第19話 涼風と金木犀
「小夜……?」
名前を呼ばれた気がしておそるおそる目を開けたら、目の前には、片膝を着いて心配そうに見つめる杏輔の姿だけがあった。
「杏輔……?」
「おい、急に俯き始めたと思ったら震えて、びっくりしたぞ。大丈夫か?」
涙と冷や汗が止まらない。
「まさか、変なことを思い出してこうなったのか?」
「もう、大丈夫」
「本当か? 凄い震えてるぞ」
大丈夫。今は、目の前には杏輔しかいない。
何をされても耐えるんだ。
自分の音を、自分が好きな音を信じて耐える。
あいつらはもう、私に何も出来ない。
「ごめん、杏輔。こんな話した私が悪いから」
「本当に大丈夫なのか?」
「私はひとりで演奏してる身だから、これくらいは我慢しないと勝手に抜け出せないよね」
「おい、無理するなって。……確かに、小夜はサックスをひとりで演奏してるけれど、俺っていう客が居ることも忘れないでくれよ。客が何か出来るかって言われたら怪しいけど、少なくとも客があっての音楽だからさ。頼りないかもだけど、俺も小夜を支えることはできるよ」
そっと顔を上げて杏輔の表情を見る。
杏輔の心配の目が、「独りじゃない」と言っているようで心強かった。
「ありがとう……。ほんといつも、杏輔からはパワー貰ってる」
「ううん。俺は逆にいつも、小夜から音のパワーを貰ってるから、おあいこだよ」
すると杏輔は両手を上げて、伸びをしながらパワーを集めるようなポーズをとった。
そして、パワーを貯めた両手を私に向けて放つ素振りを見せた。
「小夜が嫌なトラウマも気にせず、好きなように演奏できますように、と。これでもう大丈夫」
「ありがとう。杏輔はほんと優しいね」
私がそう言うと、杏輔はすぐに自分の膝に目線を落として、照れながら笑った。
目線を落として顔を少し赤らめるのは彼の癖だ。
「またお母さんからすごい電話がかかってきてる。もうこんな時間だしな」
「うん……」
「まだ話し足りないことがありそう? 俺は全然いいんだけど」
立ち上がろうとした彼を、私は直視できなかった。
「ん? また気分悪くなったか?」
「あのさ、もし良かったらでいいんだけど」
「う、うん」
信頼できる彼と一緒なら何も怖くないのは分かっていたが、まだ不安はあった。
だからこそ、ちゃんとクリアしたかった。
ちゃんとした自分が、ちゃんと杏輔と話せるようにありたかったからだ。
私は勇気に身を任せて立ち上がった。
「あ、頭の中がまだスッキリしないからさ、自転車の後ろに乗せてくれない?」
「ふふっ。やっぱり、言われると思ってたよ」
「本当? 良い?」
「言われなくても誘ってた」
「良かった……!」
杏輔は笑顔で「行こうぜ」と言いながら自転車の鍵を外して跨った。
私も続いてゆっくり後ろに座る。
汗で少し湿った彼の肩にそっと手を添えた。
「今日はちょっと暑いから飛ばすよ」
こうなれば、痛いのも怖いのも気にしない。
杏輔の背中に掴まっている間は、なんだか自信が着いたように気を大きくしていられる。
杏輔がペダルを漕ぎ始める。
あっという間にスピードが乗り、暑くてムシムシしていたこの日にも風が巻き起こる。
杏輔の肩越しに通り抜ける風は、私の頭の中までも通り抜けて行く。
ひんやりとした手ですーっと撫でるように。
爽やかな風が、頭の中でごちゃごちゃしていた黒い塊を取り除いていく。
涼しい。
杏輔の言う通りだ。
ただ風に当たっているだけなのに、あっという間に気持ちがクリアになる。
そして頭の中に流れ始めたのが、夏の思い出を思い返させる『涼風と金木犀』だった。
以前流れたあの『パンジー』と同じアーティストだ。
清涼飲料水のように淀みなく流れるメロディーが、身体全体を芯から冷やしてくれる。
そのメロディーの裏には、秋の訪れを痛感させる金木犀が待っている。
吹き抜ける青色の風が、杏輔と私の髪をひらひらと揺らした。
このまま身体全体が青色に染まってしまいそうな、清々しい気持ちになった。
「杏輔」
「どうした?」
「私ね、好きな人がいるの」
「急だな。でも興味あるから聞きたいな」
言ってしまった。
もう後戻りができない。あとは彼を信じるのみだ。
「その好きな人って……どんな人?」
「……分からない」
「分からない?」
「うん。でも、その人の前だと、変なこと言ってもいい気がするの」
すごい気軽に話せて、笑わせてくれて、相談に乗ってくれて、助けに来てくれて。
人間不信な私が本音を話せて、誰にも理解されない音を肯定してくれて、嬉しい時に一緒に笑ってくれて。
私いま、ちゃんと喋れているかな? これは彼に届いているかな?
急に思い出を羅列されたら驚かれるかもしれない。
……違う。変なことを喋ってもいいのだ。
私は彼を信じているから、こんなにも話せているんだ。




