第13話 パンジー
「小夜、ちょっと来て」
彼は私を手招き、自分の自転車の前へ連れて行く。
「いつも小夜に素敵な演奏聴かせてもらってるからさ、今度は俺が見せたいものがあって」
そう言って杏輔は自転車に跨りながら振り返り、後部座席をそっと2回叩いた。
「……乗れってこと?」
杏輔は笑顔を崩さないまま何も言わない。
このまま何もせず気まずくなるのも気が引けたので、とりあえず彼の後ろの席に乗った。
「俺さ、塾から帰る時はいつも、こうやって自転車を飛ばすんだ」
杏輔はそう言うと、途端にペダルを強く漕ぎ始めた。
自転車は2人を乗せているとは思えないほど、ぐんぐんスピードが上がり、夜の街をヒュッと駆け抜けていく。
杏輔が運転している間、細長い金属で編まれた後部座席のせいで、自転車が揺れる度におしりが痛くなる。
けれどそれ以上に、杏輔の首元を通り抜けて頬に吹き当たる風は、確かに涼しく、さらさらしていて気持ちが良かった。
「わっ、ちょっと、速くない?」
「俺はいつももっと速く漕ぐよ。こんなスピードじゃ、『パンジー』くらいだ」
杏輔が例えた『パンジー』って給食の時間によく流れる有名アーティストのバラードのやつか、と頭の中で呟く。
すると突然、杏輔の言葉に呼応するかのように、頭の中で魔法がかかったみたいに『パンジー』が流れた。
それも、杏輔が漕ぐペダルのシャカシャカという音に、正確にリズムを合わせながら。
なるほど、杏輔が言いたいことが伝わってきた気がする。
私はイヤホンもヘッドホンも付けていない。
なのに、こんなにも正確に曲が流れている。
――――脳がプレイリストになったみたいに――――
杏輔の言葉が、頭の中を流れている『パンジー』に混ざって反響する。
それはまるで、曲の歌詞が蛇行する大河のように、右から左へ流れているみたいだった。
「どう? まだ夏が明けたばかりだけど、こんなにも涼しいんだよ」
「うん……涼しい」
「こうやって自転車飛ばしてると、嫌なこととかも吹っ飛んでいくだろ?」
「確かに……」
「小夜がサックスが好きならさ、俺はこの風が好きなんだ」
少し湿っているような乾いているような、細く吹き抜ける風が髪をしなやかに撫でる。
この時にはもう、おしりの痛みもスピードへの恐怖もなくなっていた。
杏輔の両肩に掴まり、ただ目を細めながら正面から吹く風を受けていた。
「小夜にとってのサックスは、いつも一緒にいる仲間みたいなものかもだけど、俺からしたらこの風も自転車も、相棒みたいなものなんだ。強く足を動かせば、より速く進むしより強い風が吹くしさ」
頭の中で流れていた『パンジー』が最後のサビへ差し掛かる頃に、ちょうど家の近くまで来ていた。
すると自転車も、曲の終わりをなぞるかのように、ゆっくりと速度を落としていった。
凄い。
こんなふうに、風や自転車の音まで音楽に感じたのは初めてだ。
初めてサックスを触った時とはまた違う、ドキドキするような高揚感が勢いよく込み上げてきた。
「ここから先は人通りも多いし歩いて行くよな」
「うん」
息を整えながらゆっくり自転車を降りる。
杏輔のことだから、こんな時間に2人乗りすることを考慮して、あえて人通りの少ない道を選んでここまで連れて行ってくれたのだろう。
そう思うと、自然と胸の中で「ありがとう」と呟いていた。
杏輔が起こした風のおかげか、私の頭の中は思った以上にスッキリしていた。
そのためか、高鳴る鼓動を胸にしまいながら思い切って言葉を紡いだ。
不思議と、この瞬間だけは勇気を出すことにためらいがなかった。
「じゃ、俺は行くから」
「待って」
「ん? どうした?」
1メートルほど自転車を押した彼は、相変わらず笑顔を崩さないまま振り向いた。
心を落ち着かせるために一呼吸おいてから口を開く。
「杏輔!」
「な、なに?」
「後ろに乗せて、色々教えてくれてありがとね! 杏輔のおかげですごくスッキリした!」
「お、おう。また乗りたくなった時にいつでも乗せてやるよ」
「本当にありがと! また明日ね!」
杏輔は振り返りながら自転車に跨ると、そそくさとペダルを漕ぎ始めた。
照れ隠しなのだろうか。そんな仕草さえも私の心を揺さぶった。
私は小さくなっていく彼の背中を、見えなくなるまで見つめていた。
じわっと、視界がぼやけていくまで――――。




