LXXII. 〈孤影の英雄〉トイフェル・ヴェヒターは忘れられたくない 壱
一人だった。真っ暗な道に一人で歩いていた。
トイフェル・ヴェヒター。それが僕の名だった。
『悪魔』。
元いたところでは、周囲からそう呼ばれているのを知っている。両親とは違って突然変異で、僕の髪が黒くてオパールみたいな目をしていたからだって。
だから、逃げた。
僕のことを知っている人がいない場所に行きたかった。
だから、こうしてずっと歩いている。
目の前にはたまに魔獣が出てきた。倒すと、周りから称賛された。
――でも、友達はいなかった。友達にはなってくれなかった。
知り合いはたくさんできたけれど、彼らは魔獣を呆気なく倒してしまった僕のことを恐れた。もちろん、ありがとうと涙を流す人もいたけれど、心の奥底では多分きっと恐れていたのだろう。
また歩く。真っ暗な道を、一人で歩く。
何かに追いかけられている。もしかしたら、家からの追っ手かもしれない。あそこに連れ戻されるのはどうしても嫌で、僕は全力で逃げた。
ある時、疲れて座っていると、とても暖かくて明るい光が目の前を照らした。
(……太陽?)
本気でそう思った。真っ暗な道しか知らない僕に、光を与える太陽だった。
明るい太陽みたいな金の髪。自身に満ち溢れた、ふわりと笑う顔。
「ねぇ、君はだあれ?」
「……」
びっくりしすぎて固まっていると、少女は言葉を続ける。
「わたしはアンジェリーネっていうんだ~。ねぇねぇ、わたしと友達になってくれない?」
自分にとっては、明るい太陽だった。
衝撃的な出会いだった。きっと、君はそう思っていないのだろうけれど。
恋に落ちた、そんな軽いものじゃない。運命の出会い、ですらちょっと軽いくらいだ。
◇◆◇
どうやら、僕は知らぬ間に家に戻ってきたらしい。
だが、太陽──アンジェリーネ・ヴェヒターがいる。だから、別に苦しくはなかった。
同じ境遇の子だった。同じ服を着て、同じ教育を受けて、同じご飯を食べる。
いつもニコニコとしているアンジェリーネといると、僕は癒された。
太陽の光に、闇が負けてしまうように。
「ねぇ、貴方のこと、愛称で呼んでもいい?わたしのことも愛称でいいからさ」
突然、彼女はそう言った。自分たちによくしてくれる教育係ですら、アンジェリーネ様と呼ぶ。
(僕だけだ……)
僕は二つ返事で頷いた。アンジェリーネはアンネ、トイフェルはフェルト。
『悪魔』はこの瞬間を持って、『悪魔』ではなくなった。
「ね、フェルト。お腹すいたねぇ」
「うん。今日はオムライスだって。アンネの大好物」
「え! やったぁ。じゃあ、明日はフェルトの好きなスープかもね?」
「……そう、かな」
「絶対そーだよ!」
アンネといると、心が暖かくなる。誰よりも、誰よりも大切な女の子。
(……アンネは、僕の太陽だから)
「二つ名を?」
「えぇ、お父君にもお母君にもございますでしょう? お二人にも決めていただきたいのです」
アンネが首を傾げると、リヒェーレ・リエ・ロデス夫人は頷く。
「ねー、フェルト。二つ名、決めた?」
その日の夕食の時間になって、アンネは肉を頬張りながら、僕に問う。
「うーん、まだ」
「でも、リヒェーレは早くしなさいって言ってたでしょ?」
「まぁ……でも、僕は〈影の英雄〉でいいんじゃないかな。多分、アンネの補佐をすることになると思うし。闇でもいいけど」
「もう! フェルト、ちゃんと意味のある名前をつけなきゃ駄目だよっ!」
片方の頬を膨らませて、アンネは僕を怒る。
(かわいい)
「アンネは? アンネは、決めたの?」
「うん。今日、図書室に行ってきたの。〈光明の英雄〉。かっこよくない!?」
「……アンネも意味じゃないじゃん」
「ううん、意味あるもん。『暗闇を照らす明るい光。希望』って意味なの。助けを求める人たちをそういう風に導いてあげられたらなって思いを込めて」
暗記したのか、辞書に載っている意味をそのまま口にするアンネ。
「だから、フェルトもちゃんと考えてつけるんだよ」
「……うん」
だが、そういう穏やかな時間は長くは続かない。
あるとき、女の子がやってきた。
青緑の髪に、緑の瞳の静かそうな女の子。
同性だということで、アンネは積極的に話しかけに行った。
「アンネ様」
「ルネ」
いつもの間にか、その女の子──ルネティアと愛称で呼び合うようになっていた。
自分だけのものだったはずだ。それなのに、どうして横入りしてくるんだ。
今思い返せば、独占欲――だが、その当時はただ不快だった。
「アンネと仲良くするな」
どうしてもそれが嫌で、しかも彼女がここに毎日のように訪れるものだから、ついに僕はそう言った。
すると、彼女は目を見開く。
「どうしてそんなことをおっしゃるのですか?」
そんなの、一つしか理由はない。
「アンネは、僕のだ」
気弱な彼女なら、身を引いてくれるだろう、そう思って僕は口にする。
だが、彼女の返答は予想に反するものだった。
「……や、です」
「は?」
「アンネ様は、トイフェル様のものではないですし、私はアンネ様と仲良くしたいです」
珍しい、彼女の意思表示だった。
「おま──」
(なんで、言うことを聞いてくれない)
その時、扉が開いた。アンネだ。美しい金髪が揺れている。
「やっほー! ……二人共、仲良くなったの?」
「そんなわけないっ!」「有り得ませんっ!」
「やっぱり仲良しじゃん」
(……っ、どうしてこんなやつと仲良くしなきゃいけないんだ!)
アンネを奪った彼女と仲良くするなんて、まっぴらごめんだ。
◇◆◇
「ねぇ、アンネ。どうしてあいつと仲良くするの」
「え? どうしてって、良い子じゃん、ルネ。すっごく可愛いし」
「……」
何処が、と言いたいものの、僕は口を閉じる。
「アンネの方が良い子だし、可愛いし、優しいし」
(……僕の太陽だし)
拗ねたようにそう言うと、アンネは吹き出すように笑った。
「ばか。わたし、そんなすごい人じゃないもん」
頭を撫でるようにアンネは腕を伸ばし、それから流れるように頬に手を持ってくる。
「わたしより、フェルトとかルネの方がもっともーっとすごくて、良い子で、可愛くて、優しいんだよ」
そう言って、アンネは春の野を思わせる若草色を細める。
(やっぱり、君は太陽だよ、アンネ)
――それでも、こんなことを話せるような平和な日々が続いてくと、そう思っていたのに。この日々が終わるなんて、考えてもいなかったのに。




