03 羊の皮を被る者
翌朝、私の前に置かれたのは昨夜の晩餐の残りだった。
脂の固まった肉と、表面に膜の張ったスープ。それを運んできた侍女は申し訳なさそうに目を伏せている。命じた者が誰なのかなど尋ねるまでもなく、なんて幼稚な嫌がらせなのかしらと呆れてしまう。
命令したのは義母であって、従うしかない使用人たちへ腹を立てても仕方がない。抗議する気にもならずに私は盆を持って厨房へ向かい、温かい食事を作り直させた。
それも癇に障ったのか、義母からの嫌がらせは日に日に露骨になっていった。
ティグリス家から持参したドレスを無残に切り裂かれたこともある。レオバルト家の夜会の日程を、私にだけ知らされないこともあった。
切り裂かれたドレスの代わりはレオバルト家の名で新しく仕立てさせた。嫁の衣装が屋敷の中で駄目にされたのだから、家の費用で新しいものを用意するのが筋でしょう? 夜会にはレオバルト家の嫁として堂々と顔を出した。来客の前で私を追い返すこともできずに義母は扇子の陰で顔を歪めていたけれど、懲りないのだから不思議なものだ。
義母は飽きもせずに些細なことで理不尽な叱責を繰り返す。オズヴァルドは人目を盗んで馴れ馴れしく身体に触れてくるし、ルパート様は挨拶回りと称して屋敷を空けてばかり。その行き先が、かつて皇命によって引き離されたという愛人のもとであることもとっくに分かっていた。
そんな日々に辟易とし始めたある日の午後、侍女が慌ただしく私の部屋を訪れた。
「リオーネ様。帝都からお越しになった宝飾職人が、虎目石の首飾りを髪飾りへ作り替えるよう命じられております」
「……誰の命令で?」
侍女は怯えたように首を振る。尋ねるまでもないことだった。私はすぐに応接室へ向かった。
扉を開くと、卓上には見覚えのある首飾りと一枚の意匠図が広げられていた。義母の向かいに座る職人が大粒の虎目石へ器具を当てようとしている。
「お待ちいただけないかしら」
私の声に、職人の手が止まる。義母は不快そうに眉をひそめた。
「まあ。あなたを呼んだ覚えはありませんよ?」
「私の首飾りが加工されると聞いたものですから。……そこの貴方。その品はティグリス家に代々伝わるもので、父が私個人に持たせたものです。私は加工を許した覚えはありません」
職人は慌てて器具を卓上へ置いた。
「そ、そのような事情とは存じ上げませんでした。持ち主である奥方様のご承諾がないのであれば、当工房ではお引き受けできません」
「何を言っているのです。その女はもうティグリス家の娘ではありません。嫁入りの際に持ち込んだ品なのですから今はレオバルト家のものでしょう。私がどう使おうと勝手ではありませんか!」
「ですが、こちらにはティグリス家の紋章が刻まれております」
職人は首飾りを裏返し、刻まれた虎の紋章を示した。
「少なくとも、ティグリス家に由来する家宝であることは間違いございません。どなたに所有権があるのか分からぬ品とあっては、私どもの判断で手を加えることはできません」
「これはレオバルト家の中の話よ? ティグリスは関係ないと言っているじゃないの!」
「それでは、先方へ確認を取りましょう」
部屋の隅に控えていたラムゼイが、静かに口を開いた。
「ティグリス家のご当主へ、家宝の首飾りをマルグリッド様の髪飾りへ作り替えてよいか早馬でお伺いを立てます。ご承諾をいただいてからであれば職人も安心して仕事へ取り掛かれましょう」
「……その程度のことで、わざわざ使者を出すつもりなのですか?」
「ティグリス家には関係がないとおっしゃるのであれば、先方も快くご了承くださるものと存じます」
そんなことを父が許すはずなどないのに、澄ました顔で随分と意地の悪いことを言う。
そもそも、嫁いびりのためにティグリス家の家宝を壊そうとしたなどと知られれば、両家の問題になる。
義母にもそれくらいは分かっているのだろう。口惜しげに扇子の奥から私を睨みつけた。
「……もう結構です。その品を片づけなさい」
「かしこまりました。家宝として、改めて厳重に保管いたします」
ラムゼイは首飾りを手に取ると、義母の返事を待つことなく布で包み込んだ。
「では、失礼いたします」
恭しく頭を下げて部屋を出たラムゼイを、私も追いかけた。
「随分と私の首飾りを心配してくださるのね」
ラムゼイは足を止めたものの、振り返りはしなかった。
「後から問題が起これば職人にもご迷惑が掛かりますので」
「私のためではなく、この家の面子を保つためだと?」
「当然でございましょう。この家を第一に考えることが、仕える者の務めでございます」
それだけ言い残し、ラムゼイは歩み去っていく。
可愛げのない家令だこと。
それでも、義母やオズヴァルドの命令にただ従っているだけの男ではないらしい。
注意深く見ていると、ラムゼイは時折、彼らの命令を忠実に遂行するふりをしながらも、ほんの僅かに結果を違う方向へ導いていた。
宴のために蔵の酒をすべて出すよう命じられれば、非常時の備蓄であることを理由に一部を残す。オズヴァルドの商会から高価な食器を購入する話が出れば、古くから付き合いのある職人との契約を盾に話を先延ばしにする。
彼が守っているのは私ではない。
レオバルト家の財産がヴェスパの懐へ流れ込むことを、少しずつ阻んでいるのだ。
——羊の皮を被っているのは、どうやら私だけではないらしい。
そんなある日、義母からまたしてもくだらない言いがかりをつけられた私は、静かな場所を求めるふりをして古い書庫へ足を運んだ。
ラムゼイが午後になると、そこで蔵書の整理をしていることは調べてある。
扉を開くと、脚立に上がったラムゼイが本の入れ替えをしているところだった。私が部屋へ入っても一瞥をくれただけで、すぐに自分の作業へ戻る。
「ねぇ、あなた。レオバルト家はいつから他家の者に侮られるような家へ成り下がってしまったのかしら」
ラムゼイの手は止まらない。私も引き下がるつもりはなかった。
「レオニード様は、今の状況をよしとしていらっしゃるの?」
「何を仰りたいのか分かりかねますが……私はレオニード様のお考えを申し上げる立場にはございません」
「あなたの意見を聞いているのよ。主人の家を虫が我が物顔で喰い荒らしているのに、何とも思わないの?」
「さあ……何のことやら」
ラムゼイは表情一つ変えず、本を棚へ収めた。
どこまでもとぼけるつもりらしい。老猾だこと。
「この家に未来がないのであれば、私も身の振り方を考えなくてはなりませんね」
本を棚へ戻そうとしたラムゼイの指が、ほんの一瞬だけ止まった。
「皇命によって結ばれた婚姻でございます。奥方様お一人のご判断で、どうにかできるものではないでしょう」
「私は獅子の家に嫁いだのよ。獅子が寝台の上で死を待つだけなら、虎まで同じ巣で朽ちる必要はないじゃない?」
「……レオニード様は、まだ亡くなってなどおられません」
抑揚の乏しかったラムゼイの声に僅かな棘が混じる。何を尋ねても表情を変えなかった男がはっきりと感情を覗かせたのは初めてだった。
「それならばなぜルパート様へ家督を譲らないのかしら。あの方は既に二十歳を超えているのでしょう?」
「それだけは、頑として拒んでおられます」
この国では十五歳から家督を継ぐことができる。レオニード様が実務を担えない状態にもかかわらず、ルパート様へ家督を譲ろうとしないのは、彼に当主としての力がないと告げているも同然だった。
「獅子は子を鍛えるために谷底へ突き落とすと聞きますけれど。まさか、そのおつもりなのかしら」
ラムゼイは答えなかった。
脚立をゆっくりと降り、腰に提げた鍵束へ手を伸ばす。そのまま書庫を出ていこうとしたとき、小さな金属音が足元へ響いた。
目線を落とすと、古びた真鍮の鍵が床を滑り、私の靴先へ触れた。
「落としましたよ」
声を掛けたのにラムゼイは振り返らない。どうやら耳が遠くなったらしい。もう一度声を掛けようとしたら——。
「……今宵はマルグリッド様とオズヴァルド様が夜会へお出かけになります。お帰りも遅くなるでしょう」
独り言のようにそう呟く。
「お二人がお留守の夜は、使用人たちも少々気が緩むようでして。困ったものです」
それだけ言い残し、ラムゼイは書庫から出ていった。
なるほど。耳が遠いのではなく、随分と回りくどい男らしい。
足元の鍵を拾い上げる。表面には、すり減った獅子の紋章が刻まれていた。
……一度きりで終わらせるつもりだった。
けれど私は、その後も何度となく鍵を手に取った。
そうして、屋敷の者たちには何も変わらぬように見えるまま、二年の歳月が過ぎていき——。
「リオーネ。二年が経ったが、お前は私との子を孕めなかった。本当に残念だ」
そう私に告げたルパート様の隣には、大きく腹を膨らませた見知らぬ女が寄り添っていて。
私が無意識に自分の腹を撫でたことなど、誰も気づいていないようだった。




