第17話 札と色
僕は、聞いてしまった。
あの小夜さんが顔を赤らめながら、「今日来てね」と囁いていたことを――――。
それが気になり、昼休みに教室に居る小夜さんに話しかけようとしたところだった。
僕が教室に入ろうとした時、変な集団がぞろぞろと小夜さんのところに近付いていったのだ。
教室の中の様子を伺っていたら、さっきの以上に聞いてはいけない話を聞いてしまったのだ。
いじめ……顧問……退部……裏切り……。
小夜さんは吹奏楽部って言っていたのに、今はもう退部していたみたいだった。
入ってる部活を聞いた時に吹奏楽部と言った日から今日までに辞めた感じではなかった。
明らかに、何か因縁の深い話をしていた。
僕はこれ以上は知ってはいけないと思い、すぐに教室から離れた。
彼女は何か理由があって吹奏楽部を辞めている。
それが、駅で見かけた現在の彼女の姿を生んだのだ。
――――その夜。
僕は彼女に誘われた訳ではない。
僕は吹奏楽部とは何の関係もない。
だから、今夜駅まで行くのは不条理であることは分かっていた。
それなのに、駅へ行く口実ばかりが次々と思い浮かぶ。
あの話を聞いて、気にならない訳がなかったからだ。
最終的に僕は父を誘い、いつものように駅まで車を動かしてもらうようにお願いした。
「今日も勝手に車を抜け出すつもりなのか」
「え?」
なんで、そういうことまでお見通しなんだ。
最早父は、僕を駅まで送るためじゃなく、途中で僕が抜け出すのを見届けるために運転しているんじゃないか、そんな気さえしてきた。
「……ごめん」
「お前のことだから分かる。何か気になるものを見つけたのだろう?」
「うん」
「そういうのは正直に言ってくれよ。子供の興味に付き合わない親なんて居ないんだからさ」
普段の父なら、無関心に冷たい視線を向けるだけだった。
なのに今だけは、車内にいつもより温もりが満ちているような気がした。
季節が涼しさへ向かっている中、今日はその流れと逆行する暑さが戻ると天気予報が言っていたけれど、それのせいだと思うほど僕は鈍くはなかった。
以前僕が車から飛び出したのを、覚えていてくれたのだろう。
父は駅から一番近いここで、車をそっと停めた。
僕は小さく礼を言ってすぐに例の場所へ駆け出した。
曲は違えど、やはりあの時と同じ音色だ。
姿を見るより先に、音が僕を彼女のもとへ連れていく。
心を掴む音が具現化して、文字通り僕を引っ張っていくような感じがした。
そしてついに、彼女の横顔が見える位置まで着いた。
彼女は相変わらず、まっすぐ前を見て演奏している。
この前ここへ来た時よりも、観客が少し増えているように見えた。
僕だけがこの音に惹かれているわけじゃない。
そんな当たり前のことを、今さら実感した。
彼女が演奏する度に、街の光を受けたサックスがきらりと輝く。
その光沢を帯びた黄金色は、街と溶け合った彼女自身が放つ独自の輝きのようだった。
徐に、晩夏の夜空を見上げた。
綺麗な月がポツンと浮かんでいる。
駅前は明るすぎて、無論、星は見えない。
その容赦の無さがなおさら、僕に現実を見させようとしている気がした。
本当に、その通りだ。
僕はきっと、夢を見すぎていたんだ。
小夜さんは僕が思うよりずっと、高嶺の花の存在なんだ。
それはまさに、美しい月がはるか遠くで光を放っているのと同じだ。
そうだ。
彼女の音も、光も、色も、僕みたいな無個性には波長が合わなかったんだ。
恋愛なんて、自分には縁のないものだと思っていたはずなのに。
いつの間に、そんなものに心を奪われていたんだろう。
これはまさしく例外のない、アーティストとファンの関係だ。
漫画みたいに甘い期待もドラマチックな展開も、現実には存在しない。
それ以上もそれ以下もない。
それが普通だと分かっていたはずなのに。
僕はずっと、高望みをしていたんだ。
涙がほろっと頬を流れそうになったところで、聞き覚えのある曲が聞こえた。
これはスキヤキ――――「上を向いて歩こう」だ。
きっと彼女が演奏している。
頭の中を流れる優しい歌詞が、今の僕には心の奥まで染みていくように感じた。
きっと、僕のために選んだバラード曲なんかじゃない。
それでも――――。
いや。
これが最後になるなら僕にとっては満足でしかなかった。
彼女がいる方には目線をやらず、そのまま後ろへ振り返る。
帰ろう。
ふらつきながらも1歩1歩確実に、車がある方へ進んでいく。
もう一度彼女の姿を見たら、きっと帰れなくなる。
父の車は、僕が飛び出した時と全く変わらない様子で停まっていたままだった。
「振られたのか?」
ドアを開けた途端に聞かれた。
「なんのこと?」
父は全く事情を知らないはずなのに、少し当たっているような気がして目線を下に落とす。
「とぼけないでくれよ。恋愛に嘘をついちゃダメだ。そういう関係になってしまうからな。……まあ、思春期だもんな。随分無理をした恋だったのか?」
「うん……諦めた」
「なるほどな……。恋愛に嘘をついちゃダメなのと同じように、無理をしてもダメだ。自分が快く居られる関係だけを、大切にしろよ」
「……うん」
「無理してもろくな事ないぞ。俺は2回失恋したけど今は不幸だと思っていない」
「そっか……。そうやって、僕は生まれたんだよね」
「その通りだ」
普段は息子に関して無関心のように思えた父が励ましてくれて、今日だけは頼りがいを感じた。
僕にはもう思い残すことは、ない。
そう信じて、いつも通り本を手に取る。
東京に来てからずっと読み進めていた本の栞を抜いて、最初のページに挟んだ。
車が発進する。
いつもよりも、優しく感じる。
父がきっと、間接的に背中を押してくれているのだろう。
頭の中に、赤染衛門の詩が流れた。
そうか。
僕は勇気を出せないまま、彼女を置いて離れてしまったんだ。
言ってしまえば、彼女がどう思っているかも蔑ろにして、一方的に諦めてしまったんだ。
彼女はまだ、演奏しているかもしれない。
赤染衛門が詠んだ、「待つ女」のように。
かるたが頭上からぱらぱらと落ちてゆく情景が浮かぶ。
それらは僕を隠そうとしているみたいに、僕のまわりを舞っていた。
これも、都合の良い解釈のしすぎだよな、とひとりで苦笑する。
車がゆっくり進む中そんなことを思っていたら、視界の端に、小夜が誰かと歩いていく姿が映った。
けれど、文学という"札"に包まれた僕は、目線をやる余裕さえも残っていなかった。
一度諦めたというこの潔さを汚す訳にはいかない。
悔しさも切なさも儚さも、今となってはひとつの文字でしかない。
……だが。
確かに、それらに色があったような気がする。
それは彼女の演奏のような煌びやかな黄金色とはかけ離れている色だ。
でも、僕はその色を、美しいと思わないはずが無かった。




