第三詩 怪事消息 ─見え隠れする歪み─(2/2)
講師は眼鏡を押し上げ、少しだけ首を傾げた。
「……アシエン君? どうしました?」
沈黙。
ふと、前列の男子が小声で言った。
「今日は来てないっす」
「……そうですか。では、ゼシカ君」
講師が向けた視線の先。
そこにも、空席。
「……先生。ゼシカも来てないです」
「お二人が休むなんて珍しいですね」
講師が眉をひそめた瞬間、講義室の空気がほんの僅か——沈んだ。
アスハは直感的に、胸の奥がざわつくのを感じた。
隣のクルミも耳をぴく、と震わせている。
「……そういえば、最近突然休む生徒が増えているようですね。
皆さん、なにかご存知ですか?」
「……そういや、神話学のローエン君は、2週間くらい休んでるらしいっすよ」
「考古学のレインさんも、1週間くらい来ていないとか……」
その言葉を皮切りに、
ざわ……ざわ……
講義室中から雑多な声が一斉に立ち上がった。
「魔獣に襲われたって噂も聞いたぞ」
「いや、実家に戻っただけって……」
「でも学園の記録には“私用による欠席”って……あれ、なんか変じゃね?」
情報はどれも不確かで、互いに矛盾している。
ただ、ひとつ確かなのは——
“複数の生徒が理由もなく姿を消している”という事実だけだった。
アスハは無意識に骨尾を揺らし、眉を寄せる。
「皆さん、お静かに」
教授がパン、と手を叩く。
「授業を続けます。落ち着いてください」
淡々と講義が再開される。
だが、アスハの胸のざわめきは消えなかった。
「(……ねぇ、クルミ。なんか、この学園……)」
「(……変。ずっと、少しだけ……変)」
講義は何事もなかったように進む。
けれどその場にいた誰も、まだ気づいていない。
この違和感こそ、“最初の兆し”であることに。
講師は微笑み、霊筆を胸に当てて一礼した。
魔導灯の光が少し弱まり、講義室の時計が音を立てる。
「——おっと、終業の時間が来てしまいましたか。
次回はここ、グランセリア王国の成り立ちをあらゆる観点から紐解いていきます。
神獣天人様もご興味があれば、またお越しください」
温和な声が響くと、講義室のあちこちで椅子のきしむ音が重なった。
「それでは、起立、礼」
生徒たちは胸に手を当て、静かに会釈する。
その一連の所作に、学園という場所の“律”が滲んでいた。
アスハは少し物思いにふけり、視線を窓の外に向けた。
陽が傾き、緋色が教室を染めている。
隣では、クルミが小さく伸びをした。
「……ご飯」
アスハは思わず笑う。
この子の頭の中は、世界のどんな理よりも単純でまっすぐだ。
「あ、そうだね。お腹減ったね。確か学食もあるんだっけ? そこに行く? それとも今日はおしまいにして街に行く?」
「街」
「おっけー。じゃあ行きますか」
二人は席を立ち、廊下へ出る。
陽の残り香と木の香りが混ざり合い、夕方の光が制服の端を照らした。
遠くで鐘が三度、街の時刻を告げていた。
◇
夕暮れが街を包みはじめていた。
石畳の通りには屋台が並び、香辛料と焼きたての匂いが風に乗って流れてくる。
鍋の煮える音、油のはぜる音、呼び込みの声。
昼の講義室とはまるで別の世界のように、街は生きていた。
「やばっ、この串焼きめっちゃ美味しい! ねね、おじさん、これ何の肉!?」
アスハが頬張りながら声を上げると、屋台の主は笑い皺を深くした。
その手際は見事で、鉄串を返すたびに油が火花のように散る。
「ランケイですよ。はは、神獣天人様に喜んでもらえるなんて屋台冥利につきますな」
クルミは返事もせず、一心不乱に串を噛んでいた。
尻尾の先がぴくぴく動いているのが、満足の証だ。
ランケイとは、卵の殻の下半分を履いた鶏のような食用魔獣だ。
硬い殻が脚を守るため、岩場でも転ばずに走り、肉は柔らかく脂が甘い。
火を入れると香ばしく、殻の縁がかすかに焦げて音を立てる。
「あと三本ちょうだい!」
「まいど! ありがとうございます!」
立ちのぼる煙が夕空に溶けていく。
二人は串を平らげると、次の屋台へと歩き出した。
「はぁ、美味しかった……ノエンスじゃランケイは見なかったもんね。これはめっけもんだね」
「美味、鳥」
「ね! 次は何を食べようか」
「……あそこ、美味……匂い」
「匂いだけで美味しいとか、絶対美味しいじゃん」
アスハが笑い、二人は人波を抜けて進む。
屋台の灯が通りを金色に染め、霊脈石の看板がほのかに瞬いていた。
「おじさん、これなに?」
次の屋台で、湯気の向こうから声が返ってくる。
「おや、第九席様。これは蒸かし饅でございます。
蒸したてで熱いですよ。中には、甘い豆を煮込んだ餡と、ランケイの肉を細かく刻んで野菜や香辛料と炒めたタネ——二種類あるんです」
竹籠の中で、饅が白く膨らみ、湯気がふわりと立ちのぼっている。
その香りだけで、腹の底が鳴りそうだった。
「うわっ、両方とも美味しそう! クルミ、何個食べる?」
クルミは無言で、両手で二個ずつの合図を送る。
アスハは笑って肩をすくめた。
「おじさん、四つずつちょうだい!」
「まいど! ありがとうございます! 熱いから気をつけて食べてくださいね」
「ありがと!」
受け取った蒸かし饅は、掌にずっしりと重く温かかった。
ふたを開けると甘い香りが漂い、皮の表面がしっとり光っている。
クルミは小さくふうふうと息を吹きかけ、一口かじった。
その瞬間、耳がぴんと立ち、目がきらりと光る。
「……美味」
「でしょ! やばい、これは買って正解!」
二人は食べながら街の通りを抜け、宿酒場への帰路についた。
屋台の喧騒が少しずつ遠ざかり、夜風が頬を撫でていく。
アスハの骨尾が小さく“こつん”と鳴った。なにかに呼ばれるように。
金属のような音が、灯の消えかけた道に響く。
彼女は少しだけ空を見上げた。
そこには星がひとつ、まだ明るい空を押し分けるように瞬いていた。
───また明日も、学園に行こう。
まだ出会っていない、残り三人の生徒に会うために───
夜の街に、饅の湯気の残り香と笑い声が混じって消えていった。




