セラフィナの呼吸がどんどん浅くなった。
耳が鳴った。
目眩がした。
セラフィナは耳を塞ごうとしたが、手が動かないことに気づいた。
アスイェの名を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
耳鳴りの音はどんどん大きくなり、やがてはっきりと聞こえるようになった。
ドン、ドン……
セラフィナはその音を知っていた。
それは心臓の音だった。
少女は人の子だったが、その心臓はとっくに止まっていた。
彼女の命はアスイェに救われた。
セラフィナはあがこうとしたが、それすらできなかった。
その瞬間だった。
――彼女には人影が見えた。
その人は顔が霧の中にあり、よく見えなかったが、それでも目だけは見えた。
閉じていた目が開き、その目は赤く、まるで薔薇のようだった。
セラフィナを見ていた。
言葉はなかったが、その目は彼女を誘っていた。
その目はアスイェのものではないと、セラフィナは知っていた。
それでも、その目はあまりにも美しく、抗えず――そのまま堕ちる瞬間……
彼女は抱きしめられた。
「ア、アスイェ?」
「うん」
セラフィナの目から涙がこぼれた。
アスイェの腕には人の温もりはなかったが、セラフィナにとっては悪夢から引き離してくれるものだった。
涙が止まらなかった。
セラフィナは泣きながら言った。
「セラのところに来るって……アスイェは、言ったのに……」
アスイェはただ、しっかりと少女を抱きしめ、背中を撫でた。
「もうセラを見つけたから、しっかり寝るといい……」
彼はセラフィナの泣き腫らした目を見つめ、涙を拭き取った。
泣き疲れたセラフィナはそのままアスイェの腕の中に眠りに落ちた。
今度の夢には、怖いものはなかった。
***
アスイェが違和感を覚えたのは、彼が本を十三頁ほど読み終えた頃だった。
屋敷の外で、何かが変わった。
彼は屋敷のすべてを「見る」のに、目だけに頼っているわけではない。花の揺らぎ、風の向き――
アスイェは全てを知っていた。
――その何かが変わる前は、すべてが規則正しく動いていた。
彼が少女を見つけたとき、セラフィナは廊下の柱のそばに立っていた。
何かをじっと見つめていたが、視線の先には何もなかった。
アスイェはセラフィナに近づいた。
「……セラ」
少女は返事をしなかった。
その目は霧に遮られたように、光を宿していなかった。
彼は少女の頬に手を置いた。
熱い。
セラフィナはまだ、熱が出ていた。
これは覚醒の熱だった。
アスイェはセラフィナを抱きしめた。
「……見つけた……」
その時、セラフィナは震えていた。ぎゅうっとアスイェの服を握り、そのまま体を預けた。
「セラが戻らないかと思った……」
「知ってる……」
涙が少女の顔を濡らし、やがて少女は眠りに落ちた。
アスイェは人のいない廊下を歩き、セラフィナを部屋へ戻した。
アスイェには時間があった。今夜は、少女が目を覚ますまで待つだけだった。




