05 眠れる獅子
——あの日。
ラムゼイが落とした小さな鍵が開いたのは夫の寝室などではなくて。
古びた石壁を抜けて細い通路を進んだ先には、屋敷の奥深くへ隔離されたレオニード様のお部屋があった。
室内には甘やかな香りが満ちている。離れの裏手へ続く回廊で嗅いだものと同じものだ。鼻孔の奥へ纏わりついて吸い込むほどに頭の芯が鈍くなっていくような、妙に重たい香りだった。
そしてその部屋の中心で、あの人は薄暗い寝台の上から鋭く私を睨みつけた。
「……帰りなさい。ここは君が来る場所ではない」
「ご挨拶も許されなかったものですから、どうしても一度お目にかかりたかったのです。……私のことを知っておいでですか?」
「もちろん知っているとも。君はルパートの妻、リオーネ・レオバルトだろう?」
掠れた声でそう告げられ、胸の奥が鈍く痛んだ。
分かっていたことだ。私はレオバルト家の嫁としてあの人の息子へ嫁いだのだから、どれほど想いを募らせたところでレオニード様にとっては息子の妻でしかない。
それでも、寝台へ力なく横たわる彼の姿を前にして、素直に引き下がることなどできなかった。
「承知しております。だからこそ、今日までこの気持ちを胸の内へ押し込めていました」
「……何の話だ」
「私があの日からずっと恋焦がれていたのは、旗を掲げていたルパート様ではございません。戦勝パレードの先頭を進んでいらした、あなたです」
レオニード様の美しい金色の瞳が、僅かに揺れた。
「それならば失望したことだろう。ご覧のとおり、今や馬に乗ることもままならぬ身だ。……これ以上の挨拶は不要だ。早く部屋へ戻りなさい」
「また、ご挨拶に伺いますね。……ところで、この香はいったい何のために焚かれているのですか?」
匂いを辿ると、寝台の天蓋の内側に小さな香炉が置かれていた。鎮痛のために必要なものにしては香りが強すぎる。短い間この部屋にいただけの私でさえ、頭の奥がじんと重く痺れていた。
「痛みを和らげるためだと聞いている。さあ、話はもう終いだ。二度とここへ来てはならん」
突き放すような言葉は都合よく聞き流し、私は深く頭を下げてその部屋を辞した。鍵はある。これでいつでも会いに行けると分かったのだから、焦る必要はない。
細い通路を戻り、石壁の扉を抜ける。月が照らし出す草影を踏むと、手燭を持ったラムゼイが待ち構えていた。
「随分と早いお戻りでございましたね」
「ええ。あまり長い時間をかけては負担をかけてしまいますから。……それで。あなたは私とレオニード様を引き合わせて、いったい何を期待しているの?」
「……あの御方は今、立ち上がる気力も奪われております。全てを諦めてしまわれている。レオニード様にとってなんらかの切っ掛けになればと、そう思いました」
その言葉に裏はなさそうで、この男が忠誠を捧げている相手が誰なのか、もはや疑う余地もなかった。
「そう。それなら教えてちょうだい。室内で焚かれていた香について」
「ヴェスパ領から納められている薬香でございます。本来は戦傷の痛みを和らげるもので、帝都でも広く利用されているものです」
「それはおかしいわね。短い時間いただけで私まで頭が重くなったわ。調べられる者はいないの?」
「すでに調査済みです。レオニード様に使われている物は、一般に流通しているものとは加工法が異なっておりました」
予想外にあっさりと返され、私は眉をひそめた。
「それならどうして放置したままでいるの? あのまま緩やかに死なせるつもり?」
「レオニード様が再び立ち上がると知れば、あの方々が何をなさるか分かりません。今は何もできぬと思われているからこそ、生かされているのかもしれませんから」
戦う意思を失った獅子ならば、寝台の上へ置いておけばよい。
けれど、その牙が折れていないと分かればオズヴァルドはその命ごと奪うかもしれないと。そういうことか。
「それに薬を取り上げたところで、レオニード様ご自身が生きることを望まなければなんの意味もございません」
「……私なら、レオニード様を立ち上がらせることができるとでも?」
「それを見極めるために、鍵を拾っていただいたのでございます」
どうやら私はこの男にずっと試されていたらしい。レオニード様にとって毒となるか、薬となる女なのかを。
「分かりました。私があの方を支えます。その間にあなたはあの香をどうにかする方法を考えてちょうだい。私に余計なことをしてほしくないのなら、できるだけ早く」
薬香そのものは、正しく用いれば戦傷の痛みを和らげるものらしい。けれど、レオニード様の部屋で焚かれていたものは通常よりも遥かに濃く、長く吸わせれば痛みだけでなく意識まで鈍らせるという。
だからといって突然取り上げることもできない。長年薬へ頼った身体に抑え込まれていた痛みが一度に戻れば、かえって命を損ないかねないそうだ。
ラムゼイは同じ香りを持つ害のない香を混ぜ、侍女たちに悟られぬよう少しずつ薬の割合を減らしていった。
ただ身体を回復させるだけでは足りない。レオニード様が再び立ち上がる意思を取り戻し、その時が来るまで回復を隠し通さなければならない。
私が獅子を目覚めさせ、ラムゼイが敵の目を欺く。
互いを全面的に信頼しているわけではなかったけれど、目指す未来は同じもの。この転機を逃すわけにはいかなかった。
それから私はオズヴァルドの不在を確かめ、ラムゼイが作った僅かな隙を縫って鍵を使った。
「……もう二度と来るなと言ったはずだ」
「私はレオバルト家へ嫁いだのです。この家の主が閉じ込められ、余所者が当主の椅子へ座っているというのに、何も見なかったことにはできません」
「私は剣を振るい、戦場で兵を率いることでこの家を支えてきた。だが、この足ではもう立つことすらできぬ。今さら私に何ができるというのだ」
「それならばどうして当主の座にしがみついていらっしゃるの? ルパート様にお譲りになればよろしいのに、どうしてそれをなさらないのかしら?」
諦めたのならば全てを放り投げてしまえばよいものを、名ばかりとはいえ、彼はいまだ当主の座を手放していなかった。
言い淀むレオニード様は私と目を合わせようとしない。……残念だけれども、見過ごしてあげられるほど私は優しくない。
「ずっと疑問に思っていたのですが。ルパート様は、本当にあなたの血を継いでいるのでしょうか」
「……誰から、何を聞いた」
「誰からも、何も。ただ、あの人があまりにもあなたと似ていないものですから」
「親子が似ぬことなど、いくらでもある。君だってあの神経質なティグリスの当主とは似ても似つかぬではないか」
「容姿や武勇の話だけではありません。あの人には、あなたのように家を背負う覚悟が何ひとつ見当たらないのです」
「確かに愚かなところはあろう。それでも、血の違いだけで人のすべてを決めつけるものではない」
「では、やはり違うのですね」
「……帰りなさい」
まだ薬の影響が強く残る彼をこれ以上責め立てても望む答えは得られそうにない。その日はそれ以上追及せず、私は部屋を辞した。
それからも私はレオニード様のもとへ通った。頻度は決して多くはないけれども、オズヴァルドの目を盗んで、何回も。
香が薄められるにつれて、最初は半刻も話せば意識を沈ませていたレオニード様も、次第に長く会話を続けられるようになった。
「……君はいつまでここへ通うつもりだ」
「お嫌でしたら無理やり追い出せばいいのですよ。ふふ、そんな衰えきった腕では私を担ぎ上げることもできないでしょうけれども」
「随分と好き勝手言ってくれる。虎に轡はつけられんか」
呆れたような声にも、以前のような気怠さはなくなりつつあった。
幾度目かの夜、レオニード様は長い沈黙の末に口を開いた。
「……ルパートは君に、随分な仕打ちをしているらしいな」
私から現状を訴え出たことはない。ということは、ラムゼイが口を滑らせたのだろう。まさか発破をかけたつもりかしら?
「最初こそ腹立たしくもありましたけれど、今はむしろ相手にされなくて良かったと思っています」
「それでも、息子の不徳は父親である私の教育のせいだ」
「父親、ですか。あくまでもあの人はあなたの息子であるとおっしゃるのね」
「そうだ。あの子は生まれたときから私の息子だ。抱き上げた日のことも、初めて父と呼ばれた日のことも消えはしない」
レオニード様は険しい顔で目を伏せた。
「愚かなところも、弱いところもある。それでも息子として育ててきたのだ。甘いと言われるかもしれぬが、容易く切り捨てることなどできん」
レオニード様は、ルパート様の父親であり続けようとしていた。自分と似ても似つかぬ息子を二十年以上も守り続けてきた。
その事実と覚悟に胸が痛むとともに、あの人への想いはますます深くなるばかりだった。
そうしていくつもの季節が巡る頃には、寝台の上で身体を起こせるまでになっていた。
もちろん、この回復をあの連中が喜ぶはずもない。
「最近、レオニード殿の顔色がよくなったように見える。実に喜ばしいことだ」
ある朝の食卓で、オズヴァルドは何気ない口調でそう告げた。笑みを浮かべているのに、私を見る目は少しも笑っていない。
「……私はまだ一度もお目にかかれておりません。快方へ向かっているのでしたら、ご挨拶を許していただきたいものですね」
「無理をさせるべきではない。余計な刺激を与えれば、再び容体を崩すかもしれないからね」
翌日から香を運ぶ侍女が替わり、離れへ続く回廊の前には見知らぬ騎士がひとり立つようになった。
「今夜から、離れへは近づかないでください」
私を古い書庫へ呼び出したラムゼイは、開口一番そう告げる。
「オズヴァルド様はレオニード様の回復を疑っているのでしょう。ふた月ほど、以前と変わらぬ状態を装っていただきます」
ふた月は、長かった。
夜になれば鍵へ手を伸ばしそうになるのを堪え、何事もなかったように食卓へ着く。レオニード様も再び深く眠り続けているように装い、オズヴァルドの警戒が緩むのを待った。
ようやく隠し通路を通ることを許された夜、レオニード様は寝台の上で身体を起こし、呆れたように私を見た。
「ほんのふた月程度で、随分と久しく会っていないような顔をするのだな」
「当然でございましょう。私にとっては長いふた月だったのですから」
「ラムゼイから、君を止めるのに苦労したと聞いた」
「嫌だわ、告げ口をするなんて。あの羊も趣味が悪いこと」
レオニード様が小さく笑う。それは、初めて見る笑顔だった。
戦勝パレードの日でさえも、あの人は真っ直ぐに前だけを見据え、沿道へ笑いかけることなどなかった。
そんな人が今、私だけへ穏やかな笑みを向けている。
——眠っていた獅子が、ようやくその目を開いたのだ。
「私は、君を覚えていた。戦勝パレードの沿道で、虎目石の首飾りを身につけた娘が瞬きもせずにこちらを見ていたのを」
「あんなに人がたくさんいたのに、お気づきだったのですか?」
「あれほど熱心に視線を送られれば、嫌でも気づく。それに君の髪はとても目を引くものだからな。ティグリスの娘はこんなにも美しく育ったのかと、驚かされたものだ」
伸ばされた指先が、私の髪へ触れる寸前で止まる。
私は寝台に腰を下ろして、彼の身体に身を寄せた。
「私がルパート様の妻となったと聞いた時、どう思われました?」
「……生憎と、君たちの縁談がまとまった頃の私はほとんど意識がなかった。オズヴァルドに印を持たされ、それを押しただけに過ぎぬ」
「では、後から知って驚かれただけ?」
「……なぜ、あの日の娘がとは思った」
「少しは残念に思ってくださいました?」
「そのようなことを、息子の妻へ言わせるな」
否定されなかったことに、胸の奥がじんと熱を帯びた。
「あなたの息子ではないのでしょう?」
「それでも私はあれを息子として育てた。マルグリッドも、今なお私の妻だ」
「それでも私は、あなたを愛しています」
正しくないことだとは理解していた。
ルパート様がどのような夫であろうと、私はその妻である。
そしてレオニード様にも、今なおマルグリッドという妻がいる。
——だから何だというのよ。
そもそもあの女は夫の屋敷へ愛人を招き入れ、由緒あるレオバルト家を喰い荒らしたのだ。そんな女へ遠慮する必要がどこにあるというの?
ごめんなさいね。雄が好む貞淑な女ではなくて。
「レオニード様。どうか私を抱いてください」
「リオーネ、それは無理だ」
「あら、マルグリッドへ操を立てていらっしゃるのですか?」
「違う。私は今、君を妻として迎えることも、生まれた子を公に我が子と認めることもできない。オズヴァルドに悟られれば、君も子どもも殺されるかもしれん」
「それは、私との子をもうけるのが嫌、という意味ではないということですよね?」
さらに彼に顔を寄せると寝台のきしむ音が室内に響いた。レオニード様は困ったように視線を逸らす。
「……君が来ないふた月で、嫌でも分かった。私はいつの間にか君を待つようになっていたらしい。だから君が嫌だということはない。が……今の私では、子ができたとしても守り切れない」
「でしたら私が守ります。子が独り立ちできる時まで、私は待ちます。正式な跡継ぎとして指名できるその日まで、誰にも奪われぬように」
「独り立ちと簡単に言うが、十五年だぞ」
「その程度、待てますわ」
「どの口で言うのだ。ふた月も待てなかった女が」
レオニード様が小さく笑う。私もつられて笑ってしまう。
「待てますわ。これまでだってずっと、この瞬間を待っていたんですもの」
「君は名も家も捨てて生きることになるかもしれない。幼子を抱えて、そんな生活に耐えられるのか?」
「あなたのいないこの屋敷に名だけを残すより、ずっと魅力的な人生だと思えるわ」
最後まで迷っていらしたのだと思う。
自らが父として育てた男の妻へ手を伸ばすことも、今なお婚姻の続く女を裏切ることも、あの人にとっては容易に越えられる一線ではなかったでしょうから。
それでも最後には、その大きな手が私を引き寄せてくれた。
長く押し込めてきた想いを確かめるような、たった一度の夜だった。
それからほどなくしてオズヴァルドは再び警戒を強めた。
今度は離れの見張りだけでなく、屋敷中の古い鍵まで改めさせたという。薬香を運ぶ者も頻繁に入れ替えられ、ラムゼイでさえ以前のように自由に手を加えることができなくなったという。
これまでのような回復は望めない。それでも悪化させぬよう、僅かな隙を見つけて少しずつ薬を減らしていくしかないのだと告げられた。
それきりレオニード様に会えることはなかったのだけれど……きっと、私の執念が勝ったのでしょうね。
たった一夜で、私はあの人の子を宿すことができたのだから。
「不義と言うのであれば、否定するつもりはない」
レオニード様の低い声が、かつての記憶を断ち切った。




