第9話 悪魔の誘い
翌日、木曜日――。
「おはよー小夜」
「おはよー麻衣」
クラスメイトの麻衣が、当たり前のように私の前の人の席に座る。
私はノートの上を走るシャーペンを止めて顔を上げながら言った。
「今日の昼までに歴史のノートの提出だけど麻衣は終わったの?」
「えー! 全然やってないよ! 明日までじゃなかったの!」
麻衣はそう言ってすぐに自分の席に戻ってノートを開き始めた。
今から始めて間に合うような量じゃないから大変だと思うのに。
すると、麻衣が居なくなったのを見たからだろうか、同じクラスで吹奏楽部員の男子が突然、麻衣がさっきまでいた前の席に急に座ってきた。
「お前さ、昨日とか一昨日、駅でサックスやってなかった?」
「……何のこと? 知らないけど」
「この目で見たんだから間違いないだろ。それでさ、お前すっごく上達してたくない?」
「は……?」
あっち行って、と言ってどかせたり、麻衣を呼んでどうにかしてもらったりすることもできた。
正直そうしたかったけど、周りから変な風に見られているような気がしたから、上手く行動に移せなかった。
「お前さ、ちゃんと皆でやるなら吹奏楽部に戻って来いよ。サックス今ほぼ0人なんだよ。なんなら、そんなちっぽけなライブなんかよりさ、俺がキーボードやってデュオバンドするでも良いからさ」
この、何も悪いと思っていなそうなニヤけた表情が心底気持ち悪かった。
胸の奥で押し殺していた怒りが、一気に煮え立った。
「嫌です」
何が「ちゃんと皆でやるなら」だよ。
私を省いたのはお前達だろ。
今更私に縋ってくるなよ。
……と、言いたくなったけれど、事を大きくしたくなかったから、断りの一言で片付ける形になった。
運が良いのか悪いのか、その時ちょうど桐也君も教室に入ってきているところだった。
一瞬でもイライラしているところを彼に見られたら、私の中の私が崩れてしまうと悟った。
私は誤魔化すようにささっとノートとペンを掴んで、麻衣の座っている席の方へ行った。
私はもう、自分の思うように演奏するんだ。
誰かに奪われることのない、私だけの音にするために。
あれから1、2時間が経つ頃にはもう、今朝の出来事はすっかり忘れていた。
そんなことより隣に座る桐也君は、相変わらずクールに学校生活を送っている。
早くも東京の学校に慣れたのだろう。
彼の振る舞いに憧れを持つと同時に、少し寂しさもあった。
多分、話しかけたら快く返事してくれるはずなんだけど、依然としてツンとしている感が否めない。
悪く言えば、対話を拒否しているかのように受け止められて、気まずくて話しかけられなかった。
昼休みになって、桐也君はさっさと教室を出てしまった。恐らくこの前と同じで他の男子に誘われているのだろう。
すると何か、心の奥に虚無を感じるような気がした。
結局私は夢だけを見て、現実では麻衣とチラチラ喋っているだけなのではないかと。
「上手く行ってる?」
「今聞くことじゃない。場所も状況も」
「そんなに……大変なのね」
「そ、そういう意味じゃなくて」
「ってことはじゃあ……!」
「どの道良い感じじゃないのは変わりないんだけどね」
「……そっか」
麻衣は眉を八の字にしながら、気まずそうに笑った。
自然と女子トイレの方へ2人の足が進む。
「もうちょっと柔らかく接してくれたらなぁ……」
「心の声漏れてるよ」
「うん……。多分言いたくて言ってるんだと思う」
「私に聞いて欲しくて……!?」
うん。
悪く言うならほぼ愚痴みたいになっている。
実際、桐也君ともっと楽しく喋れたらなと思うばかりだ。
「まあまあ、ゆっくり行こうよ。あの子はまだここに来たばっかりだし、そんなにすぐ色が透けるとは思えないしさ」
「そうだよね。ありがとう麻衣」
高望みかもしれない、と思いながらも少しは期待している自分がいることに気付いた。
桐也君は私のことを何とも思っていないかもしれない。
そもそも私は夜、公共の場で迷惑なことをしている女であるし。
ネガティブ思考がどんどん自信を奪っていく。
気持ちを入れ替えないと。
今日の午後の授業は1回でも話せるだろうか。




