第3話 水曜日の放課後
自転車の前カゴを掴まれ、強引に近くの小さな公園へ歩かされる。
「おい、何すんだよ」
「絶対秘密にしてよ! なんでアンタがここに居るのよ!」
「なんでって、塾帰りだし駅に居ても別におかしくないだろ」
「あぁもうっ、ほんとサイアク。今日はついてない……」
その途端、彼女はベンチに座り込み、サックスが入った大きなケースをぎゅっと抱いて泣き始めた。
彼女の涙はぽろぽろと垂れて、公園の乾いた土に落ちる。
「ちょ、なんで泣いてるんだよ」
「もう構わないで……」
「いや、その……。確かに、突然覗き見したのは俺が悪いけどさ、こんな時間に、あんな街中で演奏しているのを聞いたら聴きたくなるだろ。塾の授業中も若干聞こえてたしさ……。これくらいで泣くなって」
「もういいの! アンタも私のことを迷惑がるんでしょ! 塾の授業に集中できないとか言ってさ!」
彼女はそう言って荷物を全部持ち、「誰かに言いふらしたら絶対許さないから!」と言い残し、走って帰ってしまった。
「おい、待てよ――」
彼女は一切振り向かず真っ直ぐ走って消えた。
ハァと小さくため息を着くと、彼女が座っていたベンチに、彼女のものと思われる音符のキーホルダーが置いてあった。
(あいつ、多分忘れて行った……。明日学校で届けてやるか)
――塾の授業に集中できない、か。
確かに俺の集中力は削がれたかもしれない。
俺の頭の中の音楽プレイヤーはあのサックスに侵されたかもしれない。
でもそんなことはどうでも良く、俺は本当は、その魅了する音色を褒めたかったのだ。
ただ「凄かった」と言うだけなのに、不運にもタイミングを逃したことが悔やまれた。
3つ4つ、彼女の涙で濡れて色が変わった土が不均一に残されていたのを見て、複雑な気持ちになった。
今でも、頭の中には彼女のサックスの演奏が流れている。
脳裏にこびり付くように流れる音を止めようとしても、依然として響き続けるものだから、仕方なくそのまま自転車を漕いだ。
この時はなんだか足枷をつけられたかのように、ペダルを漕ぐ足は遅かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
終わった。運が悪すぎる。
クラスメイト――よりによって男子に、夜の私を見られるなんて。
走りながら、目をぎゅっと瞑った。
涙が滲み出る。
その途端に、あの頃の記憶が脳内を侵食する。
音楽室で、皆が私を見ている。
やめろ――――
やめろ――――――――
やめろ…………。
やめろ………………!
頭の中を蝕むように、あの声が脳内に響いて意識を襲う。
四方八方から向く視線を前に、顔をあげることができなかった。
周囲から放たれた矢印が、そのまま体に刺さるように傷を付けていく。
『音楽をやめろ!』
ハッと目を開けたら、いつの間にか自宅の前に着いていた。
無心で走っていたから、どうやって帰れたか思い返そうとしても思い出せない。
心臓が痛い。呼吸が荒い。
玄関の前で、膝に手を当てて深呼吸した。
大丈夫、大丈夫。私はもう大丈夫だ。
頭の中で暴れるあの声をかき消すように、何度も唱えた。
そっと目を瞑ると、最後の一筋が頼りなく流れて伝った。
涙の跡は、頬をまっすぐ進んでいなかった。
翌日の放課後――――。
全部活動がOFFである今日、水曜日。
クラスメイトは皆、逃げるようにさっさと下校していく。
教室には、宮田杏輔と私の2人だけだった。
「アンタ、誰にも言ってないでしょうね?」
「もちろん誰にも言ってないよ。なんだよ急に呼び止めて。そんなに焦ることじゃないだろ」
「私にとっては焦ることなのよ」
「……確かにあんなとこで楽器を吹いてたら迷惑がられるとは思うけど、それに関しては自由にやれば良いと俺は思うよ?」
「……ホント?」
彼の口調はぶっきらぼうだった。
例の大人びた転校生とは正反対だ。
「俺はただ、お前の演奏が――――」
「私の演奏が、何?」
「……お前の演奏が凄くカッコ良かったから、興味が湧いただけなんだよ。お前の演奏を馬鹿にするつもりは全く無いから」
拍子抜けするほどあっさり言葉を繋げていくものだから、驚きを隠せなかった。
クラスの男子にそんな優しいやつがいること自体、驚きだった。
彼は、机の上にある自分の筆箱に目線を落として続けた。
「やっと言えた。昨日ずっとモヤモヤしてたんだ。俺は、『上手かったよ』って伝えたかっただけなのになって」
「そんな…………、そんな風に思ってくれてたのに私、突き放しちゃって……。ごめん!」
「ううん、全然大丈夫だよ。むしろ、お前なりに色々考えてたのは分かったからさ。悪いのは黙って覗き見した俺だし、謝らないで。秘密にしてたことを知ってしまったのは俺だしさ。……まあ、できればまた聴かせてくれたら嬉しいなとは思う」
そう言って笑う彼の笑顔は、真夏の太陽みたいに眩しかった。
窓から差し込む細い夕方の陽光が彼の姿に重なり、なおさらに暖かく感じた。
ひとつだけ開いていた窓から、滑らかな風が曲線を描くように吹く。
暖かいような涼しいような風が、頬を撫でて後ろへすり抜けた。
「帰るね。塾の宿題をしないとだから」
「うん」
杏輔は、「あっこれ」と言って何かを私の机の上に置いてから、短く「じゃっ」と言って走って教室を出て行った。
それは、私のキーホルダーだった。
即座にバッグを見ると、確かにいつの間にか外れていたみたいだった。
昨日の夜、落としていたのか。
なんだよ。
全然悪いヤツじゃないじゃん。
あんな失礼な態度を取ったのにも関わらず、そこまで責めずにいてくれるなんて、少し意外だった。
私は少し、人を過剰に疑いすぎていたのかもしれない。
アイツらみたいに、私を蔑んでばかりのサイアクな輩とは大違いだ。
建物の影に沈みゆく夕日を見ながら窓を閉めて、教室を出た。
綺麗な夕日のおかげで浄化されたからなのかは分からないけれど、不思議と気分は悪くなかった。




